ナミねぇの早稲田大学大隈塾での講演に参加された学生の皆さん全員から、感想文をいただきましたのでご紹介します!

2008年7月28日

大隈塾の塾生のみなさん、たくさんの感想文を送ってくださってほんとうにありがとう! 熱心に、真剣に、自分自身の生活や生き方を重ね合わせながら聴いて下さっていたことが分かり、大変嬉しくまた心強く感じました。みなさんの書いてくれた文章の一つ一つから、ナミねぇは元気と勇気を受け取りました。ユニバーサル社会を実現するために、みなさんと一緒に歩んでゆけることを心から願っています!

※感想文は原文のまま掲載させていただきます。感想文の公開をご快諾くださった大隈塾の皆さんに、心から感謝します。

 

ナミねぇの講演を聴いて下さった大隈熟生のみなさんの感想文 その1

その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7

 

■第11回授業感想文  講師:竹中ナミ (ナミねぇ)

最初に弱者の定義について質問されましたが、僕自身も、回答者と同じように誰かしらのサポートが必要な人を弱者だと思っていました。しかし今回の講義を聞いて、自分も誰かしらのサポートがないと生きていけない存在なんだと思いました。これはよく考えると当たり前のことなのですが、普段ちゃんと考えてないぶん、痛感しました。障害者の方々が健常者(こういった隔て方が正しいのかはわかりませんが)と同じ土台で社会生活を送れるように支援をなさっている竹中さんの活動をこれから注目していきたいと思いました。

中学校の時、特別学級にダウン症の同級生がいた。週に一回給食をクラスメートと食べたが、私はどう接していいのか分からなかった。とりあえず、自分が‘上’にいるのだから、なにか助けてあげないとと思った。昼休みに友人と特別学級に行き、一緒に折り紙を作ったことは記憶しているが、それ以外に何をやったか覚えていない。ずっとどう接すればいいのか戸惑いながら接していたと思う。今日、ナミねぇが「なかには嫌なやつもいる。そういう奴にお前とは付き合いたくないと自然に言える関係がいい」とおっしゃったときに、challengedの方とどう接するのかヒントをもらったような気がした。自分が上とか、なにかやってあげなきゃとこ思うこと自体が違うことだ。決め付けを排除し、自然なままで接すること、これが私の課題だ。

チャレンジドとコンピューターという単語が初めは結びつかなかったが、目からうろこだった。思い込みもまた差別だ。確かにSOHOなど労働体系が多様化、自由化していく中で、会社に行かなければ、仕事ができないという時代は変わろうとしている。また、日本の福祉はチャリティ止まりで、技能を身につけさせるという視点が欠けている。技能を身に付けるには‘場’と‘人’が必要だという話は重要な指摘だと思った。

私は駅員のアルバイトをしており、業務の一つに目の不自由なお客様や車椅子を使うお客様の電車の乗降補助があります。その際に今までは乗降という瞬間だけを手伝う意識しか持っていませんでしたが、講義を受けてからは「そのお客様が仕事や活動をしていて自分はそれを支援する役割の一つを担っている」と考えながら仕事をするようになりました。ITCとは関係ありませんが、ユニバーサル社会と身近にいるチャレンジドに対する意識が変わったと思います。

ナミねぇが話してくれたマイクロソフトの就職した全盲の方が言った「目が見える人は不自由だね」という言葉が胸に突き刺さった。かっこいい!!チャレンジドだって私たちだって得意不得意があって、それぞれができることを最大限発揮できる「ユニバーサル社会」をつくっていけばみんなが笑って暮らしていける。それぞれができる能力を生かして社会に還元するだけ。世界は実にうまくできているんだから、それをつかわない手はない。

竹中先生の「弱者とみなす時点で対等に見ておらず差別は始まっているという」という言葉が印象に残った。また、チャレンジドを弱者とみなし、救済すべき対象だとすることで、逆に彼らの可能性を潰しているという視点は今までの私にないものだった。そして、大事なことは安易なモラル観で彼らを同情するのではなく、我々と彼らが共存・共栄できるシステム作りなのである。そのためにはまず、我々一人一人が彼らを対等とみなし、社会参画の機会を与え、できる範囲で納税の義務を負わせ、国を支える一員に迎え入れようとする姿勢が不可欠だ。

