Wounded warrior embraces new normal, new employment

ある退役軍人が受け入れた「新しい"普通"の暮らしと仕事」

〜イラクからの帰還兵、ジェフの体験〜

2012年5月14日

プロップ・ステーションのカウンターパートであるCAP (Computer/Electronic Accommodations Program)から送られてきた新しい情報をご紹介します。

イラクから重度の障害を負って帰還したある退役軍人の、負傷したその日から国防総省で就労するまでの彼の長い道のりを綴った体験談です。

同時に、障害者となった退役軍人の就労を支援する国防総省内にある機関の取り組みや障害者雇用に対する見解も紹介されています。お読みいただければ嬉しいです!

<by ナミねぇ>

 

ある退役軍人が受け入れた「新しい"普通"の暮らしと仕事」
〜イラクからの帰還兵、ジェフの体験〜

訳文:池田尚子(プロップ神戸)

Part 1 家族の生活が変わった日 (妻、クリスティのブログより)

夫のジェフが負傷する前は、私たちは、軍人の夫を持つ家族として、まったく普通の暮らしをしていたと思う。夫は家を空けることが多く、軍務で学校その他いろいろな場所と家を往復していた。夫が留守の間、私と子どもたちは普段どおりの生活をし、夫がいない状況の中でベストを尽くしていた。夫かいないことを不安に思わなかったわけでないが、そういった中で自分たちの暮らしに精一杯対応してきた。夫が軍務で家を空けているからといって、生活が止まっているわけではないから。

2005年7月7日、この「普通の暮らし」が一変した。ロンドン同時爆破テロが起こった日として、この日を覚えておられる方も多いと思う。私が国防総省から夫が重傷を負い、特に顔面と右手に手を付けられないほどの外傷を負ったという知らせを受けた時、夫は4度目の前線勤務でイラクに駐留していた。その時点では詳しいことは分からず、情報が入り次第連絡すると言われただけだった。

この電話を受けた時、私は当時8歳と2歳の娘を連れてインディアナ州に住む両親を訪ねていた。小さな子ども二人を座らせ、父親が戦争で大怪我をしたと伝えねばならなかった。戦争の事など、子どもたちには理解できるはずもない。そんなわけで、その後の12時間、家族が周りに集まり、夫の状態についての詳しい情報を待ちながらずっと座っていた。ようやく電話があり、夫はドイツへ搬送されている途中だと知らされた。診断後、医師から連絡を受けることになった。

翌日、医師から電話があった。電話で話している間、夫の怪我のこと全てをメモに取るように言われた。その怪我の深刻さを私が理解しているかを確認するためだ。また、夫がワシントンD.C.にあるウォルター・リード軍人医療センターに転院することも教えてもらった。2日後、子どもたちを両親にあずけ、ウォルター・リードにいる夫のもとへ行く準備をしている時、夫の状態について新しい報告を受けた。

2005年7月11日の夕方、私はウォルター・リード軍人医療センターに到着した。あたりを見回すと、手や足を切断している人、包帯だらけの人、車椅子の人、杖をついている人を見かけた。そしてこれが、自分にとっての「新しい普通のこと」になるのだと思い知らされた。私はまっすぐ外科集中治療室へ向かった。看護師から夫のいる病室の外で待つように言われた。看護師は、夫の怪我の深刻さを分かっているか、これから目にするものに対して覚悟ができているかどうかを私に確認した。予期していたにも関らず、病室に入り、夫を見た時はショックだった。夫は鼻も唇もなく、血まみれで包帯だらけになり、人工呼吸器をつけられてベッドの上に横たわっていた。その後3時間にわたって、看護師から、夫の状態から予測されるあらゆる事柄について大まかな説明を受けた。

それから1ヶ月間、朝早くから夫の病室に行き、夜まで付き添い、ホテルへ戻るといった生活だった。毎日ベッドの横に座り、きちんととケアされているかを確かめるといった、同じことの繰り返しだった。夫のケアのエキスパートになり、IVチューブの交換や包帯の取替えをするようになった。

夫が重傷を負って1ヶ月後、医師は、夫を医療行為によって陥っている昏睡状態から覚醒させ始めた。覚醒すると暴れ、病室にいる人誰彼構わず暴力を振るおうとする可能性があるため、最初は苦心した。だが、夫はゆっくり昏睡状態から覚醒し、意識を取り戻していった。

目を覚ました時の夫の混乱を想像できるだろう。夫は何も見えず、話せず、歩けない状態でベッドに縛られていた。夫が理路整然としてきた時、彼の身に何が起こったのかを説明しなければならなかった。足から始めて、負傷した箇所をゆっくり、懸命に説明した。大変だったのは、説明の度に夫は眠ってしまい、目を覚ますと自分の身に起こったことを忘れ、何度も繰り返し同じことを説明しなければならないことだった。夫の意識がはっきりするまで、この状態が2,3日続いた。夫は重傷を負ってから最初の7週間をこの病院で過ごし、その後5年半、およそ40回にわたる鼻、唇、歯、腕の再建手術に耐えた。

