日本経済新聞 令和2年2月7日より転載

バリアフリーの先へ C

障害者を「働く納税者」に
娘がくれた生き方で前へ


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<本文>

米国由来の「チャレンジド」という言葉がある。「神から挑戦する機会を与えられた人々」という意味で「心身が不自由でも働き、納税者になれるように」との理念につながる。社会福祉法人プロップ・ステーション(神戸市)理事長、竹中ナミ(71)は重度の障害がある娘のためにも、チャレンジドの就労支援に取り組んでいる。

竹中の娘の麻紀(47)は脳に重い障害があり、言葉が話せず、ほとんど視力もない。生まれてすぐ保育器に入れられ、ミルクはスポイトで飲ませた。「10年は生きられないだろう」と医師。実家の父は孫の将来を悲観し「この子を連れて俺が一緒に死ぬ」。竹中は違っていた。「どうして皆、ネガティブなことばかり考えるんやろう?」と不思議でならなかった。

「自分が死んだ後も娘が無事に生きていける社会」を目指し、1991年にプロップを設立。チャレンジドが納税者として健常者と同等に働ける職場が必要と考えた。

通常の福祉工場のように、障害者を1カ所に集めるのではない。受注した仕事をギンターネットで全国に割り振る「在宅勤務」制度を創出した。デジタル広告の入力、グラフィックデザイン、サイト制作―― 。プロップを介し常時50人が働く。

竹中は中学生のころ、近辺では名うての「ワル」だった。中学2年で何回目かの家出をし、神戸・三宮で遊んでいたとき「子供がこんな夜遅くいる場所じゃない」と声をかけてきたのが、三宮で一番の売れっ子ホステス「椿姉さん」だった。

当時、竹中の周りにいた大人たちは、水商売で働く人間を「まともな正業に就けない人たち」と半ば軽んじていた。しかし椿姉さんの部屋に居候させてもらい、そのイメ―ジが180度変わる。

「毎朝掃除して床はいつもピカピカ。朝食時には英字新聞で情報収集。神戸の街を仕切る“怖い人たち”も、姉さんには一目置いていた」。大人たちの言っていることが実は正しくないことを椿姉さんが証明していた。

「自分はレールを外れた生き方しかできなかった。社会のレールに乗れない子を授かった親として、他人と違う生き方を」。竹中は腹をくくる。

働き方改革の流れはチャレンジドのような在宅ワーカーに「大きな追い風」。だが竹中は「まだアカン。もっとチャレンジドが活躍できる社会にせな」と前を見据える。

=敬称略

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日経電子版

障害者を「働く納税者」に 立ち上がったおかん
バリアフリーの先へ(4)


障害者の雇用は増えているが、法定雇用率の引き上げや補助金など「公的支援」頼みの面は否めない。社会福祉法人プロップ・ステーション(神戸市)理事長、竹中ナミ(71)は重度の障害を持つ娘のためにも、障害者が「働く納税者」として自立できるよう、就労支援に取り組んでいる。

■「どうして皆、ネガティブ?」


麻紀が22〜23歳のころ(左は竹中の亡母)

「麻紀、今年もおかんにパワーを頂戴ね」
2020年正月、竹中は娘の麻紀(47)に語りかけた。麻紀はふだんは病院で療養し、年末年始や夏休みだけ家に戻る。麻紀はほとんど咀嚼(そしゃく)ができないので、竹中が小さく切ったおせちや雑煮の餅を、少しずつ飲み込んでいく。
麻紀は脳に重い障害があり、言葉が話せず、ほとんど視力もない。竹中のおなかにいた時から発育が遅れ、生まれるとすぐ保育器に入れられた。ミルクを吸う力もなく、スポイトで飲ませた。「10年は生きられないだろう」。医師はそう予言した。
実家の父親は孫の将来を悲観し「この子を連れて俺が一緒に死ぬ」とまで言う。しかし母親の竹中は違っていた。「どうして皆、ネガティブなことばかり考えるんやろう?」と不思議でならなかった。

■「チャレンジド」で一念発起

竹中は麻紀を育てるため、障害を持つ人を訪ね、日々の不自由をどう乗り越えているか聞いて回った。3歳上の長男が小学校に上がって同級生の両親が聴覚障害だと知ると、手話を習いにその家庭に通った。「障害のある人たちは、私たちと同じ世界を私たちと違う手法や解決法を用いて生きている」と学んだ。


