障害者ワークフェア in くまもと 2006
基調講演・シンポジウム記録集
2007年3月発行より転載

基調講演

演題:「すべての人が誇りを持って生きられる社会に」

講師:社会福祉法人プロップ・ステーション理事長 竹中ナミ 氏

[写真]竹中ナミプロフィール
重症心身障害児の長女を授かったことから独学で障害児医療・福祉・教育を学ぶ。
1991年「チャレンジド(障害を持つ人)を納税者にできる日本」を合言葉にプロップ・ステーションを設立。近著に『ラッキーウーマン ― マイナスこそプラスの種!』(飛鳥新社)がある。

今日は「障害者ワークフェア in くまもと 2006」ということでお招きいただいた訳ですが、なぜ私が今日ここで皆さんの前でお話をさせていただく機会をいただいたかというのは二つの理由がありまして、一つは、私たち自身がその障害がある人たちの新しい働き方と特にITを活用して、在宅や施設で介護を受けている状態であっても、働けるようになりたいという人達の思いを繋いでここまでやってきた「プロップ・ステーション」という活動体であるという事、もう一つは私の母の実家が熊本の新南部という所で、私自身は両親が神戸に出て来てから生まれまして、神戸、或いは阪神の間で活動しているんですけど、私自身の中に熊本女の熱い血が流れているという事で、そういった多分、二つのご縁もあってかなというふうに思っています。

今、言いましたように、私達はどちらかというと企業への雇用ということではなく、在宅ででも自分の体の都合に合わせて、自分の働きやすいやり方で最も力を発揮できる状況で、何とか仕事をやっていきたいというような人たちの気持ちを繋いで生まれたのですが、発足は15年前なんですね。正確にいうと1991年の5月なんですが、その頃に、全国各地にいらっしゃる在宅で介護を受けている方、或いは御家族の介護が難しくなって施設に入られてる、或いは進行性のご障害とかで病院のベッドの上におられる方とか、そういう人たちの中にも働きたいと思っていらっしゃる方々がいるということが判ったんですね。で、そういう人達に、「どうやったら皆さんの力が世の中に発揮できると思う?」というふうにアンケートを取らしていただきましたら、回答を寄せて下さった人の8割が「これからはコンピュータやと思う」という事だったんですね。
実は私、機械系がぜんぜん苦手でして、機械というものにどうも相性が悪くってそのお返事を聞いたときに「え!コンピュータかよ」みたいなこと思ったんです。実は15年前というと、一般家庭にパソコンという道具はゼロ台だったんですね。つまり日本の一般家庭にコンピュータは全く普及していなかったんです。その一般家庭には全くパソコンというようなものがない時代に、障害が重くて介護を受けてる人達が、そういう道具がきっと自分たちを世の中へ押し出してくれる、或いは自分たちができる事をそれで世の中へ発揮できるって言わはったんで本当にある意味ビックリしました。ビックリしましたけど実は私この時に、「なるほどそのとおりや」と頷く出来事に出会っていたんですね。

それはどういうことかというと、私の知り合いで高校生の子が、ラグビーの試合中の事故で首の骨を折ってしまいましてね、必死の入院、手術やリハビリもしたんですけども、残念ながら全身麻痺という状態でお家へ帰ってきはった青年がおったんです。でも明日は世界へ羽ばたくラガーマンになると言われるくらい凄いラグビー選手のセンスのいい男の子やったんですけど、お家に戻って来た時には左手の指先側は、わずかに上下と首が左右に90度弱動くと、これだけになって帰ってきはったんですね。で、どうしたもんかなとご本人も家族も凄いショックを受けられてはったんですけど、ある日その青年が自分を介護してくれてるお父さんとお母さんにね、「ぼくこれ以上クヨクヨしていてもしゃあないと思うねん。僕ね、自分に考える力が残されている事に気がついてん。」と言わはったんです。で、その後、こう言うたんです。「だからね、ぼくね、考える力を磨いて何とか働けるようになって、社会復帰したいと思う」と言うたって。
普通は寝たきりになった息子さんですからね、お父さんお母さんもほんならホイホイ働けという訳にはいかんでしょう。お前そんな体で働くって、そんな事まで考えんでええとかね、或いはお前の為になんぞ残せるもんあったら残したるから、そんな無茶な事せんでいいぞとか言うても普通やと思うんですけど、彼のお父さんとお母さんはそうじゃなかったんですね。彼が考える力磨いて働きたい言うた瞬間にね「そんなら働けるようになれや」と言わはったんですわ。それどころかね、「お前働きたいんやったら我が家の長男やねんから、家業継いで働けるようになれや」と、こう言わはったんですね。
じゃあ彼のうちの家業は何やったかということなんですけど、彼ね、うちなんかと違うてええしのボンやったんです。お家が広い土地持ってはりまして、その土地の半分でね、農業やってはったんです。残る土地の半分で樹木いっぱい植えてね、3代続いた植木屋さんをやっていたんです。最後に残る敷地に高級マンションを何棟かたてまして、マンション経営っていうのもやってはったんです。それだけ財産っていいますか、最後やったらね、普通はね「お前の為に財産遺すんねんやからそんな無茶言わんでもええ。」と言いそうなもんやのに、彼のお父さんお母さんは、「お前長男やねんから、ほんな家業を継がんかい」と、こう言わはったんですね。すると彼はね、なんとね、まだ寝たきりの状態で「わかった。三つとも全部継ぐのは無理やから、そのうち一個は絶対に俺は立派に継いで、いつか父ちゃん、母ちゃん食わしたる」と言い返したそうです。まあ鬼気迫るような会話ですね。実の息子と介護している両親ですから。

