第3章 貢献者を称賛する
III. Celebrating Contributions

Eジャーナル: 障害と能力
eJournalUSA: Disability & Ability

この章では、ジョージW.ブッシュ大統領の宣言での要請を受け、 障害をもつ人々の社会へのたくさんの貢献の一部を称賛したい

Mattie J.T. Stepanek, 詩人Poet

Chandley Mcdonald

P30

筋ジストロフィーの一人の少年は、彼の詩と勇気によって、何百万の人々に感動を与えた。当記事の著者Chandley Mcdonaldは、アメリカ国務省、国際情報事務局の記者である。

HeartsongsMattie Stepanekの詩集のタイトル)」では、多くのことが象徴されている。詩の中で、「あなたの優しい歌はあなたの心の美しさ。あなたが自分をより素晴らしい人間へと導き、他人もそうであってほしいと願うあなたの心の歌。みんな一つずつもっている。」

ごくまれなタイプの筋ジストロフィーと戦ったこの若い英雄は感動的な詩やエッセイを書き、本を出版し、彼があこがれる人物とも会話し、人生をまっとうすることができた。Mattieは、2004年の6月に病に屈し、この世を去ったが、立派な人生と、実年齢を大きく上回る英知の伝説を残した。

自律不全糸粒体筋障害という病気によって、彼は呼吸、心拍、血圧、体温、代謝、酸素の利用において自己調整機能に障害を持っていた。彼は、9歳まで公立学校に通っていたが、様態が悪化し、車椅子の使用、毎日の日常生活において医療支援が必要になった。それでもMattieは移動、幅広い読書、詩の創作、石集め、そして筋ジストロフィーについての講演者になる等、多くを成し遂げた。筋ジストロフィー協会のNational Goodwill大使になり、またユナイテッド航空や国際小児病院がスポンサーである「空想の旅」のボランティアをするなど、これは彼の栄誉の一部である。

平和と世界中の忍耐のチャンピオンとして、Mattieは多くのテレビプログラムに出演し、有名な司会者達からインタビューを受けた。彼はワシントンD.C.のケネディーセンターにて、憧れの人であったジミーカーター前大統領を紹介したことさえあった。Mattieの言葉は年齢、人種、国籍、名声、能力、望みを超え、世界中のあらゆる人々に感動を与えた。

「人々は、僕に感動したと言ってくれる。そしてその言葉に僕は感動する。これは美しい絆だし、僕達はお互いのために一緒に生きているっていうことだ。すごい贈り物だよ。」この引用は、Mattie Stepnekの素晴らしい詩からそのまま抜粋したものである。

Angela Rockwood-Nguyen: 他者の前進を助けるHelping Others Go Forward

Chandley McDonald

P31

脊髄損傷の若者は、かつて自身の助けとなった基金を通じて、同じ境遇の人々を支援している。

2001年、彼女がDustin Nguyenと結婚式を挙げる丁度2ヶ月前、当時モデルと女優して、意欲的に活動していたAngela Rockwoodは、自動車での交通事故によって脊髄を損傷した。彼女は朝病院で起きたとき、この世の終わりかと思ったという。現実、彼女のかつての世界観は永遠に変わった。「変わったんです」彼女は言う。「フィットネスに熱狂的で、意欲的な女優だった私が、麻痺の世界にやってきたのです。C4-5の四肢麻痺です。」(C4-5というのは彼女の損傷した脊髄の位置だ。この場合、彼女の首の部分である。)

その時、Angelaは状況を直ちに判断し、例え彼女の生きている間中ずっと障害と付き合っていかないとしても、それを受け入れ、前進していく準備はできていると感じた。

「前に進め」というのは、スーパーマンなどの役を演じた、元映画スターのChristopher Reeve氏によって設立された基金のモットーであった。Reeve氏は、1995年の乗馬による事故で麻痺状態となった。彼とその妻のDanaは、事故のすぐ後に彼らの名前をAmerican Paralysis Association(アメリカ麻痺協会)に貸与した。そして最終的には、この組織はChristopher and Dana Reeve Paralysis Resource Center(クリストファーアンドダナリーヴ麻痺リソースセンター)として知られるようになった。

Rockwood-Nguyenは、事故以来、リーヴ基金より、たくさんの支援を受けるようになった。今日でも、その団体は、彼女が健康的で精算的な生活を送るために必要な情報や資源を提供しているという。

Rockwood-Nguyenと彼女の夫で、アジア系アメリカ人の俳優であるDustinは、その麻痺リソースセンターのMinority Outreach Campaign(少数派への福祉運動)の講演者である。彼らは人々に、「前に進む」よう元気付けている。そして、この精神はReeve氏の思い描いたものであった。

「私の事故のすぐ後、治療の真っ只中で、私はRPC(同麻痺リソースセンター)の存在と、彼らから、一定の支援を受けられることを知った。そこでは、絶望的で、混乱している時に、情報を提供してくれる人々がいる。そして、特にアジア系アメリカ人コミュニティーには、このサービスを利用できる対麻痺、四肢麻痺の人々がたくさんいると知り、私は、彼らにできる限りの支援をしようと思っている。」と、Rockwood-Nguyenは言う。

そして、麻痺の人々には将来の希望がある。当麻痺リソースセンターは、「今日、われわれは、神経科学者、研究者、医療従事者、そして、最も大切な、脊髄を損傷したたくさんの人々、それからその家族と、回復への確信を共に分かち合っている。」

