第236回都市経営フォーラム
チャレンジド(障害のある人)をタックスペイヤーにできる日本
2007年9月20日発行より転載

第236回都市経営フォーラム

チャレンジド(障害のある人)をタックスペイヤーにできる日本

講師 竹中 ナミ 氏
社会福祉法人 プロップ・ステーション 理事長

チャレンジド(障害のある人)をタックスペイヤーにできる日本

與謝野 それでは、時間が参りましたので、本日の236回目の都市経営フォーラムを開催させていただきます。

 本日は、ご案内のペーパーの通りでございますが、地域社会において大変たくましく、堅実に、またチャレンジャブルにユニバーサル社会の実現を目指して多くの困難を越えてご活躍されているリーダーご本人を講師としてお招きしまして、後で詳しいご説明がございますが、「チャレンジド」と表現される障害を持つ人を含む全ての人たちが支え合うユニバーサル社会を構築する活動の実態について、お話しいただき、広範な就労の場を創出できる柔軟な社会システムのありようについて、皆さんとともに学びたいと思います。

 本日、講師としてお招きしました方は、社会福祉法人プロップ・ステーション理事長の竹中ナミ様でいらっしゃいます。竹中様におかれましては、お忙しい中を誠にありがとうございました。

 竹中さんのプロフィールにつきましては、お手元のペーパーの通りでございますが、これまで内閣府、総務省、財務省の多くの審議会委員を務めておられまして、1995年から今まで11回にわたりチャレンジド・ジャパン・フォーラム国際会議を主宰してこられた方でございます。関西人を標榜する超元気なナミねぇさんでいらっしゃいます。ご自身の呼称については、後ほど自己紹介があると思います。

 本日の演題は「チャレンジドを納税者にできる日本」と題されまして、働く意欲を持つあらゆる境遇におられる方が、「弱者は手当てを受ける側の人」という既成概念を超えて「弱者も納税を通して社会を支える側に立つ」という認識のもと、逞しく活躍することのできる社会システムのあり方、さらに人間の能力の計り知れない姿とこれを支えるITの可能性等々について、ご自身のご体験とご自身の言葉から熱く語っていただけるものと楽しみにしております。

 それでは、竹中ナミさん、よろしくお願いいたします。(拍手)

竹中 皆さん、こんにちは。今ご紹介いただきましたプロップ・ステーションの竹中ナミこと「ナミねぇ」と申します。ニックネームで紹介してくれという大変失礼なことを申し上げましたけれども、私、日頃から、友達も、一緒に活動している仲間も、応援して下さっている人たちも、全員が、「竹中さん」とか呼ばずに「ナミねぇ」というニックネームの方で呼んで下さっていまして、本人も、何歳になっても「ナミばぁ」ではなくて、「ねぇ」でいたいなということがありまして、今日も、皆さん方にも、是非、「ナミねぇ」というニックネームの方でご記憶をいただければ、と思っております。

 関西人を標榜すると言われましたが、標榜しているんじゃなくて、コテコテの関西人でありまして、神戸生まれ神戸育ちです。活動を始めて何年間かは大阪にも拠点を置いていたこともありまして、本当に「関西まみれ」の人間です。

 今お聞きしますと、與謝野さんも実は関西の方で、しゃべっているうちにだんだん関西弁になるで、と言われまして、できましたら、この後ずっと関西弁でおっていただいたら嬉しいかなと思います。

 関西人というのは、東京の方と違うてという言い方はおかしいんですけれども、関西人独特のノリが幾つかありまして、しゃべって笑いがとれなかった時は帰れというのが1つあります。それから、やることが、こうやったらこうなって、こういう成功の道があるというふうにきちっと計画を立てて、行ける、よし、ゴー、というんではなくて、行きながら考えてみよう、転がりながら考えてみよう、失敗したって、どうせ自分が始めたことやし、命までとられへんみたいなんが関西人の気風であります。

1.プロップ・ステーションの新しい福祉活動
〜最先端科学技術で、障害のある人を、働ける人、社会の支える側へ

 その中でも、とりわけ私は無謀な人間でありまして、今もご紹介の中にありましたように、障害のある人たちが日本の国で税が払える、社会を支える側になれる人たちへということを目標に掲げました。ただ、そういう目標を掲げても、本人の意思とか意欲だけでやれるものではないので、そのための何か大きな道具と言いますか、ツールが必要であろうと。たまたま私たちが活動を始めた時にコンピューターというものが日本に上陸を始めた。16年前、1991年の5月に小さな草の根のボランティアグループで私たちは発足いたしました。

 コンピューターという道具を使って、障害があって、とりわけ、その障害が重くて家族の介護を受けているとか、家族の介護も無理になって施設におられる、進行性のご障害で病院のベッドの上におられる、それまでの世間の、社会の常識では、福祉の受け手、税の受け手である、この人たちに、よもや働けなんていうことを言っちゃいけないし、想像もできない。その人たちは社会から支えられる人である、というふうに誰しもが常識として思っていることを、いいや、その人らの中にも社会を支える力がある、ただし、それを発揮していただく、力を発揮していただくためには、本人の努力だけではなく、社会全体がそうしようという意思を持ち、そのために必要な道具も使っていかなあかんやろうという発想で、資料の2ページ目にあります「Challengedを納税者にできる日本」、これが私たちのキャッチフレーズと書かせていただいています。

 その当時としては、非常に無謀なと言いますか、異端な、こういうキャッチフレーズを掲げて活動を開始したわけです。

 今16年前にと言いましたけれども、実は16年前というのは、皆さんご記憶かもわかりません。パソコンは、日本の一般家庭に0台だったんです。1台もなかったんです。コンピューターというのは、企業の経営中枢とか研究者の中では使われ始めておりました。ですけど、それはパーソナルコンピューターという机の上に載るような個人ユースじゃなかったんですね。冷蔵庫よりごつい機械、箱みたいなのが並んで、中でリールがゴーッと音を立てて回っているみたいなものがコンピューター。

 その当時、コンピューターの未来をどう言っていたか。コンピューターは凄い道具や、人工頭脳、人間の知恵と肩を並べるぐらいのことができるようになるやろう、と研究者の方は言っておられました。しかし、コンピューターがそんなことができるようになるには、霞が関ビルぐらいの大きさにならないと無理やとか言われていた時代なんですね。大きくしていかへんかったら、コンピューターの性能は良くならないと言われていた時代です。

 その当時に、コンピューターというものや、そのコンピューター同士がつながるネットワークを活用して、介護を受けている人が働いて稼いで、タックスペイヤーに、というのは、それはめちゃくちゃな話なわけです。

 おかげさまで、私たちこういう活動を始めましたけれども、ようけ石が飛んできます。とりわけ、福祉世界と言われるところにおる方々から、異端扱いというか、変なやつ扱いを受けました。福祉というのは、困っている人たちに税からどれだけとってきてあげるか、これが福祉で、福祉家と言われる人は、それがきちっとできる人や。そやのに、何や、あんたらは「税を払おう運動」をしている。納税協会の回し者か、とかいろんなことを言われました。或いは、高いコンピューターをそういう人たちに売りつけるん違うかとか、いろんなことを言われました。

 ですけど、実はこういう目標を持った活動をやろうと言い出したのは私1人じゃなかった。私と一緒に、この活動を始めた青年の話をさせていただきたいと思います。

 彼は、高校生の時に、凄く優秀なラグビーの選手でした。某中・高・大・大学院の私学の一貫校の高等部で、関西でラグビー、アメフトが強いと言ったら、大体どこら辺かおわかりかと思うんですが、その高等部で、明日は多分、世界に羽ばたくラガーマンになられるだろうというぐらいの、ラグビーセンスのある優秀な選手やった。ところが、試合中の怪我、ラグビーとかアメフトは怪我が多いんですが、彼も骨を折ってしまった。その骨が鎖骨とか足首とかだったらまだよかったんですが、首の骨だったんですね。首の骨ですから、当然、首の骨の中に頸椎がある。人間の命をつかさどったり、動かしたり、心臓を動かしたりしている、中枢の頸椎が通っているんですが、そこを損傷してしまった。

 救急車で運ばれて入院して手術を受けて、必死のリハビリをしたんですが、お医者さんが「もう、君、これ以上手術しようが、リハビリしようが、状態は改善されることはないから、家に帰って療養しなさいよ」と言われた時に、そのスポーツマンやった青年が、自分の意思で動かせるのは、左手の指先側と首が左右に90度弱、これだけになっておったんですね。明日は世界に羽ばたくラガーマンというておった子が、ほんの一瞬のスポーツ事故でですね。

 そういう状態になって家に帰ってこられて、もちろん本人も家族も、暗い、暗い、どん底の精神状態になられたんです。お布団から起きるところから着がえること、入浴すること、下のこと、食事のこと、全部ご両親の介護が要るようになって帰ってきはったんですが、何カ月か経ってから、その自分を介護してくれている両親に、寝たきりの彼がこう言ったんです。「僕ね、これ以上くよくよするのはやめる。くよくよしたって、この体では自分で死ぬことすらできないんやから、くよくよするのはやめる。それで、僕な、自分に考える力が残されているというのに気がついたんや。だから、僕はこの考える力を磨いて何とか働けるようになって社会復帰をしたい」と言ったんですね。そうは言っても、その息子は、今や寝たきりで全面介護で、下の世話も要るようになっておるんですね。普通、そういう家族が、「働きたい」と言うたかて、ご両親、ご家族は、どう言いはりますでしょうか。

 「おまえ、そんな体で、そんな無茶なことを考えんでいい。父ちゃん、母ちゃんが一生懸命働いて、おまえの世話をしてやる」とか「おまえのために何ぞ残してやるから、そんな無茶なことを考えんでいいよ」とか言われたって、別に不思議ではないと思うんですが、彼の両親は違っていたんですね。寝たきりになって考える力が残されている、これを磨いて働けるようになりたいと言った息子に、こう言わはった。「そう、おまえ、そんなら働けるようになれ」、すかさずこう言わはった。それに続けて、「おまえ、働けるようになりたいんやったら、我が家の長男やさかいに、家業を継いで働けるようになれよ」と、寝たきりの息子に言わはったそうです。

 彼の家の家業って、何やということなんですが、割とええしのボンで、家業が3つもあったんです。広い敷地に家があって、その敷地の半分で田畑をやってはった。農業ですね。これが1個目の家業です。残る敷地の半分で、樹木いっぱい植えて3代続いた植木屋さんをやっておったんです。植木屋作兵衛という屋号でした。それが2つ目です。3つ目は、残る敷地に高級マンションを建てて、そのマンション経営をやってはったんですね。この3つの家業をやってはりました。

 私ら貧乏たれでしたから、私らから見るとごっついええしのボンですね。そやから、ご両親が、「おまえのために何ぞ残したるから、働くなんて無茶考えんでもええ」と言うたって、何も不思議じゃないんだけど、彼の両親は彼の目を見て、彼の中にある熱いものを見て、「そうか、働けるようになれ。でも、家業を継げ」、こう言わはった。

 結論から言いますと、彼は今、この3つの家業のうちの1つを立派に継いではるんですね。

 ちょっと、皆さんに質問をさせていただきたいと思うんですが、彼は、この3つの家業のうちのどれを立派に継いでおられるでしょうか。農業と思われる方。──7〜8人ですね。ありがとうございます。

 植木屋。──植木屋のほうが2人ぐらい多いですかね。

 マンション経営。──マンション経営が一番多いですね。一番前にいらっしゃる方、何でマンション経営やと。

会場 それこそいろいろ頭を使うこと、ほかの農業や植木屋さんも頭使うでしょうけれども、頭を使って一番効果があるのはマンション経営かなと思ったんです。

竹中 という理由で、一番たくさんの方が手を挙げられたかなと思います。正解です。ピンポンです。

 やっぱり彼も、家業ですから、子どもの頃から親孝行な子で、よう手伝うておりました。農業も植木屋も。でも、どっちも、今おっしゃったように、肉体を駆使するんですね。農業は田植えをせなあかんわけですし、植木屋は木をトラックに積んで、石をガラガラと引き上げたり。やっぱり指だけでやるというのは……。だけど、マンション経営やったら、言われたみたいに経営の知識を身につけたり、経済の情報をきちっと身につけたり、経営者としての能力があればできます。