結論から言いますと、彼は今3つの家業のうちのひとつを立派にお継ぎになって、ま、お父さんとお母さんはまだ健在ですから、別に彼が食わさなあかんという事はないんですが、一緒に家業を推進してはるんです。
ちょっと皆さんに私の方から質問させてもらいたいんですけど、一体彼はこの三つの農業、植木屋、マンション経営、三つの家業の内のどれを継がはったんでしょう。勉強をして、それを継げるようになったんですが、どれでしょうか?という質問なんですね、農業と思う方ちょっと手を上げてみていただきません?そりゃ農業ちゃうかて。あ、20人おられませんかね。10人ぐらいですかね。はい、じゃあ植木屋やと思う方。植木屋。植木屋の方がちょっと多いですね。20人以上はおられますか、じゃ残りの人は何ですか。マンション経営と思う?あ、凄いですね。122人の方がマンション経営。沢山の方に手を上げていただきましたが、そのマンション経営というのが正解なんです。彼ね、家業ですから農業も植木屋も子供の時からよう手伝おうておりました。しっかりした子でした。で、勿論家業ですから誇りに思うてたんですが、農業と植木屋はやっぱり肉体を駆使する部分が多いんですよね。マンション経営やったら、経営者の勉強とか経済の勉強とか、それから当時まだ一般家庭にコンピュータというものはなかったんですが、企業の経営中枢で、コンピュータというような道具が、経営に力を発揮してるらしいという事を彼は知ってたんです。
但し、その当時のコンピュータは机の上になんか乗りませんよ。冷蔵庫より大きい箱が並んでゴーと音を立てているような時代やったんですが、そういう道具が経営に役立つという知識まで、彼はこの経営、経済、コンピュータとこれを勉強して、自分がマンション経営に役立つ、なんていいますかね、経営の為のソフトですか?そういうものを作ってね、データベースみたいなのを組んで、絶対やり遂げてみせるぞ、とこう思うたんですね。彼はなんと自分の意思でいろんな仲間たちの応援も得て、大学にも進学し、そして大学院まで行って、理工学の博士科というところで、コンピュータのとりわけ精通した勉強をして、自宅マンションの経営のできるソフトを自分で組んで、経営を始めたんですわ。ある日彼から、「ナミねえ、なかなかマンション経営うまい事いっとるからちょっと見にきいへんか?」と連絡があって、私、行ってきました。彼はわずかに動く指先で操縦する電動車椅子に乗ってはって、田んぼの畦道の間をウィーンと抜けて、雑木林をウィーンと抜けて、マンションの中の彼のお部屋、管理人室と思われる所へ連れて行ってくれたんです。そこ入ってみると、なんと彼専用の大きな机が置いてあって、当時、まだ珍しいデスクトップですね、机の上に乗るようなサイズになった業務用のコンピュータというものが置いてありました。それを彼は僅かに動く左手の指先でね、操って見せてくれたんです。ビックリするぐらい完璧なデータベースが組まれてました。何棟もあるマンションで、それぞれ十数件ずつです。全部合わせるとそこで100人以上の方がお住まいになっている一群なわけです。お一人お一人の様子とか、どのお家からどんな苦情とクレームが出たとか、どう処理したとか、家賃ちゃんと入っているかとか、滞っているとか、もうすぐ引越しはるお家は壁紙や畳を取り替えるのに何処の業者さんやったらどんな見積もりが今まで出たみたいな事が、全部こう指先で彼の指先で管理できるようになったんですね。私は彼と凄い親しかったんで、私、彼に言うたんですよ。「君な、凄いな、凄いけんど、マンション経営ってデータベースだけではできへんのとちゃうか?廊下のお掃除もあれば、飾ってあるお花のお世話もあるじゃないの。そういうのは君、無理ちゃうの?」という風に、いけずに言うてみました。そうしたら彼はニコッと笑ろうて、「なに言うてんのナミねえ、そんな事心配せんとって。」、「えっ、なんで?」て言うたら、「自分の住んでいるその地元に知的ハンディの人達のグループなんだけど、お掃除やお花の世話や、そういうことをきちっとやってくれはる所がいくつかあるの。だから僕は経営者として、そういう所に募集をかけて、そして応募してきた人を自分でちゃんと面接をして、何人かの人を採用して、自分が雇用主としてお給金を払う事から、税金の事から、そしてマンションの収入の事から、固定資産税なんやらかんやら、それも全部このデータベースで管理しているんよ。何にも心配いらん」と言わはったんですね。ビックリしました。私、目からこうゴーンと鱗が落ちたような気がしたんですね。
「凄いなー」って言いました。「君、私ね、マンション管理人やと思って会いに来てみたら、もう君は立派な青年実業家ちゃうの?」と私、彼に言ったんです。人まで使うてね、収入の事から税の事から全部自分の力でやって、「凄いな、凄いな、かっこええな、君、青年実業家やね。」って言いながら、「あれっ?」って思ったんですよね。何であれって思ったか、その当時の日本では、彼のように全身麻痺になりはってね、お布団から起きるところから実は介護が要るんですよね。指先と首がこれだけですからね、起きるところからお世話がいるんです。顔を洗う事から、着替える事から、お風呂から食事から下の事から。下の事はパイプみたいな管みたいなのを通してはって、お小水が自然にタンクみたいなのに溜まるように車椅子につけてたりしたんですけどね。大の方はって言うたら、週に何回かお家の一室にブルーシートをひいて、腸まで届く医療用の浣腸器で、そういうのを使って、ご家族が排便の介護をしてる。そういう人というのは、それまでの日本では、かわいそうで、気の毒で、さぞご不幸な重度障害者、「お気の毒ですね、大変ですね」って言われておった人なんですね。家族にそういう人がおられる、介護している家族もまた、「気の毒ですね、大変ですね、さぞお辛いでしょう」って言われるご家族やったんですね。ところが、今私の目の前にいてるその青年は、目をキラキラさせて、自分の仕事の話をしてね。勿論介護は必要ですよ。でも、経営してね、大きな収入で、大きな税金を納めながらも仕事をやってはるんですね。彼の横でね、父ちゃん母ちゃんニコニコ笑うてね、「家の息子凄いでっしゃろ。なかなか、ようやりまっしゃろ。」とこう言うてはるわけですよ。
何でこんな事が起きたん、これまでの日本の常識と正反対の、常識では有り得なかった、なんでそんな事が起きたんやろかと私思います。で、考えてみるとその理由は三つあったんですね、三つ。
一個目はね、彼自身が自分の力を世の中に発揮していきたい、それを仕事としては発揮していきたいとずっと思っていたという事ですよね。
二個目はね、家族とか、友達が「お前そんな体で無茶やで、そんな事考えたって無理やで不可能やで」って言って止めるんではなく、「無茶かも解らん、無理かも解らん、不可能かも解らんけどそっち向きにやりたいんやったらやってみ」と言うて背中を押す行動を皆が色々してくれたんですね。特に大学院や大学院の仲間なんかは、学校内で彼の身辺のサポートをするチームができましてね、何人かの人達が入れ替わり立ち替わり、サポートするようなことまでして、勿論ご両親もされましたけど、そういう仲間の支えもあったんですね。みんなが無理かもわからん、無茶かもわからんけど、まあやってみって。
三個目は何かと、実はこれが私はね、私、ごっつい重要やと思うんですが、何よりそのコンピュータという道具ですね、その僅かな指先から彼の思いを仕事に表現していくこの道具ですよね。コンピュータは先程から言うてるように、その当時は一般家庭にはありませんでした。だからこういうふうに言い換えてもいいでしょう。三つ目は、その時代の最高の最先端の科学技術。本人意思と周りの人のその意思をバックアップしようという動きと、最先端の科学技術。この三つが組み合わさって、今、私の前に彼は、可哀想な、気の毒な重度障害者でなくって、青年実業家としていてはる、介護も必要やけど、青年実業家として、おられるということが解りました。

