種智院大学仏教福祉学会
仏教福祉学 第15 ・ 16号令俳号 抜刷
平成19年3月31日 発行より転載

プロップ・ステーションの挑戦
−『チャレンジド』が社会を変える−

竹中 ナミ  (社会福祉法人プロップ・ステーション代表)

 みなさんこんにちは。ブロップ・ステーションの竹中ナミこと、ナミねぇと申します。友達からも、一緒に活動してる仲間からも、応援していただいている人からも、竹中さんじゃなくて、ナミねぇというふうに呼んでいただいてまして、このニックネームが自分でもとっても気にいっていますので、何歳になっても、ナミねぇというふうに呼んでいただきたいなと思ってます。今日も、ぜひ皆さんの前で、ナミねぇというニックネームで覚えていただければと思います。

 私が仲間たちとやってる活動は、「ブロップ・ステーション」と言います。今日、集まってくださってる方々の中で、プロップ・ステーションの活動について、少しは知っているという方がおられたら手を上げてみていただけますか。…数名ですね。では、まったく知らない、はじめて聞いたという方、手を上げていただけますか。・‥ありがとうございます。9割以上の方が初めてということですね。初めてだけれど関心を持って来ていただけたのでしょうか。改めて感謝いたします。

 それでは、プロップの活動について少し説明します。「プロップ・ステーション」というのは、1991年の5月に、草の根のボランティアグループとして発足しました。今から15年余り前のことです。このグループが発足したときから、私たちは活動を進めるにあたって、ある道具を使おうと決めていました。それが、パソコン、インターネットです。日本ではITと言われていますが、「インフォメーション・テクノロジー=情報技術」のことですね。障害があって、その障害がとりわけ重くて、家族の介護が必要とか、家族の介護も無理になられて、例えば施設におられるとか、あるいは進行性の障害などで病院のベットにおられると。そういう方も含めて、どんな障害があっても、IT、情報通信という技術で社会とつながって、人とコミュニケーションをとる。あるいは、自分の欲しい情報を誰かに頼んで取ってきてもらうのではなくて、自分自身でゲットする。そして、そこで得た情報をもとに、今度は自分が行動していく。あるいは、自分が身につけた技術を、その情報通信という道具で世の中に発信する。こういうことを目的として、最初からコンピュータやインターネットという情報通信技術を道具に使って、このプロップ・ステーションという活動が生まれました。

 自分のできることを発信することとともに、もう―つの究極の目標は、発信したことが世の中でちゃんと仕事として認められ、受けとめられ、そして、ちゃんと稼いで納税者、タックスペイヤーになること。そんな目標でこの活動が始まりました。ですから、活動の仲間たちは、自ら重い障害を持ってる仲間たちです。現在もそうです。ところが、この活動が発足した1991年頃というのは、日本の一般家庭にパソコンがまだ普及していませんでした。パソコンより先にワープロ専用機というのが普及をしていましたが、パソコンというものはまず知りません。目の前で見たことがないんですから。ではコンピュータはなかったかというと、ありました。ただし、企業の経営中枢とか、あるいは、研究室の情報分野をやっている研究室の奥まった所に、冷蔵庫より大きい箱が並んで、中でリールみたいな音を立てて、回っている。要するに、業務用の大型のコンピュータが一部のビジネスや研究に使われていましたが、一般の家庭で、机の上に乗るパソコンというようなものは、まだ普及していなかったというのが、15・6年前の状況です。

 私たちのプロップ・ステーションの活動は、一般にパソコンはもちろんインターネットもない、携帯電話もないところからはじまりました。そのときに、コンピュータや通信技術を使って、重い障害のある人が、働いて稼げてタックスぺイヤーになるようなことを目標とした草の根の活動が生まれたこと自体、不思議と思いませんか。家族の介護を受けているとか、家族介護が無理で施設にいらっしゃるということは、一般の社会から言うと、情報から遠いですよね。その情報から遠い人たちが、日本の一般家庭に普及していないコンピュータというような道具で、働けるようになりたい、稼げるようになりたいという運動が起きたというのは不思議ですよね。

 こういうふうに言うと、皆さんの中には、その当時から、ナミねぇは大型のコンピュータに精通していて、それを障害の重い人たちに伝授したら何か仕事ができるようになると思って、活動を始めたのではなかろうかと思う方がおられるかもしれません。自慢じゃないですが、この15・6年間、プロップ・ステーションは、コンピュータとか通信技術を活動の柱に使ってきました。そして仲間たちは、どんな障害のある人も、最近では身体の障害だけじゃないですよ。かなり重い知的障害の方、重度の自閉症の方、精神の障害の方、難病の方、LDの方、学習障害の方、ありとあらゆる仲間がおられますが、そういう人たちが、今では1年ぐらい勉強されると、ほとんどの人が自分のホームページぐらいは作れて当たり前というふうになっているんです。

 ところが、代表者たる私は、この15・6年間、そういう活動をしながら、コンピュータスキルはべったです。自慢じゃないけど、べったです。両方の中指 1 本ずつで字を打つことしかできないんですね。「どうやったら、そこで止まっていられるんですか」と言われるほど、コンピュータは苦手な道具です。私は必要に迫られて、メールだけはやるようになりましたが、それ以外はいまだにできません。ただし、そのメールも、「送信」と「受信」というボタンを押せるからやれるんです。ところが、コンピュータという機械は、送信と押しても、送信してくれないときがありますでしょう。それで、パ二ックになる訳です。そのときに、私みたいに、コンピュータが苦手な人間はどうするか。まず、机の上のパソコンをゆすります。がががががっとゆすってみる。それでも直らない時は、テレビ画面みたいなやつを、45度の角度でちょっと、ぱっと入れる訳です。家のテレビは映りが悪いときに、これで3回ぐらいは直ったんですよ。それでも直らないときは、ものすごく頭に血が上りますから、最後は蹴りです。そこで蹴りを入れようとすると、仲間が寄ってきてくれるんです。例えば、その仲間の1人が全身に麻痺があって、わずかに動く指先で電動車いすに乗っている女の子としましょうか。そういう子が寄ってきてくれる。そしてこう言うんです。「ナミねぇ、コンピュータというのは腕力で解決するもんと違うねんや」と言って「ちょっとのいて、見てあげるし。・・・ほら、 コンセントが抜けてるやん」 とかね。あるいは 「これは設定がきっとまずいから、ちょっと見てあげる。のいてごらん」とか言いながら、ちゃかちゃかってやってくれる。

 その女の子が5、6年前、お母さんと一緒にプロップ・ステーションにはじめて相談に来られたときは、どんな様子だったか。電動車いすに乗った女の子がお母さんと来て、私は「ようこそ、こんにちは」と言ったんです。するとその女の子はうつむいて、「ぼそぼそぼそ」と何か言ったんです。たぶん「こんにちは」と言ったのだろうと思って、「ようこそ。お名前なんて言われるの」と聞くと、またうつむいて「ぼそぼそぼそ」と。「ごめん、ちょっと聞こえなかったんやけど、もう一回、少し大きな声で名前を教えてくれへんかなあ」って言うと、また小さい声で「ぼそぼそぼそ」と。「ごめん。もしかしたら、あなたは体が不自由なだけじゃなくて、声も出にくい障害?」と聞くと、横でお母さんが、「いや、違うんです。はずかしがってるだけなんです」と言って、「体は不自由だけど、勉強して、仕事ができるようになったらいいなと思って来ました」というようなご相談を、5、6年前に受けたわけです。その彼女が、プロップ・ステーションのコンピュータセミナーに通って、勉強を始めました。もともとイラストを描いたりするのが好きなので、ワードやエクセル以外に、グラフィックのソフトとかも勉強しました。