 それから、当時は、まだパソコンはなかったんですが、企業経営にコンピューターというものが使われ始めているのを知識としては知っていたわけです。データベースとかそういうもののソフトを開発することによって、経営で使っているという知識を彼は持っていた。そういうコンピューターの勉強をしたら、自分のマンションを経営するためのソフトをちゃんとプログラミングできたら、経営能力も勉強して身につければ、やれるかなと思ったわけです。

 そう思った彼は、マンション経営者として立派になってみせる、父ちゃん、母ちゃん、いつか食わせたる、みたいなことまで言わはったんです。

 その彼が、最初にしようとしたことは何かと言うと、彼は高校3年の時にそういう体になったんですが、中高大学の一貫校と言いましたが、大学部に入学を果たして、そこで経営の勉強とかコンピューターの勉強をしよう、と決意したわけです。必死で勉強しまして、大学に願書を、出しました。ところが、大学部は彼の願書をそもそも受け付けなかった。何でか。彼は鉛筆も持てない、消しゴムも持てない、答案用紙だってめくれない。試験を受けると言ったって、自分1人で試験会場に来れるわけでもないんですね。だから、その大学の入試の窓口の人は、「残念やけど、君のその体では受験すること自身が無理やさかいに、あきらめ」と言わはったんですね。

 実は、彼は、あきらめと言われた時に、私に言ってくれたんですが、自分がもうこれ以上リハビリしても体がようならへん、一生寝たきりや、自分で死ぬこともできへん、というのが分かった時も凄いショックやったけど、「おまえ、試験受けられへんぞ」と言われた時は、別の意味で、もっとショックだった。唯一考える力が残されている、これを磨いて、と思った未来が、全部シャッターが下りたみたいな気になったんやと言うてました。

 ところが、さすがにラガーマン、スポーツマンやと思います。彼は、めげなかったんですね。彼は、フッと、こういうことを思いついたんです。その当時日本では、さっき言うたみたいに、まだパーソナルコンピューターは一般的でなかったんですが、ワープロ専用機というのが売り出されていました。思い出してもらったら分かると思いますけれども、日本ではワープロ専用機というのが、先に家庭に普及したんですね。その後、コンピューターがダウンサイジングとか言ってパソコンになっていった。今は日本ではワープロ機能は全部パソコンがやりますから、ワープロ専用機は製造もされなくなりました。その当時は、ワープロ専用機を使っている家庭はあった。でも、パソコン使っている家庭はなかった時代です。

 彼は、そういう体になってから、ベッドの上でワープロ専用機で、わずかに動く指先でずっと日記を書いてはったんですね。つらいことも悔しいことも、自分の夢も一生懸命書きつづってあった。彼、「あっ」と思ったんです。この自分が使っているワープロ専用機を試験会場に持ち込ませてもらって、当時はフロッピーです、フロッピーで試験問題をもらえたら、鉛筆持てんでも、消しゴム持てんでも、答案用紙をめくれんでも、自分は試験が受けられると思った。それで、大学に、それをお願いしたんです。

 ところが、大学は、それも「ノー」と言わはったんです。何でか。「前例がありません」、こう言われた。試験を受ける時に、鉛筆や消しゴムの代わりに、そういう機械を持ち込んで試験を受けるようなことは、誰にも認めたことない。そんなことを、君だけに認めるわけにはいかない。そんな試験の受け方をさせてあげることは無理ですと言うて、断られました。でも、彼はあきらめなかった。そうやれば絶対試験を受けられると思った。

 彼の友達、両親、ラグビー仲間、みんなが大学にお願いに行ったんです。「頼むから彼にチャンスをやってくれ。成績が悪いのに通せとか、そんなことは絶対言わへんけど、彼が試験を受けるというチャンスをやってくれ。成績悪いからあかんかったら、また彼は来年、再来年と頑張れる奴やから、頼むからチャンスをやってくれ」と言って、みんなが頼みました。ついに大学は、彼にワープロを持ち込んで、フロッピーで試験問題を入力したやつで、試験を受けることを許可したんです。

 彼は、日本で初めて試験に道具を持ち込んで、いわゆるITのような道具を持ち込んで受験した人になったわけです。何と見事に合格しました。大学4年間、経済の勉強、経営の勉強、コンピューターのプログラムをやりました。経営、経済の勉強は結構いいところまで行きましたが、その当時のコンピューターというのは、全てプログラミングをして動かすということですから、物凄い高い技術、専門的な技術が要ったんですね。今やったら、買うてきたやつに、ワープロソフトも入っている、データベースも入ってたり、てんこ盛りになっている。表計算と言っても、クリックしてそれを立ち上げればいい話ですけれども、その当時は、自分のマンション経営に使うソフトやデータベースと言ったら、その仕様書から全部自分で組み立てなあかん。つまり、データベースソフトから作らなあかん、みたいな時代ですから、彼は大学4年間で、自分で納得できるところまでコンピューター技術を磨いた。

 何と、友達に頼んで「大学院まで、俺、行きたい」と言ったんですね。その彼の大学生活、実は、両親だけじゃなくて、ラグビー仲間とか先輩、後輩が彼の身辺を介護するチームを作りまして、ローテーションで支えられて、彼は大学に通っていたんです。だから、大学院まで行くと言ったら、またその仲間たちのそういう支えがないと行けないわけです。仲間に相談したら、「おまえ、せっかくここまで来たんやからやれ。俺たち、このチームをずっと続けて輪を広げてやる」と言って、彼は大学院まで行きまして、理工学の博士課程を修了して、自分なりに納得できる自宅マンションを経営するソフトを作って、経営者として始めたんです。

 ある日、電話がかかりまして、「ナミねぇ、ナミねぇ、なかなかマンション経営うまいこといっているから、見に来てや」と言った。私、行きました。私自身はコンピューターのコの字も、当然知らない。機械系なんて大嫌い。飛行機なんて、あんな鉄の塊が空を飛ぶのはあやかしや、乗らへんみたいな人間やった。機械とか言われただけで震えるぐらい。一体どないしてやっているんのやろう、と思って行って見ました。

 彼のマンションのお部屋、管理人室ですね。管理人室に入ってみると、まだ、こういうおしゃれなパソコンなんかないですよ。業務用がダウンサイジングされて、デスクトップ型になったというの、がデーンとゴツゴツしたまま置いてあって、わずかに動く指先で彼はガチャガチャガチャ。

 まあ、何とびっくりしました。彼の説明を聞いていたら、これやったら、本当に間違いなくちゃんと経営ができるな、というソフトが組み上げられていたんです。仕組みは分かりません、私、コンピューター嫌いやから。だけど、これで入居している人たちの状況を全部管理して、この人からこういう相談があったら、こういう対応をして、引っ越しはる前に、こういう業者さんを頼んで、畳入れかえたり、全部データベースになっている。凄いなと思いました。

 凄いなと思ったんですけど、私、凄く親しかったので、「親しき仲には礼儀なし」という言葉をご存じでしょうか。関西では、そう言うんですね。(笑)言うたんです、彼に。「君な、凄いな。コンピューターでここまでやるとはさすがに凄い。だけどな、マンション経営って、コンピューターだけではできへんやろ。廊下のお掃除もあれば、壁にきれいなお花が飾ってある、こういうお花の世話とか、そんなのもあるやんか。そんなのどないするの。コンピューターでできひん」と言うたんです。

 彼はニコッと笑って、「いや、ナミねぇ、そんなこと何も心配せんでええ」「えっ、何で」と聞くと、「自分ら住んでいるこの地域に知的ハンディの人たちのグループなんだけど、お掃除とかお花の世話をきっちりやってくれるグループが幾つかある。そういうところに自分は経営者として声をかけて、ちゃんと募集をして、応募してきた人を、自分がちゃんと1人1人面接をして、きっちりお仕事してくれる人を何人か雇用主として雇って、お給料をちゃんと出して、お給料の計算、税金の計算、入ってくるマンションの経営の収入の計算から税務申告のことまで、全部データベース作ってやっているねん」と彼が言うたわけです。びっくりしました。凄いなと思った。自分の想像を、はるかに超えていましたから。

 彼に言うたんです。「私、君がマンションの管理人のおっちゃんになったと思って見に来たんやけども、あんた、マンションの管理人というイメージと違うな。あんた、堂々たる青年実業家やんか。凄いな」。だって、何棟も建っている高級マンションです。「青年実業家や、カッコええわ、カッコええわ」と言いながら、「あれっ」と思ったんですね。

 何でか。その当時、彼のように、お布団起きるところから介護が要る、顔をふいてもらわなあかん、お食事の世話をしてもらわなあかん、着がえさせてもらわなあかん。お風呂入るのは、その当時は、まだ高齢社会と言うわれる前ですから、電動リフトみたいなのは売ってない。父ちゃんが自分で設計して鉄工所屋さんに頼んで作ってもらったレールに、植木をつり上げたり石をつり上げる鎖をぶら下げて、その先に彼を乗せるための母ちゃんがキャンバス地で縫ったようなやつがあって、それで彼をお風呂まで運んだり、食堂まで運んだりしてはる。下のこというたら、おしっこの方は細い管みたいな、カテーテルというんですけど、それを通して、排尿排便感覚ない、自然におしっこが出てきたものがタンクに溜まるようにして、それを車椅子につけてはるんですね。大の方はと言ったら、週に何回か家の中の1室にビニールシートみたいなのを敷いて、腸まで届く医療用の浣腸器というのがあるんですが、それで家族が排便介護をしはる。

 そういう人というのは、それまでの日本では、誰に聞いても、かわいそうに、気の毒な、大変な、ご不幸な人だったんですね。それ以外に言いようのない人です。そういうふうに家族がなった、或いはそういう家族がいらっしゃる家族もまた、気の毒な、ご不幸な、さぞ大変な、おつらいでしょう、という家族。これが常識だったんですね。

 ところが、私の目の前にいてる青年が、目をキラキラさせて、仕事の話、マンションの経営の話、こういうふうに人を採用して働いてという話をしはるわけです。その横でお父ちゃんとお母ちゃん、ニコニコ笑って「うちの息子、凄いでっしゃろ」と言うているんですね。何でこんなことが起きたか。日本の常識にはなかった、何でこんなことが起きたんかなと私考えたんです。

 そしたら、それには3つの理由、ポイントがあるなと思いました。

 1個目は、彼自身が自分の残された力を磨いて働けるようになりたい、という思いをずっと持ち続けて、努力をされたということ。

 2番目は、彼の友達とか家族、周りの人たちが、彼が働きたいとか大学に行きたい、経営者になりたいと言った時に、「おまえ、そんな体で無茶やとか、無理やとか、不可能や」と言って止めるんじゃなくて、「無茶かも分からぬ、無理かも分かぬ、不可能かも分からぬけど、おまえがすると言っているんやったらやってみい。それを応援するで」と言って、そっち向けに、みんなが手を差し伸べた、サポートしたということ。

 3つ目は、もちろん、彼がわずかに動く指先で、電動車椅子を操縦して移動してはる。そういった道具もそうでしょう。でも、何よりコンピューターという、彼が考えたことを社会に役立つ道具として、ソフトウエアとして組み上げることができた、コンピューターという道具があったからですよね。コンピューターというのは、何遍も言っているように、その当時一般的な道具ではなかった。つまり、こう言い替えてもいいですね。その時代の最高の最先端の科学技術。

 本人の意思と、その意思を応援しようという周りの人の行動と、最先端の科学技術、この3つが組み合わさって、この3つがポイントで、彼は今、私の前に、かわいそうで気の毒でご不幸な人ではなくて、介護はもちろん必要やけど、堂々たる経営者として、お父さん、お母さんにとっても誇らしい、愛しているだけではなく、誇りと言える子どもとして、息子としていてはるのや、ということが分かりました。その瞬間に、私、彼に「今までの日本の福祉って、どえらいもったいないことしてたな」と言いました。

