人権啓発講演記録
すべての人が誇りを持って生きられる社会に!
平成19年3月発行より転載

人権啓発講演記録

すべての人が誇りを持って生きられる社会に!

[写真]竹中ナミ

平成18年度西条地方局人権フォーラム

日時
平成18年11月20日月曜日 13時30分〜16時
場所
愛媛県西条地方局 7階 大会議室
講演
「すべての人が誇りを持って生きられる社会に!」
講師
社会福祉法人プロップ・ステーション理事長
竹中 ナミ
≪活動歴≫
重症心身障害児の長女(現在33才)を授かったことから、日々療育のかたわら障害児医療・福祉・教育について独学し、challenged(障害を持つ人達)の自立と社会参加を目指して、活動を続けてきた。
手話通訳、視覚障害者のガイド、重度身体障害者施設での介肋・介護、おもちゃライブラリーの運営、認知症の方のデイケア、障害者自立支援組織メインストリーム協会事務局長などのボランティア活動を経て、1991年5月兵庫県内にてプロップ・ステーション準備会を設立。翌92年4月、大阪ボランティア協会内に事務所を移転し、代表に就任。7年間任意同体として活動を続け、'98年9月、厚生大臣認可の社会福祉法人格を取得、本部を神戸市内に置き、理事長に選任された。
≪委員など≫
  • 中央障害者施策推進協議会委員(内閣府)
  • 自律移動支援プロジェクト スーパーバイサー(国土交通省)
  • 障害者(児)の地域生活支援の在り方に関する検討委員会委員(厚生労働省)
  • 新しい障害者基本計画に関する懇談会委員(内閣府)
  • 特別支援教育の在り方に関する調査研究会委員(文部科学省)
  • ユニバーサル社会づくりひょうご推進会議委員(兵庫県)
  • 障害者在宅就業支援策「e−ふお−らむ」アドバイザー(三重県)
≪著述≫
  • 「ラッキーウーマン ― マイナスこそプラスの種」 飛鳥新社 2003年5月発行
  • 「ブロッブ・ステーションの挑戦」 筑摩書房  1998年8月発行
    (平成11年テレコム社会科学賞受賞)
≪授賞歴≫
  • エイボン女性年度賞 教育賞受賞(1999年10月27日)
  • 日経WOMAN「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」ネット部門授賞(2001年12月)
  • 平成14年度情報化月間記念式典にて、総務大臣賞受賞(2002年9月)
テーマ
障害者の人権
演題
「すべての人が誇りを持って生きられる社会に!」

<はじめに>

どうも皆さん、こんにちは。今、ご紹介いただきましたプロッブ・ステーションの竹中ナミこと、ナミねぇです。この歳で、ナミねぇと、ニックネームで呼べと大変図々しいことをお願いをさせていただきまして、快く呼んでいただきましたが、実は日ごろから一緒に活動している仲間や友人、支援してくださっている皆さんも、竹中さんと呼ばず、ナミねぇと呼んでくださっています。ナミねぇと呼ばれると自分か呼ばれたなっていう感じですが、竹中さんだと意外な感じがするので、ぜひ皆さんにもナミねぇというニックネームの方で覚えていただけるとうれしく思います。

お隣の新居浜市には、講演に来させていただいたことがあるんですけど、西条市に寄せてもらうのは初めてです。プロップ・ステーションの本部が神戸にあるものですから、今日は新神戸駅から新幹線で岡山へ来て、岡山からしおかぜで、この伊予西条に降りました。今朝、オフィスを出るのが遅れたんで、新神戸駅までタクシーに乗ったんです。運転手さんに「急いではりまんなあ。どちらへ行かはりまんの。」と聞かれたので、「四国の西条っていうとこへ、初めて行くんですよ。」と言うたら、なんと運転手さんが「そこは自分の母方の実家のあるとこです。」と言わはって、びっくりしましてね。西条の話をいろいろ聞かせていただきながら、こちらへ参りました。だからなんとなく、親戚の家に来るかのような気持ちになって、すごい御縁やなあと思いながら、今、ここへ立たせていただいています。

ご縁と言えば、実は私たちのプロップ・ステーションの活動も、本当にいろんな人との御縁です。人のつながりだけで今日までやってきたというような活動内容です。その人と人との輪を広げる道具として、IT(lntormation Technology:情報通信技術)を駆使して活動を続けてきたわけです。なぜ、そういう道具を使っているかというと、例えば元気な人なら、外に出かけて行って、話したり、お茶飲みに行ったり、いろんな活動ができるわけですけれど、そういうことが非常に困難な人たちがプロップ・ステーションの仲間なんです。家族の介護を受けているとか、あるいは家族の介護も難しくなって施設にいるから、なかなか人とコミュニケーションが取れないとか、あるいは進行性の障害や病気のために、病院のベッドの上にいて、普段は医療関係の人としか関係がない方々です。 1991年5月にプロップ・ステーションの設立準備委員会が発足されました。「働くことが無理やと言われている自分たちも社会で働きたい。」と言い出した人たちが16年前におったんです。そのためには、どんな道具があったら近づけるやろうかと考えたときに期待したのが、コンピュータという道具やったんです。ここにプロップ・ステーションが、ちっちゃな草の根のグループとして誕生したわけです。

と、さらっと申したんですけど、実は1991年頃、日本の一般家庭にパソコンと言われるものは0台やったんです。つまり、コンピュータとかパソコンがどんなものか知っている人は、極めて一部の企業の経営中枢か、大学の研究室で業務用コンピュータを使われている方々だけだったんです。しかも、日本で一般にインターネットが使われ始めたのは、11年前の阪神淡路大震災の後からなんです。それまでは、専門家同士が遅いスピードでコミュニケーションを取っていたパソコン通信の時代です。一般の人にパソコンと言うたって「それ何ですか?」と言われるような時期やったんです。そういう時期に運動が起きたっていうのは、非常に不思議な側面はあります。皆さんの中で「きっとその当時からナミねぇはコンピュータが得意で、障害のある人たちに技術を伝授しようと始まったんじゃないだろうか」と思う方がおられたら、ちょっと手を挙げてみていただけないでしょうか。あれ、一人もおらないということは「あなたはどないみても機械系が得意そうには見えへんやんか」という人は、正直に手を挙げてください。はい、はい、はい、ありがとうございます。やっぱりここは正直な方が多いですね。手挙げなかった人も、顔が笑っていますんでね、多分そう思われているんだろうと思うんです。実は私、この16年間コンピュータや情報通信を柱にする活動をしておきながら、仲間内で一番技術が下手なんです。自慢じゃないですけど、未だに、両方の指1本ずつで字を探しながらでないと、打つことができないんですよ。

ほかの仲間たちは、1年くらい勉強したら、ホームページぐらい作れるようになっているんです。以前は身体障害の方中心でしたけど、最近は、知的なハンディを待つ方や、重い自閉症の方とか、精神の障害の方などあらゆる方が仲間になっています。かなり重い知的障害の方が養護学校在学中から、お休みのときにお母さんと一緒に、ずっとプロップ・ステーションに習いに来てはって、卒業して地域の作業所に行きはったら、ちゃんとホームページ作れるのはその子だけやったそうです。

私は、残念ながら1本指ですが、メールはやれるんです。書くのと送信と受信だけはできるんです。だから、指1本でも、何か操作のやり方がわかるものだけはできるっていうことなんです。ところが、何で送信や受信ができるのかという機械やソフトの理屈は一切わかっていません。例えば、皆さんの中でもご経験があるかもしれませんけど、送信ボタンを押してもエラーが出て送れないときがあるんです。あるいは、受信しようと思っても入って来ないときがあるんです。そうなったときに私みたいにコンピュータが苦手やけど、メールだけは使っているという人間はどうするかっていうと、まず、コンピュータを揺すってみます。ガガガアっと。これが第1段階ですね。揺すってみてもちゃんと動いてくれへんときは、仕方がないからこの両面を45度の角度で、こうパァっとチョップしてみるわけですね。うちのテレビ、これで3回ぐらい映り悪いとき、直りました。それでもあかんときは、しゃあないから、最後は蹴りですわ。腹が立つから蹴りか何か入れようとすると、事務所では仲間が寄ってきてくれます。電動車いすに乗っている女の子がウィーンと来てね、「あっ、ナミねぇ言うとくけどね、コンピュータって腕力で解決するもんじゃないんやから、ちょっとのいて。何たらの設定を見てあげるわ。」とか難しいことを言うて「はい、直ったよ。」と、そんなんが日常茶飯事です。

その女の子が初めてやってきたのは、5、6年ほど前です。電動車いすに乗って、お母さんと一緒に、プロップ・ステーションに来ました。入ってきて、下を向いて小さい声で「ボソボソ…。」「初めまして、お名前なんとおっしゃるんですか。」と聞くと、またうつむいて「ボソボソ…。」です。「ご免なさい、ちょっと聞こえなかったから、もう一回名前教えてもらえるかな。」「ボソボソ…。」「ご免、もしかしたらあんた体だけじゃなしに、声も出えへん障害やったんかな。ご免な。」と言ったら、お母さんから「いえ、しゃべれるんですけど、恥ずかしがっているんです。」とのことです。「そない恥ずかしがらんと何でも言うて。」と、こんな感じでした。コンピュータでグラフィックを描く仕事に就きたいということを、本人から喋ってもらうまでに、20分も30分もかかるような子でした。ところが、そのお嬢さんがコンピュータの勉強を始めると、自分が目標を持っているもんやから、一生懸命勉強しやはるわけです。たどたどしいながらも、インストラクターに一生懸命に質問して、1〜2年勉強している間に、めきめきと技術がついてきました。あるとき「彼女かなりやれるようになってるよ。」と先生が言うので「じゃ、企業から注文を受けているイラストを描いてもらおうか。」とお願いをしてみました。彼女は、一生懸命グラフィックソフトを操作し、いくつか案を出してきました。「この中でどれが一番いいでしょう。ナミねぇ選んでください。」と言うので、「そやなぁ、私やったら1番目かな、3番目かな。ううん4番目も捨てがたいなあ。まあ、とりあえず、注文くださった会社に送ってみようや。」と見ていただき、「ここの色を少し手直ししてください。」という会社の指示に従って、何度か手直しをして、最後にOKが出ました。「OK出たぜ。」「ああ、うれしい。」そんなことを言ってるうちに採用されたデザインが使われた冊子とお給金も届けられました。そういうことが少しずつ繰り返されていくうちに、彼女の目の光り方、声の出方、態度が変わっていったんです。目がきらきらしてくるんです。恥ずかしそうやった様子が失せて、堂々としてくるんです。