Rachel Scdoris, 犬そりの選手Competitive Musher

Chandley McDonald

P32

20歳のオレゴン州出身の女性は、2006年、Iditarodコース犬ぞりレースの史上初の選手になった。

想像できるだろうか。華氏マイナス52度(摂氏マイナス46.7度)の寒さの中で、自らを奮い立たせ、12日間の容赦ない風に耐え、過酷なアラスカの荒野の中での1,110マイル(1,776キロメートル)のレースをすることを考えてみてほしい。コンペティティブ(一般の)「犬ぞり」、これは、Iditarodのコースでの犬ぞりレースで、一つのソリと12-17匹の犬達を率いてのものだが、これは、生まれながらにして法律上盲目のRachel Scdoris氏にとって、長年の夢の実現である。この、オレゴン州出身の20歳の女性は、Iditarodに出場した史上初の視覚障害を持つ犬ぞり選手だ。Scdoris氏と彼女の視覚通訳のTim Osmer氏は、それぞれ56位、57位で2006年3月のアラスカレースを終えた。Iditarodの熟練者である、Osmer氏は、彼女の目の前で犬のチーム操作し、レース中、彼女にコースの状況について忠告する。彼らは二者同時通話可能のラジオで会話していた。

Iditarodは、時に、地球最古の大レースと称されることもある。1973年に、この競技が始まってから毎年3月の最初の週末にアラスカのアンカレッジで開始される。それぞれのチームの犬と選手達はNomeまで、およそ9日から17日かけてアラスカを横断する。ScdorisOsmer両氏は、12日と11時間42分で、このレースを完走した。2006年の完走と順位は、Rachelにとって特に喜ばしいことであった。2005年、彼女はレースの半分を過ぎたところでリタイアしなくてはならなかった。何匹かの犬が病気になってしまったのだ。

Scdorisは、先天性のachromatopsia(全色盲)という、ごくまれな視覚障害をもっている。彼女は色を識別できず、彼女の目は光に対してひどく敏感だ。先天性achromatopsiaというのは遺伝性の障害で、これは、アメリカで、三万三千人に一人に発症し、この症状は通常、生涯を通してずっと続くものである。この先天性achromatopsiaについては、世界各地で様々な事例が見られる。この障害をもつたくさんの人々は、通常、暗い眼鏡を装着して機能を保つことができるが、盲導犬や、杖を利用する人や、法律的に盲目の人もいる。Scdoris氏は視覚障害を持っていても、それによって夢をあきらめることはなかった。「私は8歳の頃から、Iditarodレースに出場しようと計画していました。このレースは世界で最も大きく、有名な犬ぞりのレースなんです。」とScdoris氏は言う。彼女は3歳の頃より犬ぞりを始めた。オレゴン州の学生として、彼女は高校で、陸上競技とクロスカントリースキーのチームのキャプテンをしていた。ニューヨーク市のWoman's Sports Foundation(女性スポーツ財団)の投票によって、最優秀女性アスリートの一人として選ばれ、彼女は、2002年ソルトレイクシティー冬季オリンピックで、聖火を運ぶという栄誉を与えられた。今、Scdoris氏は、大会への出場と、犬ぞりツアーの操縦士にと、自分の時間を使い分けている。

Michael Naranjo, 彫刻家Schuptor

Chandley McDonald

P33

視覚障害の彫刻家が「触れることができる」芸術を創造し、人々と分かち合う。

触ってみてください。この美しい赤褐色の彫像に触れてみてください。この珍しい紹介文は、アリゾナ州フェニックスのHeard美術館が作成したものだ。この紹介文は、Michael Naranjo氏が創作した彫像のコレクションの展覧会で見られるものだ。彼は、ニューメキシコ州の先住者で、ベトナム戦争のときに失明した。彼は自然と、彼の故郷であるニューメキシコ州Taosで、若かりし頃に見た美術展の思い出に感銘を受け、創作に影響している。

Michael Naranjo氏は、Santa Clara Puebloで生まれ、9人の兄弟がいるが、その多くは陶工として生計を立てている。彼の母親Roseは、名のあるセラミックアーティストで、自分の子供達や孫達に陶芸を教えた。Naranjo氏が粘土での物作りの技術を身につけたのは彼の芸術精神の自然な表れだった。

ベトナムから帰還し、Naranjo氏はカリフォルニア盲学校に出席した。そしてニューメキシコ州Santa Feに戻り、そこで、目が見えず、怪我によって右手の機能が著しく低下した状態で彫刻への挑戦を始めた。彼は結婚し、工芸を学びながら創作に本腰を入れ、同時に、妻と二人の娘を育てた。

直感と触覚による創作で、彼の芸術は具現化し始めた。作品は創作技術、バランス、そして動きに満ち溢れている。Naranjo氏の創作方法はシンプルで、彼は指と爪で、彫刻の細部を作り上げていく。彼は、従来の彫刻用の道具を使用しない。なぜならそういった道具が粘土にどういった効果をもたらすのか見ることができないからである。おわかりのように、Naranjo氏は、その作品の「触った感じ」がよくなければ、創作を中止してしまうだろう。彼が27年間連れ添ってきた妻のLaurieは、時々彼が完璧への追求によって作品を壊してしまうのを止めなくてはならない。

Michael Naranjo氏の彫刻で面白いのは、過去30年にわたり、彼の触覚は、過去の巨匠達の作品との接触によって研ぎ澄まされていくことだ。イタリアフローレンスのアカデミーギャラリー、パリのルーブル美術館は、彼が貴重な作品に触れるのを許した。パリではメディチ家のビーナス像、フローレンスでは、ミケランジェロのダビデ像に彼は触れた。政府当局は、彼が傑作に触れることによって鑑賞するという、まれな特権の許可を承認した。触れることによて、Naranjo氏は彫像の、ミケランジェロの作品の目の瞳孔がハートのような形になっていることなど、極細かな詳細を鑑賞した。しかし、他人の作品の目を鑑賞しながら、自分の彫像には目がないという事実に気づいた。この時、人々は彼の作品について、目ではなく、たくさんの別の点を評価しているということをようやく理解した。