 何でか。日本の人たちは優しいです。側隠の情とかいう言葉もあります。優しい。ですから、自分より弱いと思われる人たちを見た時に、手を差し伸べてあげよう、何か手伝ってあげようとしてきたんですね。だけど、その時に着目していたのは、かわいそうやな、という言葉で分かるように、その人のできないところ、無理なところ、不可能なところ、自分はできるけど、この人は無理やというところだけを見てきた。そこが着眼点。で、かわいそうやから、気の毒やから手を差し伸べてあげようとやっていた。手を差し伸べてあげようとか、その人の力になってあげたいという気持ちは、物凄く重要な気持ちで、誰1人失ったらいかん気持ちであるにもかかわらず、着眼しているのは、自分にはできるけど、この人にはできへんやろうというところだけで、結局は、その人の中に隠れている、或いは隠れているかも分からん可能性の方には、蓋をしてしまっていた。目を向けていなかった、ということが分かったんです。

 えらいもったいないことを、日本の福祉はしてきたね。税で補填をするにしてもそうです。この人たちは、何々できないから補助のお金をあげましょう。割引して何々してあげましょう、やったわけですね。

 彼に言いました。「私、新しいボランティア活動を始めるわ」「それ、何?」と彼が言うから、「今までのボランティア活動、その人、気の毒やな、何か手助けしようとやってきた。そういう活動はもういっぱいあるし、それはもうええと思うねん。そやけど、私、君みたいな人が次々生まれてくるように、その人がどんな障害があっても、その障害の陰に隠れているいろんな可能性を、人の力、科学技術の力、もしかしたら法律も必要かもわからん、そういうありとあらゆるものを使って、それを世の中に引っ張り出して、その人は、引っ張り出したことで少しでも社会を支える側の人になって、目をキラキラさせて、君みたいに、僕、これ、できるんやで、私、これがやれるんやで、と言えるような人になるような、そういうボランティア活動を始めるわ」と言いました。

 彼も、「俺もやる」と言いました。「俺も一緒にやる」。何故ならば、彼が入院していた時に、リハビリの専門病院におりましたから、彼のようなスポーツ事故とか交通事故、自殺未遂、今までバリバリ働いていたけど急に難病になられた、或いは生まれついての障害が、いろんな理由で重くなってこられた、そういう人が次々担ぎ込まれてきて、手術し、必死のリハビリをするけど、何らかの介護が必要な状態で退院した人のほとんど全てが、その当時は、元の学業に戻れてない、元の職業に復帰できてない。ましてや、新しい仕事になんか就けてないというのを、彼は入院の経過でずっと見続けてきたわけです。

 「だけど、自分がこのコンピューターという道具を使えるようになって、たくさんの人から、そっち向けに働けるように支えてもらって、ここまで来た。だとしたら、そういう人が僕だけじゃなくもっともっといるはずやし、僕よりもっと凄い人だって、これから生まれる可能性がある。だから、僕はそういう活動を、ナミねぇと一緒にやるわ」、「よっしゃ、やろう」。

 よっしゃ、やろう、となったけど、2人だけでは心もとないし、そういう目的のグループを作って、今までの福祉活動とは全然違うんやけど、そういうことを一緒にやろうという人、この指とまれと言って、声を上げようと、彼と話をしたんです。

 グループを作るんやったら、グループの名前が要るなということになりまして、私、彼に「何ぞ、ええ名前ないか」と聞きました。彼はすかさず「プロップという名前にしよう」と言ったんです。私、ムッとしました。

 私、見ていただいたら分かるように、ガキの頃からごついワルやったんです。日本の非行少女のハシリとか呼ばれているぐらいワルで、何が嫌いって、学校嫌い、勉強嫌いで、実は学歴も中卒で、国語、算数、理科、社会、ほとんどのことが駄目で、くっちゃべることはできるんですけど、勉強となるとからきし駄目みたいな人間なんです。特に横文字なんか言われると、「ジス・イズ・ア・ペン。アイ・アム・ア・ウーマン。マイネーム・イズ・ナミねぇ」とか、それ以上しゃべれん。その私に、知っているくせに横文字のグループの名前というのはちょっと止めてくれんかと。「ともしび」とか何かないのと言ったら、「いや、プロップや」「何やの、それ」と言ったら、彼は「実は、僕がラグビーやっていた時の、誇りあるポジション名やねん」と言ったわけです。

 私、ラグビーのことをよく知らなかったんです。『プロップ』というのは、スクラム組んだ時に一番下からガーッと支え上げる、彼も凄いガタイしておったんです。その支え上げる、一番怪我の多い役やったんです。「自分の誇りあるポジション名やった『プロップ』をグループの名前にしたい」と彼が熱く言ったわけです。

 私また、親しき仲には礼儀がないですから、彼に言いました。「私らはラグビーチームを作るんじゃないんやで。君の気持ちはわかる。もしどうしても『プロップ』という名前にしたいんやったら、せめてその意味を調べて、その意味が、私らがやろうと思っていることに何か合致している、なおかつ、君のポジョン名だったとしたら、受けちゃう」と言ったら、彼はすぐ調べました。「PROP」、プロップという意味は、支柱とか、つっかえ棒、支え合う、支える、そういう意味があったんですね。私、それ聞いて、特に3番目の支え合うという意味があるというのを聞いた時に、全身に電気が走ったような気がしました。それで、「よし、それにしよう」と言った。

 何でか。私と彼が一緒に組んで活動しようと言っているわけですね。彼は、私にない経営能力を既に身につけている。私が触るのも嫌なコンピューターの技術を身につけている。だけど、スポーツマンやったから、シャイで口下手な青年なんです。私はどうか。経営能力ゼロ、コンピューター触るのも嫌、だけど、口と心臓はギネス級なんですね。この2人が、お互いの弱点をつつき合いしとったら、組むことはできへんし、組んでも何の意味ないわけですわ。だけど、お互いの弱点はとりあえずええと。得意なところで組みましょうよ、と言ったら、コンピューターできて、経営能力あって、口と心臓の強い奴という、すげえことになるんちゃうの。

 要するに、それまでの日本では、こっちに障害のある人がいて、こっちに障害のない人がいたら、障害のある人は支えられる人、ない人は支える人、これ、常識。この間に支える、支えられるの線がバーッと引かれて常識や。だけど、今から、私らがやろうとしていることは、障害があるとかないとか関係ないねん。みんな自分のできる得意なことは出そう。とにかく磨いて出そう。苦手なことは得意な人と組んだらええやん。要は、今までの働き方の発想を転換する。そう考えたら、男性と女性とでも、若い人と年いった人でも同じですわ。みんな自分の得意なところを磨いて、それを出したいと思うなら、どんどん磨いて出そうよ。苦手なことは得意な人と組もうよ。そういう新しい働き方を、自分たちで、この世の中に生み出してみようという運動と言ってもいいわけですね。

 みんなが支え合いができる。どっちが支えられる人と決めつけるんじゃなくて、みんな必ず支え合いできるという考え方でスタートしようということですから、『プロップ』という言葉に支え合うという意味があるのは天の啓示かなという感じでしたね。「オーケー、よし」ということで、「プロップ・ステーション」というグループ名が決まりました。

 最初にしたことは、先程から言うているように、最高の最新の科学技術を使って、自分のできることを磨いて、それを世の中に発信する。最高の科学技術、最新のもの。その当時も、多分今もそうでしょう。このコンピューターですね。16年前には、人間のできるようなことに近づくためには霞が関ビルぐらいの大きさにならないかん、と言われていたものが、今や米粒のように、指の上に乗るICチップみたいなものも出てきた。それで制御して動く乗り物まであるような時代になったわけですが、その、最高の凄いスピードで進んでいく最高の道具をこそ、使い方を学び、そして、またコンピューターのネットワークでできることを世の中に出していく。

 私らみたいに、コンピューターは触りたくないけど、口と心臓がギネス級よという人間は、そういう人たちが働くための環境整備、仕事を探してきたり、その人が仕事に行けんでも、パソコンでつながっていれば仕事の方が来る、ということができるわけです。営業が苦手やったら、営業のプロが要りますね、ネゴシエーションのプロも要るでしょう。ちゃんと折衝をして、仕事を出す人も受ける人もお互いに納得するような話をまとめる人間も当然要るでしょう。そしたら、そういうことの得意な人と組めばいいという話なんですね。

2.プロップに一流が集まる仕組み
〜プロップの活動は、超高齢社会の価値あるソーシャルベンチャー

 私たちは、まずは一流の最新のコンピューターに最新のソフトウエアを入れて、最高のプロと言われるエンジニアや、一流と言われるクリエーターの人たちから技術を学ぶセミナーをやろう。その事業を、このプロップ・ステーションの最初の事業にしようと言って計画したんです。

 何人かの、「一緒にやろう」という仲間が集まりました。計画した。計画したけど、即、挫折しました。何でか。その当時、パソコン高かったんです。1台100万円ぐらいして当たり前。ソフトウエアだって高い高い。一流のエンジニア、一流のクリエーターと言いましたけど、私、一流のそういう技術者の人に聞きに行きました。「すみませんけど、あなた時給に換算したら、幾らもろうてはるんですか。失礼ですけど、ちょっと教えてもらえませんか」。16年前です。その当時は、今みたいに、石を投げたらコンピューターエンジニアに当たるみたいな時代と違いますよ。本当に企業の特別の部署にだけいてはる一流の人に聞きました。そしたら、その人、本当にさりげなくというか、当たり前のように、「僕ですか、そうですね、今、社内研修、或いは他所の会社に招かれてこの技術を教えるセミナーをやっていますけど、そうですね、時給8万か10万ぐらいですかね」。1時間、そういう人は8万か10万出さんとセミナーに講師として来てくれへん、というような時代やったわけです。

 何人か仲間が集まって、この計画を進めよう。プロップ・ステーションというグループが動き出して、最初にコンピューターセミナーをやるという計画が、財布のせいで、全員のお金を集めたって、チャランチャランしかないので、挫折をしようとしたんです。しかかったんです。お金もないのに、こんなことを言うたって夢物語じゃん、みたいなことで、みんなで「困ったな。立ち上げた途端に挫折って、嫌やな。コンピューター、どこかに転がってないかな、落ちてないかな」「そんないい話はないない」という関西人らしいノリで言っていた。誰かが、「そうや、コンピューターって、コンピューター作ってはるところに行ったらあるわ」と言い出して、「それはその通りや」「ほな、誰かがコンピューター作ってはるところに行って、お宅で作っている最新のコンピューター素晴しそうですね。是非、それを私たちのプロップ・ステーションの勉強会に何台か貸してもらえませんか、ただで。と言いに行ったらええんちゃうの」「オー、ええ考えやわな。ソフトウエアを開発してはる会社に行って、お宅のソフトウエア、最新の凄いらしいですやん。それを何本か提供してくれませんか、ただで。と言いに行ったらええんちゃうの」。一流の8万、10万取っている人に、「あなたのその素晴しい技術をここで伝授して下さいよ、ボランティアで。とか言うて行ったらええんちゃうの」「アホな」と言うてたんですけど、それしか方法ないん違うか、という話になりまして、「一体、そんなの、誰が言いに行くねん」と言うたら、仲間全員が私を指さして、「ナミねぇ、あんたや」と。

 他のみんなはコンピューターを使って、自分は何者かになるぞとか、或いはそれを教えていた側で、私だけが、「私はそうはいかない。私は口と心臓の役だけやる」と言うているんやったら、「ここはあんたが動くべきやろう」と言われて、それはそうやなと納得して、「よし、その役目は私がする」と言いました。

 言うたものの、幾ら口と心臓がギネス級でも、そんな、「ただで、ただで」と、言い歩けるほど図々しくはないわけで、さすがの私も悩みました。悩み抜いて、そうだ、こういうふうにお願いをしようという前に、こういうふうにだけは言わんとこう、という言葉が自分の中でしっかりと形を作ったんです。

 それは何か。例えば、コンピューターが作られているところに行く。その社長さんにお会いする。その時に「すみません。私たちのプロップ・ステーションというグループで、障害が重くて働くことのできない人たちが集まってきはりますねん。お願いですから、そういう人たちのためにお宅のコンピューターを何台かでいいから」というようなことだけは、口が裂けても言わんとこうと思いました。

