PHP 2011年10月号より転載

ヒューマン・ドキュメント

願いはひとつ

社会福祉法人プロップ・ステーション理事長 ● 竹中ナミ さん

取材・文 社納葉子 写真 清水 茂

名刺を交換しながら、「私のことはナミねぇと呼んでくださいね」。「えーと、ナミねぇさん……」「“さん”。はいらないです」「ナミねぇ……」「はい(にっこり)」。その瞬間、緊張や構えが解けてしまった。ナミねぇの“つかみ”は天才的だ。

メッシュの入ったおかっぱ頭に、デニムジャケットとジーンズがトレードマーク。くりくりとした瞳はいつも好奇心にあふれて輝き、張りのある声は真っすぐ心に届く。見るからにバイタリティの塊のような一人の女性が、日本の障害者の“あり方”を大きく変えてきた。

コンピュータが武器に

チャレンジド。この聞き慣れない言葉を私が初めて耳にしたのは、十年ほど前である。障害を「神から与えられた試練」ととらえ、障害者を「試練に挑戦する使命や資絡を与えられた人」とする視点が新鮮だった。障害をポジティブにとらえなおすアメリカ生まれの概念を日本に持ち込んだのが、ナミねぇこと竹中ナミさん(62歳)である。

1992年、「チャレンジドを納税者にできる日本」というキャッチフレーズを掲げ、障害者の就労をはじめとする自立支援に取り組む「プロップ・ステーション」を大阪で立ち上げた。現在は生まれ育った神戸と東京にオフィスを構える。

活動を始めるにあたり、全国の重度の障害者にアンケートをとると、八割の人が「働きたい」「コンピュータが武器になる」と答えたのに驚いた。「日本の障害者たちはずっと“かわいそうな人”という立場に置かれてきた。でもすごく冷静かつ客観的に考えている人たちがたくさんいたんです。自分たちが働くには道具と法律が必要であり、コンピュータという道具によって通勤せずとも仕事のほうから自分たちのところへやってくる時代が来ると言うんですね。その発想に驚きました」

翌年から、目的を就労に絞ったパソコンセミナーをスタートさせる。まだパソコンが高価で特別なものだった時代、アップル社に「このセミナーから、将来の社員やユーザーが必ず生まれてくる。そのための先行投資をしてください」と持ちかけて十台のノートパソコンやプリンタなど一式を寄付してもらった。行政の助成金や企業の協力も受けながら環境を整えたセミナーは有料とした。福祉の世界ではまず考えられないことである。「障害者から金をとるなんて」と批判も聞こえてきたが、「仕事をする以上、プロの自覚が不可欠。自己投資をしてでも技術を習得したい、働きたいという思いのある人だけに来てほしい」と動じなかった。「働きたいと願う人が得たいのはお金だけじゃない。誇りなんです」。だから協力してくれる人や企業とも、仕事を求める障害者とも、対等な立場でやりとりすることを大事にしてきた。

突っ走って生きていた十代

ナミねぇを今に至るまで突き動かす原動力は、病院の重症棟で暮らす娘、麻紀さんの存在である。生まれながらにして脳に重度の障害があり、38歳になった今も母を認識できない。「私は麻紀が大好きやのに。究極の片思いですわ(笑)」。しかし麻紀さんがゆっくりと成長してきたのもまた事実だ。乳幼児期には触れられることすら全身で拒否していたが、7歳を過ぎた頃から体を寄せてくるようになり、18歳になるとおんぶの時に自分の足をナミねぇの腰に回すようになった。今では手を握り返してくれる。そのひとつひとつがナミねぇにはいとおしくてたまらない。

「娘に教えてもらったことはたくさんあるけど、特に。すべての人に、その人なりのスピードがある。というのは大きかった。いつも元気ですねと言われるけど、もちろん焦らなあかん状況はなんぼでもあるんですよ。でも娘のおかげで“焦ってもしょうがない時はある”と肝が据わってるし、時間がかかることもまったく苦にならないんです」

