ナミねぇの講演を聴いて下さった大隈熟生の感想文 その7

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身近に障害を持った人がいる自分にとって、今回の講義は非常に心に響いた。「人間には、色んなスピードで生きる人がいる」ナミねぇのその言葉で、それまでの僕のチャレンジドに対する「もやもやした何か」が吹っ切れた。チャレンジドのエネルギーをほとんど活かせていない日本。彼らに対する差別や偏見がまだまだ存在する中で、真の共生社会を作るためにも、僕たちはもっと「知って」、「実践して」いかなきゃダメだと感じた。

よくドラマ等で障害者(ここでは障害者とさせていただきます)や重い病気を患った人を描いたものがありますが、自分はそれを見てよく泣くことがあります。ただ、そういった涙は全てではないですが多くは同情や可哀想だなという目線から送られているものだと思います。同情自体は悪いことだとは思はないのですが、チャレンジドの方々にとって同情は大きな障壁になるものではないだろうかと感じました。多くの人は同情からその人を助けたいという思いがあっても、それがチャレンジドの方々にとって正しい方向に向くとは限らないと思います。そう考えると今回講義で出てきたようなことはしっかりと頭に入れておかないといけないと感じました。

今回の講義では「当事者でない他者からの属性規定に内在する暴力性」ということが主題にあったと思うが、極めて具体的なエピソードと話者の魅力に富んだ語りによっていろいろと触発されるものがあり、非常に勉強になった。障害を有する方を一方的に「かわいそうな存在」として決め付けるような論調を非常に腹立たしく思っていた自分からすると、竹中さんの言っていたことはとても全うなことのように感じた。悲壮感でなくユーモアがあったのも素晴らしかった。

弱者。自分も何気なくいい人ぶって使っていたなと思った。『弱者、かわいそうと思った時点で、もう壁を作っている。』胸が苦しくなった。今までずっと日本の教育はみんなが同じであることがよい子であり、大事なことだと教えてきたように感じる。そこへ違うやり方で意思疎通を図ろうとする子を見ると、みんなと同じじゃないから出来ない子だと決めつける。その発想の子供たちが大人になっても社会は動かない。やはり前回の秋津菌のように、地域で子供を育てる環境に置くために、まずは地元の公立学校に通学できる法律は絶対不可欠であると感じた。チャレンジドという言葉を初めて知ったが、素晴らしい名前と志だと思った。

人間は無意識のうちに、すべてをある前提の下に考え、行動してしまう。その根本を疑いもせず、その上での対応策しか考えない。そんな私には、障害を持つ方が普通に納税できる社会というナミねえの言葉は驚きだった。そもそも、障害者とか弱者という存在は、社会が作り出しているその前提であるから、今ある問題には、社会全体がつまり一人ひとりの意識の変革が必要いなる。このような新しい概念の広まりは、日本のよりよいユニバーサル社会への着実な一歩になることは間違いない。

本日の講義は非常に自分の関心分野に近いもので、かなり充実した授業となった。私は、間違いなくこの今のITのweb2.0が世界を変えると確信している。地理的、経済的、社会地位的なすべての要素を飛び越えて、ネットのインフラさえあれば、世界の誰もが発信者となれる時代である。今まで一部の者に限られていた「表現」という手段が今や、誰もの手の元に行き届こうとしているのだ。この革新を社会の問題解決に使わない手はない。私は今この手法、特にオープンソースのフィロソフィーを用いてあるソーシャルIT事業を、海外の仲間とともに始めようとしている。今日のナミさんように私もITを社会貢献に生かしていきたいと思う。make the world a better place.