触ることが可能な彼の芸術の移動展覧会をHeard美術館が主催し、Naranjo氏は、彼が作品と直接触れ合うことによって感じられる「変容の可能性」というものを他者に伝えたいと強く思っている。彼は妻と共に、Santa Feコミュニティー財団のアート基金によって、「the Touched」を設立し、これは、ニューメキシコ州の公立学校の生徒が美術館やギャラリーに足を運ぶのを支援している。現在、Naranjo氏の作品を展示しているギャラリーはSanta FeNedra Matteucciギャラリーで、以下は同ギャラリーのウェブサイトである。
http://www.matteucci.com

車椅子を使用したアメリカ大統領
The American President Who Used a Wheelchair

Phyllis McIntosh

P34

アメリカ大統領、フランクリンD.ルーズベルトが車椅子を使用していたことは、彼の生存中は隠されていたが、いまや銅像もあるほど称賛されている。Phyllis McIntoshはメリーランド州で活躍する記者で、しばしば国務省の出版物にも貢献している。

フランクリン・デラノ・ルーズベルト氏(FDR)は大統領として四度の当選を果たし、1933年から1945年まで任期を努めた。この時期は、アメリカの歴史至上、最も混沌とした期間の一つでもあり、人々は彼に対して大変強いリーダーとしてのイメージを抱いている。ポリオに悩まされたルーズベルト大統領が歩くことができなかったというのは大衆に対して隠されていた事実である。彼が車椅子を使用しているところが写真に収められたことは皆無に等しかった。1997年ワシントンD.C.でFDR記念館がオープンした時までには、障害に対する人々の態度は大きく変化していたが、それにもかかわらず、元大統領の彫像には、その車椅子を覆い隠し、ごまかすため、大きなマントが着せられていた。

「われわれは、ルーズベルト氏が、車椅子で、この国の大不況を乗り越え、第二次世界大戦を勝利に導いたことを知らずに、学校の子供達がこれからずっとこの記念館を見学に訪れるというのは良心的でないと感じた。」と全国障害協会の会長Michael Delandは言った。

Delandは、名誉会長であったジョージH.W.ブッシュ元大統領の支援で、二つ目の、よりありのままの銅像を作るための資金集めの運動を起こした。彼らが受けた最初の寄付は、ニュージャージー州でパン販売活動を行った児童達のグループからの378.50ドルであった。そして、個人による寄付により、合計額は最終的に百六十五万ドル以上になった。

2001年、こうした努力があって、彼が自らデザインし、毎日使っていた車椅子に座るルーズベルト大統領の二番目の銅像は公開された。地上一階にその像は置かれ、その場所には誰にでも用意にアクセスできる。子供達はその像に引き寄せられ、その銅像の大統領の膝の上によじ登るものもいる。

車椅子を使用する人々は手を伸ばし、それに触れ、また後ろの壁に刻まれた碑文は点字でも読むことができる。

年配の障害を持つ人々や、教師、親などが彼らの子供に、「見なさい。ルーズベルト氏はこの国を車椅子で率いていたんだ。障害があってもなくてもやろうと思えばなんでもできるさ。」と話しているのをDeland氏はよく耳にするという。

Mathew Sanford, ヨガインストラクターYoga Instructor

Phyllis McIntosh

P35

下半身麻痺の男性が、障害者が心と体の統合を達成できるように、ヨガの動きを適応させた。

13歳のとき、Mathew Sanford氏の生活は一瞬にして変わった。ある恐ろしい自動車事故により、彼の父親、姉は死亡し、彼の胸部から下は麻痺状態になった。その後12年間、「棒の上に頭がついているようだった」と言うように、彼はその体の3分の2を物として捉えて生活をしていたため、彼は全身とつながりたいと強く思い続けていた。

Sanford氏は、ヨガを初めたことで、そのポーズや姿勢が彼に新しいエネルギーの感覚を与えてくれることを知った。それはまさに、彼の体中がうなるような音を立てたり、ハミングをしたりするような感覚だったという。1998年、彼はヨガの動きを、麻痺、脳挫傷、多発性硬化症、小児麻痺等、様々な障害を持つ人々のために適応させた。同時に、彼のその独特な考え方は、健常者にヨガを教える際にも同様に価値があるものだということに気がづいた。

「人が体全体で生き生きと生活することは、麻痺の有無に関係なく、生活において重要なことだ。」と彼は言う。Sanford氏は、やがてMind Body Solutions(心と体の解決策)という非営利団体を設立するに至った。そこは、日常生活における心身の統合を改善することに専心する団体である。今日、彼のスタジオで、またワークショップでのプレゼンテーション、ヘルスケアや、コミュニティー施設の共同セミナー等で、幅広いヨガ教室を提供している。そして、さらに彼は自身の住むミネソタ州の主要なリハビリテーション施設である、Courage Center(勇気センター)にて、障害者向けに改良したヨガを教えている。「Bringing Your Body to Work(職場での体)」、「職場のデスクでできるヨガ」等と呼ばれるプログラムを通して、彼は就労者達に、エネルギーをみなぎらせ、ストレスを軽減し、心の外観を改善するためのヨガの利用法を教えている。

