致知2月号 平成31年1月1日発行より転載

特集 気韻生動

対談 使命感が運命を切り拓く

ナミねぇ&高橋雅代さん対談

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特集 気韻生動
対談
使命感が運命を切り拓く

コンピュータなど最新の科学技術を活用した障がい者就労支援に二十年以上にわたって奮闘してきたプロップ・ステーション理事長の竹中ナミ氏。現役の眼科医としで目の悩みを抱える人々に向き合うとともに、@PS細胞を網膜に移植する手術を世界で初めて実現し再生医療をリードする高橋政代氏。世の中の医学や福祉の常識に挑み、道なき道を切り拓いできたお二人が語り合う、その気韻生動の人生、そして幸せな社会を実現するヒントー。

高橋政代
国立研究開発法人
理化学研究所網膜再生医療
研究開発プロジェクト
プロジェクトリーダー/眼科医
たかはし・まさよ―昭和36年大阪府生まれ。京都大学学医学部卒業、京都大学医学部付属病院での勤務を経て、平成7年アメリカ・ソーク研究所に留学。帰国後、眼科医として患者と向き合いながら、京都人学医学部付属病院探索医療センター助教授、独立行政法人理化学研究所と所属を替え、最先端医療の研究に取り組む。

竹中ナミ
社会福祉法人
プロップーステーション理事長
たけなか・なみ―昭和23年兵庫県生まれ。神戸市立本山中学校卒業。24歳の時に重症心身障がい児の長女を授かったことで、障がい児医療・福祉などを独学。障がい者施設での介護などのボランティア活動を経て、平成3年就労支援活動「プロップ・ステーション」を創設。障がい者のパソコンの技術指導、在宅ワークなどのコーディネートを行う。11年エイボン女性年度教育賞、14年総務大臣賞受賞。著書に『ラッキーウーマン』(飛鳥新社)などがある。

思いと志を
同じくする二人

高橋 きょうは対談ということですが、いつものように「ナミねぇ」と呼ばせていただきます(笑)。

竹中 急に「竹中さん」って呼ばれてもね(笑)。私も「政代さん」でやらせてもらいます。
私たちが初めて出逢ったのは確か二〇一六年、神戸市立医療センター中央市民病院の倫理委員会でしたよね。政代さんが@PS細胞を使った網膜の再生医療について発表しに来られて。

高橋 ええ、そうでした。

竹中 その時、政代さんはいかにも研究者という感じで発表をされていたから、「ちょっと飲みに行きませんか?」とか言ってはいけない人なんだと思いました(笑)。

高橋 それはそうです 緊張しますもの、倫理委員会の発表は。

竹中 その次に会ったのは……。

高橋 ナミねぇも知っている、福祉行政の関係の方に、「ぜひ会わせたい人がいるから」と誘われて参加した飲み会の席ですね。その飲み会に行ったら、「あれ、あの髪の毛の人はどこかで会ったことがある。倫理委員会の時だ」と。それで「え、何なの? このかっこいいおばさまは」と驚いた(笑)。

竹中 それ嘘や、絶対(笑)。他の人にもまあ、この髪型だけはよく覚えてもらえるようですけど。
でも、その飲み会の場ですぐにお互い打ち解けたんですよね。
私は二十年ほど前に社会福祉法人プロップ・ステーション」を立ち上げ、コンピュータなど最新の科学技術を活用したチャレンジド(障がい者)の就労支援を続けてきて、政代さんはiPS細胞を使った網膜の再生医療、そして眼科医として視覚障がい者をサポートする取り組みをされてきた。
だから、私には政代さんと友達になりたい、人柄を知りたいという気持ちがすごくあったんです。

高橋 私もナミねぇと実際に話してみてびっくりしました。いまでこそ、ITを活用した障がい者の就労支援は広く知られてきていますが、ナミねぇはそれを何十年も前から考えて実践してきたと。視覚障がい者の治療やサポートに携わる自分も、最終的なゴールとして、ナミねぇと同しようなことをしたいなと思っていたんですね。

※「チャレンジド」とは「障がいを持つ人」を表す新しい米語「the challenged (挑戦という使命や課題、挑戦するチャンスや資格を与えられた人)」を語源とし、障がいをマイナスとのみ捉えるのでなく、障がいを持つゆえに体験する様々な事象を自分自身のため、社会のためポジティブに生かしていこう、という想いを込め、プロップ・ステーションが1995年から提唱している呼称。

