女性自身 新春号より転載

シリーズ人間 No.1881

はるちゃんゆっくり生きる幸せをありがとう

大平光代さん(42)

 弁護士、大阪市の助役時代、2時間の睡眠だけで毎日奮闘していた大平さん。その彼女が選んだのは、娘とずっと一緒に過ごす生活だった。ダウン症の子どもを育てることは当然、苦労はあるだろう。けれど、大平さんに“苦悩”はない。  悠ちゃんは、ゆっくりだけどちゃんと育っている。そして、その笑顔で生きる幸せを運んでいる。

 '06年9月、『だから、あなたも生きぬいて』の元“極妻”弁護士・大平光代さんは、40歳のとき、帝王切開で女の子を出産した。だが、大量出血を伴う手術を行い、命がけで産んだ悠ちゃんは、ダウン症だった。
それから、1年2カ月 ― 悠ちゃんは身長66.6センチ、体重5千900グラムになった。“つかまり立ち”もできる。

大平光代さんとはるちゃんの写真


7年前、2時間睡眠で弁護士をしていたころは結婚・出産は想像もしてなかった

 「さあ、はるちゃん、うさこちやんの絵本、読もうか」大平光代さん(42)が、そう言って、ブルーナの絵本を手にとるより早く、愛娘の悠ちゃん(1)がハイハイでダダーッと突進してきた。大平さんも思わず噴きだしている。
 「ブルーナのうさこちゃんは悠の大のお気に入りなんです。私が『うさこちゃんは……』と、絵本を読み始めると、いつもハイハイしてくるんですよ」
  しかも、速い。
  「下半身がまだ未発達なので、お医者さんからは『じっくりと時間をかけて』と、言われているんですけどね。ハイハイも、膝をピンと仲ばしたままでしょう。この体勢は、足に負担になるんですって。でも、本人は、歩きたいばっかりなんですね」
  早く読んでと訴えるように大平さんの膝に乗ってくる悠ちゃん。1歳2ヵ月時点の体重は5千900グラム。身長は66.6センチだった。
  「健常の子に比べたら、半分の体重です。実は、昨日も血液検査を受けてきました。甲状腺機能低下の兆候がありそうだというので。それもダウン症特有のものだそうです」
  言うまでもないが、大平さんは『だから、あなたも生きぬいて』(講談社刊) の大ベストセラーの著者で弁護士だ。
  中卒の非行少女が、極妻となるも更生、最難関の司法試験を突破。その後、少年事件の弁護士として活躍し、大阪市の助役も務めていた。
  '06年2月、弁護士の川下清さん(53)と結婚。生まれた悠ちゃんはダウン症だった。その子育て奮闘記は'07年3月、本誌でレポートしている。
  それから10カ月。久しぶりに訪ねた大阪の自宅には、物がずいぶん増えていた。ジャングルジム、滑り台、アンパンマンのブランコ、ブルーナのカタカタ……。全部、悠ちゃんのものばかりだ。
  玄関と廊下の境目に、本の柵があった。これも10カ月前にはなかったものだ。
  「何もないと、気がつくと悠が玄関にいて、靴を“ガブガブ”やっているんですよ」
  大平さんの悠ちゃんへ注ぐまなざしが柔らかい。
  本誌で子育て相談連載をしていた6年前の彼女を知る記者は、そのまなざしの変わりぶりにも驚いた。
  当時、少年事件を担当していた彼女の事務所には、ひっきりなしに相談の電話がかかってきていた。真剣に応対するあまり、まなざしは常に鋭く、表情は硬かった。
  「はるちゃん、これから着替えするけどお腹がメタボぎみやから、恥ずかしいなあ」
  とろけそうな声で今、悠ちゃんに語りかけながら、ピンクの子ども服に着替えさせている大平さんは、睡眠時間2時間で働いていた彼女とは、別人にも見える。いや ― 。
  「生まれたとき、悠はダウン症の合併症がいくつもあって、表情のない子でした。でも、ダメもとで、そのときそのときに、できる限りのことをやってきました」
毅然と語る彼女は何も変わっていない。ただ、力を注ぐ相手が違うだけだ。