一人の夫であり、6歳の息子を持つ父親として、Sanford氏はさらに本を執筆した。それは、Waking: A Memoir of Trauma and Transcendence(目覚め:トラウマと克服の回想)というタイトルで、彼の経験と心と体の関係の重要性を探求した彼の回想録である。

彼は自分の哲学をこのように述べる。「心と体の統合は、単なる健康対策ではない。これは世界に変化をもたらすほどの意識の動きである。」

Marlee Martin, 女優Actress

Phyllis McIntosh

P36

聴覚障害を持つ女優が、彼女の仕事で頂点に到達する。

聴覚障害をもつ人が音のある世界で何が達成できるかを確かめたい人は、是非この美しい成功者である女優、Marlee Matlin氏を見るべきだ。彼女は「私のできないたった一つのことは聞くことです」と宣言する。そしてこの言葉には、彼女の生きることへの取り組みの姿勢が集約されている。

生後18ヶ月のときから聴覚障害が発症したMatlin氏は、7歳の時、オズの魔法使いのドロシー役で子供映画事務所よりステージデビューした。21歳の時、彼女は最年少で、アカデミー賞最優秀女優賞を受賞した。その時対象となったのは、Children of a Lesser God(愛は静けさの中に)の中で聾学校が、安全のために学校を閉めきった時、怖がってそこを抜け出そうとした若い女性の役だ。彼女は続いて他の14の映画のスターとして活躍し、テレビでも4つの作品でEmmy賞にノミネートされた。最近では、有名な政治ドラマ、The West Wingで、ホワイトハウスのアドバイザーの役を七期にわたって演じた。俳優行とは別に、Matlin氏はアメリカンレッドクロスの著名人講演者であり、たくさんの慈善団体の理事を務め、そして、聴覚障害をもつ人々についての子供向けの本を何冊か執筆した。1990年には、アメリカで作られた全てのテレビ番組に、聴覚障害者の補助として字幕をつけることを義務付けるという法案を国会で通すため、議会を説得するのを助けた。

警察官の妻であり、4児の母である彼女は、「私は他に、ガールスカウトのリーダー、料理人、移動式プールの運転手、仲介者、クローゼットの整理係、インチキ数学者でもあるんです。」

彼女は、自分が自立するのを勇気付けてくれた両親に感謝している。今、彼女は言う。「私は毎日、聴覚障害を持つ人々が単に尊敬されるだけでなく、人々の耳に届くに値するということを人々に理解してもらうのを支援しています。またそれは、両親が私に教えてくれたことでもあるんです。」

スペシャルオリンピック
Special Olympics

Phyllis McIntosh

P37

もともとは裏庭の小さな集まりから、スペシャルオリンピックは世界規模の大イベントになった。

世界中で、知的障害を持つ2百万の子供や大人達が、スペシャルオリンピックで陸上競技のスリルを体験し、身体的健康を培っている。

1968年に、後の大統領、ジョーン・F・ケネディの妹である、ユニス・ケネディ・Shriver氏によって創立されたが、この団体創設は、かつてユニス氏がメリーランド州の自宅で知的障害を持つ子供達のための一日の集まりを始めたことをきっかけである。何年もかけて、スペシャルオリンピックは150カ国の参加と、200種目以上のプログラムをもつまさに世界規模のイベントとなった。例えば現在では、アメリカに550,000人、中国に500,000人、ルワンダに4,400人、アフガニスタンに600人の参加者がいる。草の根的な非営利組織として、スペシャルオリンピックは700,000人の世界中のボランティアの助けに頼り、全ての参加選手達が室の高いこの体験を楽しめるように尽力している。

無料で、8歳以上の子供は一年中アルペンスキーからバレーボールまで30種目のスポーツを練習し、競争することができる。この期間で彼らはコンディションを整え、技術や友情を育み、社会の一員として生産的で尊敬される人間になっていく。スペシャルオリンピックの若年層選手プログラムでは、2歳から7歳までの子供達が将来のスポーツ参加のためのスキルを身につけることができる。

また、何千もの人々が、4年に一度開かれる夏季と冬季のスペシャル世界オリンピックに参加している。2007年の夏季オリンピックは中国の上海で行われ、次の冬季オリンピックは2009年にアイダホ州のBoiseで開催される予定だ。これらの世界オリンピックゲームの間に競技者達は地区、州、国、より大きな地域ブロックの大会で競争する。スペシャルオリンピック2006年にはラテンアメリカ、アメリカ、ヨーロッパ、中東、北アフリカの各地域大会を主催し、インドのMumbaiにて、初の国際クリケット大会の後援者となった。これらの競技に加え、大会では、選手達への無料の健康診断、その家族がアイデアや資源を共有する特別討論会、そして障害を持つ若者、持たない若者がお互いの理解を深めるための若者会議等を提供している。

Chris Burkle, 編集者、俳優Editor and Actor

Phyllis McIntosh

P38

ダウン症の俳優が、Upbeatマガジンで、様々な視聴者、読者に声を届ける。

現在、ダウン症の人々に書かれたダウン症の人々へのアメリカ唯一の雑誌、Upbeatの中で、最も多く使われている言葉が、「inspirational(感化する)」と「uplifting(高揚させる)」である。National Down Syndrome Society(全国ダウン症協会)によって出版され、認知障害を持つ人々やその家族向けのこの雑誌は、ニュースと、個人のエッセイで構成されており、それぞれの記事がダウン症の当事者によって書かれている。

「これらの記事は、ダウン症として成長するというのはどういうことか、どのようにわれわれは自分達を擁護するのかについての心のこもった物語である。」と言うのは、明朗快活な編集長Chris Burke氏で、彼はダウン症コミュニティーでも有名な象徴的存在である。