 何でか。だって、そこへ集まってきて勉強しようという者たちは、みんなそれぞれ障害が重くて確かに介護も必要です。世の中では、かわいそうと言われているかも分からぬ。だけど、ここへ来て勉強する目標は何か。働けるようになりたい。働きたい。

 皆さん、企業人ばっかりですから、言わずもがなですけど、働くということは、自分で自分を支える意思であると同時に、自分も社会を支える一員になりたいという意思ですね。その凄い意思を持った人間たちに、同情で、かわいそうやから、気の毒やからとか、そんな気持ちでコンピューターやソフトウエアや技術が集まって欲しくはなかった。

 それで、結局、私はお願いに行った先で申し上げました。「私たちの勉強会から、必ずあなたの会社が欲しくなるような人が育ちます。或いは、あなたの会社が、お仕事を誰かにアウトソーシングでやってもらおうと思った時に、介護を受けているその場所ででも、きっちりやり遂げる人、しっかりやり遂げる人が必ず生まれてきます」と。

 それから、21世紀は超高齢社会と言われています。この活動を始めた時は、まだ20世紀でしたから、「来る21世紀は超高齢社会と言われています。高齢社会って、何ですか、見えにくくなる人、聞こえにくくなる人、指だって震える人、考え方だって緩やかになる人、そういう人たちだって増えるでしょう。その時に、コンピューターいうものが今みたいに使いにくい、難しい、こんなんやったら、売れまへんで。21世紀、どんなコンピューターやソフトウエアだったらシェアを広げることができるのか、ということを自分の体を使ってちゃんと提案してみせる人が必ずここから生まれます。ですから、一切、同情していただく必要はありません。先行投資やと思って下さい」というふうに申し上げました。

 その当時、コンピューター業界というのは、日本で言うまさにベンチャーだったんですね。どのコンピューター、例えば、マイクロソフトもそうです、マクロメディアもそうです。そういう新しいソフト産業が入ってきましたけれども、そういうところの社長さん、皆さんトップと言えど若い方です。あのビル・ゲイツさんだって、大学の時に凄い能力と言いますか、天才的な才能を現して、卒業してマイクロソフトという会社を作られた。そのマイクロソフトが日本法人を作った時に、会長、社長に据えられた方は、アスキーという会社を学生ベンチャーでやっていた人たちだった。

 私がこういうお話をしに行く相手は、社長という肩書でも20代後半、よういってはっても、30アタマ。トップダウンと言いますか、素早く物事を決断して進めていかないといけないという状況で、しかもコンピューターという、まだ世の中に普及してないものを、どうやって一気に広げるかという時期だったんです。

 余談ですけど、日本のいわゆる福祉関係者と言われる人間で、ビル・ゲイツに何回かお会いしているというのは、私しかおりません。英語もしゃべらへんのに。でも、いいんです。ビルさん専用の同時通訳される凄い方がおられまして、私が関西弁でダーッと言うたら、すかさずダラララーと伝えてくれはる方が、日本に来た時に、決まって付いておられるんですね。それは余談ですが。

 もう1つ余談を言いますと、日本ではビルさんて、お金持ちだから嫌な奴と言われているんですけれども、お会いしてみると、本当に職人さんの1人です。ギャグも、よう言わへんし、肩にフケついているし、眼鏡なんか牛乳ビンみたい。でも、ビルさんとお話しした時に分かったのは、職人さんで、ホンマに、このITが人類にとってどのようなものになっていくか、ということに全生命賭けてはる人やということでした。そこに、ビジネスの才能も持ってはった、ということでしょうね。

 彼が言うた印象深いことは、眼鏡をパッと外しはって、「この眼鏡は僕にとっては車椅子ですよ。これがなかったら、僕、なんぼなんでもコンピューターを触れない。つまり、このコンピューターという道具が眼鏡を超えて、車椅子を超えて、もっと凄い人類にとってのものにならさないかん、と思っているんです」という話をする時は、物凄く熱く語りはる。ギャグなしで。という方です。

 そういうベンチャーのトップの人たち、特に日本法人のマイクロソフトの社長にお会いした時に、彼が「ああ、日本でも、いよいよこういう活動が始まったんだね」と言わはったんですね。「それ、どういうこと?」「アメリカでは、ビジネスベンチャーとソーシャルベンチャーというのが、がっちりスクラムを組むことによって、世の中にとってこういうものがいいよね、こういうものが必要だね、というものをどんどん生み出していく。いわゆる官の仕組みだけではなくて、新しいビジネスベンチャー、ソーシャルベンチャーというものが、いろいろ組んできた。世の中を変えるために組んできた。日本には残念ながら、自分たちのようなビジネスベンチャーを始めたけど、ソーシャルベンチャーというものはないと思っていた。だけど、ナミねぇ、あんたが言うてることは、アメリカで言うところのソーシャルベンチャーですよ。面白い。ソーシャルベンチャーには、ビジネスベンチャーは投資もするし、組めるんです」、こう言われたんです。「今、即、ここの目の前で結果が出なくても、5年後、10年後のために一緒に組みましょう」と言うてくれました。

 日本で、マイクロソフトの「ウィンドウズ」というソフトウエアが、日本語版が発売される前に、マイクロソフトから既に仕上がっていたという日本語版が送られてきた、という関係で、一流のエンジニアの人や超一流のクリエーターの人たちも、ボランタリーにセミナーの講師をして下さるという勉強会を始めることができたんですね。これは、凄いラッキーなことやったと思いますが、現実にそういうことが起きました。

 それから16年経っておるわけですね。プロップの活動の分かる写真集を出したんですが、私、パソコン得意じゃないんですが、プロップの仲間たちでコンピューターに優れた人が、その写真集の中の写真をパワーポイントにしてくれたのが入っています。私が、指でピッピッとすると動くようにしてくれています。

3.チャレンジドの可能性を延ばすためのプロセス

[写真1]

 「チャレンジド」というタイトルの写真集の表紙です。プロップ・ステーションの活動をプロの写真家の人が1年近く張りついて、いろんな人やいろんな活動状態に張りついて、何千枚という写真を撮って下さった中で、これは、というのをチョイスして、この写真集「チャレンジド」というのを作ったんです。これ、出版は、あの吉本興業です。4〜5年前に出た写真集なんですけど、木村さんという人が常務をされていて、私、木村さんと友達だったんです。木村さんが、吉本興業はタレントの写真集をようけ出したけど、こういうソーシャルなのがないから、1個出したろう、と言うて出してくれた。

 「チャレンジド」、一体どういう意味か。チャレンジドの意味をご存じの方は、ほとんどおられないんじゃないかと思いますけれども、アメリカで16年前ぐらいに生まれた造語です。それまでアメリカでは、いわゆる障害者のことをハンディキャップト、ディスエイブル・パースンと呼んでいたんですが、アメリカの人たちが、自分らは人権の国アメリカと標榜しておきながら、その人のハンディの部分や、ディスエイブルですから、可能性を否定する、不可能とか無理だというところに着目して、それを呼称にしているのは恥ずかしいやんか、やめよう。その人の可能性に着目するような呼び方を自分らで生み出そうと言って、自分たちで生み出した言葉の1つがこの「チャレンジド」。「ザ・チャレンジド」というのが正式な言い方です。チャレンジャーだったら、挑戦者ですが、チャレンジドと言って、最後に「ド」がついているんですね。私、アメリカの支援者の人から、この言葉を教えてもらった時に、この「ド」の意味が分からない。チャレンジャーじゃなくて、何なの、その最後の「ド」は。関西弁で、ドアホとかドケチとか強調するんですよ。どうもそんなんではなさそうだと。

 そしたら、チャレンジというつづりの最後が、edと、受け身体なんですって。何が受け身なのか。挑戦という使命や課題を与えられた人、或いは挑戦するチャンスや資格を与えられた人。多分、神から、という言葉が付くんでしょうね。ということで、受け身体なんや、とその人が言いました。

 つまり、この言葉には、人間には自分の課題に向き合う力が与えられている。そして課題が大きい人には、その課題も、その力もたくさん与えられるんだよという哲学と言いますか、考え方が込められていると分かった。それを聞いて、私、目からうろこ落ちました。「そうや、私らが言っていることはこれや。障害者じゃなくて、チャレンジド」。障害、差し障りと害という字を書いて読むんじゃなくて、その人の中に眠ってる可能性、その人の中にある力、そういうものに着目した呼び方。さすが、すげえなと思って、私たちは「チャレンジド」という言葉を使わせてもらっているんです。

 この写真集のタイトルも「チャレンジド」とつけさせていただきました。表紙、2人が映っています。右側は私なんです。左側は私の娘なんです。実は私、子どもが2人おるのです。上が男の子、下が女の子。上の男の子は、今日は、あそこら辺に背広を着て座っておるんです。長男で37歳。プロップ・ステーションで、私は神戸が本拠なので、そちらにおるんですけど、東京の事務局長をやっております。下に34歳の娘がおるんですね。

 ちょっと皆さんに、また質問させていただきたいんですが、温かい心で手を挙げていただけたら嬉しいんですが、ナミねぇは、とてもそんな大きな子どもがいるようには見えないと思う方、手を挙げていただけたら。──ありがとうございます。手を挙げて下さった方だけ残っていただいて、(笑)手を上げなかった方は寝てて下さいというのは、嘘です。

 その34歳の娘が、この写真の向かって左側に映っておるんです。彼女は34年前に重症心身障害と言って、大変重い脳の障害を持って授かりました。重症心身障害というのは、どんな障害かと言うと、いろんな障害がどれも重くて重複している。そういう状態の時に、重症心身障害というように総称で呼んでいるんですね。では、彼女はどんな障害を持って重なっているかということなんですが、私が、何か横から話しかけていて、目がキラキラしていて、お母ちゃんべっぴんやな、と見えているみたいなんですけど、残念ながら視力は、明るい暗いだけが辛うじてわかる全盲です。物の形は一切見えないんです。きれいな目をしているんですけどね。私が話しかけているのを、ちゃんと聞いているみたいですが、聴覚、音は聞こえています。だけど、その音の意味することは一切分かりません。だから、私が話しかけているのか、他の人が話しかけているのか、或いはテレビやラジオでニュースやっているのか、漫才やっているのか、そういうことは一切分からないんです。

 私が声をかけて「はーい」とか言っているみたいですけど、残念ながら、声は出るんですけど、言葉は一切出ません。34歳になっていますが、今も私のことを母親というふうには、ほとんど認識していません。今、国立の療養所で生活をしていて、お休みの時は一緒に過ごしたり、この間も、お盆も一緒に過ごしたりしたんです。そういう生活をしておるんですけれども、一番最近の精神発達診断、お医者さんの診断で、生後3カ月の赤ちゃん未満かな、という感じです。体の方はちっこく生まれまして、グニャグニャやったんです。本当にマシュマロみたいに、簡単に手に丸まってしまうぐらいだったんですけれども、ちょっとずつ、ちょっとずつしっかりしてきまして、この写真を写していただいた頃は、手を引くと、少しですが、しっかり歩ける。手を離しても、気が向いたら何歩か歩ける。ほっておいたら、ポテッとという感じの状態。

 でも、こういうふうに凄く穏やかな表情で、いい顔でカメラに写るというのは、なかなかないんですね。たくさんたくさん撮っていただいた写真の中でも、一流のプロのカメラマンが、こういう表情を撮って下さったんですが、凄く嬉しかったんで、思わず、これを表紙に。要するに、単なる親ばかの写真集の表紙です。

[写真2]

 このお嬢さんは、プロップ・ステーションでコンピューターを勉強されてから10年以上になる方なんです。ちょっと座ってコンピューターに向かって、何かされているみたいですが、ウェルドニッヒホフマンという筋肉の難病で、体がグニャグニャで、全身コルセットで固めて、座ってはるんです。頭の後ろに枕のある車椅子に座ってはるんですが、この枕から頭が2センチずれても自分で起こせない。ですから、子どもの時から、外で遊ぶということは残念ながらできなかった。母ちゃんが読んでくれる絵本が、唯一社会の窓であり、愛を知り、幸せを知り、楽しさを知った。そして、彼女はいつしか自分も絵本作家になって、子どもたちに夢を与えられるような作家になるねん、ということを目標にして絵を描き始めた。ところが、彼女は絵筆で絵を描こうと思ったら、誰かに絵筆を指に挟んでもらって、お水汲んできてもらって、チューブをねじって開けてもらって、彼女の思うような色になるまで絞り出してもらって、大きい画用紙に描く時は、その画用紙を動かしてもらったりという形でないと描けない。失敗したって、そんな簡単に修正できない。それでも、彼女は、コツコツ一生懸命絵を描いた。