 

'06年9月3日。大量出血を伴い、命がけで産んだ赤ちゃんはダウン症だった。


3月の取材時にふっくらとして見えたのは実はステロイド剤の副作用


前回の取材時は生後5カ月。ダウン症による心臓手術を終えた直後だった


 

 ダウン症は、染色体異常のなかでは最も多い疾患で、平均すれば千人に1人の割合で発生する。症状は、知的障害、先天性心疾患、筋力の弱さ、視力低下、難聴など。成長はゆっくりで、個人差が大きい。
  妊婦が高齢になるほど発生率が高まるとされ、20歳未満で2千分の1、35歳で400分の1というデータもある。
  羊水検査で、出生前に診断できるが、最近では推奨されていない。
  「厚労省などの倫理規定もあって、今、病院側から妊婦さんに出生前診断を勧めることはありません。ここ10数年の私の経験でいえば、羊水検査でダウン症とわかって中絶をされたお母さんはいませんでした。それは社会が、ダウン症のお子さんとともに歩むことを受け入れてきたことが大きいと思います」(熊本市・福田病院理事長・福田?氏)
  大平さんも、羊水検査はしていない。19歳で出産し、悠ちゃんは2度目の出産になるが、その間、21年もの空白がある。しかも40歳の高リスク出産だったのだ。
  「不安はありませんでした。だいたい、高齢という自覚がないんです、すみません」
  大平さんは、茶目っけたっぷりに目を細める。
  「羊水検査には2つ、目的があります。ダウン症などの障害が判明した場合、産まない選択をする。そして、お腹にいるときからの心構えのためです。医師から説明を受けたとき、私はこう答えました。
『仮にダウン症とわかっても私は産みます。心構えなら1分1秒あればできます』と」
  実際、そのとおり、いや、それ以上だった。
  妊娠中、巨大な子宮筋腫があることが判明。さらには早産で、緊急の帝王切開となった。'06年9月3日午前1時7分、取り上げられた悠ちゃんは2千854グラム、46センチだった。
  麻酔から覚めると、枕元には夫の川下さんがついていてくれた。
「子どもは?」
「うん、元気」
「名前、決めた?」
「まだ、決めてないんや」
  大平さんは、何かがおかしいと、その時点で気づいた。
  「妊娠中から女の子とわかっていましたから、名前は悠か唯、どちらかにしようと決めていたんです。主人は子どもの顔を見て決めると言っていたので、おかしいな、と」
  ご主人が家に戻ると、入れかわりに主治医が病室を訪ねてきた。
  「お子さんのことは、ご主人から聞かれましたか?」
  「いえ、別に」
  すると、医師も子どものことにはそれ以上触れない。
  今度はご主人が友人夫妻と一緒に病室に戻ってきた。帝王切開と同時に摘出された筋腫は13センチ大もあり、3千cc大量出血をした直後だ。極度の貧血だった。それを知っているご主人が、友人を連れてくることじたい普通ではない。
彼女は、ご主人を問い質した。
「どうしたん?」
  いつのまにか友人夫妻は廊下に出ていた。
「報告せなあかんことがある」
「なに?」
「実は、僕たちの子はダウン症なんや」
「ああ、そうかあ〜」
  覚悟は1分1秒でできると言った大平さんだが、実のところ、1秒とかからなかった。
  産後の肥立ちはすこぶる悪く、絶対安静を言われるなか、彼女は、看護師の目を盗んで、ダウン症の本を読みあさった
  「わかったのは、ダウン症は特に、赤ちゃんのときが重要だということでした。いろんな刺激を与えることが大切で、赤ちゃん体操なども出ていました。でも、うちの子は、先天的に心臓が悪いこともわかっていたので、激しい体操はできません。とにかく刺激をと思って、保育器から手を入れ、悠の指をさすりました。『はるちやん』と名前を呼んでは、さすり続けたんです」
  大平さんの体調が悪く、NICU(新生児集中治療室)に行けないときは、ご主人が代わりにさすった。
  大平さんならではの子育ては、すでに入院中から始まっていたのだ。