竹中 いや、後から詳しく話しますけど、それは私か考えたことではなく、当時からコンピュータを駆使して、何とか働いて自立しようとしていたチャレンジドの方々から教えてもらったんです。実は私はパソコン苦手なんですよ(笑)。

皆の力を合わせれば
新しい社会をつくれる

竹中 ところで、政代さんが取り組んでいるiPS細胞を使った網膜の治療はいまどこまで進んでいるのですか。

高橋 ここ最近の動きでは、二〇一四年に患者さん本人のiPS細胞を使った治療に成功し、いまは他人のIPS細胞を使った治療に取り組んでいます。でも、それで実際の治療への道がすぐ開けるというわけでなく、まず他人のiPS細胞を使った治療で拒絶反応が起こらず、「安全です」ということを示した段階なんです。これからが本当の治療づくりになります。

竹中 これからが本番だと。

高橋 ただ、iPS細胞を使った治療の研究は、いま現場の研究員がそれぞれのところできちんとやってくれていて、実は私はあんまり関わってはいないんですね。
じゃあ何をやっているかというと、神戸アイセンターで社会科学系の仕事に取り組んでいるんです。例えば、開発が進む自動運転車を、どうすれば視覚障がい者の方が特例的、優先的に使えるようになるか、そのためにどんな仕組みやルールをつくったらいいかといった研究を計画しています。
本来、従来の車を運転することができない視覚障がい者こそ、自動運転車の恩恵を一番に受けるべきだという思いがあるんですね。

竹中 本当にその通りですね。最近プロップ・ステーションに仲間入りしてくれた若い子は、全盲で脳性麻痺で、車椅子なんですが、英語が得意でしてね。パソコンや音声装置などをどんどん活用して、私の講演や記事を翻訳する仕事をしてくれているんです。
それで、いま彼と私は、車椅子の自動運転で彼がオフィスの中を自由に動けるようにすることを究極の目標にしているんですよ。

高橋 ああ、自動運転で。

竹中 実際、アメリカでは自動運転の研究がすごく進んでいて、キャリーバッグが自動運転でお客さんを飛行機まで案内する技術が考えられているそうです。それは実際にその研究に取り組んでいるIBMの方の講演で聞きました。
で、私思うのよ。目の見えない人が自動車を発明していたら、絶対に事故の起こらない世の中になっているだろうなって。不安定な目に頼って運転する車をつくったから交通事故はなくならない。

高橋 なるほど。その発想、考え方、私も使わせてもらいます。

竹中 だから、IBMの方と政代さんの研究、それに私たちのようなチャレンジドの支援をやっているチームが加わればもう最強で、全く新しい世の中が作れるんじゃないかと思うんですよ。

自分がやらねば
いったい誰がやる

竹中 政代さんは、もともと医療で患者さんを救いたいというような大きな志があったのですか。

高橋 いえ、私が医学の道に進んだのは特別な目的があったわけではなくて、両親から「戦争になっても医者は食べていける」「これからは、女性も自分で食べていけるようにしなさい」とずっと言われていたからなんですね。
なので、一九八〇年に京都大学医学部に進んでからも、テニスに明け暮れる日々を送り、眼科を専門に選んだのも、「眼科医は夜の呼び出しなども少ないから、家庭と仕事を両立できそうだ」というすごく消極的な理由でした。

竹中 そうだったんですか。

高橋 ええ。当時は、医学を通じて、何か大きな仕事をやりたいとは全然考えていませんでした。
ただ、大学卒業後に結婚した脳神経外科医の夫が、一九九五年にアメリカのソーク研究所に留学することになって。その時、私は眼科医として病院に勤めていたのですが、夫を技術的に手伝えればという感じで、幼い二人の娘を連れて留学についていったんです。
そうしたら、当時のソーク研究所は、脳の再生医療の種、材料になる「神経幹細胞(かんさいぼう)」を世界で二番目に発見したところで、これまでの常識を覆す最先端の再生医療研究に取り組んでいたんですよ。

竹中 最先端の研究に触れられた。

高橋 その時に、私が専門とする目は脳の中枢神経の先端にありますから、それが再生可能なら目の網膜の再生もできるはず。いま治らない目の病気も治療できるのではないかと考えたんです。これは私だけでなく、眼科医なら誰でも考えたことだったと思います。
眼科医の私がたまたまソーク研究所に行って、当時、最先端の脳の再生医療研究に出逢ってしまった。いまこれを知っている眼科医は私だけなのではないか、自分がやらなければ、目の再生医療、治療は五年、十年遅れるかもしれない……。そう思い込んだのが、一連の研究活動の始まりですね。