 ある日、プロップ・ステーションのことを知ったんです。こういう活動が世の中に生まれた。「そうや、コンピューターグラフィックを勉強したら、絵筆で描くんじゃなく、自分1人で絵が描けるかな」と思って、彼女は車椅子を押すお母さんに連れられて、プロップ・ステーションへ。何年も、超一流のクリエーターから、ここがポイントなんです。プロップ・ステーションが何故、最新の道具で最高の技術者から技術を習おうとしたか。日本の福祉で障害者を取り巻く人は、お世話をするプロだけなんです。その人の中に眠っているものを見つけて、それを引き出して、仕事につなげるプロセスのできるプロの人が1人もいない、というのが福祉の世界の特徴だったんです。私は、これを変えたかったんですね。

 ですから、プロップでは、最新の機械で最新のソフトで、一流の人から、今どうやったら稼げるのか、今、社会で求められている技術は何なのか、どんな表現なのかということまで教えてもらって、彼らにプロになってもらうということで始めた。彼女は今、既に2冊の絵本を正式な出版社から出したプロの絵本作家になりました。今、3冊目に挑戦しています。それだけじゃありません。某化粧品メーカーは、彼女の絵をカレンダーに採用して、12カ月の素晴しい絵なんです。来年のカレンダーを、つい先月描き終わりましたから、それで4年目です。ですから、彼女は堂々たるタックスペイヤーなんですね。

 でも、彼女は難病による筋肉の障害ですから、真夏とか真冬はいつも救急車で運ばれるような、これで、また命長らえることができるやろうか、来年お正月を迎えることができるやろうか、ということをずっと今日まで繰り返してこられたんです。そうやって、入院して呼吸が止まりかけても、「私は退院して絶対絵を描くねん。たくさんの人に自分の表現を伝えるねん。喜んでもらいたいねん」という思いで、復帰して、復帰して、復帰した。ですから、1年間でも、正味彼女がしっかりお仕事できるのは、何カ月あるかないか。その時に彼女はずっと描きためて作品制作をされているという方です。

[写真3]

 この方は、生まれついての重度の脳性麻痺。この人も、やっぱり絵が描きたかった人なんですね。脳性麻痺独特の拘縮、体が固まってしまうというのがあって、両足と左手は全く動きません。唯一右手は動くんだけど、この唯一動く右手は、脳性麻痺独特のアテトーゼ、不随意運動と言って、伸ばそうと思ったら曲がっちゃう。曲げようと思ったら、伸びちゃう。右出そうと思ったら左に行くみたいな。彼の首がこうなっていますけど、自分では、真っ直ぐにしようと思っているんですよ。「はい、写すからね」と言ったら、真っ直ぐにしようとする。私ら、ギャクで言うんですけど、知らん人が見たら、そんなこと言ったらいかんやろうと思うんですけど、「真っ直ぐせんか」と言うと「はい」と言う。

 その唯一動く手にクレヨン握って、広告の裏の白いやつがあったら、かぶさるみたいにして絵を描いている。シュールな、うねるような、ゴッホの糸杉みたいな、情念と何かの素晴しい絵なんだけど、ずっとシュール、うねっているんです。

 ある日、彼はこう言った。「僕の精神に肉体が、たがをはめている。僕の精神は、このたがをはじきたがっている」、こう言ったんですね。それはどういうことか。このうねるような絵だけでなくて、幾何学模様の宇宙ステーションみたいな絵もいっぱい実は浮かんでくるんですって。浮かんでくるけど、この自分の体を障害がたがをはめていて、そういう絵を描けない。だけど、僕はそういうものも表現したいということを、脳性麻痺独特の発生しにくい言葉、今言うた一言を言うのに、15分ぐらいかかる。汗をダーッとかいて、聞いている方も、「はよ、言え」とか思いながら。

 でも、それを彼から聞いた時に、彼は絶対本物のアーチストになるな、絵描きさんになれると思ったんですね。「君、コンピューターを勉強しい。絶対、君、プロの絵描きになれるから」「ナミねぇ、嘘ついてない?」とか言うてましたけど、今や彼は、コンピューターグラフィックスでも、非常にシュールな色使いで、宇宙ステーションだろうが、海の中だろうが、いろんなシュールな絵を描くアーチストになって、彼に指名で注文が来るという作家になりました。

 彼が初めて自分の絵で稼いだ。その稼いだもので、母ちゃんが欲しがっていたものをプレゼントしてあげたりしたんです。その時に彼が言うた言葉を、私は多分一生忘れない。「ナミねぇ、お金って、公平なもんやったんですね」、こう言ったんですね。それまで彼のところに来るお金というのは、「あんた、障害があんねんから、これ、あげよう。割り引いてあげよう。年金あげよう」。初めて、あんたがやったことには、これだけの価値がある、というお金が来た。「お金って、公平なもんやったんですね」、そういうふうに言える人を、たくさん増やしていきたいなと思っています。

[写真4]

 このおっちゃんね、私と一緒にプロップ・ステーションを始めた仲間の1人です。彼とはもちろん、このプロップを始める前からのお友達。さっき言った指先だけの青年とか一緒に始めた。彼とのつき合い、16年間です。今、彼は一流のコンピューターのプロになって、プロップ・ステーションのコンピューターのセミナーの講師もしています。

 ただ、よく見ていただくと、向かって左側の足の下にマウスがある。彼、ポリオという障害で、両腕が全く動きません。動くというか神経ないんですね。振るとブラブラ。ただブラブラしているだけの腕なんです。「足で、俺はコンピューターのプロなんねん」と言って、プロップを一緒に始めて、必死で勉強して、今、この足で先生をしている。凄い人気講師なんです。彼のセミナー聞いていたら面白いんです。「はい、皆さん、マウスから足を離しましょう」「そんな、あんたしかおらへんがな」と言うてたんですが、最近は足でやる人も増えてきまして、ギャグにもならなくなりました。

 ポリオという障害は、今、日本で生まれてくる赤ちゃん全てにワクチンが普及しています。ですから、ポリオは日本の赤ちゃんからは絶滅状態です。ただ、彼が子どもの頃、実は彼は、私よりも幾つか年上です。だから、凄い年齢で始めはったんです。分かっていただくように。私は「嫌や、せえへん」と言うているのに、彼は足で始めた。今では一流の先生。彼が子どもの時にはポリオのワクチンは、全部の生まれてくる赤ちゃんにとても行き届く状況じゃなかった。それで、こういうふうに、ポリオの方がたくさん生まれたんですね。彼はそのうちの1人。でも、私たちの誇らしい凄い講師。

[写真5]

 この左側の人、髪の毛長いけど、女性じゃなくて男性なんですね。彼、大学を卒業して一流企業に就職が決まったその日、乗っていたバイクがこけて、首の骨が折れて、彼の場合は両方指も1本も動きません。首がチョコッとだけ左右に動くだけ。でも、彼は一念発起して、その首で口に棒をくわえて、コンピューターを操作して、プログラミングやるというののプロになったんです。

 マイクロソフトの社長が「彼の技術は凄い。俺、出資する」と言って、何と彼は、マイクロソフトからの出資を受けてソフト会社の社長をしています。この写真は何か。彼は三重県に住んでいて、地元の子どもたちを集めて、仕事が休みの日にコンピューターを教えるNPO活動をしているんです。「何でそんなことをしているの、会社も忙しいのに」と言うたら、彼は「この子たちが大人になった時は、障害がある人とない人が一緒に仕事するのが当たり前、という国になって欲しいねん。それを伝えるねん」と言って、社員をボランティアで駆り出して、こういう勉強会をやっているんです。

[写真6]

 この人、仙台に住んでます。仙台に住んでいるけど、プロップ・ステーションのスタッフなんです。データベースの一流の人です。左側の写真で分かるように、やはり彼も筋肉の難病で、日常はお母さんの全面介護で生活しています。手の握力なんか、1とか2ぐらいしかないんですが、コンピューターに向かうとデータベースの凄いプロです。

 プロップ・ステーションに通われたんじゃなくて、彼とのおつき合いも8年ぐらいになりますが、ネットワーク上で5年間ぐらい、一流のエンジニアからコンピューター技術を習われてプロになって、今プロップ・ステーションの優秀なスタッフです。私たち、最先端の科学技術を使うと言いましたけど、日本で最初にパソコン通信を使い、コンピューター、インターネットの時代が来て、インターネットを使い、そしてブロードバンドを使い、今やテレビ会議のシステムを使って、しかも、教育や打ち合わせに使う単なるテレビ会議の仕組みじゃなくて、それを勉強にも使えるように開発してという形で、彼のような人とは、実際に顔を合わせたことなんかこの8年間で2回ぐらいしかない。私が、前の宮城県の知事をしていた浅野史郎ちゃんと友達なんですが、彼に招かれて仙台に講演に行った時に会ったけど、あとは全部ネットワーク。ですけど、テレビ会議で「おはよう」とか言ったりしますから、隣におるみたいな感じです。最先端の科学技術は凄い。

[写真7]

 この女性、子どもさん、何しているか。手話でお話をしているんですね。この左側の女性は、生まれた時から聞こえない、しゃべれない聾唖という状態です。右側は息子さんで、シングルマザーで息子さんを育てながら、プロの漫画家を目指してずっと作品を描き続けてはるんです。ところが、日本では漫画家で食える人なんか一握りしかおりません。まして、彼女は子育てもしないかんということで、プロップ・ステーションでホームページのコンテンツのプロになる勉強をしました。今や彼女は、ホームページコンテンツに関しては超一流のプロです。ホームページの仕事を受託して、それで稼ぎながら、なおかつ地域の耳の聞こえない子どもたちにコンピューターを教えるNPOを立ち上げて、そのリーダーもしているんですね。自分が聞こえない状態で、コンピューターの一流になるまでにいろんな苦労があった。だからこそ、聞こえない子どもたちに、こう勉強したらいい、ああ勉強したらいい、というのが自分なら分かるということで、そういうNPOを立ち上げてリーダーをして、そして子育てをしながら、お仕事もしていらっしゃるという方です。この方は、大阪に住んでいらっしゃる。

[写真8]

 この左側の人は、目をつぶってはりますけど、寝ているんじゃないんですね。彼は生まれて1歳の時に目の癌になって、両目を摘出した全盲の方です。ところが、子どもの時から、両親が「この子は、やんちゃに育って欲しい」と。もともと、やんちゃの素質はあったんでしょうね。工作好きの父ちゃんと一緒に、ずっと工作を作ったりしていた。高校生ぐらいの時にコンピューターにはまって、自分でアキバに行って部品を買ってきて組み立てたコンピューター、ハンダづけもしている。そんなことしてコンピューターを作って、ウィンドウズのソフトのOSの方に入っていって、言ったら全盲の天才コンピューターIT青年です。大学も、自分で組み立てたコンピューターで大学を受験して、大学の近くに下宿して、掃除、洗濯、炊事ということ全部1人でやっている。

 彼があんまり凄いので、私、マイクロソフトの一流のエンジニアを連れて彼のところに行きました。彼が、「僕が見たら、彼にどれぐらいの技術があるか分かるから」と言うので、一緒に行ったんです。そしたら、音声装置のスピーカーがあって、そこにハードディスクとキーボードがあって、彼がダーッと自分がやったプログラムとかを見せてくれた。見せてくれるというか聞かせてくれる。音声装置で凄いスピードでピッピッピッとデータを読み上げるわけです。

 10分ぐらい、連れていったエンジニアの兄ちゃんが、腕組んで、「ごめん、ナミねぇ、ギブアップ。何やってはるか全然私からへん」。CRTないんです、音だけ。「ごめん、分からへん」と言って、私が彼に「カズヤ君、悪いけど、音だけでは、君が何をやっているか分からんらしいわ」と言ったら、彼が「ああ、見える人って、不便やね」。押し入れを開けて、CRTを出してきて、つけてくれて「あ、凄いプログラムを書いているじゃん」と分かった。