自然の刺激は何より。雨でも雪でも1日3回の散歩は欠かさない。休日にはパパも加わり淀川の土手へ

 

何もかも手探りだらけの子育て。はるちゃんも懸命に生きている


母子が向き合えるおんぶひもはスウェーデン製。会話が止まらずに続く

 年が明け、悠ちゃんの心臓に開いていた穴を塞ぐ手術があった。7ミリと言われていた穴は2センチもあったが、悠ちゃんは手術に耐えた。
  その後も、肺高血圧症の治療が続き、1歳3ヵ月の現在でも甲状腺機能などの検査が週1回、心臓内科が月1回、耳や目の検査が3ヵ月に1回と、通院は続いている。
  「検査は、特に3歳までが重要と言われました。どこかに異常が現れたとき、早期に発見できないと、脳の形成に影響することがあるそうです。
  これから風邪やインフルエンザの季節です。悠は抵抗力がないので、この季節、人込みにはぜったいに出られませんね。もちろん私も風邪をひくわけにはいきません」
  かつての厳しい顔がチラリと覗きそうになる寸前、悠ちゃんがダダダーッと近寄ってくる。そして、「バアバア、ダアダア」と、一生懸命、何かをママに喋っていた。
  「実は、8月ごろから私たちははるちゃんの『お父さん』『お母さん』を聞き分けているんです。私たちにはわかるんですよ。あ、これ、親バカですかね」
  苦笑しながら、大平さんは続けた。
  「最初は『この子、声の出し方、知らんのとちゃうか?』から始まりました。耳は聞こえているのか、目は見えているのかと、すべて手探りの子育てでした。病院でも、保育器越しに指をさすりながら『あ、私を目で追うてる?』『気のせいかなあ』『いや、やっぱり追うてる』と、主人と毎日、真剣に議論したりしていましたね」
  そういえば、2月の時点では哺乳瓶からミルクを少量飲ませた後、鼻から胃へ通したチューブでミルクを流し入れていた。そのチューブがない。
  「そうなんです。あの取材から1ヵ月くらいして、チューブを取ろうと思ったんです」
  大平さんは、うれしそうに声を張り上げた。
  体力のない悠ちゃんは50ccのミルクでも哺乳瓶から飲むと30分以上かかった。それを補うための鼻のチューブなのだ。チューブを取ると、2時間おきに授乳しなければならない。ミルクの準備から合わせたら実質1時間おきだ。
  大平さんも極度の貧血で点滴をうちながらの育児だったから、医師は当然、猛反対。
  「そんなことをしたら、お母さんが倒れてしまいますよ」
  しかし、大平さんはあえて哺乳瓶のみに切り替えた。
  「もたんかどうかは、やってみんとわからへん」
  最初は哺乳瓶から10ccしか飲んでくれなかった。10cc飲むと、悠ちゃんは自然に頭の上に置いてあったポリ容器を探した。ポリ容器から鼻チューブで飲むことを、悠ちゃん自身、学習していたのだ。
  大平さんは根気強く哺乳瓶を小さな口にあてた。ポリ容器を探そうと、腕をあげる悠ちゃんに、
  「もう、ないよ。はるちゃん、ほんとにもう、ないんだよ」
  すると、悠ちゃん、なんとガーッと一気に50cc、哺乳瓶のミルクを飲んだのだ。
  「もともとダウン症の子は要求が少ないといわれています。でもチューブに頼らないことで、お腹がすけば、やっぱりミルクをせがむんですね。ダウン症のこの子が、お腹がすいたことをアピールするのはすごいことだと思ったんです」
  以後、1回に飲むミルクの量はどんどん増えた。120ccまで一気に増えたが、もどしてしまう。少しずつ増やすことにして現在は1回に100cc。子どもの様子を見ながら調整できるのは母親ならではだ。
  悠ちゃんはクマさんの絵の哺乳瓶でコクンコクン、おいしそうにミルクを飲んでいた。

 

'07年9月7日、忘れられない日。悠ちゃんが“立っち”した!!