もともと彼女は養護学校の生徒でしたが、卒業したらコンピュータの仕事に就きたいと考えて、在学中からプロップ・ステーションに勉強に通っていました。学校ではパソコンクラブに所属し、プロップでは仕事につながるような技術の勉強をしてはったんです。卒業後、プロップ・ステーションでコンピュータのグラフィックを描くようになりました。プロップ・ステーションでは、一流のエンジニアやクリエーターから技術を伝授されてプロになったら、今度はその人が講師をします。順番に輪を広げているんです。彼女にもそろそろ、初級グラフィックの講師をしてもらおうって話になりました。彼女が来たときに最初に習った入門篇です。さすがに最初は大きな声が出なかったけど、だんだん言えるようになりました。あるとき、出身校の養護学校の先生たちもプロップ・ステーションで勉強したいと言わはるので、講座を開いたんです。養護学校の先生でもコンピュータ苦手な方、たくさんいらっしゃるんです。そのときに彼女がグラフィックの先生をしたんです。彼女が学校へ通っているときに自分に教えてくれた先生ばかりが対象です。そんな先生に「はい、皆さんこんにちは。私が講師の○○です。私は皆さんの学校の実は出身生だったんですよ。」と、ちょっと笑いを取りながら上手に講習を進めるという感じに成長したんです。

私がコンピュータに蹴り入れそうになったら、彼女なんかが寄って来て「はい、ナミねぇのいて、のいて。」って言うわけです。数年前にプロップ・ステーションに来たときには、蚊の鳴くような声しか出せず、名前も目的もお母さんに言うてもらわなあかんかった人が、勉強してプロになって、収入も得て、自分の技術を人にも伝授するようになったときに、人間はガラっと変わられるんです。まあ図々しく変わるとも言えますけど、堂々とするとも言えます。自分自身に誇りが持てる人に変わっていく姿を、この16年間のプロップ・ステーションの活動を通じて何度も見てきました。

<ある青年>

私はコンピュータが得意じゃないんだけれども、16年前にコンピュータや情報通信の活動を始めた一番大きなきっかけは何だろうということをちょっとお話ししたいと思います。

私と一緒に活動を始めた一人の青年がいます。その青年は、高校生のときにラグビーの選手をしていました。すごく優秀で、きっと将来は世界に羽ばたくラガーマンになるだろうと言われるくらい、センスのいい選手やったんです。ところが、皆さんもご存じかわかりませんけど、ラグビーは非常に激しいスポーツです。鎖骨を折るとか、肋骨にひびが入るとか、怪我するのが日常茶飯事のスポーツです。彼も、高校2年生の終わりか、3年生になってすぐの頃、試合中の事故で大きなけがを負うてしまいました。鎖骨や肋骨やったらまだよかったんですが、なんと首の骨を折って、頚椎という神経を損傷してしまったんです。試合中、ぱたっとその場に倒れて気絶し、救急車で病院に運ばれ、手術で一命を取りとめて、必死にリハビリしたわけです。だけど、ある日お医者さんから「君の体は、もうこれ以上リハビリしても改善されることはないから、お家に帰って療養しなさい。」と言われました。そのとき、彼が自分の意思で動かせるのは、左の指先4本がわずかに上下、首が左右に90度弱動くだけになっていました。ついこの間まで、「明日は世界に羽ばたくラガーマン」と言われていた青年が一瞬のスポーツ事故で、全面介護の必要な、寝たきりの重度障害者となって、帰って来はったんです。「おはよう」と朝、家族が声掛けても、枕から自分で頭を上げられないわけです。車いすやストレッチャーに乗り移ることも自分でできないんです。彼も家族も、ものすごいショックを受けて、お家の中が暗い状態になっていました。彼が後日、私に言うてくれました。「自分か一生寝たきりやってわかったときは、死んでしまおうと思った。」彼は、病院の屋上から飛び降りて死のうと思ったらしいんです。ところが、病院の屋上へ行くことができないんです。自分で車いすにも乗り移れない、ベッドから降りれない状態ですから。仕方がないから、自分か寝てるベットのシーツを引っ張って、ひもみたいにして、首吊ろうと思ったんですって。ところが、左手の指先がわずかに少し動くだけですから、シーツを引っ張る力も残されてなくて、それもできない。だから死ぬこともできずに一生寝たきりで、家族の全面介護で、下のことまでしてもらいながら生きていかなあかんことに、なお一層ショックだったと言ってました。お家の暗い雰囲気が続きましたが、何カ月か経ったときに、彼が両親に言うたんです。「僕な、死ぬこともできへんねんし、もうこれ以上くよくよするのやめるわ。僕ね、自分に考える力が残されているっていうのに気が付いたわ。だから僕は、考える力を磨いてなんとか働けるように頑張ってみたいと思う。」と言うたんです。幾ら考える力が残っているから働きたいと言うたって、お父さんお母さんにしたら、そう言っている息子は、今や寝たきりで、全面介護が必要なんです。

だから、普通のお父さんお母さんなら、こんなふうに言われるのが多いんじゃないんでしょうか。「そんな体で、働くって無茶なことは言わんでいい。そんな無理なこと考えんでいい。父ちゃん母ちゃんがちゃんと介護したるから安心せい。」とか「お前のために何ぞ残してやるから、そんなこと考えんでいいよ。」と言わはっても別に不思議じゃないと思います。でも彼のご両親は違ってたんです。「ほうか、ほんなら働け。」と言わはったんです。しかもその後、「お前な、働けるようになりたいんやったら、我が家の長男やさかいに、家業を継いで働けるようになれ。」と言わはったんです。彼の家はええお家じゃったんです。その地域の地主さんみたいなお家で、広い敷地を持ってはりました。その敷地の半分で農業をやってはりました。これが1つ目の家業です。家業は1個とちゃいます。まだあるんです。残る敷地の半分は樹木いっぱい植えている3代続いた植木屋が2つ目の家業。もう1個ありまして、残る敷地に、高級マンションを何棟か建てています。農業と植木屋とマンション経営ですから、私から見ると大金持ちです。だから「お前のためにこれ残したる…。」と言ったって別に不思議ではないんです。ところが、彼の両親は「働きたいんやったら家業を継げ。』と言いました。「わかった。家業を継ぐよ。いつか父ちゃん母ちゃん食わせたるわ。だけど、家業を全部継ぐのは多分無理やろう。でも、どれか1つは絶対ちゃんと勉強して継いでみせる。」と言う彼の決心に、ご両親は「ほんなら頑張らんかえ。」と、寝たきりの息子とその両親の会話ですから、鬼気迫るものがあります。

現在彼は、その3つの家業のうち1つを立派に継いでいらっしゃいます。また皆さんに質問ですが、彼は3つの家業のうち、どれを継がれたでしょうか。順番に聞きますので、手を挙げていただければうれしいです。当たった方にはハワイ旅行とか、夢でも見ていただければいいかなと思うんですが。まず、農業だろうと思う方、ちょっと手挙げてみていただけますか。10人ぐらいですかね。ありがとうございます。少数派ですね。じゃ、2番目の彼木屋でしょうという方。植木屋はちょっと多いですね、15人弱くらいおられますかね。ありがとうございます。最後のマンション経営やと思うって方。おお、すごい多数派ですね。ありがとうございます。

112人おられました。私ね、野鳥の会に入っている、うそです。まあそれぐらいかな。大勢が手を挙げていただきましたマンション経営が正解です。彼は、子どものときからごっつ親孝行な子やったんです。長男っていうこともあって、本当にええ子やったんです。スポーツもやるけど、家のこともよう手伝うて、田んぼも植木も手伝っていました。だけど、手伝うてたからこそ、それが肉体を駆使する仕事だというのがわかってたんです。そやけど、マンション経営やったら、経営者としての勉強、経済の勉強とともに、コンピュータを勉強して、経営ソフトを自分で開発して、やっていけると思ったそうです。まだコンピュータが一般家庭にはないその当時、企業の経営中枢でコンピュータが使われていて、それが経営能力を高めていることを知ってたんです。

「マンション経営者を目指して勉強を開始する。」って両親に宣言しました。最初に挑戦したことは、専門的な勉強を受けたいと大学に進学しようとしました。彼のいた私立学校は、中学校から大学院まで一貫校だったんです。高校生の終わりだった彼は、大学部に入試願書を出しました。ところが、大学部は彼の願書を突き返したんです。「鉛筆も消しゴムも持てない、答案用紙もめくれない人は、試験を受けること自体が無理やから、悪いけんどあきらめてください。」と言われたのです。後日彼は、「自分が一生、介護が必要ってわかったときもすごいショックやったけど、願書を突き返されたときは、ある意味もっとショックやった。わずかに残された可能性に賭けて、勉強をしようと思った入り口で、シャッターが下ろされた。もう希望がないんかという気持ちやった。」と言ってました。でも、彼はめげずに、何遍もお願いをしたんです。そうするうちに、ある日彼はハッと気づきました。こういう方法なら入試を受けられるという方法を思い付いたんです。

