ナミねぇの講演を聴いて下さった大隈熟生の感想文 その6

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ナミ姉さんが冒頭におっしゃっていた「相手のことを弱者と呼んだ時点で対等な立場に立てなくなる」という言葉がとても印象的でした。また、Challengedの皆さんの紹介をしていただき、自分の使命をチャンスに変えて頑張っている姿に自分も負けていられないと刺激を受けました。そして、ナミ姉さんの社会の矛盾を自分の手で変えようという熱い思いを強く感じ、自分も社会の矛盾を誰かのせいにするのではなく、自らの手で変える人間にならなければならないと感じました。ありがとうございました。

今まで「チャレンジド」という概念が私の中にはありませんでした。なので今回の授業で、障害を持っている人に対する意識が全く変わったと思います。障害を持った人達が働きたい、社会の役に立ちたいと思っていることにまず驚きました。そして実際に社会で活躍している人たちのことを知り、自分も負けてられないな、もっと頑張ろうという気持ちになりました。つまり初めて「チャレンジドの人に負けたくない」という感情を持ちました。チャレンジドの人たちが働きやすい社会を求めることが、すべての人の働きやすい社会に繋がるという考え方にとても共感できました。ユニバーサル社会を作るために、自分にできることは何かを考えて行動に移していきたいです。

初め、「制度が社会を変えていく」というナミねぇの意見に少し疑問を持った。制度に固執しすぎると、社会の定義とされる枠にはめられ個人がより行動しにくくなると思ったからだ。しかし、それは私が過程を見落としていることに気づいた。現在の制度に息苦しさを覚えた個人が行動を起こすことで制度が時代に合った変化を迫られ、引いては社会も進化していくのだ。その手段として、ICTは必要不可欠な存在となっていくのだろう。

私は、チャレンジドの方々と一緒に仕事をするということは今まで考えたことはありませんでした。しかし、なみねえのお話を聞いて新しい世界が開けました。もしも自分やまわりの人がチャレンジドになっても自信を持って仕事に就ける社会をなみねえ達は作っているのがとてもありがたかったです。私もその社会に貢献し、仕事でも勉強でもチャレンジドの方々と一緒にやりたいです。そして彼らの無限の可能性を見てみたいと思いました。

障害者ではなく、チャレンジドなんだと思いました。今回のお話をきいて一番感動したしことは、障害があるにもかかわらず、一流企業と言われる場所で活躍している方がいることです。障害は関係ないんだなと思いました。どんな立場であろうと本人の努力次第なんだと思いました。自分は今、日々、一生懸命やっているか、と聞かれたら、胸をはることができません。今から、もっとガッツだして頑張ろうと思いました。絶対、目標を達成できるように頑張ってやろうと思いました。

人はみんな誰かのサポートを受けて生きている。「弱者」と呼んだとき、決して対等の立場には立てない。という言葉にすごく納得しました。私たちが両手に荷物を持った時、ドアを開けるのに人の助けが必要です。この事と“障害者に対するサポート”と言われる言葉はさして変わりはないと思います。なみねぇはすごくパワフルで赤坂の事務所に訪問させてもらった時、私たちが一つの質問をすると十帰ってくるという印象を受けました。

僕は以前から、心身に障害を持っている方を「障害者」と呼ぶことに対して強い抵抗を感じていた。あたかも自分が完璧であるかのように自分のことを健常者と呼び、一方で自分より出来ないことが多い人間を障害者と呼ぶ、この慣習がどうも納得がいかなかった。そして今回の講義を受けて、ナミねえがそういった方々のことを「Challenged」と呼んでいることとその由来を知り、僕も何らかの形でナミねえの手助けをしたい、と思った。

竹中先生の言葉は強く、優しく私の心に響いた。また私自身の「弱者」と呼ばれる人への概念に変化があった。以前から私は社会の「弱者」に対する「過保護」に疑問を感じていた。一方ではその「過保護」を疑問もなく享受する側の人もおり、人権などの観点からも私の疑問の解決は難しいのかと感じていた。「過保護」といっても、私たち日本の社会が作り上げた古臭い概念なのだが。ただそうではなく、「自立」を目指している人も沢山いるのだということを知り救われた気持ちになった。これから私たちは、教育の中での考え方にしても、社会にはびこる既成概念にしても、人々の心に横たわる「弱者」の考え方を打ち崩していかなければならないと思う。

