婦人公論 2010年6月22日号より転載

ルポタージュ 時代を創る女たち

竹中ナミ
  娘に導かれて開けた扉

 

文◎内田丘子 写真◎霜越春樹

 

重症心身障害を持つ娘、麻紀の笑顔を見たくて

 6年半ぶりの再会だ。向かった先は、大阪市内にあるライブバー。昔から歌うことが大好きだった竹中ナミが、プロのバンドメンバーとともにライブ活動を始めたのは知っていたので、楽しみは増していた。

 ステージに立つ彼女が発するオーラは変わらず健在。軽快な関西弁トークで会場を沸かせる一方、これまで自身が歩んできた道のりを踏みしめるような歌声は、聴く者の心を真っ直ぐに捉える。この人の存在感は、より確かなものになったと、何だか誇らしい気分になった。

 通称「ナミねえ」。竹中ナミは、神戸に本拠地を置く社会福祉法人プロップ・ステーション (以下プロップ)の創立者であり、理事長である。障害者支援、とりわけ彼らの自立と社会参画に尽力し、コンピュータやインターネットを駆使して就労を支援し続けてきたパイオニアだ。「障害者=施しの対象」という、旧来の障害者福祉のありように異を唱え、奔走してきた。その生きざまに惹かれ、竹中のもとに集まってくる人は多い。

 「ナミねえバンド」として、ともにライブ活動を行うメンバーもそうだ。普段はソロとして活躍するプロのミュージシャンたちが、月1回のペースで一緒にステージをつくる。

 「ボランティアやチャリティといった感覚はまったくないんですよ。ナミねぇの魂″やプロップの活動を音楽の世界でどう表現するか。僕らが考えているのはそれだけです」

 それが活動の源泉になると、メンバーたちは□をそろえる。

 ライブを始めたのは1年半ほど前。竹中が、米国大使館より「国際勇気ある女性賞」を授与されたのを記念してのことだ。この賞は、世界各地で社会正義と人権のために顕著な活動を行った女性を讃えるもので、日本人として竹中が選ばれた。それを機に、メッセージを発信する新しい場をつくりたいという思いがあったからだが、それ以上に、歌は彼女にとって特別な意味を持つ。

 竹中には重症心身障害を持つ麻紀という娘がいる。37歳になる今も、竹中を母親として認識していない。自分の意思で移動できない体。明暗がわかるだけの視力、聴覚はあるが、音の意味はまったく理解できない。「障害のデパートや」と竹中が表現するように、心身両面での重い障害がいくつも重なる。その麻紀が好むもののひとつに、音楽がある。

 「麻紀がね、私の歌を聴くと笑顔を見せてくれるねん。それが見たいから、歌い続けているんです」

 社会活動家と称される竹中がのぞかせる、母ちゃんの顔だ。

ナミねぇ写真

たけなか なみ/1948年兵庫県生まれ。神戸市立本山中学校卒業。重症心身障害の長女を授かったことから、障害児医療・福祉・教育を独学。91年にプロップ・ステーションを発足、98年厚生大臣認可の社会福祉法人格を取得し理事長に。多数の政府委員会委員を務める。写真は、パソコンセミナー中のプロップ・ステーションにて

 

女に社会が変えられるか ― 険しくも新たな道へ

 15歳のとき、アルバイト先で出会った年上の男性に一目惚れし、熱に浮かされるまま同棲生活を始めた。高校生が手をつないで歩いただけで、不純異性交遊と後ろ指をさされた時代である。同棲などもってのほか。高校は除籍となり、竹中は16歳で幼妻となった。もとより破天荒な人である、極貧暮らしもへっちゃらだ。22歳で長男・宏晃を授かり、それなりに楽しい家庭を築いていた。