日本では、コンピュータが一般家庭に普及する前に、「書院」とか「文豪」などのワープロ専用機が普及しました。今ではワープロ機能が全部パソコンに入りましたから、ワープロ専用機は製造中止になりましたが、当時はパソコンが一般家庭になくて、ワープロ専用機が少し普及していた時期だったんです。彼は寝たきりになってから、ベッドの上で、ワープロ専用機でわずかに動く指先で、いやなこと、苦しいことなど自分の思いをワープロを使って日記に書いてたんです。で、ワープロ専用機を試験会場に持ち込んで、フロッピーで問題をもらうことができたら、試験を受けられると思ったんです。彼は大学に「自分の使っているこのワープロ専用機を試験会場に持ち込ませてほしい。フロッピーで問題がほしいんです。」とお願いしました。さて、大学はどのような返事をしたでしょうか。一番前にいらっしやる方、どう思われますか。だめだった?冷たい人やなあ。だめやったと思う方、手を挙げてみていただけますか。多いですねえ。じゃ、OK取れたっていう方。優しい人、ちょっと少ないかもわかりません。結果は、残念ながらだめやったんですね。理由は「前例がない。」でした。「入試にそんな機械を持ち込むような前例のないことを、あんたにだけ認めるわけにはいかん。」で言われたんです。だけど、彼はあきらめなかったんです。彼だけじゃなく、両親、友だち、ラグビー仲間みんなが大学に頼みに行ったんです。「お願いだから彼にチャンスをやってほしい。チャンスを奪わんといてやってほしい。成績悪うても通せとか、そんなことは言わへん。頼むから試験受けるチャンスをやってほしい。あかんかったらきっと来年、再来年とがんばる奴やから、お願いだからチャンスを奪わんとってくれ。」とみんなが頼みに行ってくれました。そして、大学は遂に「認めましょう。」と許可を出し、彼は日本で初めて、大学入試にそういう道具を持ち込んだ人になったんです。そして、見事に合格したんです。

なんと大学にいる4年間、学校の中で、先輩・後輩が、彼の身辺をサポートするチームをつくりました。ご家族だけに負担がかからんようにと、みんなでローテーションを組んで、彼の勉強を支えたんです。そして、彼は立派に勉強しました。経済や経営の勉強は、かなりいいとこまで行ったんですが、なにしろその当時は、コンピュータが今みたいに優しいもんじゃなかったんです。今はパソコンを買うてきたら、データベースなどのソフトが最初から入っていますが、当時は違います。例えば、マンションを経営管理するためのデータベースそのものから開発せなあきません。それが彼の目標でもあったんですけど、当時はプログラミングの1から勉強をしないといけなかったんです。彼は4年間、コンピュータの勉強を頑張りましたけど、自分なりに納得する管理ソフトをつくるとこまではいけなかったので、大学院まで進学しました。仲間たちがそれを支えたんです。そして、理工学の博士課程を修了して、なんとか自分のマンション経営に使えるであろうというソフトを開発して、いよいよ自宅マンションの経営にとりかかったんです。

ある日彼から「ナミねぇ、マンション経営がうまいこと行ってるし、ちょっと見に来てや。」と電話がありました。私は、コンピュータのことなんか、その当時、もっとわかりませんから「コンピュータでマンション経営?どんなしてるんやろう?」と思いながら、好奇心わくわくで行ってみました。彼は、わずかに動く指先で操縦できる電動車いすに乗ってはりました。田んぼのあぜ道の間、雑木林の中をウィーンと抜けて、自分が経営しているマンションの管理人室へと案内してくれました。その管理人室の中へ入ってみると、大きな机があって、その上に当時まだ珍しかった机の上に乗る業務用のコンピュータが、でーんと置いてありました。それまでのコンピュータは、机の上に乗る大きさではなかったんです。企業の情報室みたいなところで、冷蔵庫より大きい箱が並んで、中でリールみたいな音を立て、ガーッと回っているのがコンピュータやったわけです。ところが、コンピュータが小型化していって、業務用だけど、机の上に乗るサイズができ始めておったんです。彼はわずかに動く指先で操作して、自分が組んだ管理用データベースを見せてくれました。素人の私が見ても「わっすご、完璧じゃん。」というデータベースが組まれていたんです。何棟もあるマンションのそれぞれ10数軒に人が住んでいますから、100人近い方のお一人お一人のこととか、1軒1軒からどんなクレームが出て、どう処理したかとか、お家賃がちゃんと入っているかとか、引っ越しするお部屋の壁紙張り替えたり、畳取り替えたりするのに、どの業者さんならどれぐらいの見積もりかとか、経営するために必要な情報が全部そこに蓄積されていました。うわあ、すげえなあと思うたんです。

「親しき中には礼儀なし」っていう言葉知っています?ほんで私ね、ちょっと彼に言うたんですよ。「すごいわ君。でもマンション経営って、コンピュータだけではやれへんのちゃうのん。廊下の掃除もあれば、庭のお花の世話とか、君できへんやんか。」と、いけず言うてみたんです。彼はニコっと笑って「いんや、ナミねぇ、なんにも心配要らんのや。お掃除とか、お花の世話とかやってくれる知的ハンディーの人たちのグループが幾つもあるんや。そういうところに募集かけて、応募して来た人を何人も面接して、うち何人かを雇用して、お給金のことから税金、確定申告も全部このデータベースの中に入ってんねんよ。なんにも心配要らんよ。」て言うたんです。目から鱗っていうか、驚きました。「うわあ、そこまでやれるんか、人まで使うてか。格好ええわ。そこまでやれたら管理人というより青年実業家やねえ。」と思わず言いました。

家には、彼を担ぎ上げれるように、お父さんが自分で設計しはって、友だちの鉄工所に頼んで、室内レールに太い鎖を吊り下げ、特別なリフトみたいな装具をつくってはるんです。「この太っとい鎖、一体どこから持って来やはったん、何ですのこれ?」って聞いたら「うち植木屋やさかいに、庭石をガラガラっと上げる鎖を使うてんねん。」と言ってました。介護ができるよう、ごっつい工夫してます。なにしろラグビー選手でしたから体重100キロくらいある男の子なんです。自分の意思で体動かせんから、そら重たいわけです。だから両親がそんなんも使うて、お風呂のほうヘガラガラと引っ張って行ったり、寝間のほうへ連れて行ったりできるようにしてはるんです。おしっこは管みたいなものを通してます。排尿の感覚がないですから、自然にその管を通ってタンクにたまるようになってます。そのタンクを車いすに付けたりしてはるんです。大の方は週に何回かお家の1室にブルーシートを敷いて、腸まで届く医療用の浣腸を使って、家族が排便の介護をしてます。それまでの日本では、そういう人というのは、かわいそうで、気の毒で、ご不幸で、さぞお辛いでしょう、大変でしょうという感覚やったんですよ。家族もまた、お気の毒ですねえ、大変でしょうね、お苦しいでしょうと言われるのが日本の常識だったんです。ところが、私の目の前にいてる青年は、下のことまで全部必要な全面介護にもかかわらず、目をきらきらさせて、堂々と自分の仕事の話をして、青年実業家と呼ばれる仕事をやり遂げてはるんです。しかもその横でお父さん、お母さんがニコニコ笑うて「うちの息子なかなかやりまっしゃろ、ハッハッハッハ。」とくるんです。

何でやろうと思いました。考えてみると、3つのポイントがあるのがわかりました。1個目は、本人が自分のできることを磨いて、世の中に発信したいな、働きたいなと思っていたことです。2つ目は、彼の家族、友だち、彼を取り巻く人々が「お前、そんな体で働くなんて無茶や。」って止めるんじゃなく、「無理かもわからんけど、やってみたいんやったら、挑戦せい。」と背中を押したり、サポートしたりしたっていうことです。3つ目は、電動車いすもそうですけど、何より彼のわずかに動く指先から、自分のやりたいことを形にして発信することのできるコンピュータという道具があったことです。コンピュータはその時代の最高・最新の科学技術です。つまり、本人の働きたいという意志、周りのバックアッブ、最高の科学技術、この3つが組み合わさることによって、彼は、かわいそうな重度障害者じゃなく、介護が必要ながらも、青年実業家として存在できるというのがわかったんです。

それに気が付いたとき、彼に「日本の福祉って、今までごっついもったいないことしてたかもわからんね。」って言いました。今までの日本では、重い障害のある人に「気の毒やなあ、大変やろなあ、サポートしてあげないかんな」、行政の立場であれば「補助とか割引してあげないかんなあ」と考えてきたわけです。もちろん同情する気持ち、手伝ってあげたいという尊い気持ちを絶対に失ったらいけません。ですけど、そういう気持ちを持った人たちが着目しているのが、相手のマイナスのとこ、不可能なとこ、自分より何々が劣るという点だけに向いているのは、結果として、その人の可能性には蓋をしてしまってたんかも知れへんと、しみじみ思うたんです。だから、思わず「日本の福祉って、もったいないことしてたんかもわからん。」と言うてしまいました。そして「あんなあ、そやから私な、新しいボランティアの活動始めようと思うわ。障害があっても、自分の力を発揮したいとか、力を磨きたいとか、力を発揮して稼ぎたいとか思ってはったときに、人の力と最新の科学技術の両方を使って、その人のマイナスのとこじゃなく、その人がやってみたい、こうなりたいっていう方、つまりは可能性の方に着目して、人の力と科学技術の力を使って引き出して、仕事につながっていくような活動を、ボランティアアシストとして始めてみたいと思うけど、どう思う?」って彼に言ったんです。