 プロップ・ステーションのコンピュータセミナーの特徴は何かというと、教える先生が、一流のエンジニアか、一流のクリエーターに限るということです。これはなぜか。実は、私は長い年月、たくさんの障害のある人たちとおつきあいしてきてわかったんですが、障害のある人たちを取り囲むのは、家族か、あるいは心優しい福祉精神に溢れる介助者、ボランティアさん、施設の先生、指導員さん、そういう人たちなんです。そういう人たちに守られていることはいいのですが、残念なことは、その人たちが、もし仕事をしたいと思ったときに、その人の中にどんな力が眠っているか。その力は、どうすれば引き出すことができるか。そして、引き出した力をどういうプロセスを経たら、その子がお金を稼げるところまでもっていけるかという点でプロの人は、残念ながら1人もいないというのが、日本の現状だったんです。私は、それがすごく残念だったんですね。心の温かい人たち、この人たちたいへんだし、気の毒だからお世話してあげようという人たちに囲まれるということは、大切なことです。それを否定する訳ではないけれども、その人が自分の力、眠っている力を何か磨いて、何者かになっていきたいと思うときには、それだけではだめなんです。趣味程度の人に習ったことは、絶対趣味以上にはなりません。絶対にプロにはなりません。これはべつにコンピュータに限りません。たぶん編物でもピアノでもそうでしょう。学問もそうでしょう。プロになるのであれば、プロ、あるいは一流の人から習って初めてその一流の技術を身につけて、自分をより高みに上げていくことができる訳です。 ところが、障害のある人たちの世界には、その世界がなかったんですね。 とりわけ障害が重いと言われる方々には、そのチャンスがなかった。ですから、プロップ・ステーションのセミナーでは、教えてくれる先生というのは、たとえボランタリーであっても、一流の技術、一流のクリエイティビティな仕事のできる人に限ってセミナーをやってきました。彼女も、そういう先生たちに囲まれてコンピュータの勉強をして、めきめきとグラフィックソフトやいろんなソフトの使い方を覚えました。そして、自分が今まで書きたい、表現したいなと思っていたことが、コンピュータで表現できるようになりました。それを、例えばプロップの場合は、プロのデザイナーさんに見てもらいます。素人が見ても「その絵、ええなあ」とか、「その絵、私の好みでないわ」という程度はわかりますが、彼女が仕上げた作品がお金を取れるだけのものかどうかというのは、これはプロでないとわかりません。素人が勝手に値段をつけられません。そこでプロの人に見ていただきます。

 そうしたときに、彼女の絵のこのクオリティであれば、こういう企業のポスターだとか、こういうパッケージデザインだとか、あるいは商業的なデザインとして通用するという判断が出たときに、私たち、プロップ・ステーションという組織は、今度は売り込みにかかる訳ですね。「こういうような傾向のイラストが描ける人がいます。こういうようなグラフィックアートが製作できる人がいます。そういうお仕事がありませんか」と。しかも売り込みは営業の得意な人でないとだめですね。営業のプロの人が、しかけていくわけです。そして、企業や自治体、ときには政府から、いろんなお仕事のご相談がきます。そうしたときに、その人に、例えば、こういうテーマで、これぐらいのグレード、サイズはこの程度、色を使う・使わない、仕事ですからいろいろな条件がついてきます。好きな絵を描くことは誰でもできますが、顧客が注文する絵を描けるまでには何回も失敗します。何回も描き直しが要求されます。それでも真剣にそれを受けとめて、発注した人がOKと言うまで、しっかり絵が描けるようになって、やっとプロの一歩目です。その過程で、彼女はつらい経験もしたし、いやな思いもしたし、誇らしい思いもした訳です。そういう経験を繰り返します。そして、彼女の絵が採用されます。そして収入になります。初めて自分の力で稼いだ重い障害の仲間たちは、こう言いました。「お金って本当に公平なものだったんですねえ」と。それまで、重い障害のある自分たちの手元にくるお金は全部、障害者なんだからあげるわという年金である。障害者だから、割り引いてあげるわというものだったり。いわば、上から下りてくる福祉のお金です。それは、もらってべつにいやなことはないです。お金ですから、あったほうがいいに決まっています。だけど、仕事をしてその価値が認められて収入が入ったときに初めて、「これはすごくまっとうで、公平なお金だ」と、みんな感じるんです。お金って、こんなに公平なもんだと。あんたがやった仕事にはこれだけの価値があるんだと言われた人が、プロップの件間たちにたくさんいます。その価値のお金を得るまでに、悔し涙を流すこともだんだん顔も上がり、目が光り、言葉がしっかりし、いまや彼女は、初級コースの先生までできるようになったんです。あんなに声が出なかった彼女が「はい皆さん、手元のパソコンの右側のスイッチを押してみてください。これが、それでマウスですよ」と堂々と言って、教える先生になっていくんです。そして、今度は教える先生で収入を得たりしていきます。イラストを描いて収入を得たり、教える先生になって収入を得たりしていきますね。そして5、6年経つと、どうか。私がむかついて、パソコンを蹴ろうとしてたら寄ってきて、「ナミねぇ、のいて、のいて」と言う訳です。そんなことをこの15年間、日々経験をさせていただいているというのが、このプロップ・ステーションという活動なんてすね。

 では、そもそも私がコンピュータが得意でもないのに、15年前に、なぜコンピュータを柱とした活動が生まれたのか。この活動はある青年と一緒に始めたんです。その青年は、高校生ですごく優秀なラグビーの選手でした。ところが、ラグビーとかアメリカンフットボールというスポーツは激しいですから、鎖骨を折ったり、肋骨にひびが入ったりするのが、日常茶飯事のスポーツなんだそうです。その青年も、高校3年生になるか、ならんかという時期に、試合中の事故で、骨を折ってしまいました。それが、首の骨を折ってしまいました。そして、救急車で運ばれて入院して、手術して、必死のリハビリをしたんですけれど、お医者さんが「もう、君の体ねえ、これ以上リハビリをしてもようならへんから、おうちへ帰って療養しなさいね」と言ったとき、彼が自分の意思で動かせるのは、左手の指先がわずかに上下、それと首が左右に90度弱ぐらい、これだけになったんです。つまり寝ていて「おはよう」と家族が声をかけても、枕から自分で頭が上げられないという状態です。車いすに自分で乗り移りはもちろん、朝起きたときに顔を洗うことから、着替えることから、お風呂に入ることから、食事をすることから、下のことから、全部介護の必要な、いわゆる寝たきりの重度障害者になって戻ってこられたんです。ついこの間まで、世界に羽ばたくラガーマンになるよと言われていた青年だったんです。その子が、一瞬のスポーツ事故で、寝たきりになって帰ってきたんです。本人も家族もすごいショックを受けて、本当にしばらく暗い状態だったんですが、ある日、その少年が両親にこう言うたんです。「ぼく、これ以上くよくよしていてもしかたがない」と。彼は、「ぼくには考える力が残されているということに気がついたんや。だから考える力を磨いて、働いて、社会復帰をしたいな」と言ったんです。でも、働いて社会復帰をしたいという息 子は、今や寝たきりなんですよね。そんなとき、両親としてはこういうふうに言うことが多いのではないでしょうか。「お前、そんな体で働くなんて無理なこと考えんでいい。父ちゃん、母ちゃんがちゃんと世話をしたるからな、安心しいや」とかね、「お前のために、できるだけ残せるもんあったら、残したるさかいにな、安心せえ。そこまで言わんでええ」とか言いそうじゃないですか。そう言われても、べつに不思議じゃないですよね。ところが、彼の両親は違ってたんです。彼が「考える力を磨いて働けるようになりたい」と言った瞬間、「ほんならお前、働けるようにならんかい」と言ったんですね。しかも、「お前、働けるようになりたいんやったら、わが家の長男やねんさかい、家業を継いで働けるようになれ」と言ったんです。寝たきりの息子とその両親との会話ですから、危機迫るものはありますけど、本当にそういう会話を交わすと。

 では、その家業は何だったのか。彼のお家は、郡部で広い土地を持っておられて、その敷地の半分で田畑農業をやっておられました。さらに、残る敷地の半分で、樹木をいっぱい植えて、三代続いた植木屋もやってました。さらにもう一つあるんです。残る敷地に高級マンションを建てて、マンション経営もやっていました。私たちからみたら、大金持ちのぼんですわ。だから、普通なら、この財産をお前に残すという話になりますでしょう。ところが、「家業を継げ。お前、長男やないか」と親が言った。そして彼はどう答えたか。「わかった。おれ、家業を継ぐよ。だけど、この体になっちゃってるから、三つの家業を全部継ぐのは、どう考えても無理やと思う。そのうちの一個を絶対に継いでみせる。父ちゃん、母ちゃん、食わせたるわ」と、寝たきりの息子が言ったんです。