で、私は解った瞬間に彼に言うたんです。「今までの日本の福祉というのはものすごく、もったいない事してたな。」
何でそんな事私言うたんかというと、日本の人、自分に障害がなくって、目の前に障害がある人がおられる時にまずどう感じるか、「気の毒やな、大変やろな、色々ご苦労あるやろな、なんぞ手伝える事あったらしてあげにゃいかんな」とこういう感覚になるんですね。それは私たち個人だけではなくって、制度も仕組みもそうなんですね。この人達はこういうところが不可能で、こういうところ無理です。だから何々、補助金だったり色々サポートだったりしましょう、という形の仕組みになっているんですね。
これは決して悪い事ではないです。人に親切にしようという気持ちとか、手助けしてあげようとする気持ちを人間は失ったら大変ですから、そういう気持ちは物凄く重要なんですけども、でもそうゆう気持ちで着目している所が、その人のマイナスな所とか、不可能なところばっかりの場合は、結果としてその人の可能性の方には、蓋をする事に繋がってたんやなーっていうのを私は気がついたんです。日本の福祉はもったいない事してたかも解らん。何がもったいないって人間の力が眠っているほどもったいない事はないのに、その人のマイナスの所が先に見えてしまうがために、手を差し伸べる部分もその部分だけになって、可能性の方は発揮できなくなっていたんちゃうかと思ったんです。「だけど私は君見てて、人の力だけではそれが発揮できないというのもよくわかった。だから私は新しいボランティア活動を始めるわ。」って言うたんです。
「どんなん?」って彼が聞きました。だから私は、「障害のある人で、自分は障害があるけど自分の力を世の中に発揮したい、仕事できるようになりたい、という人の可能性の部分や、やりたいと思っている事の部分の方に着目して、それを人の力と科学技術、最高の科学技術を使うて全部引っ張り出す、そんな活動をやってみたいと今思うてんねんけど、どない?」と彼に言いました。そしたら彼がね、「是非ぼくも一緒にやる。」って彼が言うてんですね。何でか言うと彼は、首の骨を折って入院してリハビリしてましたから、そういう専門病院におってたんです。専門病院に入院してる間に、色んな人がやっぱり担ぎ込まれて来るんですね。彼みたいなスポーツ事故、交通事故、或いは難病、子供の時からの障害が重くなったとか、色んな人が担ぎこまれて、やっぱり手術したり治療して、リハビリして、それでも何らかの介護が必要な状況で退院して行った人のほとんど全てが、その時代はですね、ほとんど全てが元の学業に戻れてない、元の仕事に戻れていない、ましてや新しい仕事には就けてないという状態なんを彼は、いっぱい、いっぱい、見たわけです。「だけど自分は今、いろんな人の応援と、そのコンピュータという技術を使って、こうやって仕事ができるようなった。だからこの経験を、後の人に広げていける様になりたい。僕よりもっと優秀な人も絶対おるし、周りの人が無理や言うてても、本人は仕事をしたいと思っている人とも沢山出会ったし、是非そういう事やりたいな。」と彼が言いました。
そんで私、一緒にそういうグループを作って、ほなやろか、っていう事になって、彼に「グループ作るんやったら、ちょっと名前考えて」って言うたんです。名無しの権兵衛では活動できへんからね。ほんで私彼に「グループ作るんやったら名前考えみ−」って言ったら、彼がね、すかさず“プロップ”て名前にして欲しいと言うたんです。“プロップ”。「私に横文字でグループの名前言うなお前、わからへんやないか意味が」とか言いました。「なんやのん、そのプロップって?」聞いたんですね。そしたら彼が、「ぼくがラグビーやってた時の誇りあるポジション名やねん。」ってこう言うたんですね。プロップというのは、華やかにゴールする様な場所ではないんですが、スクラムなんかの時に一番下からガーとこうね、支えて入る物凄い体力の要る所ですわ。まあ、それで怪我が多い所のポジションではあるんですけどね、その自分の誇りあるポジション名やったプロップを何とかグループの名前にして欲しいと彼が言ったんです。
私ね、親しき仲には礼儀がないんで、また言うたんです。「あんな、私らな、ラグビーチーム作るのとちゃうのよ、そやから気持ちはわかるけんど、せめて意味調べて、そのプロップいうののなんか日本語に意味ないか調べて、その意味がピッタリで、自分らがやろう思うことにピッタリで、君のポジション名やったらそうしよう」と言うたら彼がすぐに調べたんです。なんとね、プロップという言葉にはPROPという綴りですが、「支柱とか、つっかえ棒とか、支え合う」という意味があったんですね。
私、それ聞いたときに、特にその『支え合う』という意味があるってわかった瞬間に、胸が震えるような思いをしました。「OKや、そのプロップにしよう。」って言うたんですね。何でかというと、私がいて彼がいます、まず二人でグループ作り始めようというてるんですね。彼は、私にはない経営能力を今や発揮してます。私が触るのも嫌なコンピュータの技術、持ってるんですね。但し彼はスポーツマンでしたから、シャイで口下手なんです。私はどうか?経営能力はありません。コンピュータ技術、見たくもありません。だけど口と心臓はギネス級なんですね。この二人がお互いつつきあいしたら何にも成し遂げれませんわ。だけどお互いの弱点や欠点には取り敢えず目をつぶって、できる所を、おもいっきり両方が発揮して組んだらね、結構凄い事やれるかもわからへんやんか。
つまり、私らが今からやろうとしている活動は、障害のある人、ない人、支えられる人、支える人というようなこの常識の線を、働ける、働けないとか、そういう常識の線をもうグチャグチャにしようと。だから、障害があろうがなかろうが、ある意味、障害だけではなくって、男性であろうが女性であろうが、若い人であろうが高齢の人であろうが、全ての人が自分の得意な所は全部出す、出せるようにする。苦手な所は得意な人と組む。
つまり、どんな人も皆支えあいができるはずやいう前提に立って、新しい活動を進めていきましょう、新しい働き方も自分らで生み出していきましょうという事なんですね。必ず支えあいできるよという前提で動こうとしてるわけですから、プロップという言葉に支えあいという意味があったということには、まさにさっき言うたようにビィビィビィときたわけです。で、『プロップステーション』という名前に決めて活動を始めました。今までの日本のボランティア活動、障害者福祉といわれるものは、「気の毒な大変な障害がある人に何かしてあげる」という活動だけだったんですね。初めてどんなにその人の障害が重くてもその人の中の可能性を引っ張りだそうというような、仕事に繋げようというようなグループが生まれた訳です。
ですけど、私たちが活動にあるキャッチフレーズを掲げたとたんに、大変な非難を浴びる事になりました。私たちのキャッチフレーズは、「チャレンジドを納税者にできる日本、障害のある人を納税者にできる日本」というスローガンを実は掲げたんですね。
でね、このチャレンジドという言葉を先に説明したいと思うんですけど、15年ぐらい前にアメリカで生まれた言葉なんです。それまでアメリカで、アメリカいうか英語圏ですけど、障害者のことは「ハンディキャップ」、或いは「ディスエイブルパーソン」とそういうふうに呼んでいたんです。ところが15年位前にアメリカの人達が言い出したんです。「自分ら人権の国アメリカっていうときながら、人を呼ぶのにその人のマイナスのところとか不可能なところだけを見てその人の呼び方にしているっていうのは、どんなもんや。恥ずかしないか?」という声がアメリカの中で起きたんです。なんとかポジティブな観点で、視点で人を見るような呼び方を自分らで考えようというて、色んな言葉の生まれた中の一つが、この“チャレンジド”という言葉でアメリカの中で15年位前からわりとポリティカルに広がり始めているんです。アメリカでは、ですから今、ディスエイブルという言葉はほんど使われなくなって、ザ・チャレンジドという言葉はだいぶん広まってきておるんですね。それをアメリカの人から私が教わったのは11年前でした。アメリカではそういう理由でチャレンジドっていう呼び方が広まってきたで、って聞いたんです。
私それを聞いたときに、意味がぜんぜん解りませんでした。チャレンジャーだったら、挑戦者やからわかるんですけど、チャレンジドって最後にドが付いて、これはなんなの?関西弁はよく、ど阿呆とかどケチとか「ど」を付けます。でもこれは頭につくんです、尻尾に付かない。で、私その教えてくれた人に「なんやの? 最後の“ど”はっ?」て聞いたら、チャレンジの後ろにed、つづりedが付いて、受身体やと言うたんです。それどういう事かというと、挑戦する使命や課題が与えられた人、或いは挑戦するチャンスや資格が与えられた人。そういうような意味で神からっていうようなことなんでしょうかね、アメリカですから。それで受身体になっているんや、とその人がいうたんです。しかも「この言葉は決して日本でいう障害者だけ表すんちゃうねん。例えば、大震災があった。『震災復興に立ち向かう人はチャレンジドだ』っていうような使い方もするんやで」って教えてくれたんです。
なんとその言葉を教えてもらった11年前、神戸っ子の私としては何がおきた、あの阪神・淡路大震災やったんですね。私の家は全焼しました。プロップステーションの活動を阪神で起こしましたから、仲間全員が被災者になったという、大変な状況の中やったんです。もうどうやって自分らが復興に向き合ったらいいか、立ち直っていったらいいか、実際に助け合ったらいいかなんて、とてもじゃないけど何も考えられへんような、頭それこそ真っ白という状況の中で、その言葉をアメリカにいてる人に教わったんです。その人がこうも言うたんです。「このチャレンジドっていう言葉は、挑戦という使命や課題や、或いはチャンスを与えられた人っていう事なんやけどね、こうゆう哲学が含まれているねん」と。それは、“全ての人間に自分の課題に向き合う力が備わっている。そして、課題が大きい人にはその力が沢山与えられている。”っていう、そういう哲学がね、込められているって言わはったんです。私ね、そのチャレンジドという言葉とその意味を聞いた瞬間に勇気が湧いたんです。
震災で家焼けました。皆、仲間が被災者になりました。どうやって復興したらええかわからへん、どうやって助け合ったらええかわからへん、もう頭ん中真っ白だけど、「あんたは向き合える、お前は向き合えるで」っていうその一言で、すっごい勇気が出たんです。私自身がね。それで私ね、被災者になった仲間に「こういう言葉に私出会ったんやけどな」言うて伝えました。そしたら皆が一様に「僕も私も向き合えるんやね」って言い出したんですね。
私たちは震災の頃というのはまだインターネットはなかったんですよ。活動の中でやっと少し広まりだしたパソコンを使い、やっと、ちょっと広まりだしたそのパソコン通信というものを使っておったんですが、瓦礫からパソコン掘り出して、スイッチ入れた子もおりましたけど、ベッドの上で僅かに動く指で操作する子もおりました。何が始まったのか、「私は生きている。」「ぼくは無事でした。」っていうものが、まずそのパソコン通信で飛び交ったんですね。その次には、「誰それさんはどうしてるやろ、怪我しなかったか、誰か情報知らん?」というような事が飛び交ったんですね。
パソコン通信を使っていた私たちの仲間は、僅かあの大震災の1週間後ぐらいに皆の安否が判ったんです。安否が判って幸いにも、怪我した人はおったんですが、亡くなった人が仲間にはいなかったというのが判りました。その次、何が起きたか、「自分たちは障害者じゃなく、チャレンジドだ、向き合える人なんだ」って思った彼らがやった事は、次は、ベッドの上で、例えば耳の聞こえない仲間は「お水、今日はどこで出てます」とか、「どこでお弁当配ってます」言うても、広報車走ったって、誰か外で言うたって聞こえない訳ですよね。だけどパソコン通信で、それら報せ合いができるんですよね。だから、そういう行政の情報とか、色んな応援の情報というのを、その通信を通じて流し出したんですね。その重度でベッドの上におった仲間たちの何人かがそれを始めたんです。
ある時「避難している養護学校や老人ホームでオムツが全然なくなってしまった、大変や」っていう情報が流れたときは、その通信がいろんな人に中継されて、東京から、紙オムツの会社から千箱くらいオムツが、陸路、大変な状況で届くのにも凄い日にちかかりましたけど、届けられたっていう様な事もありました。つまり、自分たちが障害者ではなく、チャレンジドで、或いはチャレンジドであろうとした気持ちで、日本で初めてパソコンボランティアというのが彼らの指先から生まれたんですね。
今、日本では、パソコンボランティアっていうのはボランティア活動の中の普通の1つのジャンルになってますけど、その当時はそのジャンルは勿論ゼロやったんですね。彼ら自身がベッドの上で、自分の指先でボランティア活動を始めた。その経験をした私らは、このコンピュータというのは、単なる冷たい箱じゃないという事がわかりました。このコンピュータの向こうに人がいる、そして繋がることができる。コミュニケーションがとる事ができるし、助け合いをする事ができるし、支えあえる事ができる道具やいうことを経験したんですね。
で、この震災の後、インターネットが日本に上陸しました、私たち先程も言うたように、最高の科学技術を使うという事で、最初にパソコンを重度の障害の人達が使い、最初にパソコン通信を使い、そして最初にインターネットを使い、最初にブロードバンドを使い、今は、まだいろんな企業でも一般的には使われていないテレビ会議のシステムなんかを使って勉強したり仕事をするって状況を生み出してきたんですね、この15年間で。で、この15年前に活動する時に決意した事は、そういった最高の科学技術を使うっていう事だったんです。最高の科学技術を使うことによって働き、そして、タックス・ペイヤーにまでなれるかどうかわからないけど、少なくとも目標はそこに置こうということで運動を始めたんですが、先程も言うたように凄い非難ごうごう、嵐が飛んできたわけです、石も飛んで来たわけです。
何でそういうキャッチフレーズ、スローガンに反論をしはるかっていうのを意見を集約してみるとこういう事です。“福祉というのは税から何ぼ取ってこられるか、これが福祉や、困っているこの人達に何ぼ取れるか、どれだけ取ってくるか、これが福祉やいう時に、何やあんたらは、全国納税協会の回し者か?”ってことを言われた訳ですね。