今回の講義では、弱者についての考え方を改めさせられました。盲目の男性が音声によってコンピュータプログラムを開発し、Microsoft社にヘッドハンティングされた事実は特に驚きでした。しかし、一番私にimpressionを与えたのはナミ姉から感じ取るエネルギーの強さです。正直に言えば、最初は「何故彼女はこんなにもエネルギッシュで熱いハートを持っているのだろう」と思いました。もちろん彼女自身の娘が将来安心して暮らせる社会を構築したい、との想いもあると思います。ですが、一番の要因は講義の最後に冗談交じりに言い放った「パソコンが出来ない代わりに、私は口を動かして皆の心を動かしに来た。」という言葉に集約されているように感じました。つまり彼女は自分自身が出来得る最善の事に対して、最善を尽くす事を決めているんだと自分の中で納得できました。日々、様々な悩みの中に生きている私達ですが、自分の出切る事に最善を尽くす彼らの姿を知ることで、勇気を与えてもらいました。

母は看護師で、よく障害を持つ人は何も特別じゃないということを日ごろよく言っていました。ですが、私は自分が日常生活で障害を持つ方と触れ合うことがまったくないことに、今まで疑問を持っていませんでした。ナミねぇの講義を聞いて、母の言葉の本当の意味がわかった気がします。私の持つ「人間」観が広がりました。本当にすべての人が自分の力を発揮できる社会をこれから作っていこうと思います。

私の中学時代には同クラスに全盲の生徒がいたが、彼は他生徒とよく馴染み、今でも私の良い友達である。思えば、教員がその全盲の生徒とのコミュニケーションのとり方を示してくれたので、私達も気軽に彼と会話ができたのだろう。始めは彼のことを可哀想と思っていたが、その感情は薄れてしまった。ナミねぇもおっしゃっていたが、チャレンジドを前にすると構えてしまいがちな私達も接し方やケアの仕方が分かれば仲良くなれるのだ。

知り合いに障害を持ったお子さんがいる方がいる。その方がしばしば「私が死んだ次の日に、子供が死んでくれたらいい」と言う。先生同様に、やはり多くの方が、自分がいなくなった後、障害を持った人間が安心してこの世の中で生きていけるのかということに不安を抱えているのだろう。まだまだ先生の言うようなCHALLENGEDの概念は広まるまでには長い年月がかかるだろうが、少しずつでも変化することが重要だと感じた。

「お返しをするチャンスがない」という言葉に深く考えさせられた。私は高校時代に、転んで足を骨折したことがある。私は、そのときにクラスの人たちに受けた優しさを、クラス行事の先頭に立つことで返せたらと思いがんばった、ということを不意に思い出した。かわいそうなのは、障害者が自立する場がないことなのであって、障害者が自分の生涯をかわいそうと嘆いていても始まらないのだろうなあ、と私は思った。これだけ整備された情報技術を持ってすれば、「(お金を使えば)何でもできる」のが現代社会の特徴だろう、良くも悪くも。私も、政治学部にいる。私は、何を構想するのだろう、私には、何が見えていたのだろう、大変考えさせられた。ナミ姉の菌が、私の視野を広げてくれたような気分だ。

ナミねぇの話はとても感動的だった。自分の中に弱者への差別があることを改めて知らされたし、彼らにとって良かれと思っていたことが完全に一方通行で彼らの意見を全く反映していない無駄なものだと悟った。ナミねぇはすごい。同じ女として。今日、私は小学校のときのことを思い出した。チャレンジドの子とも一緒にコミュニケーションをとりたかったのに、切り離されていた現実に一番に大人の都合がある社会を見たような気がする。

自分の感じたことから社会を変えていきたいという思いにつながり、そしてそれを自ら実効するというヴァイタリティにまず胸打たれました。チャンレジドの方々とウィンウィンの関係を持てる社会というものが望まれるのではないかと思いました。

私たちは身体障害者、知的障害者に同情の眼を向ける。それが私たちとしては、優しさのつもりだった。しかし、それが少しでも差別の温床になっていたかと思うといたたまれない気持になった。今回のナミねぇのお話を聞き、これからの世の中に必要なのは今まで私たちがしていたような単なる同情ではなく、チャレンジドに出来る事を見つけ私たちと共存する必要性なんだと痛感した。そのためには私たちが積極的にチャレンジドに関わり、互いの心の障壁をなくすべきなんだと思った。