そしたら彼が「僕も一緒にやりたいなあ。」って言うたんです。

彼が首の骨を折って、入院した専門病院には、彼がリハビリしている間にも、いろんな人が担ぎ込まれて来たそうです。彼と同じように、例えば、鉄棒から落ちたとか、プールの飛び込みで失敗したとか、スポーツ事故の人です。一番多かったのは交通事故だそうです。それから、今、日本は年間3万人ぐらいの方が自殺で亡くなるって、大変な国になっていますが、実はその周辺に、自殺未遂の方が10倍ぐらいおられるんです。そういう方が担ぎ込まれて入院されて、治療をしてもやっばり障害が残る方が多いっていうのを彼から聞きました。外にも、急な難病とか、生まれついての障害が進行したとか、彼が入院している間にやはり担ぎ込まれて、手術をし、必死にリハビリしても障害が残って、家に帰る人がおったそうです。ですが、帰った人のほとんどが元の学校や仕事に戻れず、まして新しい仕事には就けないというのがその当時の日本の常識やったんです。一緒にリハビリをしてたときは、家に帰ったらあんなこともしたい、こんなこともしたいって夢を語り合っていたけど、介護が必要な状態で帰ったら、結局、その夢は誰も叶えられていないという現実を彼はいやというほど見たわけです。家族や友だちやいろんな人の応援によってコンピュータを駆使する経営者になった彼は、「他にも僕のようになれる人や、僕とは違う仕事ができる人、もっとできる人もいっぱいいる。だから、今ナミねぇが言うてることが僕はよくわかる。マイナスのとこ、不可能なところだけに着目するんじゃなくって、その人の可能性に着目して、人間の力と科学技術を使って、それを引っ張り出して仕事につなげる必要性がよくわかる。ぜひ一緒にやろう。」って言うてくれたんです。

<支え合う>

一緒にやろうっていうことになりましたが、やっぱり二人だけっていうのも、なかなか心許ないんで「一緒にやりたい人はこの指とまれ!」って声を上げることにしました。そのためにグループの名前を決めて、企画書を作ろうということになりました。彼に「どういう名前がええか考えて。」って言うたら、ニコっと笑うて「プロップっていう名前にしてほしいなあ。」って言うんです。そのとき初めて彼から「プロップ」っていう言葉を聞いたんです。私はむっとしたんです。自慢じやないですけど、見ていただいててわかるように、私は子どものときからものすごいワルでした。日本の非行少女の走りと呼ばれてた人間やったんです。何か嫌いって、学校嫌い、勉強嫌いで、特に算数系や英語が苦手やったんです。で、悪かったもんで、実は中学校しか出てないんです。そんな私に、「プロップ」とか横文字を言うから、むっとして「何や、その横文字は。日本の名前にしよう。輝きとかそよ風とか、いろいろあるやんか。」と言うたんですが、彼が「いや、『なんとかプロップ』という名前にしてほしい。」と言うんです。「一体何でやの?」と聞きましたら、彼がラグビーやってたときの、誇りある自分のポジション名が「プロップ」やったんです。優秀なラガーマンだったのは知っていましたが、ポジション名までは知りませんでした。スクラムをガチっと組むときに、一番下から支える役割で、だから怪我も多いらしいんですけど、それがプロップです。ゴールを入れるような華やかな位置じゃないけれども、チームの要のポジションであるプロップが彼の役割やったんです。親しき仲には礼儀はないですから、彼に言うたんです。「あのな、悪いけんどな、私らラグビーチームつくるんじゃないから、せめてプロップが何ぞ日本語の意味がついてないか調べて、何か活動につながるような意味があったらええよ。しかも君のポジション名やったらええやんか。」と言うたら、彼はすぐ調べたんです.そうしたらなんと、プロップ(Prop)っていう言葉には、「支柱」、「つっかえ棒」、「支え合う」の意味があったんです。意味がわかった瞬間に、何か全身電気がビリビリっと走りました。「プロップ、ええなあ。」と思うたんです。これから一緒に活動しようと言うてる彼は、私にないコンピュータ技術を持ってます。私には全くゼロの経営能力を発揮しています。ですけど、彼はスポーツマンでしたから、シャイで口下手です。私はと言えば、口と心臓はギネス級なんです。この二人がお互いのできへんとことか、苦手なことを突つき合いしとったら、組んだって何の意味もないわけです。だけど、お互いの得意なとこだけに着目して、組み合わさって支え合えば良い話です。それまでの日本では、障害のある人は支えられる人、ない人は支える人というのが常識でした。支える、支えられる線が引かれたわけです。だけど、私らがこれからやろうと思っているのは、障害があるなしに関わらず、自分の得意なところを全部発揮して、苦手なところは得意な人と組み合わさるという考え方を世の中に定着することによって、彼のような人を生み出そうということがグループの目標やったわけです。だから、「プロップ」に「支え合う」という意味があると聞いたときは、本当に電気が走る思いでした。「OKや。プロップにしよう。」ということで、「プロップ・ステーション」という名前を決めました。そして「こんなボランティア活動をしようと思う人は手を挙げて!」と声を上げました。するとやはり、自分の家族に重い障害の人がいるとか、自分自身に障害があるという人が何人か、集まってくれて、いよいよプロップの活動がスタートしました。

<最新と一流を>

最初に何をしようと思ったかと言うと、コンピュータを勉強できる場所を設けて、一流のソフトを入れて、一流のエンジニアやクリエーターと言われる人に来てもらって、最高に稼げる技術を伝授してもらえる勉強会を始めようと企画したわけです。実はこの中に、非常に大きなポイントがあるんです。今までの、障害者を取り囲む環境とは180度違うヒントを入れ込んだんです。それは、一流のエンジニア、一流のクリエーターに技術を伝授してもらうということです。それまでの日本では、障害が重ければ重いほど、その人を取り囲むのは、いわゆる福祉関係者と呼ばれる人たちだけになっていました。その人の中に眠るどの力をどう磨けばよいか、どんな仕事に向いているか、どこまで技術を磨けば稼げるようにできるか見定めるプロの人は、残念ながら一人もいなかったんです。何かを習得するのに、趣味程度の人に習った技術は絶対に趣味以上にはなりません。これは別にコンピュータに限りません。物づくりでも一緒です。

障害のある人が、例えば養護学校を出て作業所や授産施設へ行けば、確かに温かく、優しくその人たちを見守ってあげようとする人たちには取り囲まれはしますが、ほとんどのところで、指導員と呼ばれる方が習ってきたようなことを教えて、作った物をチャリティで販売するだけです。決して作業所の人たちをばかにするわけじゃなく、障害のある人を取り巻くシステムがそうなっていると言いたいんです。だけど、これでは絶対そこからプロフェッショナルとなる人は生まれてこないと切実に感じていたんです。ですから、私たちの勉強会には、一流のエンジニアやクリエーターに最新の技術やどのソフトでどんな勉強をしたら稼げるのかという、仕事につながる裏技まで教えてもらえるような勉強会をせなあかんと思うたんです。

「最新のコンピュータと最新のソフトと一流の講師陣!」と盛り上がったんですが、次の瞬間に挫折しました。コンピュータやソフト、一流のエンジニアもそうですが、お金がかかるんです。持ち運びできるコンピュータも出始めていましたけど、100万円を下りません。プリンターも同じくらいします。フロッピーも5インチ、8インチとかいって大きくってベランとしたやつで、1枚3,000円ぐらいしたんです。しかも入る文章の量いうたら、A4判が1枚くらいみたいな時代です。一流のエンジニアさんに来てもらういうたって、そんなお金がどこにあるんですかっていう話です。企業を訪ね歩いて幾らかかるか調べると、当時まだまだ少ない一流のエンジニアさんは、なんと1時間7〜8万円の指導料で企業に招かれていますと言うてはりました。

そんなことがわかった瞬間に挫折です。みんなの貯金集めたらそれでも100万くらいは集まるっていうのはわかりましたけど、最新のコンピュータを何台か揃えて、ソフトを入れて、一流の先生呼んで、毎週勉強するようなことは、到底できないことがわかりました。みんながっかりして「どっかにコンピュータ落ちてないんかな。」「落ちてないやろう。」「コンピュータってどこに行ったらあるんかな。」「コンピュータつくってはる会社に行ったらあるやろ。」「そういうコンピュータつくってはる会社に行ってやな『おたくの一流のコンピュータを何台か私らの勉強会に提供してもらえませんか。ただで。』と誰かが言いに行ったらいいんちゃうのか。」「そらええ考えやな。」「ソフトウェアってどこにあるねん。」「ソフト開発してるとこあるやないか。」「じゃあソフト開発してはる会社に行って『その一流の最新のソフトウェアをちょっと私らの勉強会に貸してもらえませんかね。ただで。』と誰かが言いに行ったらいいやん。」「そらええわ、ええわ。一流のエンジニアさんのとこへ行って『そのすごい技術をうちらの勉強会でぜひ教えてください。ボランティアで。』と言いに行ったらええやんか。」「ええなあ、ええなあ。」って、みんな無責任に盛り上がって「そやけどそんなん誰が言いに行くねん。」って私が言った瞬間に「そりゃナミねぇ、あんたや。」「こんな高価なものを『ただで』とか言いに行けるのはあんたしかないでしょ。」とみんなが私の方を見るわけです。