 実は、結論だけ言いますと、彼は今、この三つの家業のうちのひとつを、立派に継いでおられます。両親ともまだ健在なので一緒にお仕事されてるんですけどね。では彼は、この三つの家業、農業・植木屋・マンション経営のどれを継いでいるでしょうか。まず、農業と思われる方、ちょっと手を上げてみてもらえますか。・・・お1人ですか。植木屋と思われる方。・・・植木屋も少数派ですね。ではマンション経営。・・・たくさんの方が手を上げてくださいました。これが正解です。彼は子どものときから親孝行な息子で、農業も植木屋もよく手伝っていました。家業ですから、誇りにも思っていたし、自分は長男だという意識もしっかり持ってた子なんです。ところが、手伝っていた経験があればあるほど、農業、植木屋というのは肉体を駆使する仕事ですから、無理だと思ったそうです。でもマンション経営だったら、経営の勉強とか経済の勉強。それから、その当時、さっきも言うたようにパソコンなんか無いんですが、企業の経営中枢でコンピュータが使われ始めている。企業経営に役立ってるというようなことは、そういう聞きかじりの知識として彼は知ってたんです。だから、コンピュータを勉強して、マンション経営に必要なコンピュータソフトの開発ができるよう自分で勉強したら、農業、植木屋は無理でも、マンション経営やったらきっとやれると彼は思ったんです。彼は必死になって勉強しました。実は、彼を取り巻く仲間たちがチームを作ってローテーションで身辺のサポートを引き受けて、彼は大学に進学をしたんです。大学4年間、経済、経営、コンピュータの勉強をしました。当時コンピュータはとても難しいですからね。大学4年間だけで納得できるプログラムが組めなかったと言って、また仲間の応援も得て、理工学の博士課程まで行って、経営用のソフトを作り、いよいよ自宅マンションの経営に取りかかったんです。

 その後、彼のところをたずねました。わずかに動く指先で操縦する電動車いすに乗って、田んぼの畦道の間をうい−んと抜けて、雑木林をうい−んと抜けて、マンションのお部屋。入ってみると大きな机があって、当時めずらしかったデスクトップ、机の上に乗るサイズになった業務用のパソコンがのっていました。まだ一般家庭用ではないです。業務用のパソコンで卓上サイズになっただけなので、今のようにおしゃれなパソコンとは違います。ごつごつと岩みたいな機械が置いてある。彼がわずかに動く指先で、自分が作った管理データベースを見せてくれたんです。コンピュータのことなんか、なにもわからない私が見ても、その説明を聞いたら完璧なソフトが組まれていたんですね。だけど、彼とはすごく親しかったので私は言いました。「あのな、すごいソフトウェアで格好ええわ。そやけどな、マンション経営って、コンピュータのソフトウェアだけではできへんのんとちゃうの。廊下も掃除せなあかんし、そこらの壁に飾るお花の世話もいるし、そんなん君できへんやん」と、ちょっといじわるを言ってみました。そしたら彼、にこっと笑ってね、「いや、心配いらんねん」と言うんです。「ぼくの住んでいるこの地域に、知的なハンディのグループでお掃除やお花の世話をきっちりやってくれるグループがいくつもあるねん。ぼくは経営者として、そういう所に募集をかけて、応募してきた人を何人も自分自身でちゃんと面接して、仕事をきっちりできる人を何人か雇って、自分が雇用主として、その人の給金のことから、税金のことから、あるいはマンションの収入のことから、確定申告のことから全部、このデータベースで管理してやってんねん」と言ったんですよ。もう、びっくりしましてね、「ええっ、そこまでやってんの。そこまで全部1人で、このデータベースでやってるなんてすごい。私な、君はマンション管理人になったと思って見にきたんやけど、もう管理人どころか、青年実業家やね」と言いました。そう言いながら、あれ?と思ったんです。なぜか。それまでの日本では、彼のように、起きるところから介護がいる人、顔を拭いてあげないかん人、お食事をお口に入れてあげないといけない人、着替えをさせてリフトみたいなんで吊ってお風呂場まで連れて行って、お風呂へ入れてあげないかん人、下のことなんか、おしっこのほうは細い管みたいん通してタンクに貯まるのを、なんかそのタンクを車いすにくくりつけたりしてはる。大のほうは週に何回か、お部屋の一室にブルーシートを敷いて、腸までとどく医療用浣腸というのがあるんですが、そういうので家族が排便介護をしやはる。そういう人というのは、それまでの日本では、「かわいそうで、気の毒で、さぞ、おつらいでしょう。さぞ、たいへんですよね」という重度障害者だったでしょう。ご家族もまた、「おつらいでしょうね。さぞ、たいへんでしょうね。ご不幸なおうちやなあ」と言われるおうちだったんですよ。それが日本の常識だったんですよ。ところが、私の目の前にいる青年は、堂々として目をきらきらさせて仕事の話をして、そして、その横にお父さん、お母さんがにこにこ笑って、「いや、うちの息子、なかなかやりまっしゃろ」とか言っているんですね。もちろん、介護はいりますよ。だけど、堂々として、目をきらきらして、横で父ちゃん、母ちゃんが笑っている。日本の常識ではありえないことが、なんで私の目の前で起きてるんやろと思ったんですよ。よく考えてみると、そのポイントは三つありました。

 一つめは、本人がずっと勉強してる間も、その夢が実現するまで自分の力を世の中に発揮して、仕事、働きたいという思いを持ち続けてきたこと。これは大きな理由ですよね。

 二つ目は、彼の家族、友達、仲間、そういう人たちが、彼が、寝たきりの体で働きたい、勉強したいと言ったとき、「お前、そんな体で無茶や。無理や。そんなん不可能や」と止めるのではなく、「無理かもわからんけど、無茶かもわからんけど、不可能かもわからんけど、やってみいや。お前、挑戦してみいや」と背中を押したんですね。いろんなサポートをそちらに向けたんですね。

 三つ目は、なんといっても、彼のこのわずかな指先で自分のやりたいこと、できることを仕事として表現するコンピュータという道具です。コンピュータは、その当時、日本の一般家庭にはなかったから、こう言い換えてもいいですよね。その時代の最高の科学技術。

 つまり、本人の意思と、その意思をバックアップする周りの人たちの行動と、その時代の最高の科学技術、この三つが組み合わさって、彼は、かわいそうで、気の毒で、ご不幸な重度障害者ではなく、青年実業家になった。介護も必要だけど、青年実業家として、存在しているということがわかったんです。それがわかった瞬間に、私は「日本の福祉って、今までもったいないことをしてたかもわからんね」と言いました。なぜか。 自分が障害がなくて、目の前に障害のある人がいるときに、「この人、ここができへんなあ。ここが無理やなあ。こういうことは不可能やなあ。こういうことは私にはできるけど、この人には無理やなあ」というふうに見ます。そして、「気の毒だなあ。たいへんだろうなあ。なんか自分が手伝ってあげることないかなあ」と思いますよね。例えば行政なら、そこに補助金とか年金とか割引のお金とか出してあげようと思う発想ですよね。その人が気の毒やなあと思う気持ちとか、手を差し延べようという気持ちとか、親切にしようという気持ちは、すごい尊い気持ちです。絶対なくしてはいけない気持ちです。日本にはそういう気持ちを持った温かい人が多いんですよ。だけど、その気持ちを持って着目するのが、相手のマイナスのところ、不可能なところ、自分よりも何々が劣るというところだけの場合、結果としてその人の中に眠っている可能性には蓋をしてしまっていたんだということに、私は気づきました。「なんて、日本の福祉はもったいないことをしてたんやろう!」と、思わず口について出てしまいました。