竹中 一つの使命感やろね。

高橋 はい。眼科医として日々患者さんを診ていたので、「何とか治してあげたいな」という使命感はずっと持っていました。
あと、さっき言ったように、確かに大きな仕事をやりたいとは思っていなかったんですが、「新しいことをやりたいな」とは常に思っていました。それはいま振り返ると、母の影響だと思うんです。
いまも覚えているのが、小学生の時に年末の紅白歌合戦を見ていると、母が「この歌手は自分で歌をつくったんか? それともただ歌っているだけか?」と、毎回聞いてきて、歌を白分でつくった歌手が出たら「この人偉いね」って言うんですよ。それで私は「新しいことをする人は偉いんだ」ということを刷り込まれた(笑)。

竹中 でも、どうして政代さんのお母さんは「つくる人が偉い」と考えるようになったんですか。

高橋 うーん、何でだろう。母は普通の主婦だったんですが、聞くところによると、結構、我儘(わがまま)な人で、昔から「人と同じことは嫌い」という性格だったようです。女学校に通っている時に、一人だけ先生に反抗して、その授業だけは何と言われようと出なかったと。

竹中 ああ、確かにそのお母さんの血は流れているよね(笑)。

高橋 我儘なところにね(笑)。

生きているだけで
いいんや

高橋 ナミねぇは、どんなきっかけで現在の活動に携わるようになったんですか。

竹中 いま母親の話が出ましたけど、私にも同じような体験があって……。私は一九四八年に神戸で生まれたのですが、父は京都帝国大学出身で、戦後は大企業の重役コースを歩み、母は母で熊本の旧家のお嬢様だったんですね。
ところが、その母は旧家の出にも拘らず、父親と長男だけが一段高い席に座って尾頭付きの料理を食べ、その他の家族は質素な生活をする、というような当時の風潮が許せなかったんですって。
子育てでも、私か夜泣きでギャーつと泣くと、起きておっぱいをあげないといけないじゃないですか。それを繰り返すのが堪らなく嫌だったみたいで、日記に「今夜もナミが泣いている。私は起き上がって乳をやっているが、夫はその横で寝ている。ナミ、お前は男に負けない女になるんだよ」みたいなことを書いているんです。

高橋 すごい母親ですね(笑)。

竹中 しかも、父が子供を可愛がらないなら分かりますけど、父は近所でも子煩悩(こぼんのう)で有名だった。
そんな母でしたから、次第に女性解放運動のようなものに嵌(はま)っていって……。重役コースを歩んでいた父も、ある日、労働者が革命歌を歌いながら歩いている姿になぜかシンパシーを感じ、会社の窓から手を振ったことで勤め先をクビになってしまいました。「アカ」だとレッテルを張られたんです。

高橋 解雇されてしまった。

竹中 その時、母はどうしたかというと、「世の中にとって正しいことをしたわ。クビになったことは正しい」と言って、お赤飯を炊いた。以後、我が家はどれだけ貧しい生活をしなければならなかったことか、もう本当に。親戚の家を転々としていた時期もあります。
そうした中で、私はグレて家出を繰り返し、悪い人とも付き合うようになって、「神戸で一番のワル」と言われるようになりました。周りからは「日本の非行少女の走りや!」と言われてました。

高橋 どんなことをしたら、そう言われるんでしょうか(笑)。

竹中 でも、両親からは「うちは貧しい」という言葉を一回も聞いたことがありませんでしたね。
それに、私がたまに家に帰ってきた時も、父は「ナミ、お前が生きているだけでいいんや」と温かく迎えてくれるし、母も「あなたはいつか何者かになるからいいのよ」と怒られなかったんです。

高橋 常に受け入れてくれた。

竹中 だから、友達からはよく「ナミは絶対に実の子じゃない。本当の子だったら親はナミのことを怒る」と言われていました(笑)。

人にはそれぞれ
生きるスピードがある

竹中 十五歳の時にアルバイト先で出逢った人とは即同棲して、高校は除籍。十六歳で結婚して主婦になったんやけど、その後の大きな転機となったのは第二子の出産でした。二十四歳で授かった長女の麻紀が心身に重度の障がいを持って生まれてきたんですね。