私たちは皆誰かのサポートを受けて生きていて、それは障がいのある人も同じなのだから、全ての人にとって住みやすい社会を作っていこうというナミ姉さんの言葉にとても感動しました。今まであまり意識したことはなかったけれど、障害のある人と接するときに「この人は自分と違ってるから」とか「人と同じじようにできないから・・・」という気持ちがあり、それが何かサポートするときの原動力にもなれば、その障害者を傷つける言葉でもあったのだと気づきました。障害のある人もない人も、社会の重要な構成員です。その人たちが全員「社会を支えている」と実感できるような社会にしていきたいと思いました。またそうしていくためにこれからも一生懸命勉強をしていこうと思いました。

チャレンジドの方々のとても真似のできないような活躍をお聞きし、障害を持つ人だからといって「弱者」とみなされ、できないことばかりが注目されるのは違うと感じた。チャレンジドの大きな可能性を考えると、自分より「できない人」だなどととても言えない。人間はどうしても互いに上下をつけたがるが、対等の位置に立てば必ずその人の学ぶべき点や可能性に気付くことができるはずだ。僕は、完全に悪い人間などいないのだから、「弱者」と切り捨てることはしたくない。

今回のなみねぇの講義でchallengedに対する考えが変わりました。障害はマイナスだとか異常というふうに考えるのではなく、障害を人間誰もが持つ個性の一つとしてとらえるような世の中になればいいなと思いました。また、私たちは意識していなくても対等な立場に立てないことが多々あることを痛感しました。常に言葉とその意味に気をつけて、すべての人と対等の立場に立てて話せる幅の広い人になりたいと思いました。

ナミねぇのことは、一昨年の大隈塾の講義録を読んでいたので、大変楽しみにしていて、やはり期待通りのパワフルな人だった。「身体障害者」と呼ぶのではなく「チャレンジド」と呼ぶ傾向があったことは、講義録を読む前まで正直知らなかったのだが、ものすごく感化された。話は変わってしまうが前に大隈塾の講師の人はオーラを纏っているというような文章を書いたが、今回のナミねぇの講義からオーラを纏っているのではなく、分野こそ違えどものすごい熱量(エネルギー)を持っている人であってその熱量を自己消化せずに周りの人に伝えることができる人物なのだなと感じた。

アメリカでチャレンジド自らが立ち上がって法律を作ったことに感銘を受けました。日本の市民に足りないのはそういう立ち上がる力なのではないかと感じました。

なみねえのお話を伺って、必要な人がしている活動が一番強い!と感じました。自分が必要な人か、必要な人たちが活動する手助けになる活動がしたいと思いました。自分が思っていることが正しいとは限らない、もし現在ある活動が失敗していたらそれは本当に必要とされていることとは違うのだと気づきました。そして結局すべての基本になるのは自己責任なのだと感じました。

近所や同じ学校にチャレンジドの方がいて関わりがあっただけに考えさせられた。やはり自分が手助けをしていると「大変だな、かわいそうだな」「障害を持っているのに一所懸命ですごいな」と最初から憐れみを持ってしまう自分が恥ずかしかった。でも今回ナミねぇに話を聞いて、「かわいそう」なんて生半可な言葉では片付けられないチャレンジドのパワーを感じた。わたしはまず、彼らにもう一度話しかけることから始めようと思う。

実際に何らかの身体的な障害を持つが、ある分野において一般の人々より優れた才能を持つ人々の実例を挙げ、「弱者」と呼ばれる人々が社会に関われることを、また「弱者」は弱者でないことを竹中さんは示された。もちろんそういった例がごく少数であることは承知しながらも、自分も社会にいかにして関わり、どのような影響を及ぼしたいのかを考え、そして彼らと胸を張って語り合える人間となりたいと思う。

いろいろな話を聞く限り、日本は諸外国に比べ、障害者に対する一般の人の意識がしっかり確立されていないと思う。意識を持ったとしても、かわいそうだとか、保護すべきだとかいう意識しか生まれずに、彼らに挑戦の機会を与えようという意識はほとんど芽生えない状況にある。これは、文化の違いによる影響もあるので、そういう意識を芽生えさせるのは非常に時間がかかると思うが、その意識が日本の文化となる日は確実に来るだろう。