 そこで私は彼に言いました。「今までの日本の福祉とはぜんぜん違う、180度違うボランティア活動してみようと思うねん」と。つまり、「障害のある人のマイナスのところ、できへんところ、不可能なところにとりあえず着目せえへんのや。そんな活動はようけあるからせえへんねん。だけど、その人が何かやりたいとか、もしかしたら、ここをこう磨くと、こんな可能性があるかもわからんから磨いてみたいとかいう思いを持ってる人たちのその部分、可能性の部分に着目して、人の力と最新の科学技術の力を使って、全部引き出して、それを、できれば君のように仕事につなげる。このボランティア活動を、私は始めたいと思うわ」と彼に言いました。すると彼も一緒にやると言ってくれたんですね。なぜか。彼は入院してリハビリをしていました。専門病院でしたから、彼が入院中、いろんな人が担ぎ込まれてくるんです。彼と同じようなスポーツ事故の人。それから、もちろん多いのは交通事故の人。それから自殺未遂の人、突然難病になった人、あるいは生まれついての障害が重くなっていった人、いろんな人が担ぎ込まれてきて、入院をして、手術をして、必死のリハビリを自分と一緒にしてたと。だけど、彼と同じようになんらかの介護や介助が必要で、退院していった人のほとんどすべてが、その当時、元の学校や仕事に戻れていない。ましてや新しい仕事になど就けている人はまったくいないということを、彼はいやというほど見てきたんです。一緒にリハビリしているときには、元気になって家へ帰ったら、あんなこともしたい、こんなこともしたいと話をしていたのに、介護が必要な状態で帰ったら、みんな「重度在宅障害者」と呼ばれてるだけになっている。彼はそれがとても悔しかったのだそうです。だけど、自分は働きたいという気持ちを応援してくれたいろんな人たちの力に助けられた。そして電動車いすのように、わずかな指先で自分の思いを形にして、仕事として世の中に発進するコンピュータというものの出会った。そして今、こうして人まで使って働いている。こんなことをできる人はぼくだけじゃないし、ぼくよりももっとできる人もいる。ぼくと違う夢を持っている人にもいっぱい出会った。だから、私の言っていることがよくわかると、一緒に活動してくれることになりました。

 ただ、今までの日本の福祉観とは正反対ですからね。こういうことを一緒にやろうという人がどれだけいるかわからないけれど、この指止まれの声をあげ、グループをつくることにしたんです。

 そして、グループを作るなら何か名前がいるので、彼にいい名前はないか聞きました。すると彼が「プロップ」という名前にしてほしいと言ったんです。私はそれを聞いた瞬間にむっとしました。私は子どものときから、たいへんな悪でございまして、日本の非行少女の走りと一頃は呼ばれておりました。自慢じゃございませんが。親もさんざん泣かせました。何が嫌いって学校嫌い、勉強嫌い、学歴は中卒でございます。というような私で、特に、勉強の中でも、算数系と語学系というのはあきませんのですね。その私に向かって、「プロップ」とか言う。「頼むから横文字はやめてえな。なんか輝きの会とか、優しさのなんとかとか日本語はないんかいな」とか言うたら、「いや、プロップにするねん」と彼は言います。なぜかたずねると、「ぼくがラグビーをやってたときの誇りあるポジション名なんです」と言ったんです。プロップというのは、スクラムを組むときに、いちばん下から支える役で、ケガがその分多い。ゴールするような華やかさはないんですが、ものすごくセンスとか体格とかがいる部所なんだそうです。 自分がプロップだったからそれをグループの名前にしたいと。それで、私は言いました。「わかった、わかった。君の気持ちはわかる。だけど、私らはラグビーチームを作るんじゃないから、せめてこのプロップというのに、なんか日本語のええ意味がないかどうか調べてみて、日本語で私らがやろうと思っている活動に合う意味があって、なおかつ、君のポジション名やったちゅうたら、そらオッケーじゃんか」って言うたら、すぐに調べたんです。

 PROP、プロップ、支柱・つっかえ棒・支え合うというような意味があったんです。私は「支え合う」という意味があるとわかった瞬間、全身に電気が走りました。なんでか。彼は私が触るのもいやなコンピュータというようなものの技術を持っています。私にはまったくない経営者能力も持っています。だけど、スポーツマンでしたから、シャイで口べたなんです。 さあ、私はどうでしょうか。コンピュータ技術はゼロ。経営能力はべった。だけど口と心臓はギネス級なんですよね。この2人が、お互いのできないことや苦手な所をつつき合いしても、なんにもなりません。だけど、苦手なところは、もういい。とにかく目をつぶろうと。得意なとこを出し合いっこして組もうよと。得意なところで支え合いするのってすごくないかい?という話です。つまり、私たちがこれからやろうとしている活動というのは、それまでの日本の常識だった、障害のある人は支えられる人で、ない人は支える人という、この常識の線をとっぱらおうということです。障害があろうがなかろうが、人間は得意なことと苦手なことがあります。だから得意なことは磨いて全部出す。障害があってもなくても全部出す。苦手なことは、得意な人と組んだらいい。それは男と女とか、若い人と高齢者もみんなそうですよね。いろんな人たちが、今、日本の常識で、定年制なんかも日本はありますから、この歳以上は働かない人とか言うてますよね。あるいはこういう人たちは働けない。女性も寿退社いうのはさすがに減ってきましたけど、育児による退社、あるいは、家族を介護することになったからと言うて退社とか、いろいろあるじゃないですか。そうではなくて、その人が自分の持てる力を、男であろうが女であろうが、若かろうが高齢であろうが、障害があろうがなかろうが、みんなその力を磨いて出す。そして苦手なところは、得意な人と組むという形で、みんなが支え合いできたら、日本が世界一の少子高齢と言われているけど、それも怖くないんじゃないかと私は思ったんですね。なぜ高齢社会が怖いのか。それは、定年退職をする人たちが増えて、若い支える側に回る人たちが減るという構造だから、たいへんだと言われてる訳ですね。つまり、社会福祉の受け手と言われる人たちが増えて、その支え手という人たちが減るということで、高齢社会たいへんよと言われてる訳ですね。けれども、私が言ったように、どんな人も自分の持てる力を発揮する。無理なところは得意な人と組む。そうすることによって、本当にセーフティーネットの必要な人というのは、当然いるでしょう。だけど、セーフティーネットの必要な人たちにサポートする人の力や、経済の裏付けを安定させるためには、1人でもたくさんの人が支えようという意思を持って、誇りをもって支える側に回れないと無理なんです。今のように、こういう人らは支えられる人、こういう人らは働くのが無理な人、タックスぺイヤーになどなれませんわと言っていたら、絶対この構造には変わらない訳です。ですから私たちは、無謀にも、草の根の小さなボランティア団体で、自ら重い障害があって介護が必要だけど働きたいという者たちが集まって、自分の体の動く部分で、自分の働きたいという気持ちをそこにぶつけて、コンピュータのような最新の科学技術の道具を勉強しながらやってきたんですね。そして先ほど言った彼女のような方が、次々と生まれてきた訳です。

 それでは、なぜ私が、コンピュータは苦手だと言いながら、ここまでみんなと―緒にやってきたのか。実は、私には子どもが2人おります。上が男の子、下が女の子なんですね。上のお兄ちゃんは今年、37歳になりました。下の娘は今年33です。そういう大きな子どもがおりまして、団塊の世代という歳なんてすね。 それで、上の37歳の兄ちゃん、下の33歳の娘の、その下の娘なんです。 33年前に、重症心身障害と言って、重い脳の障害を持って授かりました。重症心身障害というのは目とか耳とか、一つの障害ではなくて、いろんな障害がどれも重くて、重なってるというような状態の人のことを、重症心身障害と総称で呼んでるんですね。