高橋 娘さんが障がいを……。

竹中 それで、麻紀を連れて実家に帰ると、「ナミが生きているだけでいいんや」と言っていた子煩悩の父が、「わしがこの孫と一緒に死んでやる!」と叫んだんです。この子を育てれば、ナミが苦労して不幸になるからと言うんです。
これは自分が弱音を吐けば本当に父は麻紀と一緒に死んでしまうかもしれん。何かいい方法はないかなと考えるうちに、ぱっと閃いたのが、「どうすれば麻紀と楽しく過ごせるか。何事も楽しいほうを選んで生きていこう」ということでした。父にも「幸不幸は自分が決める。父ちゃん、死んだらあかん」みたいな話をしました。まあ結局、父は最期まで私の最高の応援団でいてくれましたけどね。

高橋 何事も心の持ち方だと。

竹中 そして麻紀の訓練施設に通う中で、目が見えない、耳が聞こえない、精神に重い障がいがあるなど、あらゆるチャレンジドの方に出逢っていったんですが、もう皆すごいんですよ。想像していたような「可哀そう」とか「気の毒」という感じの人は全然いない。
例えば、目の見えないご夫婦が赤ちゃんをしっかりと育てているんです。自宅を訪ねると「赤ちゃ
んがハイハイーっと綺麗に畳んであるんですね。
だから、私はいろんなチャレンジドに出逢って思うようになったんです。世の中の福祉がチャレンジドを何かやってあげなければいけない、「可哀そう」な存在だと見なすところから出発しているのが、そもそもの間違いなんだなと。もっとチャレンジドができることに目を向けて、どうやったらできるようになるのか考えていこうと。

高橋 本当にその通りですね。

竹中 それから、私は娘を授かって初めて、人はそれぞれ生きるスピードが違うんやということを学びましたね。これは私か娘から学んだ最大のことだと思います。

高橋 生きるスピードが違う。

竹中 人間は生まれて何か月で喋るようになり、何歳でこうなって、ということが常識のように言われていますけど、麻紀は上の兄が喋れるようになった年齢になっても、喋らないどころか、いまも喋ることはできません。麻紀は麻紀のスピードで生きているんですね。
だから人は皆それぞれ、私も私でいいと開き直ったんです。「人間はこうでなくちゃいけない」という世の中にある枠から、ある意味すごく不遜なんやけど、麻紀のおかげで解放されました。
あと、人が支えられる、支えるという関係は、グラデーションのようなものだということも教えられました。世の中には支えっぱなしの人はいないし、逆に支えられっぱなしの人もいないんです。

支え合って生きていく
世の中にしていこう

高橋 その後は、どのように歩んでいかれたんですか。

竹中 麻紀が生まれ、しばらく身体障がい者施設での介護、手話通訳といったボランティア活動に携わっていました。その中で、当時珍しかったITを活用し、いろんな人と関わりをもって生き生きと働いているチャレンジドの方にも出逢ったんですね。
その一人がSくんで、彼は高校時代にラグビーの試合中の怪我がもとで全身が麻痺してしまった。だけど、電動車椅子で大学院に通い、コンピュータをバリバリ勉強して、家業のマンション経営を助ける管理ソフトを自分で組んだりと、もうすごい子だったんですね。
ご両親も「うちの息子、すごいでしょう」と二コニコしていて、私は「ああ、チャレンジドが働けるようになるってことは、こんなにも皆が変わることなんや」つていうことを非常に実感しました。

高橋 素晴らしいですね。

竹中 それで、Sくんと同じようなことができる人がもっといるはずだと、「君のように働けるチャレンジドが増えれば、これまでとは違う福祉、その人に残された可能性を全部引き出す、その人がその人なりに納得して生きられる日本になるかも分からんよ」って伝えたら、彼が「ぜひ一緒にそんな活動をしたい」と言ったんですね。
また別の重度障がいの青年はこんなことも言いました。「コンピュータが何ですごいか分かる? コンピュータがあれば、アメリカと日本の間に海があったって、同じ仕事のやり取りができるんやで。そしたら、僕が会社に行けなくても自宅に仕事が来るやんか」と。これはすごいこと言うなと思って。
そうして同じ思いを持つ仲間に集まってもらい、コンピュータなどの科学技術を活用してチャレンジドの就労支援を行う草の根団体、プロップ・ステーションを一九九一年に設立しました。スローガンには「チャレンジドを納税者にできる日本!」を掲げました。これが活動の始まりです。

高橋 そうだったんですね。「プロップ・ステーション」という名前はどこから来ているんですか。

竹中 この活動を始める時に、Sくんに「グループの名前何にしようか?」って相談したら、「プロップにしよう」って言ったんですよ。「プロップつて何?」って聞いたら、「自分がラグビーをやっていた時のポジションなんだ」と。
「いや、ラグビーチームをつくるんちゃうねんから」って言ったんですけど、彼が調べたら「プロップ」には支柱、つっかえ棒、支え合うっていう意味があって、私はすぐに気に入ったんですね。