 1972年、長女・麻紀が誕生。その後の竹中の人生を決定づけることになった、導きである。

 「宏晃のときとは、様子が全然違ってね。産声はほとんど上げず、1日たっても2日たってもオッパイに吸いつこうとしない。体はグニヤッとしているし、私はどこか内心で、これはちょっと普通と追うかも……と感じていました」

 不安は的中。3ヵ月後の検診で、麻紀は回復の見込みのない重症心身障害児だと診断される。本能的にすがったのか、親に報告した。話を聞いた竹中の父親は、即座に言った。

 「この子がいたらお前は不幸になる。わしが麻紀を連れて死んでやる!」

 「まさに鬼気迫る形相でしたわ。父は私のことを溺愛していたので、アカン、これは本気や。それまで周りに障害を持つ人がいなかったので、正直実感がなかった。それが父親の一言で、初めてそんな大変なことなんかと」

 実際、その当時は、障害を持つわが子の将来を悲観して、心中するという悲惨な出来事も少なくなかった。

 父親に絶対そんなことはさせたくない。そして、幸せか不幸せかは自分が決める。そう心に誓った竹中は、療育のかたわら障害児医療や福祉、教育を懸命に学び始めた。加えて、手話通訳や身体障害者施設での介護など、ボランティア活動にも参加。さまざまな障害者と知り合って経験や知識を得ることが、娘を育てるうえで必ず役立つと考えたからだ。
      

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 が、長く障害者福祉の世界にかかわっているうち、竹中は腑に落ちない現実を見るようになった。同じ障害なのに団体がいくつもある。たとえば障害が先天的か後天的か、度合いの軽重、さらには障害の原因となった損傷の部位がどこかというだけでグループが違う。そしてその団体同士が、限られた福祉予算の配分をめぐって反目する。閉鎖性・排他性は、ことのほか強い。

 「いろんな障害者運動に携わってきましたけど、ふと気がついたら、駅前でひたすらビラ配っているとか、集会があれば、議員さんに必死に支援を嘆願するとかね。そんな渦の中にいました。役所は敵! 大企業は敵! みたいな戦いをずーっとやってるわけですよ」

 何かが違う。「これ以上続けたら戻られへん」と思い始めた88年頃、竹中に転機が訪れる。

 きっかけをくれたのは、ボランティア活動を通じて知り合った車椅子の青年だった。

 「全国車椅子大会にアテンダントを導入したいので、手伝ってくれ」と彼に頼まれた。アテンダントとは障害者を介助するプロを指し、障害者自身がお金を払って雇う。そんな制度があることを竹中は初めて知った。そして、その青年から思いもかけぬ言葉を聞く。

 「障害者は、自立意識を持って初めて人や社会と対等になれる」と。

 今までとは、考え方がまったく違う ― 新生面が開けた気がした。

 このアテンダント制度を日本に普及させる活動を続けるなか、竹中は自立を望む障害者が存外に多いことを知る。そして、その望みを可能にするツールとして、コンピュータが登場してきていた。

 「重度の障害を持つ人たち自身が、声を上げたのです。コンピュータはまだ一般的ではなかったけれど、これを使えば在宅で仕事ができる、収入も得られる、社会の一員になれるんやと。目が覚める思いでした」

 91年、草の根の任意団体としてプロップ・ステーションを創設。プロップとは支え、つっかえ棒のこと。

 掲げたスローガンは「チャレンジドを納税者にできる日本」。チャレンジドというのは、障害者の新しい呼び名として生まれた米語で、神から挑戦すべきことを与えられた人々、という意味が込められている。

 「障害者のために税金を取ってくるのが福祉なのに、払えというのは何ごとか」

 この手の痛言はさんざん浴びてきた。障害者福祉の世界に対して過激なメッセージであることは、竹中自身がよくわかっている。しかし、波を起こすために必要な言葉であったのは間違いない。