 私の娘は、まず視覚、明るい暗いだけがかろうじてわかる全盲です。ですから、物の形は一切わかりません。聴覚なんですが、音は聞こえます。それは様子でわかりますが、残念ながら、その音が意味することは一切わかりません。ですから、私が話しかけてるのか、ほかの家族が話しかけてるのかとか、あるいはテレビやラジオのニュースなのか天気予報なのか、漫才をやっているのか、そういうことは一切わかりません。それから、言葉なんですが、声は出ますが言葉は一切出ません。人間のあかちゃんは、生まれてしばらくの間、機嫌がいいときと悪いときで、声の調子が違いますよね。いいときは、くっくっと笑ったりして、悪いときは、わあっと泣いたりしてますね。そして、だんだん周りの人たちの話しかけなんかに応えて、話すということが身についてきて、しゃべり出す訳ですね。ところが、残念ながら私の娘の場合は、赤ちゃん、言葉をしゃべり出す手前の、機嫌がいいときと悪いときで声の調子が違うという状態のまんまなんてすね。人間は生まれてから脳が少しずつ、少しずつ発達することによって、聞こえたり、見えたり、しゃべれたり、動けたりするんですね。例えば聞こえない、あるいはしゃべれないから、手話で会話を交わすことが必要であっても、手話という言葉を身につけることはできるんですね。ところが、残念ながら私の娘の場合は、手話というものが、一つのコミュニケーション手段である、言語の一種であるということを理解することもまったくできないということなんですね。体のほうは、未熟児まではいかなかったんですが、ちょっと小さく生まれて、ぐにゃぐにゃだったです。後ろ向けに、反対に真っ二つに頭とお尻がひっつくように曲げても痛くないんですというぐらい、ぐにゃぐにゃだったんですね。それがちょっとずつ、ちょっとずつしっかりしてきまして、数年前から手を引くと、ちょっと歩けるようになりました。ときどき機嫌のいいときは、手を放しても、ちょっと自分で歩けるようになったんです。ただ残念ながら、最近もお医者さんの精神発達診断というのを受けましたけど、生後3か月未満の状態って言われてますので、私のことはまだほとんど母ちゃんというふうには理解していません。つまり、例えば、お年寄りの認知症が今大きな問題になっていますけど、認知症で、もう家族ということがわからない状態になった、自分というものの意識が、ほとんどなくなってしまったというような状態で生まれてきて、そのままずっと一生を過ごすと。少しずつ成長するけれど、ほとんどそのような状態で一生過ごすというのが、私の娘の今の33歳という途上なんてすね。考えてみると上のお兄ちゃんが、生まれてから1歳ぐらいの間にぐんぐんと上った成長の階段を、33年かけて、娘はまだ、その途上だということですね。ですから、わずかの変化を見せてくれるのに、すごい長い年月かかります。わずかの変化というのはそれこそ笑顔が出るとか、ご飯をおいしそうに食べてたとか、そんなような、ほんとにわずかな変化ですよ。そんなに長い年月かかります。もう、何年も何年も、ずっと変化がなくて、ちょこっと小さい階段を上って、発作とかがあったら、戻ってしまって、またちょこっと上ってみたいな。

 そして、私は娘を授かって、すごいことを知ったんですね。彼女がもし、私の所に生まれたんではなくて、よそに生まれていたとしたら、「気の毒なお嬢ちゃんやなあ。ご家族も、きっとおつらいやろなあ。たいへんやろなあ」というふうにしか思えなかったと思うんですね。ところが、自分が授かってみてわかったことは、お兄ちゃんがぐんぐんと成長の階段を上ったときもうれしかっかですけど、下の娘が、このちっちゃな階段を上ったときの喜びというのは、上のお兄ちゃんの変化に比べて、100倍、1000倍、万倍愛しいんです。どっちも自分の子どもやから、かわいさには変わりないと思ってるんだけど、その変化の、自分にとっての貴重さ、すごいなということをやったんですね。それを知りました。どんなに大きな喜びをそのときにくれるかということですね。

 同時に私、上のお兄ちゃんだけを育ててるときにはまったくわからなかったことも知ったんですね。人間っていろんなスピードで生きる人がいて、人間社会というのができてたいるということですね。生後何か月ぐらいにはこうなって、何歳ぐらいにはこうなって、学校へ行って、仕事して、結婚して、子どももでぎて…というのが、普通の当たり前と思っていたけれど、そうではなくて自分の娘のような存在まで含めて、いろんなスピードで生きていく人がいてそれが社会なんだということを知りました。

 同時に、もし自分の子どもが何らかの発達の障害があったときに、親が、子どものできないところやマイナスのところとか、誰かと比べて劣るところとか、そんなところばかり見て、「お前がいるから、母ちゃんつらいわ」とか「お前がいるから、わが家は暗いわ」ともし言われたら、ごっついたまらんやろうなと思ったんですね。だから、私はなんぼゆっくりであっても、彼女のゆっくり生きていこうとしている姿を、そのまんま受けとめないといけない。そして、そのわずかな発達を自分がこんなにうれしいという気持ちを、素直に認めて出していいんや。よその人がかわいそうやなあと言おうが、たいへんでしょうねと言おうが、私は彼女の成長を楽しんでいい、喜んでいい、一緒に元気に生きていっていいんだと思ったんですね。マイナスのところだけを数えるということが、自分の身に置き換えてみたら、これはすごい失礼なことだというのを、実は娘からずっと教わっていたんです。だから、自分が先ほど言った左手の指先で経営者になった青年に出会ったときも、それから自分の娘を通じて出会ったたくさんの障害のある人たちと向き合ったときもそうなんですが、マイナスからではなくて、その人はどんな人で、どんなことで私と一緒に支え合いができるんだろう、情報交換できるんだろう。お互いにとって、どんな付き合いの仕方が楽しいんだろうというふうに見る習慣が自然に身についたのは、まさに娘のおかげなんですね。

 先ほども言いましたように、ごっつい悪で、非行少女で、勉強嫌い、学校嫌いだった私が、今、こういうふうに、偉そうに大学に招かれてマイクなんか持って、竹中先生とか言ってもらってしゃべられる。娘を授かってなかったら絶対ありえないことです。つまり、親でも、教師でも、警察でもできなかった私を更生させるという仕事を、その重症心身の娘が、33年かけてやり遂げてる訳ですよね。これはすごいことです。世の中にむだな命なんてないし、支え合えない人間なんていないんですよね、きっとね。ただ、視点がどっちに向いているかというと、残念ながら今までの日本の福祉は、障害がある人たちに対して、その人のマイナスやできないところや、不可能なところに着目するというのがルールみたいになっていたんですね。それを、ちょっと視点を変えてみるだけで、その人の可能性を磨けるし、それを仕事にもつないでいけるということなんですね。ただし、今言ったように人の力だけでは無理です。そして、科学技術だけでも無理です。もう一つ重要な物がある。それは社会の制度なんてすね。法律とか制度です。

 法律や制度も変わらないといけない。人間の視点が変わるためには、法律、制度の変化も必要なのだなと私が感じたのは、日本だけてはなくて、いろんな国の障害を持つ人たちがどういうふうに生活をされているか、その人たちの生活している国柄は、どんな国柄なのかというようなことを調べ始めてからわかったんです。私はまず二つの国について調べることを目標にしました。一つは、日本が福祉のお手本みたいに、世界一の福祉国家と呼んでいるスウェーデンですね。もう一つは、日本の国が戦後ずっと経済発展のお手本にしてきたアメリカですね。この二つの国を調べてみました。そして、この二つの国で活動している、あるいは活躍をしている障害のある人たちや、そのグループとも、たくさんお付き合いをしました。なんと、すごいことがわかったんです。スウェーデンも、アメリカも、30年以上前から福祉観といいますか、社会保障観といいますか、そういうものをがらっと変えていたんです。

 つまり、福祉というのはある特定層の人たちは弱者で、その人たちに、親切な気持ちや税での手当をしてあげる。それが今の日本の福祉の形ですね。それを福祉と呼ぶと言っていたんですが、転換をしたんです。どう転換をしたか。弱者に手当をするのが福祉ではなくて、弱者の中から、1人でも弱者でない人たちを生み出すプロセスを福祉と呼ぶというふうに転換をしたんです。これは法律も制度も転換をしたんですね。そして、本当の弱者という人が当然残りますね。そこに対しては、1人でも弱者でなくなった人たちを含める総合力で、セーフティーネットを作るという仕組に、両方の国が変えていきました。さらに調べてみると、私たちが先進諸国と呼んでいるほとんどの国が、そのような転換をしていたんですね。そして、日本を含むアジアの多くの国は、まだ残念ながら障害者は弱者とか、国によっては高齢者も弱者、女性も弱者と言って、なんらかの手当の対象になっている。