高橋 ああ、支柱、支え合い。

竹中 なんでかというと、いままでの世の中は、障がいを持つ人は支えられる人、障がいを持たない人は支える人、というのが常識でした。でも、私たちが始めようとしている活動は、障がいがあるとかないとか、若いとか年寄りとか関係なく、自分ができることで皆が支え合っていける世の中にしていこう! というものだったからです。だから「プロップ」という言葉は、まさに私たちの活動にばっちりやと思いました。
あと、「ステーション」は駅という意味ですけど、列車は駅でポイントの切り替えをするじゃないですか。皆も私たちの活動で発想の切り替えをしてほしい、そういう思いから「プロップーステーション」という名称にしたんです。

自分の道を
ぶれずに進むもう


他人のiPS細胞からつくった網膜細胞の移植手術を実施し、記者会見する理化学研究所の高橋政代プロジェクトリーダー©時事

竹中 政代さんはアメリカに行った後、どのように眼科医、研究者の道を歩んでいったんですか。

高橋 一九九七年、新しい治療法をつくるぞと思い込んで、意気揚々と日本に戻ってきて、臨床医として患者さんを診ながら、京都大学で再生医療の研究に取り組むことになりました。
当時は、アメリカでのボスや多くの研究者、眼科医からも「そんなことできるはずがない」と大笑いされたんです。

竹中 理解されなかったと。

高橋 それは、当時の眼科医は神経幹細胞の世界トップレベルの研究をまだ知らなかった、実際に患者さんと接しない基礎研究者には少しの改善でもどれほど喜んでもらえるのかという患者さんのニーズが分からなかったからなんです。
だから、いくら笑われても私が周囲に説得されなかった、研究を諦めなかったのは、自分のほうが彼らよりも情報の幅が広いという思いがあったからなんですね。
それから、研究を始めると周りがいろんなことを助言してくださるんですけど、ある人は「こうしろ」と言い、別の人は逆のことを言う。それが続くうちに、「人の言うことを聞くよりも、最後は自分の思った通りにぶれずに行くことが一番や」と思うようになりました。ただし、情報を誰よりも広く多く持っている上で、です。

竹中 なるほど。ただ、実際に研究を進めていくのは、すごく大変だったんじゃないですか。

高橋 ええ。当初は、脳も網膜も同じ神経だから五年か、長くて十年で治療の目途がつくかなと思っていたんですけど、そうは簡単じゃなかった。やっぱり脳と網膜では幹細胞の種類が違い、脳の幹細胞を増やすのが難しいことが分かって……、これではたくさんの人を治療することはできないなと。

竹中 その課題はどう乗り越えていったんですか。

高橋 そんな時に知ったのが、一九九八年にアメリカでつくられた「ES細胞(胚性幹細胞)」の存在でした。ES細胞は、体のあらゆる細胞になれる万能細胞です。
これはあまり公で話したことはないんですが、その頃、網膜の再生医療に国内で取り組んでいる研究者が私しか見当たらなかったとのことで、文部科学省の政務官の方から突然電話が掛かってきたんですよ。「網膜の再生医療の研究費、五千万円で足りますか?」と。
私は当時、百五十万円ほどの研究費で研究をしていたので、「この電話は詐欺かもしれない」と、本当に怖い思いをしました(笑)。

竹中 詐欺だと思った(笑)。

高橋 でもその方が「神経幹細胞では難しい。これからはES細胞だ」と言ってくださり、文科省からも研究の手厚いサポートをしていただけるようになりました。
そうして研究が進んで、二〇〇四年、サルのES細胞で網膜の再生かできることを論文で発表したんです。これは「霊長類のES細胞が治療に使える」ことを世界で初めて示した論文になりました。

窮地を救った
iPS細胞の登場

竹中 ES細胞の治療では日本が世界をリードしていたんですね。

高橋 ただ、人間のES細胞を使った研究は、ガイドラインもなく、日本ではまだ認められなかったんですね。ES細胞は他人の細胞で拒絶反応がありますが、高齢者を免疫抑制剤の危険に哂(さら)すことはしたくなかったので、私も躊躇(ちゅうしょ)していました。
そうしたら、二〇〇五年頃だったかな、アメリカのベンチャー企業がヒトのES細胞で治験をするという噂が流れてきたんです。
確かに「日本はマウス(動物)を治すのはうまい国だね」って当時からよく言われていました。研究でマウスを治すことはできたけど、肝心の人間の治療はアメリカなどに全部持っていかれてしまう。目の再生医療もそうなるかと思うと、すごく悔しかったですね。