1994年にBurke氏と協会の会員によってNews and Views(ニュースと考え方)という名前で始められたこの雑誌だが、これは彼が通っていた私立学校のニュースレターより一部影響を受けたものだと言う。

編集長のほかに、俳優、ミュージシャン、全国ダウン症協会の親善大使として活躍するBurke氏だが、Life Goes On(人生は続く)というテレビ番組で、幸せな家庭で育ちながらも、社会で受け入れられるために奮闘するダウン症の若者という、革新的な役柄を演じた人物として良く知られている。この番組は1990年代初期に放映され、つい最近DVDで販売された。

今日、Burke氏は彼の古くからの2人の友人で、双子の兄弟でもあるJoe, John DeMasi両氏と共に音楽コンサート開催しており、そこで彼らは学校、フェスティバル、会議などで年間何百という公演行いながら、愛とユニバーサル社会というメッセージを普及させている。

1965年、Burke氏が生まれたとき、医師達は彼の両親に特別施設への入所を勧めた。しかし、両親は代わりに他の兄弟達と同様に彼を扱い、最高水準の教育を受けられるよう努めた。「障害というのは目標から目をそらしたときに見えるものなのです。私はできると自分自身にいつも言い聞かせてください。自分を信じて、一生懸命努力し、絶対にあきらめないで下さい。」これは、彼が人生の指標であり、彼はこの言葉を積極的に人々に伝えている。

最高の教育を: 擁護、希望、夢
Getting the Best Education: Advocacy, Hopes, and Dreams

Jeanne Holden

P39 - 41

ダウン症の子の母親は言う。アメリカ合衆国では、障害を持つ子供達が教育を受けることは可能だが、その両親は、子供達が可能な限り最高の教育を確実に受けられるよう、擁護してやらねばならない。Jeanne Holden、娘のJenny、そして残りの家族もワシントンD.C.近郊のヴァージニアに住んでいる。

私は記者であり妻であり三人の子供の母親である。娘のJennyは18歳。彼女は可愛らしく、クリエイティブで、好奇心旺盛だ。彼女の身長は4フィート6インチで、体重は85パウンド。10歳児くらいの大きさだ。彼女は知能にも障害がある。わたしはそんな彼女のことを大変誇りに思っている。

しかし、いつでもそういう気持ちでいられたわけではなかった。新しく生まれた娘がダウン症であるとわかったとき、彼女に対する私の夢は打ち砕かれた。ダウン症は、遺伝子の障害で、身体、知能における発達に遅れをもたらす。ダウン症のほとんどの子供達は軽度から中度の知的障害を伴う。私は、Jennyが、生き残ったとしても、彼女の人生は、とても限られたものになるだろうと伝えられた。そして彼女は生まれてからすぐに心臓を手術しなくてはならなかった。

Jennyの手術の後、私は彼女の病院のベッドのそばに付き添い、沢山の看護士の指示に従った。まだ研修中の二人の若い医師達が、Jennyの血液を取り出さなくてはならないので、私にその場を立ち去るよう求めた。私がそこにいることで、彼らは不安になったのだろう。それから30分後も、私は恐怖心に満ち、Jennyが大丈夫か心配しながら手術が行われている部屋の外で待っていた。その時、彼女を診察した心臓科の医師が私のところへ立ち寄り、私がそこで何をしているのかを尋ねた。私は状況を説明した時、この親切な医師がかけてくださった言葉に私は感動した。「あなたは娘の擁護者なんです。」と彼は強く言ったのだ。「子供達はあなたを頼りにしているのです。専門家が必要なとき、あなたが立ち上がり、代弁し、彼女の権利を守らなくてはならないんです。」娘がまだとても小さな時に、このような教訓を教えられた私はなんて幸運なのだろうと感じた。

私の娘が生まれたとき、アメリカ合衆国は大きく動いていた。公立の学校が障害を持った子供達全てに適切な教育を提供することを義務付けた法律は既に承認されていた。1975年にIndividuals with Disabilities Education Act(障害者教育法)が施行される以前派は、知的障害を持つたくさんの子供達は学校に通うこともできなかった。しかし、この新しい法律が施行された後でも、私は、娘を擁護していくことは依然としてとても大切なことだった。擁護者として、私がまず最初に行ったのは、娘の障害について、連邦や州の特殊教育に関する法律について、そして地域の学校区についてできる限り学ぶことだった。私は娘が生まれてから一ヶ月も経たないうちからダウン症の子供を持つ親達の自助グループに参加した。ダウン症の子供達は、様々な能力をもっているだけでなく、教育者達はこのような子供達の知的潜在性を見直していることをしった。というのも、彼らの達成度は、教育機会の増加によって向上し続けているというのだ。

この教育機会の一つは「早期の措置」というものである。Jennyが生まれる直前に、連邦の法律では、障害を持つ幼児に無償で教育や治療サービスを提供する事が、既に各州で義務付けていた。私達の住むヴァージニアでは、Jennyは身体、そして会話能力向上のセラピーを、生後一年間受けることができると認定された。しかし、そのサービスの需要の多さに、セラピストの供給が間に合わなかった。私は、この状況を良い機会と考え、擁護者という自分の新しい役割を試した。私は、身を引き締め、礼儀正しく、辛抱強くこの役割に望んだが、この試みは驚くほどの大成功となった。私は元身体療法士のプログラム管理者に、Jennyに対してのセラピーを、療法士自身に行ってもらい、充分なサービスを受けることができないこの状況を証明した。

