ナミねぇの講演を聴いて下さった大隈熟生のみなさんの感想文 その3

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弱者という言葉がある以上、人と人との間に生まれる差というものがきえることはない。多くの人が弱者を哀れみ、同情することが人として思いやりと考えているがそれこそが、弱者という言葉を存在させる理由にもなると感じた。「弱者に福祉をしてあげる国」から、「弱者を一人でも弱者でなくして行くプロセスを福祉と呼ぶ国」にしたい、というナミねえの言葉にはネガティブな印象はまったくなく、視線は前にあり明るい気持ちにさえなった。弱者、強者、障害者、健全者などという言葉がなく本当に一人ひとりが平等な社会になるために、ハンディキャップを短所と思わずにそこから何かを学び、何かに活かすていくというスタンスが必要だと感じた。

竹中先生は、「障害のあるチャレンジドたちのことをかわいそうだと思ったり、弱者だと思った時点で、その相手との対等な関係は生じない」とおっしゃっていましたが本当にその通りだと思います。自分もそういったチャレンジド達と小中学校時代に触れ合っていましたが、やはり彼らと自分との関係を対等なものだとは思っていなかったのかもしれません。当時の自分としては彼らに手を差し伸べ、級友達以上に彼らに対して心配りをしていたつもりだし、彼らの両親にもしばしば感謝をされていました。しかし、彼らのことをかわいそうだと思っていたことにはかわりありません。今後は、竹中先生の講義を胸に、彼らとの対等な関係を築いていきたいと思います。

親としての、母としての我が子に対する愛がナミねぇさんを突き動かしているのだということを知り、私は非常に感銘を受けました。「死ぬまでに、自分の子供が笑って暮らせるような世の中を作りたい」というナミねぇさんの言葉は、脳裏に焼きついて離れません。チャレンジドという呼称が広く世の中に知れ渡り、労働に対する意欲のある者に働くチャンスが与えられるようなより良い社会作りに、私も身近なところから加わって行きたいと思います。

今回ナミねぇと出会って自分でも気付かなかった色眼鏡が外れたような気がします。可哀想と思った時既に対等ではないのはその通りだと思います。実際にマイクロソフトやイラストレーターとして働いている人々を見ると心が動きました。今まで何で一方的に可哀想と思っていたのか不思議に思います。ナミねぇを始め、皆さんの熱意を感じて、女性の時のようにChallengedの人々と普通に働ける社会は築けると思いました。今そう思えるのも僕にとっては大きな進歩です。ありがとうございました。

娘さんが30年かけて100m歩けるようになったというお話、そして『人はそれぞれのスピードで生きている』というナミさんの実感のこもった言葉が印象的でした。納税者となることで誇りを持つという取り組み、素晴らしいと思います。人間の尊厳にきっと必要とされる、自分の手で自分の人生を切り開くという誇り。障害者と呼ばれる人だけでなく、多くの苦しんでいる人たちに、一人でも広がっていくような社会を目指したいです。

チャレンジドの方々がお仕事をされている写真を見ているとき、涙が出そうになりました。「チャレンンジドを納税者にする」と聞いて、なぜそんなに可哀想なことをするのだろうと思ってしまった自分が一番、彼らと自分とを「対等な立場」として捉えてなかったのだと気付き、とても恥ずかしく思いました。チャレンジドの方々と共に学び、働き、生きることが当たり前の社会の実現に向けて、問題意識を持ち、私の周りの人にPROP STATIONの活動のことを広めていこうと思いました。

人の先入観の恐ろしさを痛感し、計り知れない人間の力の大きさに感動させられました。チャレンジド、私はこの言葉を初めて目にした際、「障害者」と呼び、無意識にも、人に「害」の字をあてて呼んでいた、否定的な自分を大変恥ずかしく思いました。それと共に「挑戦する使命を与えられた人」とあてる読み方に大変前向きで、快い気持ちを抱きました。「人はあるべき方へと道が開ける」私の母はよく言います。盲目な祖父の近くで育ったことは、私にとって、何か使命があり、意味あることだったのだろう。竹中さんのお話を伺い、自分の身と身の回りを見つめなおす機会をもつことができました。ありがとうございました。