私は「悪いけんど、コンピュータは触りたくないから、口と心臓の役目はする。」と常日頃から言ってましたから、「しゃあないなあ。」って言うたものの、幾ら何でも、高価なものを無償にしてくれという話をしに行くというのは、さすがの私でも、三日三晩寝ずに「どういうふうに言うたらええもんやろか」と悩んでました。結局、どう言おうという前に、これだけは絶対に言うまいという言葉を先に自分の頭の中に入れました。「この人たちの援助のために、コンピュータを、ソフトウェアをなんとか提供してもらえませんか。」というようなことだけは絶対に言わんとこうと思いました。それで、こう申し上げたんです。「私たちの勉強会に、もし御社がコンピュータあるいはソフト、新たな技術を提供してくださった暁には、必ずここから、『この人欲しいな』っていう人材が育ってきます。あるいは、介護を受けながらお仕事してお返しできる人たちが必ず生まれてきます。これからは高齢社会と言われています。コンピュータやソフトウェアが今みたいに難しかったら、多くの人に広がりませんよ。シェアを広げるためにはどんなソフトウェアが必要なのかを自分の体で証明したり、提案したりしてくれる人たちが必ずこの勉強会から生まれてきます。ですから、一切同情は要りません。先行投資やと思ってやってもらえませんか。」と申し上げたんです。ごっつい考えた挙句、これしかないと思ってお話をさせていただきました。おかげさまで、私が出会ったコンピュータ業界のトップの皆さんが、全員口そろえて「おもしろい。」と言うてくれたんですね。「それは、すごい考えや。」って言うてくれたんです。

当時のコンピュータ業界は勃興期です。ウィンドウズもなかったんですから。DOSパソコンと言われて、数字や英語みたいなんをいっぱい入れるか、マッキントッシュというもう一つ高価な、お医者さんがおしゃれで使い始めていた、この2大手が中心やったんです。そういう会社が日本法人を作って、シェアを広げつつあった時期です。だから、私が出会う企業のトップが、みんな若いんです。世界一のお金持ちと言われているビル・ゲイツさんも学生の時から天才的な技術を発揮して、卒業してマイクロソフトを起こされました。

余談ですけど、日本の福祉関係者と言われる人間で、ビル・ゲイツに何回か会ってるのは、多分私だけです。あの人は世界を分刻みで飛び回っていますから、なかなか会えないので有名な方で、会えるとしたら、大きなITのフェアに講師で来たりするぐらいです。個別に何回かお会いさせていただいたのは、多分私だけやと思うんです。ビル・ゲイツさんが、マイクロソフト社の日本法人を作ったときに、引き抜いて社長に据えた人も、アスキー社を学生ベンチャーで起こした若い人です。つまり、当時私が出会った社長さんは、みんな20代か30代のアタマの若い人たちです。これからコンピュータを、どうやって世の中に普及させようかと考えているベンチャーの人たちやったわけです。私の話に、マイクロソフト日本法人の社長さんはこう言いました。「僕たちもベンチャーだけど、ナミねぇが言う考えは、アメリカではソーシャルベンチャーって言うんだ。同じ思いでやっていけるから応援しましょう。」

どこの馬の骨かもわからん数人が立ち上げたプロップ・ステーションの勉強会に、一流のエンジニアが集まり始めてくださって、今日に至っています。最初にお話したように、初めはうつむいて、名前もよう言わんかった人たちが、技術を身につけることによって、ぐんぐん自信を持って、今では、プロになって次の方をまた育てるようになっています。初めは身体障害の方が中心だったこのコンピュータの勉強の世界に、知的ハンディや、自閉の方や、精神障害の方や、ありとあらゆる方が入って来て、コンピュータを使って、絵画・文章・音楽・プログラミングなど得意な分野で、活躍しはるようになってきつつあるわけです。

<わが子と歩む>

なぜ私がプロップの活動をずっと続けているかですけど、実は私には子どもが2人おります。

上が男の子、下が女の子です。兄ちゃんは、今年37歳になりました。娘は33歳です。ここでまた皆さんに質問をさせていただきたいと思います。できれば、温かい気持ちで手を挙げていただきたいんですが、ナミねぇは、とてもそんな大きな子どもがいるように見えないという方は?はい、ありがとうございます。西条市の皆さん及びその周辺地域から来ていただいた皆さん、大変温かい方が多くってうれしかったです。今手を挙げなかった方は、申し訳ないですが退場していただく…っていうのはうそで、最後まで聞いててほしいんですが、私は団塊の世代の歳です。今日こうやって見ていると、どうやらほとんどの方が私よりお若くって、私より先輩っていう方はわずかとお見受けします。この茶髪メッシュは白髪隠しでやってまして、元不良っていうのもあるんですけど、あんまりおばさんらしいことができないまま今日になって、ナミねぇと呼べとか言うてるわけです。私が今日あるのは、この下の娘のおかげです。33年前に重い脳の障害を持って授かりました。重い障害がいろいろ重なっているときに、重症心身障害って呼びますが、うちの娘の場合は、まず、明るい暗いだけがかろうじてわかる全盲です。

だから、物の形が一切見えないんです。音は聞こえていますが、その音の意味することが一切わからないんです。私が話しかけてるのか、ほかの家族が話しかけてるのか、テレビやラジオでニュースやってるのか、漫才やってるのか、天気予報やってるのか一切わからないんです。

それから声は出るんですけど、言葉は全く喋れません。誰でも生まれてすぐは、言葉を喋れないじゃないですか。生まれてきてすぐ喋ってたという方、おられますか。「おかあさん、ちょっとオッパイ。」とか、いないですよね。多分、地球上に生まれてすぐに喋ったという人は、一人もいないと思います。そやのに、いつの間にか喋っています。しかも日本に生まれたら日本語、アメリカの赤ちゃんは英語を喋ったりするんです。そんなん、昔は不思議に思ってなかったですけど、自分の娘に重い障害があって、喋れへんとわかって、初めて「何で人間って喋れるようになるわけ?」と思うたわけです。お兄ちゃんは、ある時期来たら勝手に「マンマ」くらいから言い出して、そのうち「テレビ見る」とか喋るようになってたわけです。大体、近所の子もおんなじような感じで成長してるわけです。ところが、下の娘は3カ月検診のとき、お医者さんから「重い脳の障害を持ってるようだ」と言われたんです。「10歳まで生きへんのちゃうか」とか「喋れるようにもならへんとちゃうか」とか、いろんなこと言うんで、初めて「一体、人間って、何でみんなあんなふうに、喋ったり、歩いたり、動いたり、学校へ行ったりするようなるん?」と思ったわけです。しかも、それが脳の障害が理由や言うから、一体、脳って何なんと思ったわけです。自分があれだけ勉強が嫌いやったのに、初めて「ああ、知識が欲しいなあ、勉強せないかんなあ」と切実に思いました。いろんなお医者さん、専門家に会うたり、貧乏たれで医学書なんか高くて買えないんで、図書館へ行って、お腹の中で赤ちゃんの脳がどんなふうに大きなるかとか、いろんな医学書を読みあさりました。私は不登校とか、勉強嫌いの子どものお母さんからご相談を受けることがありますが、必ず「学校で勉強せんかて、大人になって何か自分が必要に迫られたら絶対するし、よろしいやん。」とええ加減なアドバイスするんです。

私はこういう性格ですから、障害あろうが、ちょっとでも楽しいことをさせてやりたいなあと思いました。でも、どんなことが楽しいのかわからへんわけです。ほんで、育児の先輩である自分の両親のところに「どないしたらええんやろなあ。」と相談に行ったんです。そしたら、私の父親がいきなり顔が真っ青になりまして、私が抱いてた娘をぐっとひったくって、「ウワワ、わしがすぐにな、連れて死んだろう。」って言うたんで、びっくりしました。「父ちゃん、何ちゅうこと言うの。どういうことやねん。」と聞きました。父は「こういう子を育てていくのは、お前が大変不幸な目に遭うんや。わしゃお前がかわいいてしゃあないから、お前がそんな目に遭うのをよう見とらんさかいに、今やったらこの孫は赤ん坊で何もわかってへんさかいに、わしが連れて死んだる。」と言うわけです。父の顔見てたら、こら本気で言うてるなっていうのがひしひしと伝わってきました。というのも、父はものすごい、私を溺愛してたんです。父は太平洋戦争のとき、兵隊さんとして南方に行き、終戦で内地へ帰って来て、母と結婚して私が生まれました。つまり、かなり歳いってからの子です。かわいいて、かわいいて、しょうがなかったんです。まあ顔もかわいかったんですが。男の人が赤ん坊の世話する時代ではありませんでしたが、社宅で私が「ピー」と泣くと、周りの目もはばからず、父が私をおんぶして、軍歌を子守歌にして、社宅の路地をうろうろ泣きやむまで歩いていました。未だに父の古い友だちなんかから、「あんた、ほんまに父ちゃんにかわいがられて育ったんやで。」とよう言われています。そういう父やったんで、私がだんだんワルになって、家出ばっかり繰り返して帰って来へんときでも、父は「お前が生きてさえおりゃええの。」と口癖のように言うてくれてたんです。ただ父は、かわいい娘が幾ら何でも世間でワルとか呼ばれてるということまでは知らなかったようです。中学のとき長い家出しまして、悪い仲間と遊んで、あんまり長いこと帰って来へんから、父はかわいいナミがきっと事件に巻き込まれたんやろうとすごい心配して、警察に捜索願を出しに行くことになりました。母が「やめときなはい。そのうち帰ってくる。」言うてんのに、「いいや、捜索願出しに行くのや。ナミがどこかでひどい目に遭うてるかわからん。ナミの一番かわいい写真出せ。」って、警察へ持って行くのに、一番かわいい写真を出せっていうくらい親ばかです。一番かわいいと思われる写真を持って、東灘警察のお巡りさんにその写真を見せると「お父さん、心配要りません。このお嬢さんの写真ね、うちにようけあります。」という話を聞いて、初めて父は私が補導されてたりしたことを知ったんです。ごっついショックを受けまして、なんと一晩で髪の毛が真っ白になりました。よく比喩で使われますが、父はそんなに髪の毛なかった人ですけど、本当に髪の毛が真っ白になったのです。人間てごっつい心理的なショックを受けたりすると、髪の色が抜けるらしいです。そんなことも何にも知らん私がしばらくして帰ると、父の髪の色が変わっているのを見て「父ちゃん染めたん?」と聞いても父は怒らなかったです。「ああ、無事に帰って来たか。もうそれでええ。」と言う人やったんです。何しても許してくれる人、みたいな父ちゃんです。その父が「お前のために、孫を連れて死んでやる。」って言うから、その是非はともかく、ほんまにこれは死ぬかわからんと思うたんです。で、私はその時に2つのことを決心しました。