また、娘が学校に入学してからも似たようなことが何度もあった。質の高い教育サービスというのは確かに存在している。しかし、子供達がそういった場所に身を置くためには、親がサービスに精通していなければならず、また、子供達がこうしたサービスを効果的に利用するために、親も積極的に行動しなくてはならないのである。Jennyは2歳の時、公立学校で、障害をもつ子供達のための幼児プログラムに入学した。彼女はそれとは別に、革新的な私立幼稚園にも通った。そこでは10人の通常学級の中に、それぞれ2人の障害を持つ子供が共に教育を受けていた。Jennyはこのプログラムのなかで、障害を持たない友達と共に遊びながら学び、すくすくと育った。

障害を持つ子供を教育するということは、セラピーを受けさせたり、良い幼稚園に通わせたりするだけではない。つまり文字や数字を練習したり、単語を発音したりと、学習した内容を毎回家で復習することは欠かせない。そして適切な行動を教えたり、小さな成果を誉めたり、「ただ自分がベストをつくして努力すればよい」と言い聞かせたりすることが大切である。それから子供の能力を喜びとし、充分な練習によって子供が成功すると信じることも大切だ。例えば、幼稚園にいる間、ある作業療法士は、Jennyの筋肉が大変弱いため、字を書けるようにはならないだろうと言った。しかし、今日、彼女は弟や妹よりもきれいな字を書いている。

幼稚園の先の進路を考え、私は町の公立小学校の特別教育部長と会った。障害を持った生徒達の学習環境を極力制限せず、皆と同じ環境で彼らが進歩できるようにするというのは法律で定められており、そしてこの部長はJennyが通常学級でやっていけると信じてくれた。私はとても嬉しかった。しかし、この部長も私も予期しなかったことだが、この学校の校長は、特別学級の生徒を通常学級に参加させることを望まなかった。彼女は障害を持つ生徒が健常児達と一緒に登校することさえ望まなかった。

この件について裁判所に申し立てすることもできたかもしれない。しかし私はそうする代わりに特殊教育部長を説得し、Jennyを他のもっと考え方が進んだ公立学校へ入学させてもらえるよう頼んだ。この部長は私を二つの教育審議会のメンバーに指名した。私は特殊教育プログラムを改善させ、障害者を持つ生徒を、障害というレッテルでなく、人として第一に見るよう、人々の態度を変えるため、他の教師達と協力した。Jennyが三年生になるころには、一般学級の教師、特別教育の教師、補助教員が共同で担当して教える授業にも参加できるようになった。Jennyには新しい友人ができ、新しい役割を身につけていった。他の生徒達もJennyと触れ合うことで、外見や話し方が違う生徒達に対する思いやりを学んでいった。

私のそこでの役割というのは、Jennyの教師達が、彼女のIndividual Education Program(個別教育プログラム)を作成するのを手助けすることだった。このIndividual Education Program(IEP)というのは、アメリカの特別教育法の基本となるものである。私達は、Jennyの学業の向上のためにどのような支援やサービスが利用でき、有効であるかを決め、それに基づいたIEPと呼ばれる個別の学習計画を作る必要があった。ほとんどの教師達は、私のアドバイスを歓迎した。しかし、中には、私の意見を聞き入れるより、教師自身の提案を私が一方的に承諾することを望むものもいた。しかし、私はだからといって怖気づいたりしなかった。Jennyが視覚的学習者であり、うんざりするような、数学の公式がぎっしりと集まったうんざりするような教材も、一つ一つ分離して見やすくすれば理解することができるといったことを、私以外の誰が知っているというのだろうか。私のこのような見識を教師達に提供するのは重要なことだ。

小学校の間、Jennyは一般学級で、障害を持たない生徒達と同じカリキュラムで学習していたが、宿題の長さと難易度は軽減されたものだった。

Jennyの学校での成功のおかげで、彼女は校外での活動にも好奇心旺盛であった。彼女はスペシャルオリンピックの徒競走でメダルを獲得した。彼女は一般リーグでサッカーをしたり、障害をもつ子供達のための、「チャレンジャー」野球をしたりした。そしてJennyはガールスカウトにも参加した。彼女が輪の中に入ることを他の参加者達がより快適に感じられるように、私はそのアシスタントリーダーを務めた。

彼女の兄弟達と同様に、Jennyもまたユダヤ教の学校に通った。ここでは特別教育プログラムがなかったため、私は先輩の生徒に、クラスでJennyを助けてくれるように頼んだ。彼らにとって、大変なこともあっただろうが、それは大いに価値があった。14歳の時に、Jennyは英語とヘブライ語によって、自分自身でバース=ミツバーの儀式(宗教上の成人式)を執り行ったが、彼女は障害を持たない生徒達と遜色なくこの目標成し遂げた。これは彼女の最も誇るべき瞬間だった。現在、Jennyはユダヤ教の幼稚園で教員補助をしている。

公立小学校のプログラムで、彼女は良い体験をした一方、彼女は中学校では問題もあった。知的障害を持つ子供のための公立学校のプログラムでは、学校の勉強はとても簡単で、他の学校コミュニティーから物理的にも孤立してしまうため、私はJennyに地元の中学校へ入学させた。

しかし、これが別の問題を引き起こしてしまった。そこでは、知的障害を持つ生徒に対しての支援は最小限のものであったのだ。そのため、あまりに沢山の内容を急速に教えられ、Jennyは消化し切れなかった。私はその間、彼女が高校へ入学した時に備えての解決策を見つけなくてはならなかった。