竹中 先を越されてしまうと。

高橋 ところが、その悔しくて残念だと思っていた時に、出てきたのがiPS細胞だったんですよ。

竹中 ああ、山中伸弥(しんや)先生の。

高橋 論文が出る前から聞いてはいたんですが、iPS細胞は拒絶反応の問題がなく、倫理的な問題もクリアできるということで、それはもうびっくりしましたね。
私は動物の治療に成功し、人間の治療ができる手前まで来ていましたから、これは絶対自分で治療法をつくるんだって心に決めました。山中先生にも喫茶店で話を聞いていただいて、「五年で実現します」と思いを伝えたんです。後から聞くと、その時は本気で信じてくれていなかったようですが(笑)。
それでiPS細胞を使った治療に取り組み始め、二〇一四年、加齢黄斑変性の患者さんにiPS細胞から分化した細胞を移植する手術を世界で初めて成功させることができたんですね。再生医療に出逢ってから二十年近く掛ったことになります。

竹中 よく諦めずにチャレンジし続けましたね。

高橋 やっぱり、目の前の患者さんの存在が大きかったですね。
私は任期の問題があって、二〇〇六年に京都大学から理化学研究所に移っているんですが、普通なら眼科医はそこで研究を続けるのをやめて、病院に勤めるんです。私も悩んだんですけど、それまで眼科医として接した患者さんや患者会の方々に「新しい治療法をつくります」って宣言していましたから、この約束は重たい、絶対守らなあかんなと、研究を続ける道を選んだという経緯があります。

竹中 患者さんとの約束が研究へのモチベーションになった。

高橋 まあ、外来で毎週患者さんが診察に来て、「新しい治療はどうなりました?」って聞かれていま
したから、「実は研究やめました」とは言えませんでしたよね。

鉄の心臓で
支援を募る

高橋 プロップ・ステーションの活動も、軌道に乗せるのはとても大変だったんじゃないですか。

竹中 プロップ・ステーションを立ち上げて、最初は全国のチャレンジドにアンケートを取ることから始めました。そうしたら、八割の人が「働きたい」「パソコンがあれば仕事ができる」と答えたので、翌年に就労を目的にしたパソコンセミナーを開催したんですね。そのセミナーで技術を習ったチャレンジドにプロップ・ステーションが企業から請け負った仕事を割り振っていく。そうしたビジネスモデルをつくっていきました。
ただ、当時はパソコンの値段が非常に高く、コンピュータで仕事をすると言いながら、団体では一台も持っていなかったんです。

高橋 高価で購入できなかった。

竹中 だから私は、ないものはSOSを出して、助けてくれる人の協力で揃えようと、支援者のネットワークづくりに取り組んでいきました。幸い、私は周りから「鉄の心臓に苔が五重に生えている」と言われるほど、どんな人の前に出ても怖くなかったので、びびらずに経営者の方々に会いに行って、社会貢献などの面から仕事を発注する効果を訴え、先行投資してください!」と、寄付を募っていったんですね。

高橋 ああ、先行投資だと。

竹中 そうした取り組みを続けていくことで、アップル社からパソコンを寄付してもらうなど、だんだんと活動の基盤ができていきました。それから、新聞にプロップ・ステーションの活動が紹介されたのを見てくださったマイクロソフト元社長の成毛眞(なるけまこと)さんにも、「Windows95」を何セットも贈っていただきました。
成毛さんには、その後もご自身の勉強会や、創業者のビル・ゲイツ会長にも紹介していただくなど交流が続き、後にプロップ・ステーションが社会福祉法人化する際にも一億円の基金のご支援をいただきました。

ようやく時代が
追いついた


今年46歳になる愛娘の麻紀さんとの一枚


プロップ・ステーションのスタッフたちと。プロップ・ステーションで学んだ多くのチャレンジドたちが在宅で生き生きと働いている

竹中 ただ、やっぱり私たちの草の根の活動では限界があって、障がい者雇用の法律など、国の方針が変わらないとだめだと段々気づき始めたんです。例えば、企業や官庁に一定割合の雇用を義務づける法定雇用率がありますが、それでは自宅での介護が日常的に必要
で、通勤できないチャレンジドは支援を受けられません。