 彼は、大学在学中にマイクロソフトがコンサル契約をしました。彼は学生の身ながら、マイクロソフトのコンサルタントになって、マイクロソフトのソフトウエアを、どうやればいろんな障害のある人に使いやすいかということをアドバイスするような役になって、卒業と同時にマイクロソフトの技術者として採用されて、日本マイクロソフトのアクセシビリティーのコーナーは彼が全部翻訳してアメリカの最新情報が載っているんです。今、彼は日本とアメリカの本社と行き来をするような、最先端のコンピューターエンジニアになっている。たった1人の全盲の青年が、日本マイクロソフトをアクセシビリティーのことに向かわせたという人です。

 と言うことで、あと、写真は幾つかありますけれども、時間も限られているので、写真の方は終わりにしたいと思います。

 お話だけではなくて、見ていただいておわりかと思います。今出てきた人たち、チャレンジドたちを見て、かわいそうやな、気の毒やなと思った人はほとんどおられないんじゃないかと思います。あ、そうか、そういう人たちもいる、こういうふうにできるという可能性のところを凄いな、と見ていただけたんじゃないかと思います。だけど、彼らもコンピューターと出会わなかったり、自分の技術を磨く場に出会わなかったら、かわいそうなままだったかも分からない。気の毒やと言われ続けて、誰かがお手伝いをしてあげなあかんな、と言われる人でとどまっていたと思うんです。

 最後の全盲の青年は、コンピューターの勉強を日本語でしていません。日本のコンピューターの本というのは、点訳の作業者の人が点訳したものが、点字コピーでリピートされているわけです。ですから、数カ月ごとに新しくなっていったあの時代のコンピューターの情報は、残念ながら日本では勉強できなかった。彼は自分の持っていた英語力を駆使して、アメリカのサイトをやっていた。アメリカでは、コンピューター、ソフトウエア、情報、全てのものが、どんな障害があっても、ない人と同じように使えないといけない、という法律とか、世の中で、その人が働くことを妨げてはいけない、という法律ができているんですね。

 ちょうど今のブッシュさんのお父さん、パパブッシュが16年前に大統領になった時に制定した、「アメリカンズ・ウィズ・ディスアビリティーズ・アクト」と「リハビリテーション法」という2つの法律によってそうなっているんです。ですから、アメリカでは、このコンピューターは見えない人が使えないねと言ったら、政府機関が一切買い上げない。こういうソフトウエアはこういう人にとっては、例えばホームページでも目の見えない人には読めないね、となると、そういうソフトウエアに関しては一切相手にされないというぐらいの厳しい規制のついているユニバーサル社会になるための法律が既に15〜16年前に生まれました。

 先程、指先だけの青年が大学受験を断わられた話をしました。実はアメリカでは、今のブッシュさんのニュー・フリーダム・イニシアチブというイニシアチブによって、全米の大学におけるチャレンジドの学生の比率を10%にしようという目標で、全ての大学に、どんな障害の人でも受験を申し込んできたら、その人のやれるやり方で受験をしなければならない、となっています。その人が合格したら、大学生活をどのように送って、サポートを受けながら、授業を受けて、お仕事に向かっていくか、ということを相談する機関がどの学校にもなかったら、それは大学と認めないというところまでいって、ワシントン大学が、7%チャレンジドの学生がおります。パウエルさんが卒業された名門です。全米の平均が、今4%から5%になりかかっています。

 日本、障害者かわいそうやね、働けないね、気の毒やね、何とかしてあげねばねと言いながら、実は、日本における大学教育のチャレンジドの比率は0.09%です。つまり、入学そのもの、試験そのものが受けられなくて当たり前、という大学がまだいっぱいあるんですね。大学にチャレンジドの学生に対する相談時間があるところは、全国の大学のうちのわずか10校ぐらいしかありません。

 かわいそう、気の毒というのは凄い簡単なことなんだけど、「かわいそう」という言葉は、私は魔物やと思っておりまして、かわいそうと言った瞬間に、自分がその人とどうつき合うべきかということが全く見えなくなっちゃう言葉かな、と思っています。

 でも、それを言葉で伝える。アメリカではこうやった、というだけではなくて、やはり日本でも、この人がこうなった、あの人がああなった。こういうプロセスでこうなれたよ、ということをきちっと見ていただかないと、人の意識は変わらない。意識が変わっていただいた時に制度が変わったり、或いは、この技術をこう使えばいい、こういう方向に発展させればいいかといういろんなアイデア、或いは、うちの会社、採用する上で、仕事出す上で、この人やったら、こういうふうに整えて働いてもらえるな、ということを、いろんなふうにたくさんの人と一緒に考えていきたい。

 アメリカは、それを16年前ぐらいに法律で罰則つきでダーッと決めたんですけれども、日本は、そういった罰則つきの法律をきつくすることだけが大事だとは思いません。先進的にされている国々、これはアメリカだけではなくて、スウェーデン、フランス、イギリス、ドイツ、全部なんです。先進国で、高等教育を受けるパーセンテージの低さ、或いは社会でメインストリームで働くチャレンジドの少なさって、実は日本だけで、先進諸国の中で最低になっちゃったんです。

 ですけど、私は日本人はやれると思っている。ただ、今どう言えばいいのかというところに発想がなかった。気の毒やから手を差し伸べようという気持ちの温かさのところで止まっていただけじゃないかと思っているんですね。次に進むステップを、今日お会いした皆さん方ともご一緒に考えていただければ嬉しいなと思いつつ、今日のナミねぇのお話をとりあえず終わらせていただいて、よろしければ、バトルトークできたらいいなと思います。皆さん、今日はありがとうございました。(拍手)

フリーディスカッション

與謝野 ナミねぇさんこと竹中さん、心打たれるお話の数々をご披瀝頂きましてありがとうございました。本日は、いつもこのフォーラムでよりどころにしている諸々の学際的視点から離れて、現実の社会を動かしているシステムの末端の障害を超えてシステム本体の革新に迫る視点から、人間の限りない計り知れない能力の無限の可能性に心打たれる格闘の軌跡と共に、お話を頂きました。ユニバーサル社会のありようについて、このような「心を奮い立たす気概」から教訓を得た経験は、このフォーラムでは初めてのことと感じています。大変貴重なお話をいただきありがとうございました。お話の中で、人間が備える生命力と精神力のたくましさ、素晴しさと言いますか、神から与えられたものとは言うものの、そこには、都市問題などを越えた人間の生き方についても、大変に多くの学び取るべきお話があったかとも思います。重ねて御礼申し上げます。

 さて、時間がございますので、只今ナミねぇさんがお話された中で、こういう点をもう少し詳しくお聞きしたいということがございますれば、どうぞ遠慮なく挙手していただいて、ご質問をしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

木本(経済産業省) 公務員をしております木本と申します。大変参考になるお話をありがとうございました。

 私どもの職場でも、今年から障害者の方を何名か受け入れるということになっているものですから、今日、そういう意味で大変参考になりました。

 是非、教えていただきたいんですけれども、先程何名かの方がこういう形で頑張っておられるという紹介をいただきました。凄い技術とか凄い才能を持っている障害者の方が、こういう活躍の場を広げることができるんだ、というメッセージとして受け取れたんですけれども、ごく普通の技術を持っている方とか、ごく普通の障害者が、ごく普通に職場に受け入れられる。我々はそういう人たちを戦力として一緒に働いていかなくちゃいけないわけです。ごく普通の障害者の方を受け入れるというか、一緒に支え合うときに心得ておくべきこととか、何かご示唆があれば、是非教えていただきたいと思います。

竹中 大変いい質問をありがとうございます。

 確かに、ここへ出てきた人たちは、もともと天才的やったんや、エリートやったんやという方がおるんです。そうではなくて、彼らが今、こういう状態に来たのはどういうプロセスだったか、ということがとても大切なんですね。そして、そのプロセスというのは、彼らのように、何かアートをやるとか、最後に出てきた全盲の青年みたいに、語学のことが好きやったからやれていた、とかいうことがなくても、実は、こういうプロセスとその人の中にあるものだと思うんです。

 例えば、お仕事で就職した時に、コピーとれなあかんよ、お茶汲みできないかんよ、お掃除できなあかんよ、棚の整理できなあかんよ、事務系ソフトも使えなあかんよ、これが日本の会社の就職の第一歩ですよね。だけど、彼らもそうですが、今、プロップ・ステーションを通じてお仕事をされている方々は、このことを全部できる人って、誰1人いないんですね。だけど、この部分を磨いて、この部分ならやれる、その人その人の得意分野を磨かれた。つまり、重要なのは、働くということの究極のワークシェアリングと言いますか、分解するということなんですね。その中で、この人はどの部分をどんなやり方でしたら担えるかなという工夫は、周りの人がそういう目線で見ないと駄目や、ということが1つ。

 ここ、できへんなという数え方じゃなくて、こうやればこの人はできるなという発想を常に持つことということで、できるようになるというのが1つ。

 それから、この写真集が出たのが、もう4〜5年前で、この4〜5年でプロップ・ステーションから巣立たれる方、育っている方が凄く変わったんです。それは何かというと、コンピューターがどんどん使いやすくなってきたわけです。それによって、いわゆる身体障害者、視覚とか聴覚の身体の障害だけではなくて、学習障害であるとか知的なハンディ、高次脳機能障害、難病である精神の障害という方々が物凄くたくさん勉強されるようになりました。

 例えば、1人の知的ハンディの青年のお話をしますと、養護学校でも、知的ハンディの養護学校と言いますと、絶対コンピューターは無理と思われていますから、そういうことを習う時間がないんですね。趣味でコンピューターゲームをさわるようなお部屋があるらしいんですが、そういうことを、きちっと統計立って習うようなチャンスが全然ないわけです。

 彼は、お母さんと一緒に、授業のお休みの毎週土曜日のプロップ・ステーションの初歩のコースに養護学校在学中からずっと通われたんですね。高等部を卒業する頃には、私は絶対作れないけど、彼は、ホームページがきっちり作れるようになりました。ホームページがきっちり作れるようになって、卒業してから地元の作業所に通われるようになりました。何と作業所に通ってみると、指導員と言われる、お世話する人たちの誰1人ホームページを作れなかった。ホームページを作れるのは、彼だけやった。

 ところが、彼がホームページを作れたから、「作業所で、君はこのホームページのお仕事ができるよね、頑張っておいで」と言って送り出したんですが、残念ながら、自分たちは指導員、あなたは障害者、だからみんなと一緒に箱折りしましょう、お掃除しましょうという話になっちゃう。

 1年間ぐらい彼頑張りましたけれども、この間お母さんと一緒にご相談があった。その前に、彼から私にメールで、「ナミねぇ、相談したいことがあって、お母さんと一緒に行きます」というのがあって、「おいでよ」と言ったら、「僕は作業所を辞めてプロップ・ステーションで働くために、もう少し勉強を続けて仕事ができるようになりたい」ということだったんですね。今、彼はプロップ・ステーションで、ワンランク、ツーランク上の技術を磨くための勉強をしながら、行儀見習いみたいな感じで、いろんな方が来られる時にどう応対するか、ということも勉強しているということです。

 作業所、行政の方でしたら、ご存じのように、補助金が毎年のように出て、そこで、作業所の数が増えれば、お世話をするスタッフもたくさん増えてきました。でも、本当に、そこで稼げる障害のある人、チャレンジドを生み出すということには残念ながらなっていないんですね。この理由は何かと言うと、先程言うたように、お世話するプロと、その人を仕事人にするプロというのは違う、ということです。だから、仕事人にするためのプロのプロセスがないと駄目なんですね。

 補助金がいけない、ということもあります。私たち、政治家や官僚の方にお会いした時に、「補助金要らんから仕事くれ」と言ったりするんですが、私の本音はそうなんですよ。だけど、補助金によってするならば、それをどんなふうな方向に向けて使うか。作業所がどう変わっていくために使うのか、ということを、そろそろ行政の方も腹をくくっていただきたいなと。そうすると、どんな障害であれ、その人のできること、ITだけには限りませんけど、1つ例にしてITと言っていますが、何が表現できるか。