1つは、絶対に父ちゃんと娘を死なさんということです。大好きな父ちゃんと、自分の娘ですから、死なれたらたまりまへん。だけど、二人を死なさないためには、私と娘がこれから生きていく毎日が、父が言うように辛い、苦しい、大変不幸なものでなくて、楽しく、元気に過ごしてる姿を絶対見せたろうと思いました。父が「あの日あんなこと言うて悪かった。お前が元気でよかった。」と言ってくれるようにしたろうと思ったんです。もう1つは、父ちゃんが幾ら私のことを愛してくれてたとしても、私の幸せ・不幸は、自分で決めるし、自分が幸せになってみせるという決心をしたんです。

で、楽しく元気に生きていくための勉強をしようとしたんですが、残念ながらどんなマニュアルもないんです。子どもの検査のために、お医者さん回りするんですけど、行く度に「こんな子を産んだのはお母さんのせいじゃないから、がっかりしないように。」とか言うて、慰めてくれるばっかりなんです。育て方とか楽しく過ごせる方法なんてことは誰も知らない状態やったんです。33年前ですから無理ないかと思いますけど、さすがの私もしばらくへこみまして、悩んどったら、ある日「ハッ」とひらめいたんです。目が見えないということは、どんな時に不便か、どんな時に困るか、どんな工夫で生活すればよいか、どんなことなら楽しめるかを、目の見えない人自身から教えてもらおうと思ったんです。同じように聞こえない、喋れない人とつき合って、コミュニケーションのとり方や困ることとか、楽しむことができることは何かを教えてもらおうと思うたんです。「体が不自由やけど、どんなことがしたいの?」とか「したいことをするためには、どんな物が要るんやろ?」を一緒に考えたらええわと思うたんです。

お医者さんや専門家じゃなく、当事者の人たちから吸収しようと思いました。自分の娘はありとあらゆる障害を持って授かりましたから、ありとあらゆる障害の方とのおつき合いが始まったわけです。そして、その延長線上に、マンション経営者の青年やプロップの仲間たちがいるのです。

もし、娘がよそのご家庭にいる子どもさんやったら、私はどう感じたかなと思うことがよくあります。きっと、「かわいそうなお嬢ちゃんやなあ、ご家族も辛いやろなあ、さぞ毎日暗い生活してはるのちゃうかな、ご不幸やなあ」としか思えなかったと思うんです。つまり、マイナスのとこしか見れへんかったと思うんです。娘は重度心身障害ですから、成長の過程にものすごい時間かかるんです。例えば、笑顔が出るとか、おいしそうな表情で食事するとか、変化を見せてくれるのに何年もかかるんです。何年も変化がなくて、ちっちゃな変化の階段上って、また何年も変化がなくて、ちっちゃな変化の階段上って、発作とかが起きたら戻って、また階段上ってみたいな感じで進むわけです。最初、娘の体はグニャグニャだったんです。後ろ向きに真っ二つに折れ曲がっても痛くないほどグニャグニャでしたが、ちょっとずつしっかりしてきて、5〜6年前から手を引くとゆっくり歩けるようになりました。最近は手を離しても、自分で歩いたりするようになっているんです。お兄ちゃんが1歳ぐらいまでに上った発達の階段を、33年かけてまだ途上です。お兄ちゃんが成長の階段上るとき、いろんな変化を見せてくれたのが、すごいかわいくて、うれしかったです。だけど、何年かに1回、下の娘の変化を目にしたときの喜びっていうのは、その百倍、千倍、万倍愛しいんです。喜びの深さはとても言葉で表せないんです。人間ってすごいもんやったなと思います。わずかではあっても、この子はこの子なりのスビードで生きていこうとしているのをしみじみ知ったわけです。いろんなスピードの人がいて、初めて人間社会ができてたことがわかったんです。もし私がこの子のマイナスのとこだけしか数えへん人間やったら、一体どうなんやろうと思いました。「お前のせいで母ちゃんは辛いねん。」とか「お前はマイナスばっかりの存在やねん。」とか言われたら、娘は生まれてきたことに何の意味も見出せへんと思うたんです。だから私は、マイナスのところだけを見るようなことだけは、絶対したらあかんと思うと同時に、わずかな変化をうれしいと感じられる自分がいることがわかったんです。そのことが、マンション経営の青年との出会いにもつながったし、プロップの活動に結びついたと思うんです。人と出会ったときに、その人の中にあるプラスの部分を探す癖が身に付いたんです。それらは娘からもらった最大の財産やと思っているんです。

そういう目線で、障害のある人たちとお付き合いをしてみて、わかったことかあります。日本では「障害者」と一くくりにして、「○○ができない、無理、不可能な人」と言うけど、一人一人違う人やし、できること・できないこと両方を持ってる人だということです。だけど、世の中は「障害者」と言うた瞬間に、できないところがちょっとの人も「できない、無理」で片づけてしまい、福祉の対象にします。結果として、その人のプラスを磨くチャンスや、その人のサクセスストーリーを阻むシステムになってるって気が付いたんです。つまり、私が娘を育てたんじゃなくって、親でも、教師でも、警察でもできなかった、私を更生させるということを娘が立派にやり遂げたんです。すごい奴やと思いませんか。多分、娘と出会っていなかったら、不良のまんまのおばちゃんだったかもしれないと、しみじみ思います。

<チャレンジド>

実は、プロップ・ステーションでは、「障害者」という言葉を使うのをやめました。「障」も「害」も、残念ながら、その人のマイナスの部分に着目しているんです。「障害者」ではない言葉を使いたいと思ったんですが、日本にはなかなかポジティブな呼び方がないんです。それで、15年くらい前にアメリカで生まれた造語の「チャレンジド」という言葉を使っています。私がこの言葉を知ったのは、11年前でした。そのころ、アメリカにいるプロップの支援者から、アメリカでその言葉が広く使われ始めていることを教えてもらったのです。それまで、アメリカでは「ハンディキャプト」とか「ディセーブル(dis・able:可能を否定する)パーソン」と呼ばれていたわけです。ところが、どちらの呼び方もその人のマイナスや不可能なところに表目をしていると言われ始めたのです。人権の国アメリカと言いながら、人のマイナスのとこや不可能なとこだけに着目して、その人の呼称にするのは恥ずかしくないかという声が起きたそうです。そして、幾らか生まれた新しい呼び方の一つが「チャレンジド」で、他の言葉よりもポリティカルに定着していると説明してくれました。でも私は英語苦手ですから、意味がわかりません。チャレンジャーなら挑戦者だとわかりますが、チャレンジドって聞いたことかありません。関西弁なら「どあほう」とか、「どけち」とか「ど」が頭に着きますけど、しっぽにはつかへんのです。私はそのアメリカの人に「その後ろに着いてる『ド』は、一体何だんねん?」て聞きました。そしたら、こう言うたんです。「チャレンジっていう綴りの最後が『ed』になっていて、これは受動態なんだ。」そんなん言われても、余計にわかりませんから「一体、それどういうことなん?」て言ったんです。そしたら、「『挑戦という使命や課題を与えられた人』あるいは『挑戦するチャンスや資格を与えられた人』という意味や。」と言ったんです。

アメリカのことですから、頭に「神から」とかいう言葉が付くのかもしれませんが、それ聞いた時にすごいポジティブな考え方やなあと思ったんです。引き続いてその人が「しかも、この『チャレンジド』は、厳密に障害者だけを表す言葉じゃないんだよ。」って教わりました。

「例えば、震災復興に立ち向かう人もチャレンジドだという使い方もするんや。」って教えてくれたんです。つまり、この言葉には―――すべての人には自分の課題に向き合う力が与えられている。だから、課題の大きい人にはその力もきっとたくさん与えられる―――っていう哲学が込められていると、その意味を聞いた時に思ったんです。