今になっても、あの時のことを思うと打ちのめされそうになる。この話をすると、今でも泣いてしまう。夫が負傷したことが、どれだけ私たち家族の生活を変えてしまったか、どれだけ子どもたちに影響を与えてしまったかを考える。現に、下の子は負傷する前の父親の記憶がないし、上の子もまた、負傷前の父親に対する記憶は薄れている。夫の怪我は娘たちの幼少時代を支配してしまっている。軍人の子供たちが、自分たちの生活を国に貢献し始めているということや、そういった子供たちが払う犠牲がどんなものか、私たち家族はじかに知っているのだと時折考える。

このような出来事があったにも関らず、私たち家族は幸運に恵まれている。今やまったく普通の暮らしに向かって歩んでいる。夫は2つ目の修士号に向けて大学院で勉学に励み、毎日仕事に行っている。一方、私は家事をし、車で夫や子どもたちの送り迎えをしている。

重傷を負い、視力のほとんどを失ったが、夫は乗り越えた。こんな幸運に恵まれている家族は他にいない。

 

Part 2 重傷を負っての帰還、そして国防総省で就労するまでの道のり

4回もの前線勤務を含め、ジェフリー・ミッツマンは陸軍に22年いた。彼は陸軍にいた中で、悪い日はたったの1日だけだったというのが好きだ。

その「悪い日」が2005年7月7日だった。

8人の勧告チ−ムのひとりとしてイラクに配備され、ジェフと5人のチームメンバーがイラク側の同胞と会うために移動していた。その日は、ジェフが装甲ハンヴィーを運転する日だった。道端に仕掛けられた爆弾が爆発し、その爆風が運転席側の窓を突き抜け、ジェフは最悪の事態に見舞われた。爆風はハンヴィーの側面に穴を開けるほど強いもので、その穴の大きさは男性の握りこぶしほどだった。ジェフの鼻、唇、歯はちぎり取られ、片目の周辺視力だけが残っていた。右腕と手のひらは回復が不可能な程の損傷を受けていた。

「あの日から1ヵ月後、ウォルター・リードで、妻が自分に話しかける声で目が覚めた。」

ジェフは退院しインディアナポリスにある自宅に戻るまでの2ヶ月半を、ウォルター・リード軍人医療センターで過ごした。しかしながら、損傷箇所の再建手術は40回にも及び、回復に5年半かかった。その歳月は軍人としてのキャリアの長さの4分の1に相当した。

陸軍での軍人生活が終わったことに、あまり疑問も持たなかった。「目も見えず、銃の引き金も引けない奴はいらないからね。」と皮肉を言った。かといって、何もしないでいるというのもジェフの選択肢にはなかった。

娘が2人いるジェフは言う。「自分には家族を養う責任がある。じっとしているわけにはいかなかった。」 

そんなわけでジェフは働きに出た。身体の回復期間中、軍人から一般市民へという移行期に修士号を取り、さらに別の分野の修士号取得に向けて勉強し始めた。また講演会や連邦議会で自分の経験を語り、人と共有し始めた。とある講演会でジェフの体験談を聞いたNational Industries for the Blind が彼に仕事をオファーした。今年の1月、ジェフはDefense Finance and Accounting Services (DFAS)(※1) のcorporate communications departmentという部署で新しいポジションについた。 

 (※1) 国防総省内にある機関

ジェフは自分が回復したのは、神からの恵み、爆風を受けた直後の時点で、彼の体を安定させた軍医の技術をはじめ軍人への高度な医療、妻のクリスティと、現在 14歳と9歳になる娘たち、そして最後に社会との繋がりのおかげだと思っている。

「そういった社会との繋がりがなかったら成功しなかったチャンスをたくさんもらった。」

しかし、それは負傷し障害を負った退役軍人にとって、一般市民生活や地域社会に戻り、民間の仕事をすることは相当大変なことではないと言っているわけではない。雇用市場において、「誤解」というものが最大の壁になることもある。

「みんな思うんだよ。障害者にこんな仕事は絶対出来ないってね。でも自分の仕事を例えると、俺は仕事をするのに特別なソフトがいる。たったそれだけのことだよ。たとえアンタが俺と電話で話している、あるいはEメールでコミュニケーションしていても、俺が障害者だってことすら分からないよ。」  

障害者となった退役軍人の多くが不機嫌で、情緒不安定で、危険人物だという社会的汚名にも直面していると、彼は言う。

「俺みたいな奴らが職を探す際、こういった誤解が本当にバリアーになる。民間の仕事に戻る時、奴らが持っているリーダーシップスキルを仕事に活かせない理由なんてそういった社会的偏見以外他にないと、マジで思う。」

ジェフは自身の体験から、ユーモアや前向きな気持ちは、こういった誤解と闘うのに役立つと、また退役軍人は率先して世の中に出て行き、人々にそういった認識は間違っていると証明すべきである、と語った。