9月7日、はるちゃん初めての“立っち”を大平さん自ら携帯で撮影


絵本を読み始めるとハイハイで近寄ってくる。「本好きはパパ似やな」


 

 ダウン症の子は要求しない。そう知っていても、そこで諦めないのが大平流なのだろう。
  要求する人になってほしい。要求するのは生きるため。生きようとする力があるからだ。
  ほとんどの母親が、つけないように努力する“抱き癖”も、大平さんはあえてつけた。
  「わざと抱き癖をつけ、その後、泣かないと抱かないようにしたんですね。すると“抱っこ”を要求してくる(笑)。
だって、放っておくと、この子、全然、泣かない子でしたから。生まれた直後から、そういう小さなこと一つ一つを積み重ねてきたんです。そうそう、離乳食もね」
  と、クスッと笑う。
  「悠は『こんな赤ちゃんのもの食べられるか』っていう態度なんですよ。そういう子は大人のものなら食べると聞いたので、試してみました。
  サワラのムニエル、蕪と鶏の炊いたもの、サツマイモのスープを細かくしてあげたんです。喜んで□には入れてくれたんですけど、モグモグしないで、飲みこんじやって。結局、全部、もどしちやった。だから、これからは料理を当たり鉢でつぶして与えることから始めようと思います」
  リビングには、鳥のさえずりが流れている。CDだった。
  鳥の声を聞きながら、大平さんは鳥の絵と名前を書いたカードを悠ちゃんに見せる。鳥の名前はすべて漢字だ。
『目白』『川原鶸』『四十雀』
「悠、いくで。はい、メジロ、メジロ。カワラヒワ。シジュウカラはどんな鳥かな」
  悠ちゃんは、カードを手にとって、□へ持っていく。
「あっ、また舐めたあ。ごめんなあ。唇にインクがついてしもうたなぁ」
  太平さんは、慌ててタオルを濡らしにキッチンヘ人った。
  「紙のままだと、悠が噛んで文字が滲むので、ビニールコーティングしているんですが。これはし忘れたなあ……」
  読み聞かせるのも絵本、そして論語! 歌も、手作りの歌詞カードを見せながら歌う。
  「ダウン症の子は、言葉だけだと習得しにくいため、文字も絵も数字もカードにして、見せて、語りかけているんです」
  視覚と聴覚を同時に刺激する。ダウン症児教育というより、まるで英才児教育のようではないか。
  『九九』も『あいうえお』も生まれたときから聴かせている。
  「とにかく五感に訴える親子のコミュニケーションを心がけています。あとは、褒めて育てること。寝返りしても、おっしっこでも『上手やねぇ』『賢いねぇ』と、1日100回は言ってますね」
  お母さんが自分のことを褒めるのがうれしいのか、悠ちゃんはいきなり両手を挙げて「あーあー」と笑った。
  「そっか〜、うれしいか。バンザイか。♪キ〜ラキ〜ラ光る、お空の星よ」
  大平さんが歌いだすと、悠ちゃんは上げた両手をヒラヒラさせて踊った。
  記者の鉛筆、カメラマンのカメラ、何にでも興味を示す悠ちゃん。ダウン症の子は反応しないなどということは、悠ちゃんに限って、ない。それもすべて日々の五感コミュニケーションの賜物だろう。
  悠ちゃんも感じているのだ。お母さんが喜ぶと、自分もとってもうれしいことを。
  ハイハイを始めたのは1歳になる直前だったが、すぐにテーブルの端につかまって、“一人で立っち”もできてしまった。
  大平さんはビックリしながら携帯で撮った写真をご主人に送った。
  川下さんも弁護士だ。緊張が途切れない仕事の真っ最中にもかかわらず、すぐに返信メールがきた。
「やったあ!」
  短い言葉に、父の喜びがあふれていた。


「早く歩きたいなぁ」ーより自然豊かな環境を求めて引っ越し計画も進行中

 