 私たちは、障害のある人が納税者、タックスペイヤーになれるような日本にしようというのをキャッチフレーズにしてるんですけれども、この納税者にという言葉は、実は、私が最初に言い出しっペではなく、皆さんもよくご存じのアメリカのケネディが大統領になって、最初の議会で「私はすべての障害者を納税者にしたい」と言ったんですね。私はそれを翻訳本で読んだときに、「なんで、この人、こんなこと言ってるんやろう」と思いました。そこでバックボーンを調べたら、ケネディ家は華やかな一族と言われていますが、実は親族に障害のある人がたくさんいらしたんですね。ケネディが愛していた妹のローズマリーさんもかなり重い、知的ハンディだったんですよ。そんなことで、ケネディは政治家である前に、1人のアメリカ人として、アメリカという国で障害を持って生まれたり、途中で障害を持つと、すごく低い地位に見られる、哀れみだけの対象になるというのを、いやというほど知ってたんですね。そして、彼は自分が大統領になったときに、この人が障害があるから働けないとか、タックスぺイヤーになるのは絶対無理だと決めつけることが差別であると。そこから差別が始まるということに気がついて、すべての障害者を納税者にしたい。そして、それが国家の意志だと彼は書いたんですね。1962年2月1日に出された教書です。翌年に彼はダラスで暗殺をされてしまいましたが。

 ただ、ケネディがこういうことを言った時代というのは、日本もそうなんですが、アメリカでも公民権の運動とか、いろんな差別を撤敗しようという運動が、全米で沸き上がったときでした。そして、アメリカは最初に人種の差別をなくそう。差別をなくすというのは、共に働く仲間になれて、どちらもタックスペイヤーになる権利を持っている存在だということを明確にするということなんですね。ですからアメリカでは、それが人種の違いによって、それを成し遂げようといろんな法改正がされました。ほんのわずか30、40年前まで、アメリカではカラードと言われる人と、いわゆる白人と言われる人では、通る道が分けられてました。住む場所が分けられてました。お茶を飲みに入る店も分けられてました。もちろん、教育のシステムも全部分けられてました。今、ゴルフでタイガーウッズが活躍してますが、黒人は一切、ゴルフはできなかったですね。そういう時代がアメリカはあったんです。だけど今、テレビを見れば、ブッシュ大統領の右腕、ライスさんは、ブラッカム・アフリカンのライスさんでしょう。この間まで、パウエルさんという国務長官もおられました。それは、アメリカで自然になったんじゃないんです。アメリカの人たちが、法律や制度も変えて、意識も変えて、やってきた結果にすぎないんですね。今、アメリカでは自然に、白人の人とカラードの人の結婚とかが行われています。もうこれは、べつに不思議なことでもなんでもなくなったんですね。そうした流れの中で、アメリカは15・6年前に今のブッシュさんのお父さん、ブッシュシニア、パパブッシュとか言ってます。ブッシュシニアが大統領になったときに、ADA法という法律を制定しました。Americans with Disabilities Actという法律です。これは翻訳すると、「障害を持つアメリカ人法」というんですね。どんな法律かというと、障害を持つアメリカ人も、障害を特たないアメリカ人と同じように社会で生活を営み、学び、働き、夕ックスぺイヤーになる権利がある。その権利を妨げるものは、全部差別であるという法律で、アメリカ式に罰則とかも付いて、裁判も起こせる非常に厳しい法律です。この法律は、日本ではよく差別禁止法と呼ばれていますが、実は今言ったように、その差別の意味は何か。働いて共に社会を構成する一員になっていけるかどうか、それを阻害するものが差別だという考え方なんてすね。

 そのアメリカのADA法は、ブッシュが大統領選に出るときに、全米のアメリカの障害のある人たちが、障害の種類とか、障害が重いとか軽いとか、そういうもの一切、抜きにして団結して、この法案を作ったんです。そしてブッシュに、「あなたが、もしこの法案を公約として掲げて、当選したらこれを施行するんであれば、私たちは全員あなたの票田になる」と言って、全米の優秀な経済学者とかも動員して、障害のある人たちがタックスイーターでいるときと、タックスペイヤーになったときでアメリカの経済はどう変わるかというようなことも数字を全部出して、もちろん選挙ですから数字のマジックの部分もあるんですけど、それだけ戦略的にやって、パパブッシュに持たせた。そして、パパブッシュは大統領に当選して、それをちゃんと施行したんですね。

 今、ADAが施行されたアメリカでどうなってるか、最近では、去年のゴールデンウィークにアメリカに行きました。アメリカのワシントンDCに行って、いろんな省を全部回ったんです。日本でいう霞ヶ関行脚です。文部科学省とか、財務省とか、なんたら省とかいうのを全部回った。極めて自然に、どの省の中にも、全身麻痺で指先しか動かないから、電動車いすに乗っていますというような幹部級の人はごろごろいます。幹部級ですから、一般職員だけじゃないですよ。課長さん、部長さん、局長さん、あるいは総理補佐官みたいな大統領スタッフにもいるんですね。当たり前のようにいるんです。目が見えないから盲導犬を連れたり、白い杖をついているという人が、幹部の中に当たり前のようにいます。だから、私たちが打ち合わせしたら、その白い杖をついたスタッフの人が横に来て、点字プリンターを使って、書類を取って、またすっと自然に行きはるんですね。聞こえないから、ノートテーカーや手話のできる秘書を連れた幹部スタッフが、当たり前のようにいます。政府の会議にはそうやって、普通に出るんです。それがアメリカなんてすね。パウエルさんやライフさんが大統領の隣りにいるのも、今、そうやってワシントンDCで各省の幹部にさまざまな障害のある人がいる。こういうアメリカって、ほとんど知られてないんですね。それが、アメリカのすごさなんですね。私はアメリカと日本が同盟国というのであれば、そこをこそ導入して学べば、日本のほうがもっと上手にできると思います。だって、アメリカの社会保障は日本の10分の1ぐらいですから。今、日本では、例えば1級の身体障害手帳を持つ人は、自分の娘もそうなんですけど、税から、月に9万円弱という年金をいただくんですね。これは、世界広しといえども日本だけです。ある特定の障害者が、障害者手帳といういわゆるサービス切符を持ったことによって、それだけの金銭的、財政的な支援が受けられる国というのは日本だけですね。アメリカなんか、クリントンが大統領のときに、やっと年間1000ドルの健康保険のゲタをはかせましょうというのが決まっただけで、それでもすごいと言っていました。しかもアメリカは障害者手帳どころか、戸籍とかもないですから、自己申告です。自分がなんらかの障害があるけれど、この学校へ行きたいとか、こニで働きたいと自己申告して初めて、そういう平等チャンスのシステムに乗っていく。だから自己申告しなかったり、自己申告するということを知らない人たちとの格差は、すごく大きいんですね。日本はそんな国じゃないですね。日本はアメリカに比べて、そういう意味では社会保障というのはすごくシステムとしてしっかりしている。ただし、アメリカのようにわずかではあっても、自分が持っているチャンスを自己投資をすることによって、その上に自分のサクセスをきちっと積んでいくことのできない国も、また日本とかアジアだけなんですね。さっき言ったように、この人は障害があるから働くのは無理や。税を払うのではなくて、そこから受ける対象であるというふうに位置付けられているんですね。

 私は、アメリカだけではなく、スウェーデンも、先進諸国と言われる国々が、ここ30数年、そういうふうに考え方を変えて、法律も変えて、そして最高の科学技術なども駆使することによって、いろんな人の力を働く社会を支える側にしてきて、その人が誇りを持って生きられるようにするシステムを見てきました。日本でも、絶対できるだろうと。だけど、私たちは誰かにやってくれと言ってもだめなので、自分たちでできるということを見せないといけないと思いました。

 実は今日、パソコンにデータを入れさせていただいているんです。今から見ていただくのは、『チャレンジド』というタイトルの写真集の中の写真の抜粋です。

 このチャレンジドという言葉、たぶんご存じない方は多いと思うんですけど、先ほど言った、ADAが生まれたアメリカで、その15年前ぐらいにアメリカの人たちが生み出した言葉です。ハンディキャプトとか、ディスエーブルパーソンという言い方は、その人の障害のマイナスの所だけ、あるいはディスエーブルで可能を否定、つまり不可能な所だけに着目した呼び方であると。人権の国アメリカで、そういう呼び方で人を呼ぶのはやめようと。なんかもっとポジティブな、あるいは人の可能性を認めるような、そういう呼び方に変えようと言って、アメリ力の人たちが生み出した言葉の一つが、このチャレンジドなんですね。このチャレンジドというのをタイトルに付けさせていただいた写真集が、なんと吉本興業から出版されました。その写真集なんです。