 プロップを立ち上げた翌92年、竹中は離婚した。夫は、麻紀の重すぎる障害にどう対応していいのか、わからないままだったという。

 「決して悪い人じゃないんですよ。男は稼いで、女は家の中や子どもに対してすべて責任を持つ。保守的な価値観の人でした。麻紀のために始めた私の活動が理解不能だったみたいで。『女に世の中が変えられるか!』と。これだけは、私に言うたらアカン言葉でした(笑)」

 けれど、この言葉が結果として啓示となった。竹中は、ここを先途と腹をくくったのだから。

 

たくさんの支援者に恵まれ一歩一歩上った階段

 プロップの活動の中心は、コンピュータを武器にしたチャレンジドの就労支援と定めた。そして、技術を習得するためのパソコンセミナーを開くところから着手した。が、90年代前半の話である。パソコンはとても高額で、買いそろえる資金などない。竹中たちは企業に掛け合った。

 「パソコンちょうだいって、ダメもとで言うてみようかと。図々しいのは得意(笑)。ただし、気の毒な障害者に寄付を、という言い方だけは絶対にしませんでした。施しの感覚だと、型落ちのものとか中古で十分という話になるでしょ。けど、これから仕事をするんやったら最新のものでなければダメ。あくまでも先行投資として考えてもらいたかった」

 チャレンジドが自分で稼げるようになるためという異例の申し出に、企業側も新鮮な衝撃を受けたのだろう。アップルを皮切りに、マイクロソフト、NECといった名だたる企業がパソコンを提供してくれた。黎明期にあったコンピュータ業界を率いるトップはみな若く、プロップの主張に共感し始めたのである。

 パソコンセミナーの講師を立てるにも、「仕事にする以上、一流の人から習うべき。趣味程度の人から習えば趣味程度にしかならない」と信念を曲げない。それでも募集をかければ、さまざまな業界から一流のエンジニアが集まってきたという。職場や本業で培った技術を生かしてボランティアができるという新領域に、彼らが反応したのだ。

 セミナー受講は有料。あらゆる面で無料が常識の世界である。

 「金を取るのか。パソコンを売りたいのか」

 ―これまた石が飛んできた。

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「机仕事は苦手やねん」と笑う

 「親睦ではなく、就労を目的としているんです。『自己投資した分のモトは取ってやる』ぐらいの気構えが必要で、習う側が必死になれば、教える側も必死になってくれる。批判されても、そういう緊張感のある場を日本で初めて持てたという意味では、画期的なことでした」

 日本では、重度の障害者と認定された人は障害者年金を支給されて、「代わりにじっとしていろ」とでもいうように、社会の外に置かれてきた。しかし、障害が重くても知力や体力、働く意欲を持つ人はいる。竹中は、そんな人たちを引っ張り出し、道具立てをそろえ、そして対する社会全体の意識を変えたいのである。当たり前だが、納税運動をしているわけではない。納税者になることは、社会を構成する一員になること。この言葉に込めた思いは『″誇り″だ。』

 草の根の任意団体だったプロップが、社会福祉法人化を果たしたのは98年。任意団体は言うなれば個人商店。技術を身につけ始めた在宅のチャレンジドが多くの仕事を得るためには、法人化が必須だった。今なら、NPO(特定非営利活動)法人という選択肢もあるだろうが、当時はまだなく、多くの市民活動団体は、活動の継続や社会的な信用を得ることに苦労を強いられていた。

 何より、社会福祉法人の認可を申請したところで、老人ホームや障害者施設などの施設運営をしないプロップでは、相手にもされない。さらに、認可を取るには1億に近い基金が求められる。とても一般人が手を出せる領域ではなかった。

 「兵庫、大阪、関係するすべての自治体に相談しに行きましたけど、どこも『認可はありえへん』。国が認めるんやったら……と言うので、当時の厚生省に通って通って。しつこいくらいに、担当者に熱く語りまくって、最後はねばり勝ち」