この言葉を教えてもらった11年前は、あの阪神・淡路大震災の直後でした。私の家は神戸市東灘区にあって、全焼しました。長田区の火事がよく報道されましたが、実は東灘も大きな火災に見舞われたんです。住宅地だったんで、東灘で亡くなった方が一番多かったんです。幸い家族は逃げ出して命は大丈夫でしたが、家は全焼しました。既に阪神間でプロップの活動を立ち上げていましたから、あの震災では仲間たち全員が被災者っていう状態です。どういうふうに助け合うとか、どんなふうに復興するなんて言われても、パ二ックで、それこそ頭の中真っ白で、呆然自失という状態です。その時に、震災復興に立ち向かう人も「チャレンジド」だって聞いたんです。それを知って、すごく元気になったんです。「あんたは向き合える力がある」って、この言葉が教えてくれたんです。それを知ったときにすごい元気が出て、仲間にも伝えた途端に、みんなも元気が出たんです。インターネットはまだ日本にはなかったんで、パソコン通信で情報交換していたんです。見えない仲間は音声装具で、聞こえない仲間も文字通信なら対等です。動けない仲間もパソコン通信によってバリアフリーに意見交換して、プロップ・ステーションの活動を続けていたんです。そのときに、チャレンジドという言葉を知って、みんな自宅のパソコンのスイッチを入れました。瓦礫から掘り出して、スイッチを入れた人もいました。家族がつないでスイッチ入れてくれて、通信に向かった人もいました。最初のころは、電気と電話線が通じませんでしたから、もちろんパソコン通信も使えなかったんですが、数日して両方が開通したときは、「私は生きている」とか発信し出したんです。「○○さん無事やろか?」と聞く人もいました。そして、なんと2週間もたたない間に、私たちの仲間同士では、みんなの安否がわかったどころか、誰がどこに避難したとかの情報も入ってくるようになったんです。耳の聞こえない人たちには、水やお弁当の配布について広報が通ってもわからないから、教えてあげたりする取組みも始まりました。あるときなどは、避難先の養護学校の紙おむつが全然なくなったと、誰かがパソコン通信に書き込んだのが、ずっと伝わって、東京のメーカーから1,000箱くらい届いたこともありました。今、パソコンボランティアっていう言葉が何の不思議もなく使われていますが、日本で最初のパソコンボランティアは、自分たちのことを「チャレンジド」という言葉で呼ばれ、鼓舞された仲間たちが、ベッドの上で始めたことなんです。まだほとんどの方に知られていないんですけど、「チャレンジド」という言葉とその考え方は、自分たちをすごく大きく変えてくれました。

<写真集「チャレンジド」から>

実はきょう、パソコンを置かせていただいているのは、データを見ていただくためなんですが、それは4年くらい前に発行されたある写真集です。タイトルは「チャレンジド」で、プロップ・ステーションの活動のいろんな場面を写真にしたものを、なんと吉本興業が発行されたんです。私はこういう性格ですから、吉本にようけ友だちがおりまして、誘われたこともあるんです。行った方が良かったかなあと思いながら、残念ながら行きませんでしたけど。自分たちの活動の写真集を出すときに、その吉本の友だちに相談したんです。障害のある仲間たちの写真集が、福祉的な写真として世の中に出てほしくなかったんです。みんなが堂々として、生き生さとしている素晴らしい写真をプロの方が撮ってくださったので、そういうイメージが世の中に広がってほしいと思いました。同時に、私は仲間にいつも口癖みたいに「プロップには勉強したいだけ、技術磨きたいだけで来たらあかんのやぜ。笑い取れなあかんねん。」と言うていまして、とにかく喋りの端っこに必ずギャグを入れるのがルールになってるんです。そんなこともあって、吉本興業が出すこういうソーシャルな写真集って後にも先にもこれだけです。

あとは大概、タレントさんの写真集です。その写真集の中から何枚か抜粋して持って来た写真をご覧になってください。

[写真]
《掲載の写真は、すべて写真集「チャレンジド ― ナミねぇとプロップな仲間たち」より》

この写真は、私が指1本でボタン押せば操作できるよう、プロップの仲間たちがパワーポイントとかいうやつに入れてくれたんです。全部モノクロで撮っていただいた写真集です。二人の女性が写っていますけど、右側の囚人肌みたいなパジャマ着ているのが私です。左側が先ほどお話した娘です。周りが明るいか暗いしかわかってないんですが、きれいな目をしてるでしょう。何か今にもお返事するみたいですけど、残念ながら、私の言ってることが聞き取れてるわけでもなく、ただ、「メンメン、メンメン」とか言うてます。でも、こういういい表情はめったに見せてくれることがないんです。

これが神戸東灘の六甲アイランドで、ここにあるビルの中にプロップの活動の本部があるんです。娘は国立療養所の重症棟で生活していて、お休みのときに面会に行って、一緒に過ごしたりしています。きのうも親の会の集まりがあって、楽しく過ごしてきたんです。

[写真]これは娘と海岸べりで散歩しているとこです。手を引いて歩いてますが、ちょっと手離すと自分で歩きもします。この日はとても機嫌よくて、横顔ですが、にっこり笑っているのが、わかっていただけるでしょうか。胴体は娘さんらしく成長しているんですけど、手足はまだ幼児のようで不思議な感じです。でも、かわいいんですよ、と親ばかですんません。

[写真]この方は、ちゃんと車いすに座って、コンピュータを触っているかのように見えますが、実は筋肉の難病で全身がグニャグニャです。コルセットで固められた状態で座っていて、頭の後ろに枕の付いた車いすです。この枕から頭が2センチ動いただけでも、自分では戻せないんです。彼女が初めてプロップ・ステーションにいらっしゃったのは、もう10年前くらいです。数年、コンピュータグラフィックのコースを勉強されて、プロになられたんです。彼女の左側に見える白いはけが、絵筆です。彼女は子どものときから外で遊ぶことができなくて、お母さんが読んでくれる絵本で、喜びとか幸せとか、いろんなことを知ったんです。いつしか絵本作家になって、楽しい夢のある絵本を子どもたちに届けるというのが、彼女の夢になりました。プロップと出会うまでは、絵筆で絵を描いていらっしゃったんです。誰かに指に絵筆を持たせてもらって、誰かにお水を汲んできてもらって、チューブのふたを開けてもらって、彼女が納得する色が出るまで絞ってもらって、わずかに動く指先で混ぜて色をつくって、画用紙を回してもらって絵を描くという感じでした。つまり、誰かがそばについていないと絵が描けない状況で、お母さんやお友だちの手助けを得ながら絵の勉強をしてたんです。その彼女がプロップ・ステーションで一流のクリエーターにグラフィックを習って、コンピュータで作品をつくるようになりました。今では右手をマウスの上に、左手をキーボードの上に乗せてもらったら、自由自在に好きな絵が描けます。かつては彼女のそばに24時間べったりだったお母さんも、今は彼女がコンピュータでお仕事している間は、自由な時間が持てます。

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写真の右側がお母さんです。左側は彼女が絵筆を持って絵を描いています。彼女はコンピュータで絵を描くのが主なお仕事なんですけど、展覧会に出される絵みたいな絵を、絵筆を使って、コンピュータグラフィックスと組み會わせたりしながらゆっくり描いていらっしゃるんです。今彼女は、絵本作家の登龍門と言われるイタリアのボローニャで開かれる絵本原画展での入賞を目指して頑張ってます。実は、既に絵本作家としてはプロになられているんです。既に2冊の絵本を出されて、3作目に取り組んでいらっしゃいます。夢だった絵本作家になっているというすごい方です。

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この方は宮城県に住んでいますが、プロップ・ステーションとつながるネットワークで勉強とお仕事をされています。この方も、交通事故で首の骨を折って、下半身不随となり、両手もほとんど力が出なくなりました。一応両方の指先が動くんですが、軽い力しか出ないんです。ただ、コンピュータ操作くらいは何ら支障がなく、手だけで運転する補助装置の付いた車で移動をされる方です。[写真]

[写真]この方は、出産のときに重い脳性麻痺としてお生まれになりました。脳性麻痺独特の拘縮が進行してきて、両足と左手は固まってしまって動かせないんです。唯一、右手が動くんですけど、その右手もやはり脳性麻痺独特の不随意連動で、自分が手を伸ばそうと思ったら、曲がっちゃったり、曲げようとしたら伸びちゃったりする状態が常に出てくるんです。彼も子どものときから絵を描くのが好きでした。お家に新聞広告の裏の白紙があったら、クレヨンを握って、紙に覆い被さるようにずっと一生懸命絵を描いていたそうです。ところが、その不随意運動のために、手が震えてしまいますから、直線とか円、幾何学模様が絶対に描けないんです。彼が言われたことがすごく印象的でした。「絵を描きたいっていうこの精神、この思いをこの不自由な肉体がタガをはめてしまっているんです。僕のこの精神はタガを外したがっているんです。」というこの一言を15分くらいかけて、汗みどろになって、私に言わはったんです。それを聞いたとき、彼の絵に対する強い思いを感じました。シュールな絵を描いていらっしゃるんですけど、どれもすごいんです。彼の思いが本当にぶつかっています。だから、グラフィックソフトと出会ったら、きっとすごい描き手になると確信をもちました。ですから、15分間、汗みどろで言うてくれた後、「あんた、グラフィック勉強してみい。絶対プロになって稼げるし。」と言ったんです。そしたら彼、首曲げたまんまで、「ナミねぇ、うそ言うてるやろ。」と言うてたんですが、今やすごく優秀なアーチストです。いろんなところから彼を指名で、イラストを描いてほしいと依頼があります。某新聞社の何十周年かの記念のときは、元旦特集号の1面のグラフィックを手掛けました。兵庫県でこの間、国体がありました。のじぎく国体と呼ばれましたその国体のプログラム冊子の表紙デザインが公募だったんです。彼はそれに応募しまして、見事採用されて、何万部というプログラム冊子の表紙を彼の絵が飾ったんです。

[写真]彼は、脳性麻痺で体も動いてしまうので、初め、コンピュータの勉強するとき、車いすに体を縛りつけていましたけど、そうするとよけい緊張して震えるので、今はお家のアトリエでトンビ座になって、体を揺らしながら、器用にコンピュータを操作して、素晴らしい絵を描いています。右の壁の後ろに張ってあるマウス持ったおサルさんが自画像だそうです。こういうところが笑いが取れる証拠なんです。

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私より年上のこのおじさんは、プロップの一番人気の講師です。足の下にマウスがあります。