「幼少期の子育ては、やり直しがきかない。だから、この子のそばにいたい」

 '07年2月の取材時、大平さんはこう言っていた。
「弁護士の仕事にも復帰しますよ。手始めに、ベビーシッターにはるちやんを預け、1時間だけ買い物に出たり、主人に育児休暇をとってもらってクライアントと打ち合わせをしています。来年('08年)から、本格的に、復帰したいですね」
  その“来年”が目前だ。ところが、今回、大平さんはこともなげにこう言った。
  「本格復帰? あれはスパッと諦めました」
  夏前のことだった。ベビーシッターに預けていったん出て、忘れ物に気づき家に戻ると、悠ちゃんがこれまで聞いたこともない声で泣いていた。
  「聞けば、最近、ずっとそうだった、と。で、私の顔を見るとピタッと泣きやむんです。これはあかんと思いました。この子が大きくなったとき、あのとき、もう少しかかわってやったらと思っても、もう戻れないですからね」
  背景にあったのは、少年事件を手がけた体験だった。
  「少年少女のお母さんたちの多くが言っていました。『もう一回、この子をお腹に戻して、やり直したい』と。幼少期の子育てはやり直しがきかない。だから、今はこの子を第一に考えよう。せめて3歳になるまで、そばにいて一緒に過ごそうと思ったんです」
  早期の弁護士復帰を考えたのも、事件の子どもたちが「親に『おまえのために仕事を辞める』と言われると、かえって負担に感じるから辞めないでほしい」と、言っていたからだという。
  しかし、悠ちゃんを見ていると、少なくとも今は、一緒にいてあげることが、何より大事なことに思える。
  「だから、シッターさんに預けても大丈夫と思ったとき、復帰しようと思います」
  幼稚園も、普通学級に入れるか特別学級に入れるかは、そのときに決める。その時点での悠ちゃんの状態しだい。子どもは一人一人皆違うのだ。それは、ダウン症であっても、なくても同じこと。
  「私は、親としてしっかり見極めてあげたいだけなんです。病気のことは信頼できるお医者さんに任せるしかない。でも、子育てはやっぱり自分で考えて、自分でできることを、できるかぎりやりたい。そういつも主人と話しています」
  午後3時からは、お散歩の時間。悠ちゃんが大好きなお散歩だ。淀川の土手が、いつものコースだという。
  悠ちゃんは抱っこ。眠ってしまったときのために、親子が向き合える位置になるバギーも押して、往復でゆっくり40分のお散歩に出る。
  「はるちゃん、きれいなお花が咲いてるでぇ。あ、鳩ポッポさんが『こんにちは』言うてるで」
  のどかな会話だけではない。銀行の前にさしかかると、大平さんは構わず悠ちゃんにこう語りかけていた。
  「あらら、また、株価がこない下がって。サブプライム問題で、日本の経済はどないなるんやろ。なあ、はるちゃん」
  悠ちゃんはキョトンとしていたが、そのうち日本の金融問題について語りだすかもしれないと、大平さんは笑った。
  「段差のあるベビーベッドは取り払って、今はダブルのお布団を2枚敷き、親子3人、川の字で寝ています。真ん中で寝ている悠は、いっときもじっとしてませんよ。ときどき顔面キックがくる(笑)。でも、そんなときがいちばん幸せを感じるかなあ」
  波瀾万丈、激動、壮絶、どんな言葉でも表現できないほどの人生を40年間歩んできた先に、大平さんかたどり着いた幸せが今、ここにある。
  「そうですか。私としたら、毎日、母親らしいことは何もできてへんなあという思いですよ。それでも頑張れるのは、少しずつ、この子と前に進んでいるのがわかるから。ハイハイができた、キラキラ星が踊れた、つかまり立ちができたって……」
  大平さんは、ふいに立ち止まった。バギーの中で、悠ちゃんは寝息をたて始めている。色白の愛らしい顔を眺めながら、大平さんは吐息のようにそっと言った。
  「この子とともに、私自身もゆっくりと、成長しているのやなぁ」

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