「Challengedを納税者にできる日本」という表題を見た瞬間に私は激しい反発を覚えた。それでは障害者を虐げることになるだけではないかと思ったからだ。しかしナミねぇの話を聞くうちに私の認識そのものが誤っていたことに気づいた。障害者はただ庇護されるだけの弱い存在ではない。挑戦する課題が与えられた、もしかしたら私たちよりも強い、まさに”Challenged”なのだ。ステレオタイプが人の世界や可能性を閉ざす。そのことを思い知った講義だった。 これは私の実感にしかすぎないのですが、今の日本の若者には、海外の貧困などに興味を持ち国際協力に携わりたいと考える人が多い反面、問題の山積する日本の現状に不安や不満をもっていながら、関わりを持とうとしていないという一面があるような気がしていました。私は国内の見えない差別にきちんと対応できる日本であってこそ、海外に目を向ける資格を持つのだと考えています。人々の意識を変える活動をされている竹中氏の存在の重要さを思いました。 今までchallenged達のことを、弱者と意識したことはなかったけれど、「障害者」というレッテルを勝手に貼っていた。大して彼らと交わった経験もないのに、そして彼らの立場になって物事を見るなんて考えたこともなかったのに勝手にそう呼んでいた。今回ナミねぇの話を聞いて、そういった自分の姿勢を見直すことは誰かとの出会いがあってできることなのかと思った。ナミねぇは娘さん。そして私の場合はナミねぇだ。自分を成長させてくれた彼女に感謝したい。

東京に出てから、町中で目が見えない方などを見かけることが多くなったが、こういう時にはいつも葛藤を覚える。電車に乗る、階段を登る、踏切を渡る…自分の立場だったらどんなに不安だろうという思いから、つい何かしてやれないかと思ってしまう。しかし、それは彼らの自立を阻害してしまう、「可哀想」からくる見せかけの思いやりかもしれない、と今回の講義で感じた。何をしてやれるかではなく、点字ブロック上に放置された自転車など、私たちが自立を阻害しないような心がけを見直さなければならないと思った。

竹中さんのしていることは、弱者に対する認識のパラダイムチェンジだと感じました。それを説明するために障害者の社会進出を、アメリカを引き合いにだして紹介してくれました。そのこと自体はいいのですが、足でマウスを動かすや口でキーボードを打つというのに対しては、それほど意味づけはできないと思いました。というのは、ガッツがある人ならばもしそれ以外に選択の余地がなければ誰でも達する境地に思うからです。 アメリカのモデルをいかに日本にも浸透させていくか、僕もその一翼をにないたいです。

もちろん身体障害者の人々が主権と義務ある参政する立場としての「納税者」となる社会環境は望ましいものであると思う。しかし一般の人々でさえ、果たしてどれだけの人がナミねぇの定義する「納税者」であるだろうか。障害のあるなしに関係なく、私たち一人ひとりの人間は、社会の中で果たしていくべきことを持ち合わせていると感じた。

私は「障害者」というよりも「健常者」という言葉が嫌いです。先日、グループでミーティングをしている間に「障害者/健常者」という言葉が出てきました。私は「障害者という言い方が嫌いだから、やめよう」と言ったのですが、「じゃあ何て呼べばいいの?話し合い中は便利だから障害者って呼べばいいじゃん」と言われてしまいました。確かに私は障害者という言い方が嫌いですが、それに変わる言葉も思いつかず、いつも「障害を持つ人」というお茶を濁したような言い方をしていました。もう少し今回の講義が早かったら、友人に「challenged」という言葉を紹介できたのに、と思いました。これからは私も「chakkenged」という言葉を使っていきたいです。日本にもチャレンジドの精神がなじんで、新たな日本語が生まれるといいですが、それよりも障害者、健常者という区別なく(誰だって弱者だし、“普通”な人間なんていないから)その言葉、境界がなくなるといいと思います。

竹中氏のパワーに圧倒された。重度の障害を持って産まれたわが子の運命を嘆くことなく、ポジティブに向かい合い、自らも成長したという話に感銘を受けた。また、障害者ではなくチャレンジドという響きも前向きで好感を持った。チャレンジドが個々の能力やITを駆使しながら、社会に貢献できる納税者として自立することは、彼らの心の負担を取り除く意味でも重要なことだ。持続可能な福祉を考える上で竹中氏の試みは大変参考になった。

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