ナミねぇはとても素敵なひとでした。もっともっとナミねぇのお話を聞いていたかったです。ナミねぇが自分の娘さんを「私を変えてくれたから誇りに思う」と言ったときに、泣いてしまいそうでした。プロップ・ステーションの活動は素晴らしすぎて、本当のことなのに夢のようだと思ってしまいました。プロップが日本でもっと知られるようになるといいなぁと心から思いました。私も機会があれば、プロップに参加したいと思いました。

ナミねえ菌に完全に感染しました。授業以前の障害を持つ人への視野の狭さが、今考えると笑えてしまうほど稚拙なものでした。言葉が考え方を構築するという話にもあるように、障害者という言葉は、それだけで可能性を消し去っているように思えます。チャレンジドという言葉からは未来に向けた可能性の広がりさえ、感じます。全員がいずれ障害を持つという当然のことに気がつかされたことだけで、感染の甲斐がありました。

「弱者」とはなにか?ナミねぇのお話はとても大きなインパクトを私に与えてくれました。今まで私は身体障害者などを見ても「大変だなぁ」程度しか思わず、自分がこの人たちとは関係がないと思っていました。しかし、こういった考えを持っている私たちが、彼らを弱者として社会に作り上げてしまっていたということを今回のナミねぇのお話を伺って気づかされました。

日本人のchallengedに対する視線については、私も以前から気になっていました。なんでもっと対等に見ることができないんだろう。なぜ、challengedだということを過剰に意識してしまうのだろう。しかし、今回具体的にchallengedの方でも十分に仕事ができるどころか、そのレベルが想像を遥かに超えていることを知り、正直私もまだまだ対等に見れていなかったのだということに気づきました。

私がナミねぇを見て思った印象は、まずあったかい人やなぁということです。まきさんの話をするときはほんとにいとおしそうに話してらしてなんだかそんなナミねぇと、あったこともないまきさんがかわいらしく感じられました。ユニバーサル基本法に対して、詳しく知りもせずに悪く言う人もいます。政府は表向き、「みんなが平等な社会へ」と言っているが、同じ立場で働かそうとしているだけだ。というものです。そういうことを言う人は、基本的に政府は私たちのためでなく自分の利益第一に動いているのだから、私たちは安穏とお気楽に暮らすのではなくもっと戦っていくべきだという姿勢を政府に対して持った人が多いと思います。そういうような見方をすると今回の新しく施行されようとしている法律に関しても穿った見方をするのだと思いますが、私が感じたことは、そうやって何に対しても文句ばかりいっている人たちは実際チャレンジドの人たちに何をしているのか。ということです。何もやっていないでそういった面にばかり注目して足をひっぱるのではなく、物事の本質を見てほしいと思いました。けれども私自身もナミねぇのことを知らなかったら、「政府はいかん。」と基本的に考えてしまう風潮にながされていたたちの一人でしたので、そのように批判されると、その言葉を鵜呑みにしていたかもしれません。そう考えるとナミねぇのことを知ったことはとても大きな発見だったと思います。

ナミねぇのお話を聞いて、チャレンジド=弱者という認識を改めました。20年間この認識で生きてきたのが恥ずかしいです。以前大学で、坂を辛そうにあがる車椅子の方を見て、我慢ならず自分が人見知りであることを忘れ、助けに駆け寄ったことがあります。そういった日常のある側面では手助けが必要なのかもしれませんが、彼らの活躍の場はあり、彼らがまわりに適応できるように、あるいは周りを変えることが、大切なのだと思います。

私が小学校に入学した時に生まれつき障害を持った子に出会いました。その子と比較的対等に接していたため、小学1年生から6年生まで同じクラスでした。しかし、当時の心境は、その子のことが、どこか不自由でかわいそうという感情が、強かったように感じます。だから今日のナミねえの話を聞いて、私の考えが間違っていたことに気づかされました。その子は、高校生のときに亡くなってしまいましたが、常に弱音を吐かず、何事にもチャレンジしていました。だからこそ、そういった人たちのことを、かわいそうと思うのではなく、対等な立場にたって、よりチャレンジしやすい環境を作っていくべきであると思いました。