じゃあ何で私が、こういうキャッチフレーズを掲げたかというなんですが、実は“チャレンジドをタックス・ペイヤーに”というキャッチフレーズは、私が言いだしっぺじゃないんですね。1962年の2月1日、アメリカという国で大統領になったケネディさんという人、ジョン・F・ケネディという人が、大統領になって最初に議会に提出する教書の中の社会保障という項目の中で「私は全ての障害者を納税者にしたい。」と書いてあったんです。それを私は、翻訳されたもので読んだんです。その時は私もビックリしました。「え、なんで?」って。
税でどうやってきちっと、手当てをするかが福祉である時に、「全ての障害者を納税者にしたい」ってケネディが言うたってか、大統領の所信表明で言うたってか? なんでや? って思ってその言葉のバックボーンを調べました。そしたらなんとケネディ家には、実は華やかな一族っていわれてますけど、親族に障害がある人がかなりいらっしゃったんですね。とりわけケネディ大統領が、自分が最も愛してた妹のローズ・マリーさんという方は、かなり重い知的なハンディーを持っていらした。そんなこともあってケネディは政治家である前に一人の人間として資本主義国、或いは自由主義経済の国であるアメリカにおいて、その人が障害を持って生まれる、或いは途中で障害を持ってハンディキャップと呼ばれるようになったときにどんな位置づけになるか、社会的にどんな位置づけになるか、というのを嫌というほど自分自身知っていたんですね、差別の対象になるんだという事を知っていたんですね。で、ケネディは教書にこう書いた訳ですね。「全ての障害者をタックス・ペイヤーにしたい」。つまり、その人達は障害があるから働けない。税の受け手であるタックスイーターでおらにゃしゃーない、タックス・ペイヤーなんかにはなれないんだよっていう考え方自身が差別の出発なんやと、ケネディは思ったわけです。だから、国家の意思として、彼らをタックス・ペイヤーにするという事を自分が宣言するというのがケネディのその一文の意味やったんですね。そのケネディの妹さんのローズ・マリーさん、ちょっと余談なんですが、そのローズ・マリーさんを皆で元気づけようていうて、はじめケネディ家の庭でなんかゲームみたいなことをやったのが少しずつスポーツの大会みたいなのになって、今スペシャルオリンピックスになっているんですよ、実は。スペシャルオリンピックスは今年11月ですね、この熊本県で開催されるという、こういうお話をさせていただいたのもご縁かなと思っておりますが。そういう意味で、ケネディは自ら自分が感じた事から引き出した答えを、大統領としての政策にしたんです。
アメリカは、ですからずっと制度を、働ける方向に向けて変えてきました。ちょうどケネディが大統領の時っていうのは、アメリカ全土そうだったんですけど公民権運動っていってね、特に黒人差別をなくそうとかいう様な運動が全米へ、ワーと起きた時期でした。勿論その黒人差別が無くなった訳ではないです、こんなの皆さん良くご存知です。ただ、そういう努力を始めたんですね。始めは人種差別をなくし色んな人種の人も、いわゆる白人といわれる人と同じようにその人の能力に応じて、いろんな職業に就けて、きちっとステータスが掴める様にしようという努力を続けたんです。それが無くなっている訳ではないんですが、そうゆう制度を作り、そこへ向けて動いていった。皆さんもテレビなんかでニュース見とられてご存知や思いますけど、前の国務長官されていたパウエルさんね、今の長官のライスさんもそうです、大統領の右腕、左腕と言われる方に有色人種のアフリカンの方がいるアメリカっていうは、自然になったんじゃないですね。その時代から制度を必死に変えてやってきたんですね。
その人種の差別の次が、男女の差別に切り込むという事です。男女が同じような能力であれば、女性やいうだけで低い地位にいるってことなんか絶対にないようにしようというのが、次起きた訳です。
今アメリカでは議会も、それから企業も幹部職員とかもそうですし、企業の社長さんとかもそうですけど、女性が物凄く沢山活躍されています。特に公務員の世界っていうのは、必ず半分が女性がいなくなってはいけないってなっているんですね。女性のその運動が起きたときもやっぱり女性達。アメリカの女性達が声を上げたんです。声上げて先程のそのチャレンジドって言葉が生まれたように、言葉を作ったんですね、女性達が。何を作ったか、それまで男性はミスター、女性はミス、ミセスって呼び方をしてたんです。頭に付けてたんですね。たぶん皆さんもまだ日本人としてはミス、ミセスって言葉はすごい馴染みのある言葉やと思うんですが、アメリカではそれがおかしいと。男性はなんでミスターやのに女だけは結婚してる、してないによっていちいちミス、ミセスを頭に付けにゃいかんの、おかしいやんかって女たちが言い出しました。女たちだけでなく、はじめはそんなこという女は跳ね上がりもんやって言われとったんです。アメリカでもね。ところが男性達も、そりゃなんかおかしいと思うわって言う人が出てきて、ミズって言葉が生まれたんです。大きなMに小さなrがミスター、大きなMに小さなsつけてミズ。こういう風にしたらええじゃないの。それでもまだなかなか定着しなかったんですが、いつかしら定着しました。今、海外の英語圏の人、ま、英語圏でなくてもそうなんですが、英語でメールとかお手紙やり取りする時に女性にたいして絶対ミス、ミセス書きません。全部ミズです。向こうから来るとき全部ミズです。こっちがつい気をつけてミス、ミセスみたいなのを書いたら逆に時代遅れって言われるくらいに、もう当たり前になったんですね。つまり、言葉を変えるっていう事は、考え方を変えるっていうことや、生き方を変えるっていうことや、ある意味その国の国柄を変えるって言う事にもつながるわけですね。