麻紀さんが生まれるまでは突っ走って生きてきた。京都帝大卒で、陸軍将校から川崎重工の幹部候補に転じた父と熊本の旧家に生まれ育った母との間に生まれるも、物心ついた時、父は一方的に「アカ」のレッテルを貼られて会社を追われていた。しかし家父長制の中で高等教育を受けた母は社会主義に傾倒し、『青鞜』を読みこなす筋金入りのフェミニストに育っていた。貧乏をむしろ歓迎し、ナミねぇと二人の弟を育てながら生き生きと働いた。

そんな両親に何の不満があったわけでもないが、幼い頃からの“放浪癖”が中学時代に本格化する。番長クラスの仲間と遊ぶうちに「不良」のレッテルを貼られ、「どうせなら本物になってやれ」と開き直って神戸の街をさまよった。ある時、ヤクザに声をかけられる。ホテルのラウンジで大人ぶって強いお酒を飲んでいる時だった。酔った勢いで「私、水商売したいねん」と言うと、神戸で一、二を争うトップホステスに預けられた。椿姐さんと呼ばれていたその人は、何も訊かずにおいしい手料理を食べさせてくれた。朝は七時前には起き、新聞を六紙読み、英字新聞にも目を通す。毎日家中を磨き、ハンカチにも皺ひとつない。もちろん化粧や衣装、身のこなしは完壁である。

「その頃、ホステスといえば今よりもっと汚らわしい職業のように言われてました。うちの母も、男性に媚を売ってお金を稼ぐなんてという目で見てたから、私のなかにも偏見があった。でも実際に会ってみたら、そんじよそこらの主婦なんか太刀打ちできない。椿姐さんとの生活のなかで、職業に貴賎はないし、一流の意識をもつ人はどの世界でも一流になると思ったんです。一流というのはプロフェッショナルということですよね。だからチャレンジドも仕事をするならプロになろうねという思いを持ち続けているんです」。1月後には家に連れ戻されたが、15歳のナミねぇの心には揺るぎない仕事観が根付いていた。

どうせレールに乗れないなら


2010年11月3日、娘・麻紀さんと入院先の国立病院にて(写真提供:竹中ナミさん)

中学生の日常に戻ると一念発起して猛勉強し、公立の進学校に合格する。しかし大人の世界を垣間みたナミねぇにとって、学校という空間はあまりにも狭かった。うつうつと迎えた高校一年の夏休み、やっと母が許してくれたアルバイト先の役所で20歳の職員と出会う。今度は恋の道に一直線だった。

同棲はすぐに学校にばれ、退学を迫られる。転校させようとする両親にタンカを切り、ちゃぶ台一つ抱えて家を出た。22歳で長男の宏晃さんを出産する。活発で優しく、育てやすい子どもだった。三年後、再び妊娠。家族三人で待ち望んだあかちゃんは、初乳を飲む時から宏晃さんとは様子が違っていた。体中に浮かんだ白いあざ、骨がないのではと思うほどぐにゃぐにゃした体、か細い泣き声。重度の脳障害を告げた医師も看護師も「気の毒やけど、こんな子が生まれたのはあんたのせいじゃないから」「元気を出して」と慰めた。麻紀さんの誕生を大喜びした両親に診断結果を話すと、父は仁王立ちになって「わしが麻紀を連れて死んでやる!」と叫んだ。誰も彼もが麻紀さんを不憫がり、ナミねぇを気の毒がる。「障害」は災厄以外の何物でもなかった。

「でも私が欲しいのは励ましでも慰めでもなく、原因と対策やったんです」。そしてこうも言う。「ものすごく不遜な言い方だけど、さんざんレールから外れて生きてきて、社会からいろんなことを言われてきた私やけど、娘がそのレールに絶対乗られへんならもう親子ともに乗らなくていいと思った。それはすごい解放感やったんですよ」