 さすがの竹中も頭を抱えた基金については、マイクロソフト日本法人の社長だった成毛眞(なるけまこと)が音頭を取って工面、自らも多額の寄付をしてくれた。竹中が「マコちゃん」と呼ぶ成毛は、プロップの最大の支援者である。彼を通じて、協賛金や人脈など有形無形の宝を得た。お金のソーシャルな意味を誰よりも知っている人だと、竹中は言う。


ライブを前に、「この緊張感も、たまらんのよ」と話す

 プロップでのセミナー受講生は累計で約3000人、就労を経験した者は500人ほどになる。ICT(情報通信技術)はもちろん、絵画や音楽など、幅広いジャンルで固有の才を発揮している。企業側にも意識変革は出てきた。法律で定められた障害者雇用率に対する数字合わせではなく、チャレンジドの個性や才能を雇用する♀驪ニが増えていると聞く。20年を要してのことだが、竹中たちは確実に社会を変えてきた。

 小さな芽かもしれない。むろん、差別がなくなったわけでもない。でも、竹中は火をおこした。これまでとはまったく違う価値観を提示し、人生を懸けて障害者福祉の世界に一石を投じた。彼女自身が抱える障害者の問題を、社会を変えるために生かそうとする大志は、とても尊い。

 障害者福祉の分野で、8年近く竹中を見てきた『読売新聞』の記者・安田武晴は、こうコメントする。

 「介護保障や経済支援を求める団体が多いなか、『障害者は介護を受けるために生まれてきたんじやない』というナミねぇの主張は新鮮だった。彼女は、障害の有無に関係なく、本質的なところでの人間の誇り、これからの社会のあり方を問うている」

 優生思想が厳然とまかり通る社会は空恐ろしい。障害者や弱者が暮らしやすい世の中は、健常者にとっても暮らしやすいことを、忘れてはならないはずだ。

 

たどり着いた使命はユニバーサル社会の実現

 「孫を連れて死ぬ」と言った竹中の父・謙一は、84歳で天寿を全うした。今回、取材の一環として、その父の十三回忌に招いてもらった。いささか気が引けたが、ごく身内だけで、しかもライブ付きという規格外の法要への興味もあり、「姉弟ライブを楽しんで」という言葉に甘えることにした。竹中には弟が2人いて、いずれも音楽家として活躍している。

 幼少期の竹中は、いわゆる関西でいうゴンタクレ。幼稚園の頃から放浪癖があったらしく、学校に上がっても、教室や家にいたためしはない。少女時代は髪を金色に染め、大人からすればガラの悪い仲間とよくつるんでいた。俗にいう不良。

 「常に動いていたい衝動があった。どこかに、自分が本当に求める別の場所がある気がして。エキサイティングなという意味も含めてね」

 両親は、そんな竹中を一度たりとも叱ったことがない。大正モダニズムの時代に育った父は型破りなバンカラで、「自分の娘だから道を外れて当たり前」が口癖。一方、母・恭子は、早くから女性解放思想に目覚め、保険の調査員としてバリバリ仕事をこなしてきた強者。

 「お前は、いつか必ず大成するのだから、寄り道は必要なこと」

 理由は違えど、2人は決して説教しなかった。竹中は、「あんた、絶対ホンマの子ちゃうで。ホンマの親やったら怒る」という、友だちの言葉をしばらく信じていたらしい。

 法要の場で会った恭子に、真意を聞いてみた。

 「私自身は早くに両親を亡くしたので、子育てがわからなかったのです。ロシアの小説を読みましたらね、決して子どもを叱ったり否定してはいけない、尊重せよと書いてある。それが教えになりました」

 今の竹中に接していると、自由と尊重は、最高の教材であったと思う。かくあるべき=vいう世俗的な枠にとらわれない、自分の真理をきっちり持っている人だから。

 奔放なのは弟たちも同じだ。竹中の2歳下の弟・ビリー(本名・望)は、19歳のときにギターを抱えて単身渡米。そのまま家族をもうけ、根を下ろしている。8歳違いの弟・ゆう(本名・結)は、高名なクラシックギターの先生に弟子入りしたまま、望まれて養子縁組をしてしまった。両親を振り回す姉を見て、「僕たちは心配かけないから」と、膝をそろえた彼らもまた、負けてはいない。