本日、ナミねぇのお話を聞きながら、私の幼少期から小学生時代のころを思い出していました。小学校にチャレンジドの子供たちの学級がありましたが、まだその友達に関する認識(と言って言いの川わかりませんが…)がない中で、先生などの大人から「彼らの話題にはあまり触れてはダメだ」「彼らはかわいそうなんだ」というイメージが、いろいろな言動によって、無意識的に刷り込まれていたのではないかということを思い出しました。そういう認識の仕方、させ方は、現代もはや過去のものとなりつつあるのではないかと思います。紹介されていた、マイクロソフトで働いていらっしゃる方のように、彼らには、私たちでは持ち得ない感性や技術など、チャレンジドという事実を前向きに捉え、プラス発想することで、武器となるものを持つことができる。そういう新しい視点を社会に与えることで、彼らも社会の中に確固たる役割を確立できる、そんな社会が当たり前にならなければ、日本は今以上の発展はできないのだと思いました。もし、自分が子供を持ち、チャレンジドの子供たちについて説明する機会があれば、私は「彼らは君が当たり前にできることができないかもしれないが、彼らには君にできないこともたくさん持っている。彼らから学ぶといいよ」という教え方をしたいです。

昨日は、すばらしい講演をしていただきありがとうございました。恥ずかしながら、今回は竹中さんの事前情報をほとんど知ることなく講演を聞かせていただきました。ただ、講義を通して、自分の価値観を見つめなおさせられたというか、非常にいろいろな事を考えさせられました。私は中学校の授業の一環で養護学校に行ったことがりましたが、哀れみや同情を持ってしか子供たちと接することができない自分に、強い疑問というか、はがゆさ、わだかまりのようなものを感じたことを覚えています。本日、竹中さんの講演を聞き、また実際に活動をなさっている竹中さんのバイタリティを感じることで、自分の中のわだかまりに対するひとつのヒントが得られたような気がします。ありがとうございました。

障害者を見ると自分とは違う人と見てしまう。この問題を解決するためにはやはり環境を変えなければならないと思う。その見方が間違えであると気がつく必要がある。その意味で今日の講義は非常に有意義だった。

ハンディは障害。受身で大人しくしていれば良いという社会通念が、福祉に一種独特の暗い雰囲気を作っている。だからこそナミねぇの明るさに福祉の未来の光が見える。ハンディに限らず、貧困、境遇等、壁を乗り越え生きる事を諦めない人々の姿を私は神々しく感じる。彼らは人が、社会がより良くなるようにと与えられた天からのギフトだ。そんな主役を隠してどうする。憐みでなく、チャレンジドの存在そのものの尊厳を受け止めたい。

以前から、障害を持った方々が仕事をする能力を持っているということは認識していました。しかし、今回ナミネエの話を聞いて、「ここまでできるんだ!」と正直感動してしまいました。普段、私たちが当たり前にしていることが困難な代わりに彼ら、彼女たちは私たちにはできない何かを持っているのではないかと感じました。そして、社会で活躍するChallengedの方々に負けないように自分も頑張ろうと思えました。

私は今まで、障害を持つ方は保護されるべき存在であると考えていました。しかし、それはなんと偏った、浅い考えであったのだろうということに気付かされました。チャレンジドという概念は今までこの日本になかったので、まずは名前の認知を広めることで、意識改革に繋げることから始めないと、と思います。そして納税を目指すチャレンジド「を保護」ではなく、「に協力」していく社会つくりを始めねばならないと考えます。今日、そのことに触れることが出来た私には、やらねばならない使命が与えられたな、と感じました。

弱者と呼んだ時点で対等な関係は作れない、という言葉など考えさせられる内容の授業でした。竹中さんの想いが伝わり、緊張感をもって授業を聞くことができ非常に良かったです。私の身の回りにいる、障害を持った方々などとも私は対等に関われるように意識したいとおもいます。

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