 もう1つは、家族の問題がありまして、うちにもう1人LDの青年がおります。LDと言うか、今言っていた知的の子よりも知的ハンディが重いんです。重いんですけど、お父ちゃんが「この子が障害あるというのを絶対認めへん」と言うて、診察も受けさせないで、普通校でとりあえずずっとおったんです。ところが、高校を卒業してみたら、どこもないということで、お母さんと一緒に来られて、うちは別に、手帳があるとかないとか関係ないですから、「どんなことを知りたいの」と言ったら、「ここでボランティアの見習いからでもいいから、何とかやらせてもらえませんか」とお母さんが言う。「じゃ、コンピューター勉強するか」。
何と、分かったことは、平仮名を読むのがやっとなんですね。一体高校まで18年間どんなふうにと思うんですが、平仮名読むのがやっと。それも絵本。私も自分の好きな絵本を買ってきて、「これをちょっと読んで、感想を1行でも2行でもいいから、書いてみい」と。その本を読んで中身を、1行にまとめるということができないんです。

 うちは、プロップ・ステーションの活動がいろいろ新聞記事とか雑誌で取り上げられたりして、それを必ず、入力できる人は入力をする、ホームページに作れる人はホームページにする、フォトショップ使える人は、その中に写真を取り込んで、きちっと見えるようにして、最終的に、その人に合わせた仕事でワークシェアリングして、プロップとしての情報を発信するということをやっているんですね。その第1段階の入力のところをやってみい。文字を覚える練習にもなるからやってみい。1カ月、2カ月で漢字まじりの文章を、新聞記事とかを、きちんと打つようになったんです。平仮名しか読めないのに。

 何でか。うちは周りにおる人がプロですから、コンピューターで、パレットで文字を呼び出すやり方を習って覚えたんですね。自分が見ている新聞記事の漢字、見えにくい時は拡大鏡で見て、それと同じ字を探して入力するんです。そのスピードがだんだん速くなって、1回出てきたやつやったら、もう分かるみたいなので、2カ月したら、彼、うちの戦力になっているんです。

 うちに、企業からのお仕事を受けて、外で在宅でやっているチームと、中で取りまとめの仕事をしているチームと両方おるんですが、今彼は、中で取りまとめをするチームに入ってエクセルをやっている。データをちゃんとしたデータベースに仕上げる仕事なんです。この間行ったら最初にエクセルに入れる仕事をやっているので、「あんた、何やっとん」「エクセル」とか言っているんですね。

 知的なハンディやから、LDだから、脳の何とかやから、この子はできないという先入観で、親もさせへん、作業所の人もさせへん、学校の先生もさせへん。それでかわいそうや、気の毒で、みんなチャリティーのものを作ろう、とか言っている世界なんだって、改めて思いますね。

 ですから、私はすべからくその人に合ったやり方で、その人のできることは必ず引き出すことができると思っています。ただし、先程自分の娘の話をしましたね。自分の娘、私の娘は、残念ながらコンピューターの前に置いたことがありますけれども、キーボードの上に寝ころんで、CRTかじっていました。よだれ垂らして。

 残念ながら、どうやったって、それが無理という人がいることは事実です。じゃ、私が、何で、自分の娘がコンピューターもできへんのに、コンピューター言うて、何かできるという人の応援する活動をやっているか。
日本が歴史上初めての超少子高齢社会を迎えたわけです。これは世界一のスピードで進んでいるんです。その時に、自分の娘、或いは自分の娘のような人がいる家族が、安心して残して死ねる国かどうかということを考えた時、私が34年間、自分の娘を授かってからずっと生きてきて、たくさんの障害を持つ人の家族とお話ししました。みんな、この子より1日後に死にたいと言わはるんですね。つまり、残して安心して死ねない日本やと言っているんですね。こんな国でええんかな。

 高度経済成長もして、世界のGNP1位、2位と言われた国で、この子を残して安心して死ねないんですわ、と堂々と言う人らがおるというのでいいのかな。でも、私自身も、安心して死ねる国にまだなってないなと思ったわけです。その時に自分が安心して死ぬためには、どんな日本であることが必要やろうと考えました。

 私、自分の娘を授かって、他の人は、「かわいそうや、気の毒なお嬢ちゃんやね」と言うけど、私からしたら、34年間で生後3カ月分しか進みませんが、その3カ月分の彼女なりの進み方が物凄く尊いわけです。凄く愛しくて、凄くかわいいんですね。何とか命を全うして、私がおらんようになっても社会から守られて欲しい。だとすると、守ろうという人がたくさんいる、そういう意識の国であることと、守れる経済の裏づけのある国であること、この2つが両立しなきゃ無理なんですね。

 世界の歴史を見ても、本当に弱い人たちというのは、守ったろうという気持ちの人がおっただけでは、守り切れていないんですよ。先程、アメリカ、スウェーデン、ドイツ、フランス、イギリスが、実はこういうふうに変わったよと言いました。変わったんです。国是を変えたんですよ。スウェーデンなんかは、30年前ぐらい。アメリカは、さっき言った16年前ぐらい。

 何でか。先進諸国は、少子高齢が目の前に来た時に変えたんですよ。どう変えたか。障害者という弱者がいます。その弱者に手当てをすることが福祉。高齢者も含めて。弱者というのはこういう人たちですと決めて、それに手当てをする福祉はもたない。支える側が減った時にはもたないというのがわかった瞬間に、先進諸国は全て変えた。弱者に手当てをするんじゃなくて、弱者を1人でも弱者じゃなくすプロセスを福祉と呼ぶ。そして、本当の弱者は残ります。これは当たり前のことです。生命体である以上は、必ずそういう人たちは残ります。でも、その人たちを支える側に、10の力の人も、5の力の人も、4の人も、3の人も、2の人も、0.5の人でさえも、支える力がある方に回ってもらう。無理なところは支え合いしよう。

 つまり、弱者でなくすプロセスを福祉と呼ぶというふうに、どの国も国是を法律から変えたんですね。アメリカは一番身近な国ですから、私、例に挙げました。

 アメリカは数年前に私ワシントンDCに視察に行って、アメリカの全ての省を回りました。アメリカは国家がこれを言い出した以上、国家が率先してやるということを決めていますから、まず政府機関が、そういう方々をどんどん訓練して、採用するんですね。プロップのカウンターパートはアメリカのペンタゴンの中にあって、CAP(Computer/Electronic?Accommodations?Program)という組織なんです。ここがうちのカウンターパートなんです。

 CAPというのは、コンピューター・エレクトロニック・アコモデーション・プログラムの略です。電子調整プログラムと呼んでいますが、何をやっているかと言うと、国防総省やNASAで開発された、最高の科学技術を駆使することによって、最重度の人までを教育し、その人に合った道具を生み出して、政府職員として送り出す。或いは、企業に働く人として送り出すという組織で、それがペンタゴンのCEAPにあるんですね。これもさっき言ったパパブッシュの時のADA法によって制定された。アメリカは民主党であれ、共和党であれ、この組織にはきちっとした予算を入れて、ずっと組織の影響力を広げてきたんです。

 2年前のゴールデンウィークに、ワシントンDCに行った時に、ペンタゴンの中には電動車椅子が準備してあります。いろんな省、霞が関でいう厚労省や経産省みたいなどの省にも、全身麻痺でわずかに動く指先で電動車椅子に乗っている幹部職員、ペーペー違います、課長級、局長級、室長さんが当たり前のようにおるんですね。サポートする秘書がついている。聞こえない、しゃべれないから、ノートテーカーとか手話通訳が秘書についている幹部職員、見えないから盲導犬を連れたり、白い杖をついたりしているスタッフ。こんなの、どのセクションにもおるんです。

 アメリカの国土交通省に当たる運輸のバリアフリー、乗り物のバリアフリーの室長さんがおるんですが、この人電動車いすに乗っていて、奥さんも車いすの人です。そこのスタッフにお会いしたら、スタッフの何人かのうち、「うちは嫁さんが全盲です」とか、このスタッフ自身が実は、聴覚が凄く弱いんですよとか、ゴロゴロいてはるんですね。という国にアメリカはなっている。このADA法を制定させる時に全米の「チャレンジド」が、障害が重いか軽いか関係なく、こういう法律を通す人を大統領として自分らが票源になるとかいう運動までやって、パパブッシュが公約に掲げて当選して成立したという経緯があるんです。

 ですから、いかに多くの国が国家の危機として、少子高齢化を目の前にして、これに取り組んできたかということなんです。そうすることが国益にかなう。この人たちを働けない人にしておくことこそが国益を損なう、というふうに先進諸国は道筋を踏んできたんです。

 そこに、日本の人たちの優しさとかが、もし邪魔をしているとしたら、「あ、これは違うねん」と思っただけで、何遍も言うように、日本人は絶対できる。アメリカの大学は、平均5%、多いところは7%のチャレンジドの学生がいてます。身体障害だけじゃないですよ。LDの方でも、知的ハンディの人でも、アスペルガー障害の人でも、皆さん大学受験されている。大学という、あの若い年限にそういういろんな人たちと出会えるか出会えないか。或いは、大学に行かないと取れない資格って、いっぱいあるじゃないですか。或いは今、企業も、大学ぐらいは出てなきゃという採用試験の一歩目がそこな時に、大学に、そもそも行けないということが差別や、或いはタックスペイヤーになれないと決めつけることが差別や、というふうに先進国ははっきり、きっぱりしているんです。当然行政の役割は、タックスペイヤーがたくさんいて、それをどう使っていくかということが国家、地方自治体のお仕事ですから、余りにも日本の情報しか知らない、日本のチャレンジドの状況或いは福祉に関心がなかった、ということに気がつきさえすれば、何でもできる。

 それと、具体的に言うと、仕事の分解。そのプロセスを生む場所。例えば、プロップ・ステーションは何をやっているかというと、営業できない人には営業の役をする。見積もり書けない人には見積もり書くのが得意な人がいる。「何ぼで、これ、仕事しますねん」と言って、する人も出す人も納得するネゴのちゃんとできる人がおって、幾らぐらいでこの仕事を受けたらええか、という目ききのプロがおってみたり、或いは、この人のやった仕事価格と納期とクオリティーを守って返すための仕組みがあれば、その人のやるのは、部分・部分でいいんです。これはコンピューターの仕事に限りません。例えば、物作りでも一緒なんです。

 スウェーデンは、どういうふうにしてやっているか。スウェーデンは家具の有名な国ですね。スウェーデンは30年前に国家として、この問題に取り組んだんですね。そして、最重度の人から仕事をできるようにするということで、サムハルという国営企業を作りました。ですから、本当に最重度の人たちが、その人のできる仕事の部分を担う形の会社になっているんです。木を切る人、皮をむく人、磨く人、線を引く人、もちろんコンピューターでデザインする人、色塗る人、組み立て、ありとあらゆる細かい作業に分割をすることによって、その人の必ずできる仕事、なければその人ができるようにして作り上げるというところまでやって、その「サムハル」という会社は、生まれてから30年経った今、既に28のグループ企業になって、スウェーデンの請負企業ではトップの業績。全部の企業の中でも、7番目か8番目の業績を上げているんです。

 そこで、お仕事を覚えた人たちがずっとそこにとどまるんじゃなくて、人によっては、どんどん一般企業へ出ていくというプロセス。これは30年前に日本でいうところの厚生事務次官みたいな方が決断されて、そういう国営企業を始められて、その方がトップになって今日に至っている。その方は、世界障害者雇用協議会の代表になられているということです。

 ということで、多分いろんな分野の人たちが知恵とアイデアと同時にこうやれるというノウハウを出し合いすることによって、他所の国に負けることはないだろうと。これが日本の国益だと。国益という言葉を好かれる方と嫌われる方がおられるかも分かりませんけれども、私らは、これは国益だと思っているんです。

 人間って、ここの中にも書かせていただきましたけど、自分が期待されている時とか、自分ができることで人にも何か喜びを与えている時に、物凄く誇りを感じることができるんです。ですから、今の福祉はその誇りを奪っちゃっているな、それを「もったいない」という言葉で言わせていただいたんです。