今回の講義でchallengedの方々への見方が完全に変わった。以前は街中で体の不自由な人々を見るたびに「可哀そうだな・・・」という印象しか受けなかった。しかし、今回の講義を聞き、彼らにも生かすことのできる能力が多々あるのを気づかされた。一つ疑問であったのは、当のchallengedの方々は自分自身が社会の中での弱者だと思っているのかということだ。もしそう思っているなら、私はあなたにもできることがあるのだと素直に言いたいと思う。

僕の中学時代、耳が難聴の子がいた。たった一人、健常者の中で。彼を、僕の中学ではいじめているやつがたくさんいた。僕は、止められなかったことを、ずっと後悔していた。だからこそ、手をあげてなみねえに聞いてみた。まだまだ、学校がチャレンジドの受け入れが出来てないという現状を聞いた。一概にすべてを社会や制度の責任にしてはいけないかもしれないが(だからこそ変える必要がある)、少し、過去の後悔が和らいだと思う。

自分が今までどんなに傲慢な視線で障害を持った方を見ていたかがよくわかりました。障害を持ちながらも、自分の誇れる技術を持とうと努力し、それを成し得た方は自分よりはるかに優れた方だと思います。全盲の方が「目の見える人は不便」とおっしゃったことにそのすべてが集約されてると思います。とてもいい勉強になりました。

ナミねぇの話を聞き、チャレンジドの限りない可能性を、少し前まで潰してしまっていたと考えるととても惜しいことだったと思う。こういう思想に関して日本は後進国であること。社会の風潮というものがいかに強力な力を持っているのかということを学んだ。話を聞いて、チャレンジドに対して弱者という印象を持つ人はいなくなったと思う。チャレンジドが税金を払えるような社会になるには、社会全体を変えなければいけないが、それには一人ひとりが考えを変える必要があると思う。

弱者とはどんな人のことかという質問が1番始めに問われましたが私はどこかに怪我や障がいを持っている人だけだと考えていました。しかし私達は1人では生きていけないということを改めて思い出しました。モノを買うにしても、どこかに行くにしても数多くの人々が関わった結果が私達の生活を作っているこのことを忘れてはいけないことを学びました。またチャレンジドの方も働きたいと思えるような企業を今後増えていけばもっと過ごしやすい社会が作れると思いました。

「弱者」という言葉の意味の捉え方が講義を聞いて変わりました。今までChallengedの方たちと身近に関わったこともなく、出会ったこともありませんでしたが、社会全体が五体満足に生活している人たちとそうでない人たちを意図的に区別し、隔離しているから出会うことが無いのだなと痛感しました。今まで全く問題視したことも無かった分野だったので、もう少し自分で勉強して考えてみたいと思いました。

ナミさんのお話は前もって著書などを拝見していたにも関わらず、新しいものを多くまなべた。そのなかでも、子どもさんが知的障害があるパティシエさんのお話はすごく感じるものがあった。自分の子どもが実際に障がいを持っている場合、本当に価値観や生き方はがらっと変わるものになる。一見、縛り付けられるようにも見れるが、ナミさんや話にあったパティシエさんのように、逆に自分になかった世界が子どもを通して見れるようになり、社会に必要だがまだ存在していない新しいものの開拓者ともなれる。人生は何がよくて何が悪いなんて決められないしどれに価値があるかなんてわからない。だからこそどうせなら自分に与えられたチャンスや試練を嘆くのではなくすべて自分のものにし、それをどんな形であれ社会に貢献できたら最高だと、今日のお話を聞いて思った。

なみねえの話は心にダイレクトに響いてきて、涙がなぜかはわかなかったけれどずっと流れた。田坂先生のときと同様に、深く心に伝わってきた。私の場合、障害者に関して思うことうや、学んだことももちろんあったが、今回講義をきいていつも思っていたことをさらに深く感じた。それは、健常者であり、自分の心持ち次第で何事でもできるはずの私の周りの人たちを見回してみて、心が健康である人が非常に少ないということだ。日本という恵まれた国に住み、健常者に生まれてきて、それだけですら感謝すべきことなのに、そのことに気づいていない人は多い。欝だなんだと皆自分が幸せだと思っている人が少ないことが私は非常に気になる。幸せは自分で掴み取るものだ。皆に幸せだと思えるようになってほしい。