 表紙には、2人の女性が写ってます。右側、なんか囚人服みたいなパジャマ着ているのが私です。そして左側が、先ほどお話しました私の娘なんです。かわいいでしょう。私がなにか話しかけて「はあい」と言ってるみたいなんですけど、さっき言ったように、残念ながらお母ちゃんの美しい顔が見えてないようですね。お返事してるみたいですけど、そうではなくて、「みゃみゃみゃみゃ」と言ってるんです。ただ、この写真を撮っていただいたとき、ものすごく機嫌が良くて、本当にこういういい表情で撮っていただけた。私にとってはたいへんうれしい貴重なショットを、ずうずうしくも表紙にさせていただきました。

 今、言いました「チャレンジド」とはなにか。ハンディキャップなどに変わるアメリカで生まれた言葉で、「神から挑戦という使命や課題、あるいはチャンスや資格を与えられた人」というのを意味するそうです。この言葉には、私はきっとこういう哲学が込められていると思っています。すべての人に自分の課題に向き合う力が与えられている。だから、課題の大きい人には、その力もきっとたくさん与えられるんだよという考え方が込められているとナミねぇは信じて、このチャレンジドというすばらしい言葉を、障害者でなく、プロップ・ステーションでは使わせていただいてます。

 プロップ・ステーションは、神戸の六甲アイランドという人工島の中のビルの一室に、オフィスがあって、今、娘は国立療養所の重症棟で生活をしながら、お休みのときに一緒に過ごしたり、私が病院に会いに行ったりしています。

 この女性は、10年ぐらいプロップでコンピュータグラフィックを勉強されています。後ろに絵筆があるのが見えますかね。彼女は小さいときから外で遊べなかったんで、絵本で楽しい世界を知りました。彼女は筋肉の難病で、全身をコルセットで固めて座っていて、頭の後ろの枕から2センチぐらい頭がずれても、自分では戻せないんですね。彼女は自分が大好きな絵本を、いつか自分でも描ける絵本作家になりたいという夢を目標に、プロップ・ステーションで、一流のクリエーターの方からコンピュータグラフィックスを勉強してきました。右側は彼女を介護されてるお母さんですね。彼女はすばらしいグラフィックを次々と描き上げて、今、絵本を2冊出したプロの作家になりました。今、3冊目の絵本を描いています。彼女は、わずかに動く手に絵筆を特たしてもらって、お水を汲んできてもらって、絵筆ででも絵を描くことがありますが、お仕事として描かれるときはコンピュータグラフィックスでスピーディに、描き直しもスムーズにできますし、それでどんどん絵を描かれています。

 この方は、交通事故で下半身がまったくの不随と、それと両手が緩やかな力でしか動かないという状態になりました。宮城県に注んでおられる方ですが、コンピュータ・ネットワークでつながって、お仕事をしている仲間です。彼は、わずかに動く、緩やかな力の腕で運転をできる特殊操置を付けた車で移動をされています。

 この方は、生まれついての脳性まひという障害で、両足と左腕は完全に固まってしまいました。唯一、右手が動くんですけど、その右手も脳性まひ独特のアテトーゼという状態で、自分の意思のとおりに動いてくれないんですね。曲げようと思ったら伸びたり、伸びようと思ったら曲げたりしてしまう。だけど彼も幼いころから絵を描くのが大好きでした。そして、コンピュータを勉強しに来て、手が震えるから描けなかった直線や、曲線も使ったすばらしいアートを次々と生み出すようになって、今は彼に個人的な名指しで注文が来るようなグラフィックアーチストになっています。自宅を彼はアトリエにして、お仕事は全部コンピュータでやりとりして、製作も自宅で、お母さんの介護を受けながらアーチストとして活躍されている方です。

 このおじさんですが、右足の下にマウスがあるんですね。彼はプロップ・ステーションのコンピュータセミナー1期生でした。ですから、もう16年。私とは実は、そのセミナーの前からお友達なんです。古い古いお付き合いの方ですが、ポリオという障害で、両手がまったく不自由になって、足でコンピュータの勉強に来られました。ポリオというのは、今は赤ちゃんのときにワクチンを飲みますから、日本では絶滅した障害ですが、この彼がポリオにかかったころは、まだワクチンが普及してなかったんですね。だから今、若い人がポリオにならないのは、このワクチンのまさに科学というか、医学の発達なんですね。彼は自宅で独り暮らしです。料理、洗濯、お掃除、全部1人でやって、料理なんか私の10倍も上手です。足に包丁を挟んでニンジンを刻んで、じゃがいもをむいて、おいしい料理を作らはるんです。その上にグルメで味がようわかってはりますから、彼は、私がインスタントコーヒーを飲んでいても、こうやって、やかんで湯を沸かして、ドリップコーヒーを飲まはるんですね。本当にすごいですね。

 この左側の方、三重県に住んでます。髪は長いけど女性じゃなくて、男性です。大学を卒業して就職が決まったその日に、乗っていたバイクがこけて、首の骨を折りました。彼は、指1本も動かない、首だけがわずかにちょっと左右に動くという全身まひになりましたが、体が不自由になってからコンピュータを勉強しました。腕の所に四角い箱が付いてますが、実は、あれが小型コンピュータで、彼は口にくわえた棒で、このコンピュータを操作して、プログラミングをやります。彼の技術がすばらしいので、プロップの支援者であるマイクロソフトの社長が彼に出資して、一緒に会社を作りました。ですから彼は今、ソフト開発の会社の社長。と同時に地域の子どもたちにコンピュータを教えるNPOのリーダーもしています。コンピュータや情報通信で、障害のある人、ない人が当たり前のように付き合って、当たり前のように一緒に働いていく社会を作ろうということで、彼は株式会社の社長をしながら、非営利法人の代表として、こういうふうにコンピュータセミナーを地域でやってるんですね。

 この人は仙台に住んでます。若いにこやかなお兄ちゃんですが、筋肉の難病で、お母さんの全面介護ですが、コンピュータの前に座るとすばらしいSEさんです。プロップで、完全にインターネットだけでプログラム技術の勉強をされました。私は、彼とは今まで2回ぐらいしか会ったことがないです。宮城県の前知事の浅野史郎ちゃんという人がおりまして、親友なんですが、彼に招かれて宮城に2回講演に行ったときに、地元だからということで仙台の彼が聞きにきてくれました。でも毎日のようにメールでしゃべるし、仕事を一緒にしてるし、テレビ会議システムという最新の科学技術でつながっているので、本当にそんな遠方にいるとは思えないような人ですが、非常に優秀なプログラマーさんです。

 この左側の女性は、生まれたときから聞こえない、しゃべれないという、いわゆる聾唖という状態で生まれてきました。右側にいらっしゃるのは彼女の息子さんで、彼女はシングルマザーで息子さんを育てながら、漫画家になる勉強をしていました。その勉強をしながらプロップ・ステーションでホームぺージなどを作るお仕事ができるようになりました。非常にプロフェッショナルなホームページをご自分でも作り、いろんな企業からのお仕事も受けたりして、今、彼女は自分自身の漫画家になるためのホームぺージ、自分の漫画ブログというのも発表しています。オンラインで、ミキティ漫画ブログとかいって検索していただくと、きっと彼女のそういう新しい漫画ブログという取り組みにヒットすると思います。彼女も、地域の耳の聞こえない子どもたちにコンピュータを教えるというNPO法人も立ち上げて、そのリーダーもしています。手が不自由でも、いろんなアタッチメントを作ってコンピュータ操作をします。手にはめるタイプのキーボードを押すものですが、今や、べろが口の中でほっぺたにひっつくとか、歯の裏を触ることができるとか、まばたきができるとかいうだけで、全部それはスイッチになります。アメリカでは、そこが脳波という所で、なにか考えて命令することで動くというような所にまできています。アメリカはすごいです。