私は、Jennyを小さなカトリック系私立高校へ入学させた。そこでは、知的障害を持つ生徒のために、「Options(選択)」と呼ばれる「modified inclusion(変形式統合)」プログラムを採用していた。「選択」の生徒達は特別学級で一般教養を学び、芸術や、演劇等の選択科目は一般学級に参加した。そして、素晴らしいことに、学校は「選択」の生徒達を完全に学校のコミュニティーに統合しようと必死に取り組んでいる。セメスター毎に、約90の通常学級の生徒が自主的に彼らの自習時間の代わりに、「選択」の生徒がクラスで学ぶのを助けるという制度がある。沢山の通常学級の生徒達が「選択」の生徒達と共に、昼食や、放課後の活動を行う。ここでは、特別支援を必要とする生徒達と付き合うことは「cool(かっこいい)」と考えられている。

Jennyは、ここで大変幸せな日々を過ごしている。彼女は学校のクラブ、スポーツイベント、ダンス等に参加している。彼女は学校新聞に、連載コラムも書いた。彼女は学校の劇団にも属した。これは本当に信じられないことだ。5歳になるまで、Jennyは片言しか話すことができなかった。今では、校内のテレビ放送で、学校中へ向けてアナウンスを読むことができる。しかもこの学校では、大多数の生徒が障害を持っていないのである。

もちろん私は娘の自己擁護についての教育を集中的に行わなくてはならなかった。彼女がこのカトリック系の学校にたどり着いたとき、一般学級の生徒は、彼女が祈る前に十字を切れないだろうと思っていた。特別学級の生徒にはその方法を覚えられないと思ったのだ。しかし、そのようなことは決してなかった。彼女がユダヤ教ではないという理由で、自分の意思で十字を切らないという選択はできたかもしれないが。障害をもつ子供の親は自己擁護を教えなくてはならない。私たちがそれを教えなければ、どうやって子供達の自立を願うことができるだろうか。

Jennyは今高校の最上級生である。彼女は今後どのような方向に進んでいくのだろうか。私たちは公立の職業プログラムについて調べた。しかしJennyは、職業訓練ではなく、知的障害者のための新しい大学プログラムに進学することを望んでいる。このプログラムは高価だが、私達は真剣に考慮している。彼女は学ぶのが好きだからだ。

Jennyの目標の一つは、子供達と接する仕事をすることだ。彼女はまたボーイフレンドと付き合い、結婚するのを夢見ている。私はJennyがひとり立ちすることを願っている。良い教育は彼女に明るい将来を与えている。

Mandy Oei氏に会う
Meet Mandy Oei

Jeanne Holden

P42 - 43

インドネシアからの移民者の子、Mandy Oei氏はテキサスで育った。重度の聴覚障害を持ち、Oei氏は4年間を特別学校で過ごした。そこで彼女はスピーチセラピーを受け、読唇術を学び、その一方で従来の基本科目も勉強した。彼女はそれから通常学級に通い、高校を卒業した。その後、彼女はカリフォルニア州スタンフォード大学に通い、クリエイティブライティングを専攻し、英語学で学士号を取得した。在学中、彼女はコンピューターソフトウェアの大手であるマイクロソフト社でのインターンシップに応募し、受け入れられた。卒業と同時に、マイクロソフト社はOei氏をフルタイム(常勤)のテクニカルライターとして雇用した。彼女は先日、eJournal USA(当ジャーナル)の記者、Robin L. Yeager氏とのEメールインタビューに答え、大学とマイクロソフト社での経験について語った。

質問:通常の大学に出席する上で、何か困難な点はありましたか?スタンフォード大学は障害を持った学生に対して特別な支援を行っていましたか?

Oei氏:スタンフォード大学では、便宜についてそれほど困ったことはありませんでした。彼障害を持つ学生達に対し、役立つサポートを行っていました。(中略)私よりも、他の障害を持つ学生たちの困難の方がより深刻だったように思います。(中略)スタンフォード大学ではクラスで、アメリカ手話で通訳のサポートを提供していました。私は4年間学生寮で生活していましたが、TTYサービス(電話をスクリーンとキーボードに接続し、聴覚障害者のために相手の音声を文字化するサービス。)を利用することができ、緊急時のために、私の部屋にはストロボライトを使用した特別なアラームも取り付けられていました。寮の管理スタッフは、私が必要なものを準備できるよう良く気遣ってくれました。

質問:学校生活から、インターンシップの経験も含めて実際の働く場への移行についてはいかがでしたか?

Oei氏:大学の最高学年時、私はマイクロソフト社から連絡がありました。彼らは私が送った履歴書を受取り、話をしてみたいということでした。私は採用担当部長との電話インタビューを行いました。このインタビューを行うためには、TTYシステムによる通訳を介する必要があるため、二者間の直接の会話よりも少し余計に時間がかかります。しかし、採用担当部長は最後まで大変辛抱強く話を聞いてくれたので、私はマイクロソフト社に好印象を持ちました。そして次のステップとして、私はたくさんの担当者と直接面接を行うため、飛行機でスタンフォードからワシントン州シアトル近郊のRedmondへ行きました。マイクロソフトの採用担当者たちは、私がどんな便宜を必要かについて尋ねました。私が、通訳が必要ですと答えると、彼らは私が使用している手話法の種類を確認しただけで、ほかに多くは聞きませんでした。私はこのことに大変感動をしました。なぜなら、この対処の仕方を見て私は、彼らが聴覚障害者とそのニーズについて良く知っていると感じたからです。

この面接で、私には二人のアメリカ手話の通訳がついてくれました。私は全部で12人の人々と話をしなくてはなりませんでした。手話通訳サービスを通しての会話というのは新しい経験だったかもしれません。それにもかかわらず、誰も不快感を示す人がいなかったことに私は好印象を持ちました。ですから彼らが私にテクニカルライターとして、インターンシップの機会を提供してくれたことを大変喜びました。こうした経験によって、私はその後もマイクロソフト社と関わっていきたいと思うようになりました。

質問:マイクロソフト社ではどんな仕事をされているんですか?