私自身は本日の講座を聞くことにより障害者の未知の世界に対する意識が深まってきたと思います。竹中氏が目指しているユニバーサルな世の中を実現させるための第一一歩としてまずは人々の偏見を直さざるを得ません。実は、竹中氏の話を聴く以前に私も障害者に対して偏見を持っていたが今は全く違います。人々の目を覚めさせる力は竹中氏の天から恵まれた鬼才である。プロップステーションのこれからの成長を興味津々で見ています。

私もナミねぇの著書を読むまでハンディキャップのある人を社会的な「弱者」と考えていて、彼らは助けないといけないとばかり考えていました。彼らの「自立」ということを考えていなかったように思います。チャレンジドを納税者にし、安心して生きていくことのできる社会を作るために必要なことは、法的な整備はもちろんのこと、私たちの意識改革であることを講義を聞いて実感しました。彼らが当然のように社会参加ができるようになったとき、日本は本当の福祉国家といえるのではないかと感じました。

「障害者をかわいそうと思うかライバルと思うか」という言葉が印象に残っています。「障害者を差別しない」というある意味どこにでも溢れている標語のようなものを、究極的に掘り下げていって意味を持たせていくとこうなるのだなと思いました。障害者も平等に考えるというのは、単に障害者が普通に暮らせる社会を作ってあげる(この作ってあげるという言葉が不平等をあらわしているのですが)というのではなく、障害者をそうした世界つくりをともにやってもらうパートナーまたはライバルと考えることをさしているのだと思います。

今回はナミねぇから生きていくうえでの大切なことを教えてもらったと思う。なみねぇは誰でも陥ってしまう、challenged に対する偏見や、「かわいそう」という言葉が対等な関係でなくすという状態に改めて気づかせてくれた。これは普段私たちが社会的弱者が本当に、社会的弱者であるのか、何人も誰かの助けなしには生きられないという当たり前でが、誤解しやすいといことに悔い改めないといけないと感じた。これは何もchallengedだけに当てはまるのだけでなく、アフリカ、アジアなどの発展途上国の貧困層に対する私たち日本の価値観にも当てはまると感じた。ただ、ODAをばら撒くのではなく、本当に偏見を超えた日本人としての支援の仕方を考えないといけないと感じた。

「弱者」とは、どのような人を指すのかという問題を今まで深く考えたことがありませんでした。漠然と、失明した人や車椅子を利用する人などを思い浮かべていましたが今回の講義を通して、それが間違いであることが分かりました。健常者といわれる人でも、遠い距離をわざわざ歩く人はいないし、ご飯を稲から作って食べようと思う人もあまりいない。電車を利用したり、買い物をする。つまり、皆必ず何かに依存して生活している。この認識が、弱者を考える上で大切な点であると思った。弱者と健常者は社会的にはまるで別の人種かのように扱っている。学校でさえ別々にする。この誤った認識を変えるには弱者を「かわいそう」と思う意識を変えることが必要である。なぜならば、「かわいそう」と思った瞬間に「弱者」という自分とは違う世界の存在として認識してしまうばかりでなく、「不自由だろうから助けてあげなければいけない」と考えてしまう。そのせいで弱者と呼ばれる人たちは、自分たちの生きていく上での可能性を潰され、結果的に不幸な思いをするのである。

チャレンジド達の中に「働きたい。世の中の役に立ちたい。」と思っている人達がいるということは、よく考えればごく自然なことなはずなのに、そういう人達がいると聞いたときに衝撃を受けてしまった自分がいた。結局自分も同じ人間としてきちんとチャレンジドを見ていなかったんだと思う。とても恥ずかしい。彼らに働くチャンスを十分に与えない社会はナミねぇの言うとおり、おかしいと思う。私のように早稲田に入っても無知な人間が大勢いるから、チャレンジドの人権が真剣に考えられていない社会があるのだと思う。自分だっていつ事故に合うかわからない。そうなったとき、本当に住みやすい社会だと言えるのか。自分がその立場に立ってからしか真剣に考えられないというのは本当に愚かなことだと思い知った。自分にできることを考えていきたい。

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