 ちなみに、私にとっての娘は凄いやつなんですね。親でも教師でも警察でもできなかった私を更生させた、ということです。ほんまに、日本の非行少女の始まりで、どれだけ親不孝をしたか分からんという私が、こんなにして偉そうに、皆さんの前で、高いところでマイク持って、自分はコンピューターをまともによう触らんのに、この人ら触れてますということだけで仕事しているみたいな。でも、この場所に、こうやって立たせてもらって、こういうお話を伝えさせてもらうという役割を私がやれているのは、まさに娘がいたからです。娘がいなかったら、私はシンナーで死ぬとか、暴走で死ぬ、とかしてたに決まっているんですよ。

 そういう意味で、人間には、必ずその人にしかできないこと、その人だからできること、その人の役割、その人の尊さというのが絶対ある。それを小さなことでも見つけて、どういうふうに発揮できるようにするか、それが、福祉といわれる中に余りにもなさ過ぎた。でも、日本の福祉予算って、私、恥ずかしいと思わないですよ。世界を見て、例えばアメリカだったら、戸籍もないですし、障害者手帳というのもないです。何にもないんです。だから、自分が障害があっても自己申告です。自分はこういう状態だけど働きたい、とか言って初めてです。その代わり、そうなればチャンスは平等にあるんですけれども、出発のところはそういうふうになっているから、申し出なかった人との差がアメリカの場合、結構大きく出てしまっています。

 でも、日本は、例えば重い障害があったら、月々すべからくの人に二十(20歳/はたち)を過ぎたら9万円弱。9万円主婦がパートで月々稼ぐのは、結構大変ですよ。だけど、そういう年金というのがきちっと支給されるし、毎年会社が1個作れるぐらいの補助金が、全国各地の作業所におりている。だけど、会社になれない、何よというのがあるんですけれども、でも、これは考え方とやり方とで、私はできるだろうと思っています。

 1人の方のアンサーにこんな長い時間を使ってしまいました。要するに、私が言いたいのは、私がこういうことをやっているのは、別に正義でも善でも何でもなくて、おかんのわがままで、私が安心して死にたいからやってますねんということで、わがままやから、別にこれを「そうせいよ」と言っているんじゃないんです。誤解のないように。こういう方法があるよ、こういう方法で日本も一丁やってみたら、選択肢として、こういうものを選んでみてという呼びかけやと思っていただければありがたいと思います。お返事になったかどうか分かりませんが。

 ここにホームページがあって、私のメールアドレスも書いておるので、何でもご遠慮なく。メールだけは文字打ちできますから。文字打ちだけできるんです。手紙で切手貼ってといったらなかなかできないんですが、文字打ちできますから、いただいたメール、ご質問でもご意見でも100%返事を書くことに、自分で決めていますので、何か聞き足りなかったこととかあれば、自分は、こんななんでいうことでも結構なので、メール下さい。その時にタイトルはローマ字とか英語はやめてね。日本語で都市経営フォーラムで会ったとか書いてもらうと、あの時来てくれはった人やと思うので、是非、是非、そのようにしていただければ。

河合(樺|中工務店) 1つ質問させていただきたいんです。チャレンジドの方は、生活する上で、建物とか街とか非常に制約があると思うんですけれども、その面で一言何かいただければと思います。よろしくお願いします。

竹中先生 ありがとうございます。実はこの資料の中に「ナミねぇのプロフィール」というのが、後ろから3枚目にあります。ここで見ていただいたら分かるんですが、私、今6つか7つの省の委員とかさせていただいていて、衆議院、参議院とかでもこういう話をさせていただくのに招いていただいたりしたんですが、その下に、「国土交通省:自律移動支援プロジェクト スーパーバイザー(2004年)」と書いていますが、建設というと、省でいうと国土交通省になりますけれども、私自身が国土がいかにユニバーサルであるか、ということに非常に大きな関心があります。先程言ったアメリカの法律では、建物とか道路がバリアフリーでなかったら、それは訴えてもかまへん、みたいな法律なんです。どんどん訴訟がおりたりしています。それで負けたらいかんから、どんどん先取りみたいになっています。

 それでも、日本のバリアフリーは凄く進んでいますね。点字ブロックなんか、日本ほどたくさんきちっと引かれている国はないです。逆に、その点字ブロックで、車椅子の人が困るとか、お年寄りが滑る、とかいう問題があるくらいで、そっちを何とか考えなあかん、新しいタイプの視覚障害者向けの行き方を考えないかん、という話になっているぐらいにバリアフリーに関しては世界の中でも進んだ国です。

 だけど、バリアフリーというのは障壁を除去する、という意味でずっとやってきました。私は、すべての人が社会に参画したり力が発揮できるユニバーサル社会ということで、国土交通省にユニバーサルというのを提案させていただいているんです。それはどういうことかというと、その人が単にそこへ行けるということだけではなくて、例えば、そこが学校みたいな教育機関だとしたら、教育機関に行ける、勉強できるだけじゃなくて、能力があれば先生にもなれば、経営者になれる。その人がそういった社会的に活躍できる、いろんななりたいものになり得る可能性とチャンスがある支えとしての国土交通行政、或いは建物なんかの考え方というところまで、是非日本は踏み込んで欲しいし、それが、ITの時代にはできる。ということで、自律移動支援プロジェクトです。これは、大石久和さんという方が、たまたま友達でいらっしゃるんです。国交省の元技監。私が初めて会った時は、道路局長をされていました。彼の推薦で、その当時、関谷大臣の作られた委員会に参加をさせていただいた経緯があります。その大石さんと一緒に国土交通行政を供給側、バリアフリーを提供する側から、ユーザー側の視点でその人がどこまでのことができるだろうか、という視点に立った戦略を立てようよという話をして、彼が技監になった時に、この自律移動支援プロジェクト、ITを使うことで、今そこにどんなふうに移動するのが一番いい移動の仕方か。見えない人でも聞こえない人でも外国人でも選べる。今自分がどこにいて、行きたい時にはどういうふうに行けばいいとか、今、この場所の状況はどうなっているかということを、最終的には携帯電話みたいなもので、自由に情報を得ながら行動ができるものの一歩目を踏み出したんです。

 その前のページに、支援者の方々の写真なんかもありますが、東京大学の坂村健さんという世界のITの大御所でいらっしゃいますけど、彼に座長になっていただいて、彼の持っていらっしゃる最先端の世界規模の技術を、ここに全部導入をしていただく形で、人が移動をする、行動をする、ユーザーになる、労働者になっていく、いろんな場面場面でITが支援するプロジェクトを立ち上げていただいて、これを推進されているということです。

 ユニバーサル社会とバリアフリー社会というのは、別物ではなくて、当然バリアフリーが含まれないとユニバーサル社会というのは来ないんですけれど、分かりやすく言うと、アメリカに行って凄いのはデパートに行った時に、もちろんデパートはどんな障害者でも行けるのが当たり前やし、例えば着がえなんか、車椅子の人も当たり前に入れる。車椅子用なんてついてないんです。広いフラットになった着がえ室があるというだけで、子ども連れの人とか車椅子の人、カップルの人が入って試着できるというユニバーサルの考え方が、例えばショッピングセンターやデパートなんか当たり前になっているんですね。そういう発想ですね。

 つまり、この建物を使うのは、この道を歩くのは、この乗り物に乗るのは、いろんな人がいてはるんやという考え方。アメリカだけじゃないんです、先程言った先進国の公共というのは、公共という以上は全てやっている。全てというのを公共と呼ぶ国。日本はほとんど。ほとんど、となった時に必ず同じ人が抜けるんですね。これが日本の福祉の状況。ここを福祉で埋めてきた、という話になったんですね。

 だから、分かりやすく言ったら、全てと考えたら、逆にいろいろ発想が湧いてくることが、たくさんあるのかなというふうに思います。

 特に、何に携わっておられるんですか。ビルですか。

河合(樺|中工務店) 病院建築です。

竹中先生 病院ですか。私、病院とホテルとの融合みたいなもの、凄いホスピタリティーのある病院、或いは病院機能のあるホテル、そういったものがこれから物凄く必要とされてくるかなと思ったりしているので、また是非いろんな話を、お互いに意見交換できればと思います。

 それから、先程、公務員の方がご意見下さいましたけれども、日本は、いろんな意味で、法律があるところにはとにかく官の仕事があって、公務員の方が意識を変えていただくということが物凄く重要なんですね。障害者雇用率という数字についても、これからどう考えるかということを厚生労働省とずっと話を詰めています。私も厚労省の方でも、7年も8年も委員をして話を詰めているんですが、やはり行政組織のトップ、先程言ったスウェーデンのサムハルを作った国のトップの方が提案されたみたいに、トップの方に動いて欲しいなということで、これは公にするものでもないんですけれども、ユニバーサル社会を作る事務次官会議というのを、呼びかけさせていただいております。おかげさまで、国土交通、文部科学、厚生労働、この改造からは総務省という4つの省の事務次官の皆さんが新旧集まっていただいて、ユニバーサル社会にするために、省の縦割りを越えて、何か1つのテーマにやれないかという熱い議論をしてます。去年の11月に発足しまして、何と今までに10回。各次官室を順番に、手弁当で持ち回って、役所の金、税金を使っていませんので、安心して下さい。私も自腹で東京に出てきて、そういう会をさせていただくということで、やらせていただいています。そういう方々が、こういうテーマに、お仕事を越えて集まって、率直な意見交換をされるような時代が来た。こんな茶髪の元ヤンキーやったおばさんの言うていることに、「おもろいやん」とか言うて、集まりはる時代が来たということが、日本はある意味で大きく変わろうとしているんやろうなと。それがいい方に変わって、何でもありの国になったんやったら、何でもありのおもろいことで、なおかつプラスになることとなって欲しいなと思っています。

 今日も、いろんな企業や職場で影響力のある方々がお集まりなんだろうと思います。私は、自分の娘、重症児の娘を授かってから思うんですが、金を持っているのが偉いのでもなく、立場を持っているのが偉いんでもなく、この金や立場をどう使う、ということに知恵を絞るのが一番偉い人なんだろうと。そういう意味でいろんな方に、怖いもの知らずの関西人なので、ぶち当たらせてもらって、あなたは、あなたが今仕事で持っている職責で何をしはるんですか。あなた、ごっつい金持ちやけど、それを何に使うんですか、みたいな話をさせていただいてきた。非常にラッキーに恵まれてきました。是非今日もそういったことで、皆さんが何かの一歩を踏み出していただければな、ということで、ありがとうございました。(拍手)

與謝野 竹中ナミさん、今日は本当に心打たれる貴重な素晴らしいお話を数々いただきまして、本当にありがとうございました。とりわけ、「チャレンジド」という言葉に象徴される「人間の心の持ち方」「社会のあらゆる事柄に対面する姿勢のとり方」等々について、建築・まち・都市・環境の問題を超えた、人間本来の「生きる気概を維持する原点」に立ち返りながらのお話は、誠に目から鱗の示唆深いお話でありました。さらに、人間という生物の生命力と無限の発展可能性についても、私たちに限りない「元気」を提供頂いたものと感謝いたします。また、ITの活用の無限の可能性を通じて、「弱者に手当を」ではなくて、「弱者自身を逞しく鍛えるプロセス」こそが福祉の道筋である、そこにITの存在は限りなく大きい、という視点には愁眉を開く思いでお聞きしました。そして、このような視座でユニバーサル社会をアグレッシブにとらえることの大切さについても、会場の皆様も多く学び取られたかと思います。本日、竹中さんがこのように熱っぽく語られた貴重なお話の数々を、皆様の日頃のお仕事、生活の中で織り込んで頂ければ、また幸いであります。

 それでは、最後にいま一度大きな拍手をお贈りいただき、御礼の気持ちを表したく思います。(拍手)ありがとうございました。

 本日以降のナミねぇさんとの交流は、この機会を縁にされて電子メールでのやりとりを活発にしていただければと思います。それでは本日のフォーラムをこれにて締めたいと存じます。

[写真9]
竹中 ナミ氏

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