家族と温泉旅行で(麻紀と長男と)
米国由来の「チャレンジド」という言葉を知ったのもそのころ。「神から挑戦する機会を与えられた人々」という意味で「心身が不自由でも働いて、タックスペイヤー(納税者)になれるようにする」という米国の社会福祉の考え方に共鳴した。
「自分が死んだ後も娘が無事に生きていける社会」を目指し、一念発起でプロップを設立したのが1991年。障害者支援組織の事務局長の椅子をなげうってプロップにかけたのには、日本の「与える社会福祉」に対する異議申し立てもあった。

■「補助金ありき」に一石

当時の福祉団体について「『補助金ありき』で国や自治体の金をベースに活動するケースがほとんど」と竹中は感じた。補助金だけに頼らず、チャレンジドが納税者として健常者と同等に働ける職場が必要と考えたのだ。
プロップがユニークなのは、通常の福祉工場のように、障害者を1カ所に集めて働かせるのではなく、通信手段を駆使してチャレンジドを組織化した点にある。企業などから受注した仕事を、神戸市内のプロップ本部からインターネットを使って、全国のチャレンジドに割り振る。チャレンジドが在宅で働ける仕組みを創出した。
からだが不自由なチャレンジドは、電車などを使って施設に通うだけでも一苦労。「それなのに1カ所に集めるというのは最初から大きなハードルを課しているも同然」と竹中はみる。

■法定雇用率を超えて

医療用骨盤モデルの作成、デジタル広告の入力、グラフィックデザイン、サイト制作――。チャレンジドはからだが不自由でも技術を身につければ健常者と変わらない仕事をこなせる場合が少なくない。現在も常時50人ほどがプロップを介して仕事を続けているという。プロップ経由で仕事を受けたチャレンジドはこの30年で延べ1万人を超える。16年からプロップに仕事を発注する横浜ゴムからは「仕事は丁寧・正確で安心してお願いできる」(CSR本部長代理の森智朗)との声が上がる。


「健常者と同等に障害者が就労する」という理念で活動する竹中
企業は法律で労働者の2%強に当たる障害者の雇用を義務付けられている。19年に働き口のあった障害者は前年より4.8%増え約56万人。16年連続で過去最高となったが、法定雇用率を達成している企業は半数に満たない。横浜ゴムは法定雇用率を達成したうえで別枠でプロップに発注。健常者と同等に障害者が就労するというプロップの理念に通じる。

■火の車に助け舟

補助金を当てにしない運営で、台所はいつも火の車。だが苦境には必ず誰かが手を差し伸べてくれた。98年に社会福祉法人となったときはマイクロソフトが助け舟を出した。
役所から認可の条件として基金1億円を2週間以内に集めるよう求められた。そんな内部留保があるわけもない。窮状を知ったマイクロソフト日本法人社長(当時)の成毛真が米本社にかけあってくれた。成毛は自身の個人資産も寄付してくれた。
「成毛さんとビル・ゲイツさんにはとにかく感謝の言葉しかない」

■「椿姉さん」の教え

福祉のあり方を巡って官僚や政治家にも臆せずモノを言う度胸の秘訣は、中学時代に出会った女性の存在が大きい。
竹中は中学生の頃にぐれて、近辺では名うての「ワル」だった。中学2年で何回目かの家出をし、神戸・三宮で遊んでいたとき「子供がこんな夜遅くいる場所じゃない」と声をかけてきたのが三宮で1番の売れっ子ホステスだった「椿姉さん」だった。
当時、竹中の周りにいた大人たちは、水商売で働く人間を「まともな正業に就けない人たち」と半ば軽んじていた。しかし椿姉さんの部屋に居候させてもらい、そのイメージが百八十度変わる。
「毎朝掃除して床はいつもピカピカ。朝食時には英字新聞を読んで情報を仕入れる。神戸の街を仕切る"怖い人たち"も、姉さんには一目置いていた」。大人たちの言っていることが実は正しくないことを椿姉さんが証明していた。
その後、椿姉さんは竹中の両親に連絡し、竹中を実家に戻したが、そんな強烈な体験があったから、普通の成長が難しい麻紀を産んでも竹中は動じなかった。
「自分はもともとレールを外れた生き方しかできなかった人間やった。社会のレールに乗れない子を授かった母親として、他人と違った生き方をしてやる」。腹をくくった。

■「追い風」でも「まだアカン」

在宅ワーク推進の流れは障害者の就労にとって「大きな追い風になる」と期待する竹中
19年度の政府の成長戦略で、国がチャレンジドの在宅ワークを働き方改革の一環として位置づけた。「大きな追い風になる」と竹中は期待をかける。
最後にひとつ聞いてみた。「麻紀さんを残して安心して死ねる社会に少しはなりましたか」
「まだアカン。もっともっとチャレンジドが活躍できる社会にせな」
竹中の瞳がすごみをたたえて光った。
=敬称略、つづく
(木ノ内敏久)

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