そうして、次に15年前ですけどADA(Americans with Disabilities Act)法っていう法律をアメリカは作ったんですね。これは今のブッシュ大統領のお父さんのブッシュシニアです。全米のチャレンジドたちが、障害の種別とか、その障害が重いとか軽いっていうのを一切抜きにして、大同団結したんですね。今度の大統領選に、この私たちが考えたADA法、障害を持つアメリカ人法というものを公約に掲げて戦ってくれる大統領に自分たちは票田になろうと決めたんです。それをブッシュシニアは自分がこれを公約にすると言ったんです。それはどんな法律かと言うと「全ての障害を持つアメリカ人は、障害を持たないアメリカ人と全く同じ生活をする権利、学ぶ権利、働く権利、タックス・ペイヤーに権利がある」と、これを法律でちゃんと制度化するようなこのADA法を公約に掲げてくれますか、みたいな、しかも全米のチャレンジドが大同団結して、アメリカの優秀な経済学者を何人か雇いましてね、チャレンジドがタックスイーターでいる時とタックス・ペイヤーでなり得た時とでアメリカの経済がどう変わるかっていうような事も戦略的にそういう計算まで出さした上で、ブッシュシニアに持たせた。ブッシュシニアが勝って、ブッシュシニアは立派でした、大統領になって調印をして、ADA法というのが成立したんですね。ですから、アメリカのいわゆる障害者運動といわれる人達の合言葉は、私たちはタックス・ペイヤーになる権利がある、タックス・ペイヤーに成り得る人間であるというのが、旗頭になっている訳です。アメリカの障害者の自立運動のリーダーといわれるエド・ロバーツさんという方が進めていったのは、どれだけいろんな働き方をチャレンジドたちができるか、そしてきちっとしたステータスについていけるか、きちっとした収入が得られるかっていうことだったんです。そのエド・ロバーツさんの口癖が、「常に私たちはタックス・ペイヤーになれる。彼の最後の仕事はカリフォルニア州のリハビリ局長です」。
アメリカっていう国は、法律を変え、制度を変え、考え方を変えながら、国自ら沢山のチャレンジドを一緒に働けるようにするという事をやってきたんです。それを見習って、民間も逆に言ったら広げるというような事をやってきた訳ですね。
私は飛行機はあんまり好きじゃないんで、そんなに海外に行くわけじゃないんですけれども、そのアメリカのADA法、或いはそういった考え方がどういう風にアメリカを変えていくのだろうか?というのをみるために何度か行かせていただいた。
去年はアメリカのワシントンDCにゴールデンウィークに行かせていただいて、アメリカの省庁、日本でいうたら霞ヶ関ですね、各省庁をずっと回らしていただきました。驚きました、どの省にも課長級、部長級、局長級に、もうトップクラスの人に全身麻痺で電動車椅子に乗っているスタッフ、見えないから、盲導犬を連れたり、白い杖をついている人、聞こえない、喋れないからノートベーカーとか手話通訳者が秘書についてる人、そんなんゴロゴロいるんです。当たり前になっとんですね。ビックリしました。日本負けとんなーと思いました。
出発はなんやったか、つまり、福祉というものの考え方の転換やったわけですね。ケネディが言ったタックス・ペイヤーにできる、それを国家の意思としてする、そして全米のチャレンジド自身も旗頭にして、タックス・ペイヤーになって初めて、自分たちは良き消費者にもなっていけるっていうことなんですね。
消費者っていうのは企業にとって最も発言権がある人ですから、企業を動かす為にも、或いは自分達に必要な道具を世の中に生み出す為にも、自分たちは良き消費者にもならないといけない。そうすると当然自分たちは社会で活躍して、稼いで、税も払っていかなければならないという考え方やったんですね。
その運動が日本にも入ってきたんですけど、残念ながら日本はそういう根っこからの変革がなされていないですから、やはり税から気の毒な人にどう取って来てあげるかっていうところで、留まってしまっている。まだその現状ですね。

