女性自身 2007年3月27日より転載

大平光代さん(41歳)

「ダウン症の娘(悠(はるか)ちゃん)は私の女神」

“母の覚悟” 命がけで産んだ

『だから、あなたも生きぬいて』の"元極妻"弁護士、昨年9月、40歳で赤ちゃんを

6年前に本誌で"子育て相談"のページ連載していた大平光代さんが、母となった今、再び私たちに「真実の言葉」を伝えてくれる。生きている限り、どんな人間でも、「生き直す」ことができるということを───。

[写真]大平光代さんとはるかちゃん

「悠(はるか)ちゃん、お腹(なか)すいたなぁ。さあ、ミルクの時間やでぇ」
お母さんが抱っこしたまま哺乳瓶を赤ちゃんの口元に近づけると、すぐにチュパチュパという音が聞こえてきた。

「ほう。ずいぶん頑張ってるなぁ。写真、撮られてるからか。あんたはかしこいし、べっぴんさんやもんな。ほう、すごいで。今日は30CCも、ぎょうさん飲めてるで」

すると急に、赤ちゃんが口を閉じて、頭を大きく後ろに反らせた。
「出たな、はるかちゃんのイナバウアー。そうか、もういいんか。よし、哺乳瓶はここまでやな」

次には寝床に戻しながら、「元気に飲んでるようでも、この子にしたら、精いっぱいなんです。見てください。この額の汗」

ほんとに、小さな額中に玉の汗がびっしり。ガーゼで汗をぬぐってやると、今度は、お母さんはいそいそ支度を始めた。

自力で飲み切れなかった残りのミルクは、鼻から胃へと通したチューブで直接送り込んであげる。
「私はこれを"別腹ミルク"って呼んでます。心臓の手術を終えたらじきにゴクゴク飲めるようになる子もいるようですが、うちの場合は、もう少し時間がかかるみたい。

初めから別腹のチューブでやると楽は楽なんですが、私は退院した日からダメモトで哺乳瓶を吸わせました。ダメでも褒めて頑張る、それが大事なんですね。その証拠に、1CCが3CCに、次には5CC、10CCと少しずつ哺乳瓶から飲む量が増えてるんです」

[写真]大平光代さんとはるかちゃん
「自分の過去すべてを伝えたい。この子が独りで生きていく道標となれば……」

思わず、大きくうなずいていた。ダメでも褒めて頑張る、それが大事───。

6年前に本誌で連載していた子育て相談「だからあなたの声を聞かせて」でも、そんな前向きな言葉に、どれだけ多くの悩みを抱える読者が元気と勇気をもらっただろう。
「そうですか。あれからもう6年になるんですね。私もまさか、その間に自分が結婚して、子供を産むとは夢にも思っていませんでした」

大平光代さん(41)は、弁護士のそれではなく、ちょっとふっくらした、すっかりお母さんの顔でしみじみ言った。

人並みの家庭の幸せなんて望めないのだと、かつて自らに固く言い聞かせた人生のはずだった。

大平さんの半生は波瀾万丈(はらんばんじょう)の言葉でも言い尽くせぬほどに壮絶だ───。

[写真]はるかちゃん
「精一杯育てよう。この子はこの子なんやから」

昨年2月、先輩弁護士と結婚

中2のときのいじめを苦に武庫川の河川敷で割腹自殺未遂。その後、非行の道に入り、16歳で暴力団組長と結婚して極道の妻に。このとき、背中に観音様と蛇の刺青も入れていた。そして19歳で最初の出産。そんな彼女に転機が訪れたのは22歳のとき。のちに義父となる故・大平浩三郎氏との出会いで立ち直りのきっかけを得る。

「たしかに、あんたが道を踏み外したのは、あんただけのせいやないと思う。でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、あんたのせいやで。甘えるな!」

猛勉強の末、宅建、司法書士の資格を取り、29歳で中卒の学歴を乗り越えて司法試験に一発合格。31歳で弁護士となった。

以降、少年事件を中心とした弁護活動に講演にと日本中を駆け回る日々だった。

[写真]大平光代さんとはるかちゃん
「口から飲みきれないミルクは、鼻から胃へ通したチューブで。私はこれを"別腹ミルク"って呼んでます」

本誌連載をまとめた「あなたはひとりじゃない」、自らの半生を綴(つづ)った「だから、あなたも生きぬいて」というベストセラーを世に送り、平成15年には大阪市助役に抜擢(ばってき)される。

一時は文科大臣に推す声もあった。2年後に辞任してからは、マスコミの表舞台に出ることもなく、地元・大阪で弁護士活動を続けていた。

だが、大平さん本人が言うとおり、人生、何が起きるかわからない。昨年バレンタインデーの2月14日、事務所の先輩でもある弁護士の川下清さん(52)と結婚。前後して、妊娠を知る。