 この方は今、こうやって机に座ってられます。進行性の筋ジストロフィーで、今はほとんどベットの上におられます。もともとコンピュータの技術者の方でしたが、歩いて通っていたのが無理になり、松葉杖で無理になり、車いすで無理になり、緩やかなハンドルで運転する車で通うのが無理になり、いよいよ完全な在宅になられたというところで、プロップにご相談がありました。仕事ができない状態になったと。そのとき私は「これだけの人柄で、これだけで一生懸命働いて、こんな技術を持った人の力が眠るんやったら、そんな日本の国なんていらんわ」と思ったぐらい、悔しく思いました。そして彼にプロップ・ステーションのSEを在宅でやってくださいとお願いして、今、彼は自宅のパソコンからプロップのサーバーに入って、その向こうにいる何十人、ときには100人以上の方にアドレスを発行したり、お仕事を切り分けたり、その切り分けたお仕事をチェックしたり、「君は今月こんだけお仕事をしたから、こういうペイだよ」みたいなこともやっていただくSAさんという役割りをしてもらってます。まさに私が口と心臓、彼が頭脳という役割り分担なんてすね。彼がやってることを私は何一つできません。

 この方は軽い知的もあって身体の障害も合併している方ですが、先ほども言ったように対面ではまったくコミュニケーションがとれない重い自閉のような方も、対人関係がとれなくてもコンピュータとの相性は非常にいいということが私たちの世界ではわかってきました。まったく対面でコミュニケーションをとれない自閉の方が、私とチャットでは普通にお話をしたり、コンピュータのお仕事をされるという可能性が、どんどん出てきています。

 この写真集ができたときに、みんなに「何か記念にやりたいこと、あるか」と聞くと、「吉本の舞台に上ってみたい」と言って、さすがプロップの仲間やん、という感じで、吉本さんに無理を言うて、こんなことをさせてもらいました。

 この人、2人ともマイクロソフトの優秀な技術者です。特に、左側の方は目をつぶっているみたいですが、そうではなくて、生まれて1歳のときに目のがんにかかって、両目を摘出された全盲の方です。それなのに非常に元気で、やんちゃくれで、お父さんと小さいころから工作するのが大好きで、小学4年生のときに、お母さんのためにお風呂の見張番を自分で作ってあげたというような方です。そんなもんまだ発売されてないときですよ。彼は高校ぐらいからコンピュータにはまって、なおかつ英語もすごく得意だったんで、アメリカのサイトに入っていって、コンピュータのプログラミングの勉強をされました。というのも、日本では目の見えない方のための点字のコンピュータの教科書というのは、一度点字にされたものがずっとリピートされるだけで、どんどん変わっていくコンピュータ情報を、リアルタイムに全盲の方が得ることができないんですね。彼はアメリカのサイトヘ入っていって、すべての情報を得ました。アメリカは先ほど言ったように、法律で、すべてのコンピュータやすべてのソフトウェアが、情報を聞こえないから、見えないからと言って取れないということがあってはいけないということで、すべての文字の情報は、オンラインで公開することというのが法で定められています。もちろんこれは、ビジネスで売ってる本みたいに表紙と目次だけは無料で、そこから先を取るのは有科でと、そんなんでかまわないんですよ。とにかくどこに、どんな情報があるかということが、どんな障害の人もアクセスできないといけない、知ることができないといけないというリハビリテーション法508条って言うんですが、ADAよりもう一歩進んだ法律によって守られてるアメリカの国のサイトに入っていって、彼はコンピュータの優秀な一流のエンジニアになりました。

 私はプロップの支援者であるマイクロソフトの社長と彼とに会っていただいたところ、マイクロソフトは彼とすぐにコンサルタント契約を結び、そして、彼が大学を卒業したときには、技術者として採用して、今、マイクロソフト日本法人のアクセスビリティのサイトの責任者です。彼は日本とアメリカのシアトルのマイクロソフト本社を行ったり来たりしている国際ビジネスマンでもあります。非常に優秀な日本マイクロソフトは、彼によってアクセスブルになったと言えるような状態です。

 こういうふうに私たちは日本の国だけを見ていたらわからないことを、国際会議を開くことによって、たくさんの方に伝えるチャレンジド・ジャパン・フォーラムというのを毎年開いています。先ほどご紹介あったように、今年は7月に東京ビッグサイトで開きました。この大会では、車いすの人を何人、お客さんにどうぞ招待をというのじゃありません。仲間たちスタッフは、どんなチャレンジドであっても、どんな企画を立てるかとか、オープニングでどんなムービー映像を作るかとか、IT系の舞台背景だとか、そういったものは全部、自分たちで作り上げてその大会を運営しています。いわば、自分かちの実力発表の場と言ってもいいかもわかりません。来年は、ぜひ皆さんもおこしください。

 これ最後の一コマですけど、2002年になってますね。この写真集が出てもう4年になるんですね。この写真集を発行していただいたときに、新聞社がいくつか紹介していただいた記事です。特に、この左の下の写真、これも写真集にあるんですが、これが私がいちばん気に入ってるというか、うれしい写真でして、こんなすごい笑顔のショットが撮れたということは、私にとって何よりの喜びです。機嫌が悪くなると、わあっと、パ二ックみたいになると、叫びだして止まらなくなったりとか、がぶっと噛みついたりするんです。実は、さっきのいい表情の写真が撮れた直後にパ二ックなりまして、カメラマンの人がカメラを放ってびっくりして、わっと逃げたんですよ。私が大丈夫、大丈夫、噛みつかへんからと言って笑いで紛らわして、カメラマンの人がカメラを取りにきたら、がぶっとやられましてというようなオチがつきました。

 というようなことで、プロップ・ステーションのお話をさせていただきましたが、私たちの活動は本当に日本の福祉観とは180度違う。でも、人の誇りというものを何より大切にしたいなあというのが私たちの活動です。働くこと、お金儲けをすること、タックスペイヤーになること、もちろんこれはとっても重要なことですが、もっとも大切なのは、その人が、その人らしく誇りを持って生きられるかということなんですね。そうしたときに、働く意思があるけれど働けないという人、あるいは「あんたら働けへんのよ」と決めつけられる人がいてはいけないだろうというのが私たちの思いです。ですけど、こういう活動をしているいちばん大きな理由は、やはり少子高齢社会に対する危機感です。私の娘は、最初にも言ったように高度の認知症のような状態で一生すごします。ということは、私が彼女を残して、安心して死ねる日本かどうかというのが実は、私の究極の目標です。安心して死にたいと思っています。そのときには、彼女のような存在をどれだけたくさんの人が支えてくれる仕組があるんだろうかというのが、いちばん大きな課題なんですね。今のように、弱者がこれだけいるから、手当がこれだけいるというだけの福祉で、おそらく私が安心して死ねる日本にはならないだろうというふうに思ってます。ですから、プロップ・ステーションの活動というのは、べつに善とか、正義とかの旗を振るつもりは、もうとうありません。母ちゃんのわがままです。私が安心して死にたいという母ちゃんのわがままです。ただ、21世紀の高齢社会に対する危機感を抱かれる皆さんが、プロップのことに関心を持っていただいて、仲間の輪が広がってきました。

 そして今日、このように種智院大学でもお話をさせていただくという機会を得ました。私としては、たいへんありがたく思っています。この私のお話が、少しでも皆さんのこれからの生活やお仕事に、なんらかの活力になっていただければうれしいな。そして、またおうちに戻られて、ホームぺージを見れるような環境にいらっしゃったら、チャレンジドたちが作ったホームページを、ぜひ見てください。そして、私のブログ、メルマガというのも発行を開始しましたので、よろしければ、ぜひご購読ください。

 ということでナミねぇの話、これで終わりますが、あと、お話が物足りなかったと思う方は、いろんな情報を満載した本を販売しております。売上げはプロップ・ステーションの活動に充当させていただくということになってますので、よろしければご協力ください。

 ということで今日のお話を終わります。どうも皆さん、ありがとうございました。

(2006年11月25目 於:種智院大学)

ページの先頭へ戻る