実は日本が福祉のお手本にしてきたスウェーデンっていう国も、約35年位前に、サムハルという国営の企業を作ったんです。これは、日本でいう厚生事務次官みたいな方が、国策として、国の意思でスウェーデン王国という国の意思でもって作った、最重度の障害の人までが働けるような仕組みの公営企業なわけです。これで、スウェーデンの国の大きな仕事のひとつである材木を使ったいろんな家具の製作みたいな、大工場のしかも請負の企業なんですね。これができて35年間。はじめは大きな予算がそこに投入されて、少し働いた人のタックスが返ってくる形だったんですが、35年後の今は、投入される税の何倍も、そこで働いた成果の方が社会に出てるって事です。そこでは仕事を全部分解して、ほんとに木を切り出す、皮を剥く、磨く、デザインする、組み立てる、色塗る、運ぶ、とにかく全ての材木を使って作る商品の一からお客さんに届く全ての所までの工程を全部バラかして、どんなに重度の方も、身体だけではありません、当然知的の方も含めてその人の力が発揮出る場所に就いてもらう。或いはそういう場所がなければ、そういう所を作ってでもやってもらう。軽度な方からではなく、逆に重度の方から働いてもらうっていう仕組みをスウェーデンに作る。今やこのサムハルは28のグループ企業、株式会社のグループ企業になって、請負はスウェーデンで、ほぼ1位です。
スウェーデン全体の企業の業績でも10位以内にいつも入っているっていう会社になったんですね。つまりアメリカもスウェーデンも、国家の意思を変えたんですね。福祉に対する考え方をどう変えたか。福祉というのは、これこれ、こういう弱者という人達がいて、その人達にこういう手当てをしてあげることを福祉と呼びましょうという考え方から、この弱者と呼ばれている人達の中から一人でも沢山の弱者じゃない人達を生み出していく、このプロセスを福祉と呼びましょうというふうに変えたんです。
この実は、変えたきっかけというのは、最大のきっかけは何だったかというと、少子高齢化です。どちらの国も、特にスウェーデンもその転換が図られた時というのは、今の日本と同じように世界一の少子高齢国になり始めていたんですね。アメリカもそうなんです。その危機感から今のように障害者弱者とか、高齢者弱者とかいうふうに規定をしていたら、いつかその人やその周りの人達の方が増えてしまって、国家はたち行かなくなるという危機感を抱いたんです。そしてそういう国になった時には、本当の弱者を守ることは絶対にできない。
特にスウェーデンは福祉国家って言われてますけど、わずか100年前までは、働けないといわれる人達を殺してたんですね。これ言葉の綾じゃなくて本当に殺してたんです。ですから、今スウェーデンで最も新しく素晴らしいといわれる高齢者のタウンがあるんですが、そこの入り口にガラスのケースがあって、こん棒とガラス瓶と馬の尻尾の毛が飾ってあるんですね。これは何か?僅か100年前までこの世界一の福祉国家って言われているスウェーデンでは働けない人をこれで殺していた、こん棒で殴る、或いはガラス瓶とか馬の尻尾の毛というのは細かく砕いて食事に入れると1ヶ月位で人間は死ぬそうです。そうやっていたそんな国に戻らないという為に忘れちゃいけない、こんな国であったという事を私らは忘れちゃいけないよっていうことでそれを飾っているんですね。
僅か100年前なんですが実は、スウェーデンっていう国は非常に貧しかったんです。やっと耕地でも育つジャガイモが生育できるっていうそういう開発がなされてから、ま、スウェーデンの人っていうのは、ノーベル賞を出す側の人ぐらいで、すごく知的に高い民族なんだそうです。そう決めた瞬間にガーっとそういう転換をした訳ですね。そして、サムハルのような会社も作った。ただ日本がスウェーデンをそのまま真似できるかっていうたら、それはなかなか難しいと思います。スウェーデンは何しろ専業主婦というのは一人もいないですから、だから全員が働くっていうことを決めている国なのでね。しかも、所得税はたぶん6割ぐらい、消費税は25パーセントですよね。その代わり貯蓄率は先進国で最も低いです。つまり、お金を貯めなくちゃいけないという老後の不安とかいうようなものは、それは税で全部皆な国家としてやりましょうっていう国柄に、国民が決めているんですね。こないだの、もう一つ前の総選挙ですが、総選挙の投票率がたぶん90何パーセントなんですね。立候補者が税を下げると言った党が負けたんです。つまり自分らは国民としてコンセンサスで、これで国家の運営をきちっとやれよっていってそれだけの税を出すと決めているのに、下げるっていうのは、それをきっちりやる気がないんかとみなされた訳ですね。そういう国ですから、そのまま真似することは、だぶん無理だとは思いますけど、ヒントは色々得ることができるかな。

そしてアメリカは先程言ったように、社会保障は日本よりもっと低いんですね。もっと低いです。例えば日本で、うちの娘もそうですが、ずっと話をしてませんでしたが私の娘も重度の重症心身障害と言われている娘なんですけれども、重い障害の人、例えば身体障害の人が手帳一級を所持されている時に、障害者年金というのが月に9万円弱、拠出、国からされる訳ですけど、世界広しといえどこういう状態の人で、こういう手帳と、いうたらサービス切符持たれてる方には、これだけ一律に差し上げますという国は世界広しといえども日本だけなんですね。
だけどその上に自分でチャンスを積めないっていう国もまた珍しい訳です。アメリカの場合はそんな社会保障はないです。クリントン大統領時の時に、やっと年間の保険料の千ドルぐらいを保証しましょうかというのができただけですね。しかもあそこは戸籍もないし、障害者手帳もないですから、自分が自己申告で働きたいとか言って初めてリハビリみたいなもののこう乗っていくような感じですね。だから、さっき言ったようにそういうつもりで自分は障害があったって働きたいよって言って申告して、勉強したりするチャンスや、きちっと仕事をして行くチャンスはありますから、そこに乗っていった人は、障害のない人と同じようにその人の能力に応じて上がっていくのですが、全然それをしなかった人は非常に貧しい、それは障害があるなしに関わらずアメリカでは、日本では想像もつかないような格差というようなものがある訳ですね。
だけどアメリカの中でも先程言ったようにタックス・ペイヤーになれない人と決めつけるのが差別だという、この考え方はたぶん参考にできると思うんですね。だからいろんな国のやっている中で悪いとこは見習わなくていい。マイナスの所は別に見習う必要はないけれど、プラスにできる所は見習ってうまく取り入れて日本流にアレンジする。しかも、私は別にスウェーデン人に負けないいろんな日本の人達っていうのは、知恵と努力とで色んな事ができると思っているので、その国の人達に障害がある人達の力は眠っているっていう事は、私にとっては、なんとも勿体なく、しかも残念な事やったわけです。