アメリカで音楽活動中の弟・ビリーとセッション

 地を分け、長らく会わない時期もあったそうだが、竹中の信念に共鳴する弟たちは、現在プロップの活動を手伝っている。竹中の息子・宏晃も同様に、2008年に開設したプロップ東京事務所の責任者を務める。

 レストラン「サテンドール神戸」で執り行われた法要。読経のあとにステージに立つ姉弟、それを見守る親族を背後から眺めていると、ひとつの理想的な家族のありようだと思う。互いに依存し合うことなく、自由な生き方を貫きながらも尊重という絆で結ばれている。

 「私ね、麻紀が生まれたとき、解放感があったんですよ。自分がさんざん道を外れてきたから、障害を持つ娘が世間でいう一般のレールに乗れない、ということに何ら違和感がなかった。それまでの、良き母をしなくてはならない自分のほうが仮の姿で、これで私もレールに乗らんでいい。好きなように生きると決められた。その根っこには、『お前はそのままでいい』と育ててくれた親の存在があります」

 講演で全国各地を飛び回り、数々の行政委員を務める竹中の日々は慌ただしい。プロップの活動は、広く産官政学民を巻き込む運動に発展し、福祉の世界に新たな流れを生み出している。現在の竹中は、関係省庁や自治体と連携しながら、さまざまな法整備に奔走する。就労がテーマなら厚生労働省、税なら財務省、通信なら総務省・・・・・・さらには内閣官房なども含め、縦横にかかわりながら。

 道外れが得意な竹中にとって、これらの世界は窮屈だろうし、業腹なことも多かろうと思うのだが。

 「私にすれば、どこも営業の場。私たちの考え方を伝えたい、支援者になっていただきたい。国と対立していては、チャレンジドの問題は前に進みません。確かに総理はコロコロ代わるし、そのたびに官邸の顔ぶれも違うし、政権が代われば進んでいた施策も揺り戻しに遭う。また最初っからやと、イヤになることもあるけど、そこは営業、営業と(笑)」

 委員や講師として声がかかれば、決して断らない。従来の福祉団体のように戦うのではなく、外側から扉を叩いたときにそっと閂を抜いてくれる味方をつくる。だから、どこでも誰に対しても、根気よくメッセージを発信し続ける。一人でも多く、同じ夢を見られる人を探すために。

 その夢は、ユニバーサル(共生・共助)社会の実現だ。障害の有無、年齢や性別にかかわらず、すべての人が個性や能力を+分に生かすことができ、自信と誇りを持てる社会。竹中が主張してきたことは、深刻な少子高齢社会をも水先案内する。

 02年、野田聖子や浜四津敏子ら、当時の与党女性議員とともに発足した、「ユニバーサル社会の形成促進プロジェクト・チーム」。ここで竹中は講師を務め、与野党の垣根を超えて、ユニバーサル社会基本法の成立に向け全力を尽くしている。

 竹中自身は、社会活動家と呼ばれるのを好まない。

 「自分が安心して死ねる世の中はどんなんかな、それを追求しているだけやから。きっと、プロップのような団体が必要じゃなくなる社会が理想でしょうね」

 やっと更生できたと、竹中は笑う。放浪し続けた彼女を、居るべき場所に導いたのは、紛れもなく麻紀である。最強のチャレンジドだ。

 

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うちだ たかこ 1958年、兵庫県生まれ。87年、編集・広告制作プロダクション(株)タンクを設立。企業トップや起業家たちへのインタビュー・執筆を行う。著書に『新・経営者たちの肖像』(共著)など

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