実はポリオっていう障害です。今はワクチンが普及してますから、生まれたら直ぐに赤ちゃんに予防接種が施され、ポリオは日本から絶滅しましたが、彼はこのポリオによる障害のため、両手が全く動かせません。足だけでコンピュータの勉強に来やはったんです。プロップのコンピュータセミナー第1期生で、私たちの仲間でもあるんです。ものすごい努力をし、足でコンピュータを操作する方法を会得されました。一人暮らしで、お料理、洗濯、掃除全て一人でやってるんです。で、ちょっとグルメなんです。包丁を足に挟んで、ニンジン、大根の皮を剥いて刻んで、カレーライスとかつくりはるんです。私かインスタントコーヒー飲んでいるのに、彼はドリップです。「何たらと何たらのブレンドがどうのこうの…。」と言っている彼が入れてくれたコーヒーはおいしゅうございます。

[写真]この左端のロングヘアーの男性は、三重県の方で、大学を卒業して就職が決まったその日に、乗ってたバイクが転んで、首の骨を析って、全身麻痺になってしまいました。腕のところに取り付けている四角い白い箱みたいなのが小型コンピュータです。得意分野はプログラミングです。非常に優秀なプログラマーですので、プロップの支援者であるマイクロソフトの社長が彼を非常に気に入って、彼に出資をして、今は株式会社の社長さんになっています。しかも、地域の子どもたちにコンピュータを教えるNPOの代表もしています。障害のある人とない人がコンピュータによってつながって、一緒に仕事をしていけるような社会をつくろうと、地域の子どもさんたちにコンピュータを教える傍ら、社長業をやっているんです。

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仙台にいるこの青年も難病です。体の筋肉が生まれつき弱いという難病で、日常はお母さんの全面介護ですが、コンピュータの前へ座ると、優秀なSE(システムエンジニア)さんの一人になります。彼とは、浅野史郎さんが知事の時、仙台に招かれて講演に行った時に、2回くらい会うただけなんですけど、何年も一緒に仕事しているんです。だけど、お会いしたのは本当に2回だけで、あとは全部コンピュータネットワークを介してです。今ではテレビ会議のシステムを使って仕事しています。さっきも最新の科学技術と言いましたように、プロップ・ステーションは日本で最初にパソコンを使い、パソコン通信を使い、インターネットを使い、ブロードバンドを使い、今はまだ企業でさえほとんど使っていないテレビ会議のシステムを使って、勉強したり会議をしたりしてるんです。

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お母さんと子どもさんです。シングルマザーの彼女が右側の子どもさんを育てているんです。

彼女は生まれついて、いわゆる聾唖という状態で生まれました。彼女の夢は漫画家になることで、実は今、ナミねぇの著書の漫画化に取り組んでくださっていて、この間NHKの番組で彼女が紹介されました。彼女は漫画家になるために、手書きの漫画と、プロップ・ステーションでホームページなどをつくる勉強をしました。今も自宅で子育てしながら、企業から受注するホームページをつくる仕事をこなしています。同時に、地域の耳の聞こえない子どもたちにコンピュータを教えるNPOのリーダーもしているんです。この写真集実はもう4年前ぐらいに発行されたんですが、このかわいい坊やも、今は中学生になりました。

[写真]これは手にかぱっとはめるようになっているキーボードを押す道具ですが、今では、手が動かなくてもコンピュータが動かせるように、いろんな補助装置が開発されています。まばたきするとか、口の中で舌が頬や歯の裏に触る、肩を上下できるなどのわずかな動きで、自分の意思をコンピュータに伝えることができます。ソフトウェアも感覚で使えるものが出てきていますので、身体だけでないさまざまなチャレンジドたちがコンピュータにアクセスしています。

[写真]彼のこの写真を撮った時には、こういうふうに机に座ってコンピュータを触っていましたが、進行性の筋ジストロフィで、今はほとんどベッドの上です。もともと企業のコンピュータのエンジニアさんだったんですけど、歩いて通えなくなり、松葉杖で通えなくなり、車いすで通えなくなり、緩やかな力で操縦する車で通えなくなり、最終的に通勤が無理になって、「あんた首やで」と言われて、最後にプロップにご相談がありました。私はそういう理由で、この方の力が世の中に発揮できないことが当たり前の日本って、絶対に間違うてると思いました。彼より1ランク上のSEから技術を伝授していただいて、グレードアップしてもらって、彼は今やプロップの中でも上位ランクのSEのお一人です。自宅のベッドの上で、パソコンからプロップのサーバーに入って、何百人もの方にアドレスを発行する仕事、お仕事を振り分ける仕事、成果をチェックする仕事、「君は今月これだけのお仕事しだからペイが幾らだよ。」ということも彼が仕切ってくれています。まさに私が口で彼が頭脳という組み合わせです。

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この方は、車いすの後ろにステッキを積んでおられます。身体の障害の他に軽い自閉症もあるお嬢さんです。重い自閉症の方になると、対面でのコミュニケーションが全く取れません。ピョンピョン跳んで、何か話しかけてもオウム返ししかできないという感じですが、そういう方でも実はチャットで普通に会話したりします。自閉症という対人関係の障害が、コンピュータと思わぬ相性のよさを発揮する場合があるということは、私たちの世界では常識になっています。そういう方々は、グラフィックソフトを勉強しなくても、コンピュータの前に座ってもらって、マウスを触らせてあげると、驚くほどすごい絵を描き出すんです。プロップ・ステーションでは、その方がすごい絵を描いたときに、そこで終わらず、必ずプロのデザイナーを連れてきます。一流のデザイナーやマーケットの専門家は、その絵が商品化できるか、つまり、売れる絵なのかどうなのかがわかるんです。その人がプロになるかどうかの意志を持ってなくても、その人の作品を世に出すのはプロフェッショナルたちなんです。デザイナー、マーケッターなどプロの力で、その作品が世に出て行くことになります。

この写真集が出たときの記念に「何かしたいことあるか。飲みに行こうか。」と聞いたら「吉本の舞台に上りたい。」とか言う声があがって、さすが、私らの仲間やなと思いました。吉本さんに無理言うて、なんばグランド花月の舞台の上で、おもろいことさせてもろうてきました。仕事のときは厳しい顔してる人らですけど、みんなにこやかな顔で楽しく過ごしておられます。

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[写真]お2人の人がいます。お2人ともマイクロソフトの社員で、右の方はマイクロソフトの優秀なコーディネーターさんです。左の青年は目をつぶっているわけじゃありません。1歳の時に目のガンにかかって、両目を摘出した全盲の方です。ですが、子どものときからお父さんと一緒に工作するのが好きで、小学校4年生のときには、お母さんのために、その当時発売されてない、おふろの見張り番を工夫して作ったそうです。高校生のときにはコンピュータにはまって、秋葉原へ行って部品を買うて、ハンダ付けしてコンピュータを作った人です。英語も得意なんです。日本では、全盲の人のためのコンピュータのテキストがほとんどありませんでした。

古い点字にされた本があっても、どんどん進歩するコンピュータの最新情報の勉強はできなかったんです。そこで彼は、得意の英語でアメリカのサイトヘ入って行きました。アメリカは情報保障ということで、国の法律によって、データは公的なものであれ、ビジネスのものであれ、全てオンラインにすることが法律に定められているんです。そのアメリカのサイトに入って研究して、一流のエンジニアになりました。大変素晴らしいので、マイクロソフトの社長に、彼と会ってもらう機会を設けました。社長は瞬時に彼を気に入って、学生の彼とコンサルタント契約を結びました。そして、マイクロソフトのソフトウェアが、どうやったら見えない人たちに使いやすくなるかアドバイスをもらい、彼が大学を卒業すると同時に、マイクロソフトは彼を技術者として採用し、今、彼は日本とマイクロソフトのシアトル本社を行ったり来たりする、アクセスビリティの最高の技術者になりました。たった一人の全盲の青年が、日本マイクロソフトを変えたっていうんですからすごいことです。

[写真]私たちの考え方をいろいろ知ってもらうために、目本だけでなく、国際的な人にも集まっていただいての国際会議をよく開きます。こういう大会では、チャレンジドたちはお客さんではなく、企画の段階からスタッフとして加わります。オープニングに流すムービー、参加者の名前が順番に出てくるところ、次のセッシヨンはどんなんですっていうところ、報告のホームページまで全てチャレンジドのスタッフたちが関わります。この世界的な大会は、もう11回目になり、今年は7月に東京ビックサイトで開きました。プロップのホームページでチャレンジドたちが克明な情報発信をしていますので、是非ご覧ください。

[写真]新聞記事

これが最後の映像です。2002年に、この写真集が出たときに、各紙が取り上げてくださいました。その中の1つです。私と娘のショットですけど、これが私の最高の宝物です。こんなふうにすごい笑顔を見せてくれるのは、本当にめったにないんです。この日は素晴らしい笑顔が撮れました。心から感謝しています。娘はパニックを起こすとガアっと頭に血が上ったようになって、怒って噛みついたりすることもあるんですが、やはりこの写真を撮り終わった直後に、パニックになりました。長時間写真を撮っていたからか、潮風にあたって疲れたかわからないんですが、ワアーっと叫びだしたんで、カメラマンがびっくりしてカメラを放って逃げました。

私が「大丈夫、大丈夫。もう噛みつかへんから大丈夫。」と言うて、カメラマンさんが安心してカメラを取りに戻ったところを、ガブっとやられました。というおまけがついておる貴重なショットです。

ということで長くお話をさせていただき、同時にプロップの活動の写真も見ていただきましたが、気がつけばもう予定の時間になりました。本当は、この後皆さんから御質問を頂く予定でしたが、私、放っといたら10時間ぐらい喋るんです。いかんと思っても、やっぱり写真を最後まで見てほしいなあと思って、時間がなくなりました。この後、神戸に帰って、また夜の会議が一つ入っているんです。ごめんなさい。終わりにしたいと思います。

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