じゃあ何で私がここまでそんな勿体ないとか、残念とかいうかって事なんですけど、今もちょっと言いましたけど、私の娘はもう33歳になるんです。33年前に重症心身障害というもう重度の脳障害の娘を授かりまして、その重症心身障害というのは色んな障害がどれも重くって重なっているときに重症心身障害と総称でいってる訳です。私の娘はどんな障害が重く重なってるというと、目、視力ですけど明るい暗いだけが辛うじて解る全盲なんですね。だから物の形は一切見えないんです。聴覚、耳ですが、音は聞こえてはいるんですけど、その音が意味する事は一切解らないんです。だから私が話しかけてるのか、他の家族が話しかけてるのか、或いはラジオやテレビでニュースをやっているのか、天気予報をやってるのか、漫才やってるのか、そういう事は一切解りません。それから言葉なんですけど、声は出るんですけど、言葉は一切出ません。人間の赤ちゃんって生まれてきた時は喋らないじゃないですか。なんか機嫌のいい時と悪い時で、泣いたり笑ったり、声の調子が違う。ところがいつの間にか喋ってますよね。私ね、上の兄ちゃん育てている時っていうのは、人間の赤ちゃんというのは生まれてまあだいたい何ヶ月目かでこうなって、何歳ぐらいでこうなってどうして、こうしてっていうこうゆう階段をトントンと登っていくの当たり前思ってたんです。どの育児書にもそう書いてあるしね。それ常識や思てたんですね。ところが自分の娘を授かって全部その常識と思っていた事とか、育児書に書いとる事なんか、ぜ−んぶ違うんですね。当てはまらへんですよね。言葉かて喋れるようにならへんですよね。自分の娘授かって初めて私ね、勉強しました、それまで大嫌いやった勉強を初めてしたんです。脳の障害ってお医者さん言うたけど、じゃ脳ってなんなの?とかね。生まれた時から具合悪いって、じゃお腹の中でいったい人間ってどうなってんのよ、とかね。そういうこと初めて疑問に思って情報が欲しいな、知識が欲しいな、ちゃんとしたこと知りたいな、どうしてやったらええんか、自分で解決の道筋を見つけたいなと思って、いろいろな図書館に行って医学書借りてきたり、大学の図書館とか行って借りたりね。でも、どこにも貴方のお嬢さん、子供さんがもし重度の脳障害持っていたらこうしてあげなさい、あ−してあげなさいなんか一行も書いてない訳です。
しゃーないから自分の親の所へ抱っこして行って、お医者さんからこんなふうに言われてって言ったんです。どういう風に育てたらいいか、父ちゃん母ちゃん、私からいうたら先輩やねんから、教えてと言いました。そしたら、なんと父親が、彼女からしたらじいちゃんですが、父親がね、私が抱いていた娘をガバーとひったくりましてね、顔も真っ青になってね、「わしがすぐ今この孫連れて死んだる」って言うたんです。「どういうふうに育てるか教えてね」って言ってるのに、「連れて死ぬってあなた何言うてるの」って私言いました。そうしたら父親が「こういう子を育てるのは、お前が辛い目におうて大変な目におうて、不幸な目にあうねん。わし、お前が可愛いからそんな目にお前があうのをようみとらん。まだ孫が今小そうて何も解らへんから、わしが今のうちに連れて死んだる」ってこう言う訳ですね。連れて死んだ方がこの子の為にもなり、お前の為にもなるって言ってる訳ですよ。ごっついビックリしました。だけど本当に顔真っ青になって言うてるんで、もうこれはほんまに連れて死におるかもわからん。
子供の時から私、父に溺愛されていたんです。私が物凄く悪かったのに、父はもうどんなに悪くってもかまへん、お前生きとったらええねん、みたいな事をずーとそれだけ言うてくれてる人やったんですね。だからその父が死のう言うとんのやからこらほんま下手したら死におるかもわからん。で、まあ二つのこと決心しました。
一個は絶対父ちゃんと娘を死なさんと。だけど、死なさへん為には自分と娘が生きてゆく毎日が父ちゃんが言うように辛いとか、苦しいとか、大変とか、不幸とか、ま、それもあるんでしょう。だけどそれだけちゃう。楽しくもやれるで、元気にもやれるで、ほらみてみ、こうやって笑っても生きていけるよっていうのを絶対みせたろ。一個思うたこれは。
もう一個は、なんぼ父ちゃんが私のこと愛してるかわからへんけど、私の幸せと不幸は私が決める。あんたが父親ややからいうてそれ決めんといて。これ私決める、私が幸せになる。いうてこの二つの約束をしたわけです。と言いながらも、やっぱりどうしたらいいか解りませんから暫く混乱してました。父ちゃん死んだら困るしな、どうしたもんか。そうしてるうちにハッと気がついたんです。そうか、娘が見えへんのやったら見えへん人と付き合うたらええわと、思た。それは見えない人で今、社会生活をされている方と付き合うことによって見えないことの大変な事、困難な事、困る事、だけど見えへんでもこういう工夫でこういうことはできるとか。こういうことなら見えない私達には楽しみというようなことを教えてもらえる。聞こえない、喋れないんやったら聞こえない、喋れない人と付き合うて、「どんなしてコミュニケーションとってはるんやろ?どんな時困るの?でもどんな事楽しいの?」っていうのを教えてもらおうと思いました。で、体も不自由で、娘がぐにゃぐにゃでね、ちっこうて、ぐにゃぐにゃで後ろ向きに半分に折れても痛くないようなぐにゃぐにゃやったんです。ま、ちょっとずつ、ちょっとずつしっかりしてきて今ね、33歳ですけど30歳くらいから手を引くとだいぶ歩くようになってます。そんな状態なんですが、歩く事は無理やろとかお医者さんからはずっと言われてました。そやから、自分の娘が歩かれへんのやったら、今歩けない、家から出るためにはいろんな介護がいるよって言う人たちとお付き合いして、あんたは今家から出れへんけど出れたらなにがしたい?とか、あんたが何かできる為にはどんな道具があったらいいんやろとか、どんな街になっとったらいいんやろみたいな事を、一緒に考えたらええやんというふうに思たわけですね。
ありとあらゆる障害の人とお付き合いした結果、私がわかったことは、日本では自分の娘のような本当に100パーセント保護の下でないと生きられない人は保護が必要だけど、この部分はこういうふうにしたら何かできるよとか、こんな寮があればこの人もっとこんなんできるわっていう人までひとくくりに障害者って呼んで、気の毒な可哀想な人という位置づけになった。よもやこの人の中に自分よりなんか凄い事眠っているかもわからんというような目線でみることはないんやということを知ったんですね。その代わりに気の毒やねんやからなんかして上げようとか、なんか補助あげようって話になる。これは本人にとってはすごいある意味屈辱なんですけども、それにずっと慣れてしまうと、もうそうしかないかって、なっちゃう。日本はまだ、障害者っていう人たちはなかなか働くことが困難ですねと言う方が、むしろまだ常識なんだな、この違いが出てきたんですね。

これは決して官だけの責任ではないと思います。民だけの勿論、責任でもない。私たち当事者の責任でもあろうと思います。なぜなら、私は自分の娘が最重度で100パーセント社会から守ってもらうという安心感がないと私彼女を残して死ねないですね。じいちゃんが彼女を連れて死ぬというのは阻止しました。だけど今、じゃあ次自分が安心して死ねるためにはどうするかっていうと日本の社会が、ひとりでも沢山の人が社会の支え手になっていて、自分の娘のような状態、これは自分の娘だけじゃないです、これから高齢社会というのは、例えば認知症の人の問題とかすごく大きくなっていて、もうすでに大きいですね、もっと大きくなるでしょう。そうした時に、あのスウェーデンでさえ国が貧しかったり、或いは世界各国で国が荒れてる時にはそういう人達が生きていけない、或いは殺して、日本でも姥捨て伝説って伝説じゃないです、本当にあった話ですよね。そういう国に、国が荒れたりした時には一気になるんです。だけどそれを皆で阻止しよう、特に私みたいに団塊世代の真っ只中の人間、自分がその団塊世代におりながらじゃあ何ができるの、次の時代の人たちも引き継いでくれて、そうやね、そういうやり方でやれば、もしかしたら自分たちは高齢社会のなんか怖くないかもしれないね、或いは自分があんたとこのお嬢ちゃんのようになっても怖くないかもわからないねっていう国にする、その努力を自分が色んな人たちと力を合わせてやりたいなっていう事なんです。
つまりプロップステーションという活動は、別に正義とか善とかそんな旗振るわけじゃ全然ないんです。要は、母ちゃんの我が侭なんです。私が安心して死にたい、次には私が自分の娘のように、いつかなっても大丈夫っていえる国であったらいいな。そういうふうに思っています。その為に沢山の人の中にある可能性、眠っている力、或いはいろんな人の力や、制度の力も大きいと思いますがいろんなものの力、そして科学技術の力も使って、一人一人の眠っているものを全部引き出すって事が必要なんだろうなってふうに思っています。

そういう意味でその私たちがやってきた事は、決してその企業に何パーセント働いて欲しいからその為の努力をするという事では全然なかったですし、むしろ何パーセントって言われたってそこへ行く事すらできないという人達がメインでしたから、ゼロの線よりもう少し下にいた状態の人たちが何ができるか、その人たちがどんな力を発揮できるかいうことでした。でもね、先程いうたようにチャレンジドをタックス・ペイヤーにいうので、石飛んできたように、そんな重度な障害者にお前ら働けいうんか言うて怒る人もやっぱりようけいてはりました。