「私は22年前に一度、出産を経験してますからね。まるで孫を産むような気持ちでしたよ。病院でも言ったんです。全部、忘れましたから初心者として扱ってください、と」

関西流の話術で笑わせるが、40歳での2度目の出産となれば、間違いなく高齢出産。不安はなかったのか。

「それがなかったんです。羊水検査も『いりません』と言いました。当初は、紀子さまと同じ予定日で、実は名前も、いい字画ということで、『悠』か『唯』と決めていたんです。女の子というのだけはわかっていましたから」

ゆっくりと育つというから「悠」

しかし、妊娠中、母体に大きな子宮筋腫(きんしゅ)があることが発覚した。

追い打ちをかけるように1ヵ月の早産で、緊急帝王切開となった。

昨年9月3日の午前1時7分。2千854g、46cmの赤ちゃん。

翌朝、全身麻酔から覚めた妻に、夫は深刻な顔でこう告げた。

「報告せなあかんことがある……」
「なに?」
「実は、僕らの子はダウン症なんや」
「あっ、そうか」

この間、ほんの1秒だったとふり返る。

「そのとき思ったのは、嘆いたり悲しんでるより、障害の程度はわからへんけど、精いっぱい育てよう。この子はこの子なんやから、と。

それより、ダウン症なら、名前は『悠』のほうやなと。ダウン症の子はゆっくりと育つと聞いていましたから、うちの子にぴったりな名前やなと考えて」

しかし、いつもながら気丈な大平さんだったが、肉体は瀕死(ひんし)の状態だった。

「帝王切開と同時に摘出した筋腫は13cmもの大きさで、摘出後は3千CCもの大量出血しました。5日目に腎盂炎(じんうえん)と、肺に水が溜(た)まって40度の高熱で呼吸困難に。
さらに6日目、帝王切開の抜糸で傷口が開いて、極度の貧血のためか、そこが壊死(えし)していることがわかりました。ステロイド剤が投与され、これは今も続いています」

大平さんは、14歳の割腹自殺未遂で、横隔膜や腸にも後遺症が残る。またホステス時代の過度の飲酒で肝臓も悪い。

そのうえ、刺青の入った背中は皮膚呼吸ができず、当時、医師からもこう宣言された。

「普通に長生きはできない」

そうした、いわば過去の傷跡が、出産に際して災いしたと考えてしまう。

「たしかに、ただの帝王切開だけやったら、あそこまで苦しめられることはないでしょう。ですから、私はこの子を、今までの人生をかけて、命がけで産みました」

そして、悠ちゃんもまた、誕生の瞬間から必死に生きる闘いを続いていた。

今日生きていることの喜びを

[写真]大平光代さんとはるかちゃん
「この子ができて、時間がゆっくり流れるようになりました」

「ダウン症では、先天的に心臓病であるケースが多いそうで、それは半数にも及ぶと。悠もそうでした。エコー検査で7mmと思っていた穴は、してみると2cmの大きさでした」

幸い、年明けの手術は無事に終わった。だが、もっと怖い肺高血圧の治療はこれからも続くし、ミルクも生後半年で、まだまだチューブに頼らないといけない。そして、抵抗力が弱いため、感染症の危険も。だから、私たちの取材も、まずは大平さんの、「リビングに入る前に手を消毒してください」のひと言から始まった。

気がつけば、チューブに入ったミルクがすっかり空っぽ。

「よく飲んだなぁ。えらい、えらい。今は3時間おき、1日8回、100CCをあげています。ステロイド剤を服用していて母乳をあげられへんのが悔しいんですが」

ピンクの産着の悠ちゃんは、パパ似というくっきり二重の瞳をくるくる。

胸元にしがみついてくる小さな手を握り返すとき、母子の絆がまた深くなる。

「この子ができて、時間がゆっくり流れるようになりました。昨日も、ヘルパーさんに1時間だけ見てもらって、スーパーに買い物に行ったんです。すると、道端に咲く名も知らぬ花に目が留まりました。以前はなかったことでした」

最も多忙だった本誌連載のころ、事務所で電話の受け答えをしていたときの鋭い眼差しを思い出す。

2時間睡眠で非行少年の将来を預かっていたころには、路傍の雑草に目を留める余裕がなかったろう。

「今までは明日のために今日を犠牲にしてましたが、この子を産んで、今日を無事に過ごせたこと、今日起きた出来事、今日生きていることのすべてがうれしくて。人生を生き直すきっかけをくれたこの子は、私の女神です」

母親が自分のせいで犠牲になったという負い目をのちに与えないためにもと、仕事もできる範囲で復帰した。

いざというときは、夫が「育休」を取ってサポートしてくれる。

「今年の花見は、まだ外に出られませんが、秋ごろには3人で淀川の河原を散歩できれば、と思ってます」

同意するように、悠ちゃんがアーアーと声を発する。

大平さんは、いつか、そのかわいい口から「お母さん」と呼ばれる日を心待ちにしている。

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