Oei氏:マイクロソフト社では、私はテクニカルライターとして働いています。私のグループでは、Windows Embeddedや、Windowsモバイルオペレーティングシステム(OS)関連の書類作成を行います。それから、コンピュータープログラマーが、産業機器、キャッシュレジスター、スマートフォン、そしてポケットPC等、特別仕様のオペレーティングシステムを作成する際に必要なツールについての書類作成も行います。私はプログラマーと協力し、これらのツールに関する書類作成や、メニュー、ダイアログボックスその他、ツールを使用する際にスクリーン上で目にするテキストの作成を行っています。私は、使用されている言葉が明瞭で、正確であることを確認しています。

質問:あなたの障害に対して、他の社員はどのように反応していると思いますか?

Oei氏:マイクロソフト社は非常に様々な経歴をもった人々と共に仕事をすることに慣れています。そして、こうした姿勢が、人々がオープンでいられ、「違い」について学び、受け入れていこうとする環境を作り出していると感じました。例えば、何度か、今までに出会ったことがないような人々と遭遇したこともありますし、彼らが、私が聴覚障害者であると知り、私と会話するためにホワイトボードやワードプロセッサが必要かもしれないと察すると、彼らはすぐにそれらを準備し、ごくいつも通り業務に移ります。私の聴覚障害について触れることは通常ありません。ただ、通訳の必要性について私の説明を求められることはあります。こうした機会では、私の障害に対して、他の社員はどのように接するべきかの手がかりを知るのに役立つと私は思っています。新入社員がグループに加わった時、彼らは私と効果的に会話をするため、ほんの2、3のコツを知る必要があります。例えば、ミーティングでは、通訳が追い付けるよう、複数の人間が同時に話さないということや、私に彼らの口の動きが分かるよう、私の方を向いて少しゆっくり話すといったことです。

質問:あなたの聴覚の障害は仕事や、旅行、そして同僚社員との交流に影響していますか?もし影響がなければあなたがどのように工夫してうまくこれらの活動を行っているのかを教えてください。

Oei氏:聴覚障害者であるということは私の旅行能力にあまり影響はありません。たとえば、私はプライベートでのカリフォルニア旅行から戻りました。私は旅行の行程の計画に際して、特に困ったことはありませんでした。ただ、旅行の間で一つだけ、道に迷わずに運転するというのは本当に大変でした。マイクロソフトでは、皆がお互いのコミュニケーションに、Eメール、インスタントメッセンジャー、社内のウェブサイトを使用しています。音を聞く必要のない視覚情報によるコミュニケーションもあります。これは同僚や、他の部署のスタッフとのコミュニケーションにおいては、聴覚障害者であることは大きな問題ではないことを意味します。

ミーティングについては、私には通常会話の内容を私に訳してくれる通訳がついています。それから、ミーティング中に電話が来た時や、電話をしなくてはならない時のために、常にTTYサービスを利用できる環境があります。直接ミーティングの参加者と話をする時、それが重要な内容であれば、コミュニケーションを容易に行えるよう、口唇術ではなく、通訳を使うこともあります。しかし、私は基本的に、自分で話し、他の人の口の動きを読むことが多いです。私や、他の参加者の言ったことが理解できない場合は、何かに書いて伝えています。

質問:あなたの部署には何人のスタッフが働いていますか?そこでは重度の障害を持つ人はあなただけですか?

Oei氏:私の部署には、およそ40人のフルタイム(常勤)スタッフがいます。部署内に、他の障害を持ったスタッフはいますが、聴覚障害を持ち、アメリカ手話の通訳サービスを利用しているのは私だけです。医学的には、聴覚補助具を使用しないと何も聞こえないという私の難聴は重度の障害とされています。しかし、私はそのようには考えていません。確かに難聴は私の一部ですが、それは、私がどのような人間かを定義する上で、最も重要な特徴ではないと考えています。聴覚障害者であることが私の人生に影響したことは確かですが、それによって、私が生産的な仕事をしたり、自分の家で自立した生活を営んだり、沢山の友達を持ったりすることができないということはありませんでした。

質問:マイクロソフト社は、他のスタッフへのトレーニング等を含め、障害者に対しての投資から恩恵を受けていると思いますか?

Oei氏:それは間違いないと思います。例えば、私がここで研修生として雇用される前、私の部署の部長は外部からのコンサルタントを招き、この部署のためにセミナーをひらきました。そこで、部署内のスタッフが聴覚障害者と働くにはどうすればよいかを身につけました。これは、私が初めのうち、この職場に適応し、一緒に働けるようになるまでの期間とても役に立ちました。何人かの同僚達は言葉を学ぶことに興味を持ち、また私との会話を容易にするため、アメリカ手話のクラスを受講しました。これらの要素が、私のインターンシップ終了後、この会社の常勤スタッフになりたいという決断をするきっかけとなりました。障害を持つ人々も含めて、包括的な採用活動を行うことで、マイクロソフト社はより大きな候補者を確保しています。そうすることで、沢山の才能を持った人間や、社員として素晴らしい潜在性を持った人間を発見する確率は高くなるのです。沢山の異なった経歴を持つ人々を取り込んでいくことは、変わった見地から意見を述べたり、創造的に考えたりすることを促進しているのです。

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