だけど私はこう思っているんです。別に“全ての人が慟かねばならない”じゃないんです。さっき言うたように私、善、正義思ってないんです。選択肢なんですよね、そういう考え方が今までの日本にはなかったからこういう考え方でやろう、やっていきたいと思う人間が今集まって活動しています。だからそれに賛同する人は一緒にやりませんかってことなんですね。お陰様で今日は応援企業でネオメイトさんもいらっしゃってますけど、長年このITを使って在宅ででも働くっていう所でご支援を下さったんですが、いろんなIT関係の企業のほとんど、全てのって言ってもいいのかも解りません、お力をお貸しいただいて、今日、プロップステーションでコンピュータを学んだ人たちが各地で勉強しお仕事をされるっていう状況になってきました。

今、厚生労働省とちょっと打ち合わせをしてる事がありまして、それは何か?厚生労働省の障害者の就労支援をする担当の人たちに、その人たちのITスキルを上げる為のセミナーをプロップの在宅のチャレンジド達がテレビ会議システムを使ってやるっていうのをちょっとやってみようかという事になっていまして、今打ち合わせをしています。それは厚生労働省で障害者雇用や就労促進する担当におりながら、残念ながら日常そういう重度で働く人との触れ合いがないが為に、やっぱり気の毒な人やなあと思っている人が多いんですね。1.8パーセント雇用させるっていうのは法律の下でせなあかんなぁって思ってはりますけど、いろんな人の力をいろんなやり方で引き出そうという所、残念ながら発想に至っていない方が厚生労働省にはまだまだ沢山おられるわけです。その人たちにも意識改革をしていただける。「ゲ、この人らが僕らに教える人やったん」というのを理解していただけるようにっちゅうことなんですね。

プロップステーションではこの15年間でたくさんの人がコンピュータ技術持って、中には次の後進を育てる先生になられてる方もいっぱいおられます。だだここまでやってきて私たち感じたのは、コンピュータ以外の仕事が勿論得意な方もいらっしゃるわけですね。例えば作業所なんかでいろんなものづくりをされている、だけど残念ながらチャリティーで売るというような販路しかないっていうよう人達。こういう人達がプロフェッショナルになるにはどうするかなっていう時に、私たちは自分たちの経験からプロとの出会いが何より必要やということを、実は学んでいるんです。
コンピュータを勉強するって一口に言いますけど、教えてくれる人が趣味程度では駄目です。趣味程度の人から習った事は趣味以上には絶対ならないんです。だからプロになりたければ一流のプロ、或いは超一流の人から習わないと駄目です。ですからそういう人達に教えていただけるセミナーをずっとやってきた訳です。だとすると、ものづくりの現場もデザインのプロ、マーケティングの超プロ、或いはプロフェッショナルな販路を持っている所、或いは素材選びがプロ、そういった所と組んで初めてチャリティーではなく本当の良き商品として、出ていくものができるだろうということに気づきまして、神戸にフェリシモという会社があるんですが、そことタイアップをして、チャレンジド・クリエイティブ・プロジェクトといって、うちの作業所はそのチームに入って素材から、作り方から、マーケティングから全部見直すっていう意思を持たれた作業所の人たちと一緒になってものづくりを一からやり直すプロジェクトもやっています。
その中で今一番の売れ筋商品、もう3年やっているんですけど、一番の売れ筋商品になったのは知的と精神の人たちが集まってやっている皮の布とか、或いは帆布みたいなものに色をつけて、それをプロのデザイナーが、バッグに仕上げるというプロジェクトなんですね。ひとりひとりの人が思い思いに色を置いていくんです。ですからでき上がったバッグは一品一品違うんです。
フェリシモのお客さんというのは、ある程度働いていて自分で欲しいものを買えるっていうような状況の女性たちがターゲット、女性たちが百万人くらいお客さんいてはるらしいんですが、つまり、自分だけの物欲しいわっていう、ほかの人と同じもん持ちたくないわっていう感じの女性が、ちょっと高くてもそれ買いたいっていう方が多い。そこにターゲット絞っているんですね。だからひとりひとり置いた色が違う、付けたグラデーションの波が違う、しかもデザインは凄いプロのデザイナーが、一流のプロがデザインした可愛いバッグやっていうのがこれ売れ筋で、これも少なくとも一億以上の売り上げをあげるようになりました。
いろんなクッキーのチームだとか、それから小物のチームだとかそういうものが組み合わさって、今までの作業所はクッキーならクッキー、焼き物なら焼き物、点だったんですけどそういうものをフェリシモさんがコーディネートに入る事によってチームを作って、ロット管理もできるようになって世の中にフェリシモの製品として、その価格で出していくってプロジェクトが今、全国広まりつつあります。プロップのある神戸で始めたものが和歌山にも広がり、静岡に広がり、岩手に広がり、そして四国の松山にも広がりっていう形で各地の作業所が参画するといって広がっております。
是非、この熊本もいまユニバーサルデザインの動きでは日本一というふうに私も思っていますので、そういう関心を持っていただいて、ものづくりに携われている皆さんが力を合わせていただければ嬉しいなと思います。
要は、働く事を推進する政策というのは、雇用率を上げる事だけではありません。雇用率しかないっていうことが実は本当は残念なんです。雇用率もあり、いろんな働き方もある。それを誰かにやってくれと言って待ってるだけでは絶対駄目なんですね。私たちは自分たちで、自分たちの問題として、新しい働き方や、新しい知恵やアイデアをどんどん出してモデルを作る。モデルですからでき上がった一個は小さいかもわからないけど、これがやれてこのモデルによってこういう人達の力がこうできるっていうこのプロセスがわかった時には、こんどはそれを他所に広げていったり、或いはそれを制度にしたり、仕組みにしていくという事ができるんですね。
そういう意味で私たちは自分たちで絶対しゃがんどっちゃ駄目だ、ますますこれから自分たちでいろんなモデルを生み出さないといけないと思っています。そして新しいモデル同士が情報交換をして、こういうふうに私が訪れてお話を聞いていただいているように、お互いがこんなんやってんねん、うちこんなうまい事いってんねん、これいっぺんちょっと失敗したがな、みたいなのをみんなが情報交換できてね、そしてそこにプロフェッショナルの力を持たれた企業の皆さんたちにも参画をしていただいて、一緒の、対等に、ある意味アイデア出しあいできるようになっていけばいいなっていうふうに思っています。今までのその就労促進というか、雇用促進の観点とはだいぶ違う、或いは障害者に何してあげようという福祉の話でも全然ないんですけど、今私たちがプロップステーションとしてそういうモデルを生み出して、少しずつ全国に広まっているというお話を今日は熊本でこの様にたくさんの方のお集まりの所でさせていただけて大変嬉しく思っています。
ですけどもコンピュータもほんと発展してきて、私は相変わらず触るの嫌で字打つしかできないんですけど、それでも字打つっていう事ができるでしょ。つまり、表現できるし、伝えられるわけですよね、そうしたら、私の体が不自由になった、口ももう開くのも無理になった、最後まばたき位できるかなっていった時に、もう今やまばたきを電気信号にしてコンピュータで外へ出すってできるんですね、技術的にはね。だから、最後は私は、まばたきのうるさいおばさんって言われて死ねるくらいまで頑張っていきたいなぁっていうふうに思っております。という事で今日は本当にナミねぇのお話、最後まで聞いていただけて感謝しております、これからもご一緒に頑張りましょう。どうも皆さんありがとうございました。

[写真]竹中ナミ

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