社会がつくったレールに乗せてもらおうとあがくより、自分で道を切り開くほうが楽しいに決まっている。「不良」の本領発揮だった。麻紀さんの障害に関して参考にできる本もろくにないと知ると、片っ端から医学書を読み、医者を訪ね歩いた。医学の限界を感じると、今度はさまざまな障害のある人たちに会いに出かけ、話を聞いた。その過程で、無理心中にも遭遇する。ある意味開き直り、底抜けに明るい母たちがいる一方で、「親亡き後、我が子はどうなる」と悲観する母も多いことに胸が締め付けられた。

成人した障害者たちのたくましく生きる姿からは大きな刺激を受けた。視覚障害のある夫婦は触覚や聴覚をフルに使って子育てを楽しんでいた。役所への付き添いを頼まれ、「代わりに行ってあげる」と言うと「それやったらいつまでも自分で行けるようにならへんやん」と叱られた。さらにボランティア活動で出会った車椅子の若者たちが就労を模索しているのを知り、「働く意欲のある障害者には積極的に仕事をしてもらい、税金を払ってもらったほうが、本人にとっても社会にとってもいいはずだ」と考え始める。ちょうどその頃にチャレンジドという概念と「私はすべての障害者を納税者にしたい」という故ジョン・F・ケネディ大統領の言葉に出会う。「これだ!」とひらめいた。ナミねぇの挑戦の始まりだった。

プライドを取り戻す


足でマウスを操る講師の岡本敏己さんは、プロップ・ステーションのセミナーで学んだ第一期卒業生(写真提供:プロップ・ステーション)

日本において、障害のある人は「保護や支援を受ける立場」に置かれてきた。保護も支援もなかった時代に比べればずっといいし、当事者たちが苦労して「勝ち取ってきた」部分もある。反面、社会から切り離されてきたことも否めない。1979年に養護学校への就学が義務化されるまで「免除」という表現で教育を受ける権利を奪われてきた。同じように、就労を支援するという仕組みづくりがなかなか進まなかったことも「働く権利を奪われてきた」と言える。しかし障害者福祉の世界では今でもそうした捉え方は少数派だ。クッキーや手芸品を作って売ったり、部品の組み立てなどを請け負う作業所はあるが、報酬は月に数千円が相場である。

「チャレンジドを納税者に」というキャッチフレーズを掲げたナミねぇに、障害者運動や福祉関係者からの風当たりはきつかった。行政や企業、さらには政治家とも党派を問わず組むやり方も「節操がない」「権力志向だ」とさんざん非難された。しかし、ナミねぇはひるまない。

「“税金を払いましょう運動”じゃなくて、“プライドを自分で取り戻しましょう運動”なんです。弱者と呼ばれた瞬間にプライドを捨てさせられることがあまりにも多いから。その代わりにちっちゃな安定を与えますよ、みたいな。それでいい人はいい。でもそれはイヤだという人には別のチャンスの道がいるよね」

ナミねぇの究極の目標は「大切な麻紀を残して、安心して死ねること」だ。「そのためにいろんな世界の人をつなぐ“つなぎのメリケン粉”になるのが私の役割やと思ってるんですよ」。いつの間にか心が離れてしまった夫とは43歳で離婚した。私は30歳でシングルマザーになった。ナミねぇを見ていると、私もまだまだ夢を追いかけたいと思う。

60蔵を迎えた時、ナミねぇはバンド活動を始めた。ある夜のライブをのぞくと、いつものジーンズで『プラウド・メアリー』を唄うナミねぇがいた。ミニスカートで唄う70歳のティナ・ターナーに憧れながら、「でも今の私はとてもとても」とはにかむ。「心臓に苔が何重にも生えてる」と言われるふだんとは大違いだが、「お金をもらう以上はプロでなければ」と歌には本気だ。照れずに、スパンコールがキラキラ光るミニスカートで堂々と唄ってほしい。それでこそ、ナミねぇだから。

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