「暗い部屋の中で丸くなって、隅っこで座ってばかりで外へ出て行かないって非常に楽かもしれない。だけど、外へ出て行くべきだ。俺みたいな退役軍人は外へ出て、体の回復の積極的管理をする責任があると思う。」

企業側もまた、障害者となった退役軍人が就くポジションを考える際は、偏見の無い広い心を持つべきだ。退役軍人はそのリーダーシップスキルや誠実さというものを仕事に活かすことができるからと、彼は言う。

「家族から離れ、米軍組織のために世界中いたるところに配備された人間がここにいる。企業側が、退役軍人は任務を成し遂げるために残業しない、休日出勤しないと考えるのはどういうことなのか?」

ジェフは再度、退役軍人はコミュニティーの中へ入り、進んで自分を売り込んでいく必要があると力説している。自分のことより、軍隊のことを優先した軍人生活を送ってきた者には大変なことだと認めている。だが、こうすることが一般市民生活を送る上で成功のカギであるとも主張している。 

「ただ単に"俺は退役軍人だ。雇ってくれ。"って言えばいいってもんじゃない。そんな風にうまくはいかない。だけど自分から進んで闘い続けていくなら、常に結果は出てくる。軍隊で経験した色々なことと同じようなものさ。」

 

Part 3 国防総省内機関、DFASの障害を負った退役軍人への求人開拓

今年1月、ジェフはDefense Finance and Accounting Services (DFAS) の"Hire a Hero Program"という採用プログラムを通して雇用された。このプログラムは退役軍人の求人に力を入れている特殊チームによって管理されており、採用プロセスの迅速な処理や適切な支援技術調整が確実に受けられる。

「ジェフのような退役軍人は、我々が職員に求めているリーダーシップ性、チームワーク力、任務に対する尽力といったスキルを持ち込んでくる。」とDFASの組織経営管理室のスペシャリスト、ジェームス・チャールソン氏は言う。「DFASと退役軍人の双方にメリットのある状況といえる。」

この採用プログラムの特殊チームは、DFASの12以上の部局、インディアナポリス、オハイオ州コロンバス、クリーブランド、ニューヨーク州ローム、メイン州ライムスト−ン、ヨーロッパ、そして日本の7ヵ所にあるDFAS の「擁護者」と緊密に協力し合い、また国防総省、各軍隊、非営利団体とのパートナーシップを維持している。DFASは一般市民生活へと移行していく軍人にとって、「選択の雇用者」となるよう尽力している。

チャールソン氏はまた、「このチームは、退役軍人の採用に全力を尽くしている。彼らには職探しをする上でバリアーとなるものがあることを我々は熟知している。USA Jobs(※2) 以上のことをやり、退役軍人の雇用支援や促進のために、我々の求人活動を特殊なものにしている。」と述べている。

 (※2) アメリカ政府の公式就労プログラム。連邦政府の求人、雇用情報を提供している。

DFASは、求人を公開、あるいは広告として出すことも、雇用証明発行の過程を通過する必要もなく、障害者となった退役軍人を雇用することができるふたつの連邦政府の非競争の雇用権限を利用している。ひとつは'Schedule A'で、これは障害者雇用に使用される直接雇用権限である(退役軍人だけに限られず、一般の障害者雇用にも通用する)。 もう一方は'The 30 Percent or More Disabled Veteran authority'というもので、これは見事に使命を果たし、軍務で30%以上の障害を負ったことにより兵役から退いた退役軍人を雇用するのに使用される権限である。

「彼らは、我々米国民のために犠牲となった。我々が出来ることといったら、せめて職探しを支援し、退役軍人の失業率を下げるために自分たちの役割を果たすことくらいだ。」

DFASの雇用均等機会局は、障害のある職員に支援技術調整を提供するにあたり、CAP(※3) とも連携している。例えば、負傷により、手指の運動機能障害、失明、聴力障害、認知障害を負ってしまった軍人は、リソースや支援装置の確保のために、CAPからの支援技術調整が受けられる。

 (※3) CAPは国に貢献した退役軍人のみならず、連邦政府機関で働く一般の障害者にも支援技術調整、及び提供を行っている。

「退役軍人の求人だけにとどまるわけにはいかない。彼らの仕事が順調に進み、また楽しく働くために、支援技術調整がなされているかを確認している。」

今年2月、DFASの求人開拓の取り組みで、ジェフとチャールソン氏はバージニア州で行われたで「退役軍人雇用会議」に出席し、雇用ネットワークイベントに参加した。

「ジェフは新たな人材としてチームに貢献している。職員として、人としても優れた人物だ。ジェフの採用がDFASにとって正しい方向への一歩である。彼のような人間は、その経歴や実力でどこへ行ってもポジティブな影響を与えるだろう。」

 

原文リンク

Wounded warrior embraces new normal, new employment - Part One
(訳はご家族で写っている写真の右隣の文から)

Wounded warrior embraces new normal, new employment - Part Two
(訳はふたつ目のパラグラフから)

Wounded warrior embraces new normal, new employment - Part Three
(訳はご本人の写真の右隣の文から)

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