とにかくナミねえのパワーに圧倒されました。そのパワーに私の障害者に対する概念は打ち砕かれたように思います。良かれと思って行われている巷の障害者福祉政策も、実際にはその人の人間らしさの実現を妨害しているということのパラドックスにはもどかしさを感じました。そして、本当の思いやりのあり方を改めて考えさせられる機会になりました。その実践として、私は障害者に対する哀れみを払拭し、対等な人間として相手に尊敬を持つよう、意識を変えていきたいと思います。

障害者から税金を取るという発想はすばらしいと思いました。財政難に見舞われている日本で、障害を持つ彼ら(challenged)が積極的に自発的に働き、税金を納め(taxed)、生きがいを見出すことは国家的に見ても個人観で見ても利点ばかりだと思います。政府ができないことを民間でなさっているナミさん達を是非とも応援したくなりました。

「平等」。なんとすばらしい響きのする言葉だろうか。だがしかし、そんなものは存在しないと、僕を含め多くの人が思っているだろう。しかし、ナミねぇが使った言葉は違った。「対等」。誰かと同じ目線でいること。彼女はいつもその立場を意識していると思った。自身の可能性を開花させた彼女が信じるのは「生命の底力」。僕はどうだろう、自分の枠を決めてはいなかっただろうか

今回の講義では、challengedの就労機会の拡大に努めていらっしゃるナミねぇのお話を聞きました。現在の社会は、いわゆる「一般的」な生き方から外れた人々が非常に生きづらい世の中だと思います。障害者然り、ワーキングプア然り。自分の身に何かが起こったときすぐに周囲から区別され、就労機会が奪われるような社会ではいけないと思います。意欲ある人がそれにふさわしい機会を提供され、いきいきと暮らせるような社会にしていきたいものです。

弱者と読んだ時点で、その人とは決して対等な関係になれない。ナミねぇのいった言葉に葉我々の盲点を付くところがあると思った。弱者のため、と言いつつ、我々はその人の可能性をつぶしてしまってはいなかったのだろうか。社会の制度が一度そう決めてしまうと変えられないとナミねぇはいったが、まさにその通りだと思う。以前、結城さんがおっしゃっていたが、人に「レッテル張り」をすることがどんなにその人を押し付けてしまうのか、我々はもっと深く考えねばならないと思った。

「弱者」とは、相対的な概念であるのはもはや自明の理であるが、challengedな人々こそが「強者」なのではないかと私は最近考えるようになってきた。私たちの身の回りのアーキテクチャは、その社会の「一般的」な人々の身体性を反映している。そのアーキテクチャは、チャレンジドにとっては負担である。だが、我々人間は受動的な所与のものとして、ある社会の中に、ある能力を持った存在として「放り込まれ」るのだ。だからこそ、人間の強さとは、その放り込まれた社会の中でいかに困難を乗り越え、いかに懸命に生きようとするかだと私は思う。そう考えることができるようになったからこそ、私はチャレンジドの人々を自分と同じ「放り込まれ」た存在であり、その同一線上のラインにおいて競争相手(しかも強力な)だと思うようになった。

今回の講義で一番印象に残ったのは、英語のワードを日本に取り入れるという革新的かつ前向きな姿勢でありました。バリアフリー、チャレンジドなどは、確かに日本語に置換するとなると困難を極め、その語感も鈍いものとなります。「ナミねぇ」先生の考える社会の向上論もさることながら、今回はこの英語を取り入れるというところに素直に感動してしまいました。

「弱者」とか「かわいそう」という言葉を使った時点で、相手と対等な立場ではなくなるというのは、言われてみるとそうだなと思いました。Challengedであっても働いて納税することができる社会は、単に彼らだけでなく、私たちにとっても生きやすい社会になるし、国家財政の観点からも、非常に良いことだと思います。質問をさせていただいて、日本の福祉行政は「本気さ」が足りていないことがよく分かりました。本当に自立して生きていけるような技術を身につけてもらえる支援が必要であると痛感しました。

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