毎日新聞 2011年2月9日より転載

時代を駆ける

15歳で同居、16で結婚

竹中ナミ [2]

たけなか・なみ チャレンジド(障害者)の就労支援に取り組む社会福祉法人「プロップ・ステーション」理事長。62歳(写真は高校1年の頃=本人提供)

 ひたすらやんちゃな子どもでした。木に登って枝から枝に飛び移ったり。中学の時に神戸の漁師町から山の手へ引っ越したんですが、転校先の学校で「不良の女が来る」ってうわさになってました。私はただのやんちゃやったんやけど、不良のレッテルを貼られたならと、授業を抜け出して校舎の裏でたばこを吸ったりしていました。

 《勉強はあまりしなかったが、夢はあった》

 一番なりたかったのは漫画家。手塚治虫さんが大好きでした。中学生の時、その手塚さんと漫画家の小島功さんが学校長という日本初の通信制漫画塾ができて、早速受講したの。すぐに漫画を描かせてもらえると思ってたんやけど、デッサンばっかり。3カ月で挫折しました。

 「あんたはやったらできる子や」と母に励まされ、志望の公立高校に合格。「コネで入った」とか周囲には言われましたけど、成績の良かった2歳下の弟に猛特訓してもらったんです。

 《高校に受かったが「まじめに勉強」とはいかなかった》

 勉強がしたくて高校に行ったわけじゃないから、すぐに授業をサボりました。夏休みには職業安定所で母が選んだ役所の選挙人名簿整理のアルバイト。退屈極まりなくて、アメを食べたりしてサボってました。すると、アルバイトをまとめるお兄さんに「仕事中にその態度はなんや」と怒られました。だけど、そのお兄さんがごっつい大人に見えて一目ぼれ。そのまま付き合って同居しました。15歳でした。

 《当時は高校生の男女が手をつないで歩いただけで不純異性交遊と言われた時代だ》

 それは大騒動になりましたよ。学校の先生が実家に来て「お宅のお嬢さんのようなふしだらな生徒が学校にいたら困ります」と退学を宣告。さらに「お嬢さんでも通える女子校を探しました。100万円かかります」と提案され、両親が了承してしまったんです。頭に血が上って、「私に100万円も出したらドブに金を捨てるようなもんや」と言い捨てて家を飛び出しました。そのまま戻らず翌年、同居相手と16歳で結婚しました。

2011・2・9

 聞き手・近藤諭/今週は火〜金曜日掲載です

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