高橋 国を変えないといけないと。

竹中 それで当時は、自分たちの主張を通すために、団体交渉のような形で力ずくで国の分厚い扉を叩き割るみたいな運動、方法が盛んだったんですけど、私はそれより、扉を叩いたら向こうからこっそり鍵を開けてくれる協力者を国に一人、二人つくるほうが早いんちゃうかなっと思ったんです。
そして、実際に周囲の人にいろいろ相談して、当時、労働省(現・厚生労働省)の障がい者雇用対策課長だった女性の方に、「あなたも男社会で頑張っているかと思います。私もこういう団体をつくって、チャレンジドの人たちとこんなことに取り組んでいます。一度会っていただけませんか」という熱い手紙を書きました。

高橋 それはまたすごい。

竹中 その女性課長は、障がい者雇用に関する政策をどんどん進めていて、世間でも有名な方でしたから、会うのは無理やと思っていました。ところが、しばらくして「お会いします」と返事が届いて、東京の霞が関まで会いに行ったら、「できる範囲で応援するわ」って言ってくださったんです。

高橋 ナミねぇの熱い思いが伝わったんですね。

竹中 それから、霞が関で勉強会をしてくれたり、いろいろと陰ながら支えてくださっていたんですが、一九九八年、ちょうどプロップ・ステーションが社会福祉法人化した頃、「信頼する部下が課長になったから」と、紹介してくださったのが村木厚子さんでした。

高橋 ああ、厚労省で事務次官を務めた。

竹中 さっそく村木さんにプロップ・ステーションの取り組みを書いた本を持ってご挨拶に伺いました。そうしたら、忙しい中一晩で読んでくださり、「これで私も上司と闘えるわ。なぜなら女性が働きにくいということと、障がい者が働きにくいということは同じ。一緒に日本を変えましょう」と。

高橋 心強い方ですね。

竹中 それで厚子さんも「障がい者が在宅でも働けるように」というテーマの委員会を立ち上げてくださいました。
また二〇〇七年からは二人で「ユニバーサル社会を創造する事務次官プロジェクト」を開始し、十省の次官の参画を得て、毎月一回十二年間勉強会を続けています。
実は私、財務省の審議会委員も十七年間務めてるんやけど、昔は議題にも上らなかった「障がい者の就労」が徐々に取り上げられるようになり、二〇一八年に、初めて「建議」に「障がい者も社会の支え手に」と記述されました。
いま政府が進めている「一億総活躍社会」「働き方改革の考え方」に「障がいのある人が在宅でも働けるようにしよう」という一文が入り、それを受けて、プロップ・ステーションの地元兵庫県・神戸市では、チャレンジドの在宅ワークを推進するプロジェクトを予算化し、動き出しました。

高橋 時代がやっと追いついた。

竹中 これは、国レベルで自分たちの活動、訴えが認知されたんだと、すごく嬉しかったですね。実際、これまでプロップ・ステーションのコーディネイトで五百人以上のチャレンジドが在宅で就労し、いま彼らはデザインやシステム開発などで活躍してくれています。

新しい発想をするには
情報をグレーで集める

竹中 政代さんは、目の治療の新しい世界を切り拓いてきたわけですが、その発想力は一体どこから来るものなの?

高橋 一つは情報に自分で白黒つけないということでしょうか。
多くの人が、この人はよい人悪い人、これは正しい正しくないとか、最初から物事に白黒をつけて判断してしまいがちなんですが、それだと情報が全部削ぎ落とされて、大事なことを見落としてしまう可能性があるんですね。障がい者も同じで、多くの人が最初から障がいがある人、障がいがない人と分けてしまうから、大事なことが全部削ぎ落されてしまう。

竹中 まさにそうですね。

高橋 だから、私はよくラボで「情報はグレーで集めなさい」と言っているんです。この論文のこのデータは何割正しい、これは何割正しくないという感じで情報を集めていくと、次第にグレーの濃淡が重なっていって、ある時、これは正しいと思える、白く抜けているところがびゅーっと見えてくる瞬間があるんですよ。
やっぱり、科学者の神髄は初めから白黒つけずに疑うことであって、最も疑うべきは自分自身の考えなんですね。この考え、仮説は正しいかどうかをあらゆる角度から批判してみないといけない。

竹中 それは政代さんの研究者としてのセンスやね。センスの悪い人は、なかなかそれができない。

高橋 あと、学生には「専門領域が二つあるといいよ」といつもアドバイスしています。違うものを組み合わせると、必ず新しいものが生まれるんですよ。私の場合でも、脳の基礎研究をする研究所に専門の違う眼科医がいったから新しい発想が生まれた。話題になったピコ太郎さんの「PPAP」と一緒だと思います。ペンとアップルをくっつけるんです(笑)。

竹中 私はそれを人と人、人間でやりたいのよ。私は自分のことを「人と人とを繋ぐメリケン粉」「翻訳マシーン」って言っているんだけど、人と人とが繋がることで違うもの、新しいものが生まれてくる、それがすごく好きなんよ。

高橋 人と人が繋がった時、最も大きな可能性が生まれますよね。


竹中「不可能に挑戦していくことにこそ、発展の種があります」
高橋「新しいことに挑戦していくことが楽しくて仕方がありません」

竹中 チャレンジドという言葉一つでも、チャレンジド自身が言う時、親や企業の人、政治家が言う時、それぞれ意味が微妙に違います。でも、人は意味が食い違ったまま会話していることが多い。
それをいかに翻訳し、人と人とを繋げて、よりよいもの、新しいものを生んでいくか。その力はこれからも磨いていきたいですね。
だから私は、本来、リーダータイプではなくて、徹底したコーディネータータイプなんですよ。

高橋 いや、ナミねぇはリーダータイプに見えますけど(笑)。

竹中 まあ、私は風呂敷を広げまくるから、そう見えるだけ(笑)。

日本は生き生きとした
国になれるチャンスにある

竹中 私、自分がワルやったから分かるんやけど、昔はいくらワルやってもまた元に戻れる、正道に戻れるチャンスがいくらでもあったんです。でも、いまは一度道を踏み外したら、もう戻るチャンスがないような気がするのよね。

高橋 確かにそうですよね。

竹中 私のところに相談に来られる人は素直ないい人が多くて、世の中に合わせられない、はみ出してしまった自分が悪いんじゃないかと自分を責めているんです。それは、いまの世の中にはこう生きなければならないという正しい道があって、多くの人がその道を必ず歩かなければだめだと思い込んでいるからだと思うんですね。
ただ、誰がその道を正しいと決めたのって話ですよ。そういう疑問を持てない時に人は精神的に弱ってしまう。だから、私はあえて自分が道を踏み外すことで、「一億総不良化」を狙っていこうかと(笑)。

高橋 一億総不良化(笑)。

竹中 やっぱり、いろんな人が生き生きして、躍動感を持って生きていける社会にしていくには、時には皆が正しいということを疑う、道を外れることを怖がってはいけない。そうでなければ、本当の意味での「気韻生動(きいんせいどう)」にはならないんじゃないかと。

高橋 ナミねぇはまさにその存在そのものが気韻生動ですよね(笑)。
それで、私もナミねえと考え方は一緒なんですけど、いま理化学研究所で百年後の未来を考えるプロジェクトができていて、例えば、百年後の医療はどうなっているかを考えているんですね。

竹中 百年後、ですか。

高橋 ええ、百年後の日本はいま以上の超高齢化社会になっていますから、目が見えない、耳が聞こえないなど、体の調子がよくない人が当たり前になると。そうなると、健康でなければならないという固定観念や、誰が障がい者でそうじやないかという違いからも皆が解き放たれますから、いろんな人が自分らしく生きられる、本当にインクルーシブ(包括的)な社会になる可能性があります。見方によっては、超高齢化社会の日本は真のインクルーシブな社会になるチャンスだとも言えるんです。
あるいは、再生医療の進歩によって、早めに取り替えるとそもそも病気にならなくなるという方向に向かっていくかもしれません。

竹中 そうそう。日本はこれからチャンスなんですよね。人類は不可能に挑戦して、それを克服、解決していくことで発展してきたと思うんやけど、困難にこそ発展の種があるに決まっているんですよ。なんで皆、困難をネガティブに見るのか不思議でしょうがない。
そもそも私がこの活動に取り組んできた原動力の一つには、母親として、「娘をこのまま残して死なれへん!」という思いがあります。
おかげさまで、娘の麻紀は今年四十六歳になるんですが、いまも私を「お母ちゃん」と理解できないし、ベイビイタイプなので、生きることすべてを誰かに支えてもらわないと生きられません。その支えてもらわざるを得ない人をどれだけ守っていける社会にできるか。これは私に残された究極の課題であり、「おかんナミねぇの最大の我儘」でもあるので、これからもその解決のためにできる限りのことに取り組んでいきたいですね。

高橋 私はいま再生医療に限らず、患者さんの生活をよくする、人を幸せにしていくために、新しいことに挑戦していくのが楽しくて仕方がないんですね。その生き生きとした思いを持って、これからも自分に与えられた使命に全力を尽くしていきたいと思っています。

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