こうべ 盲・養P連会報 第29号 2007年1月25日より転載

〔講演要旨〕

ユニバーサル社会(共助社会)の実現をめざして

社会福祉法人プロップステーション 理事長 竹中 ナミ

プロップステーションの活動

[写真]竹中ナミプロップステーションの活動は15年前全身性重度障害がある青年実業家との出会いから始まりました。一般家庭ではまだパソコンが普及していない15年前でした。その青年は高校生の時、試合中の事故で、自分の意思でわずかに動く左指の数本と、自分の「考える力」、そしてコンピューターの力でマンション経営をしていました。(1)本人の意思・気持ち (2)周りの人がバックアップする気持ち (3)コンピューターという最新の科学技術の3つが彼を「気の毒な人」ではなくて、目をきらきらさせる青年実業家とさせていました。私は、彼に言いました。「福祉って、もったいない事していることもある。人の力を眠らせている。同情する気持ち、手助けしようとする気持ちは尊いが、自分には出来るがこの人にはできんと、マイナスに着目した時には、結果としてその人の中にねむっている可能性にふたをしてしまう。」

「新しい活動を始めよう。」「自分の前に障害がある人がいて、その人がこれから力を発揮したい、仕事をしたいと思っている。その人の可能性に着目して、人の力と最新の科学技術を組み合わせて社会に出る。できれば仕事につなげていくような活動をするボランティアグループを作ろう。」彼が「おれもやる。」と言いました。そこでプロップステーションが生まれました。

プロップとは、支柱とか、支え合うという意味です。障害のある人は支えられる人、障害のない人は支える人、この線引きを無くしていこう。「みんなが支え合うことができる。」という前提にすると本当に支える事が不可能な人はわずかになる。無理になった時は、みんなの総合力で支える仕組みを作ったら、何もこわくない。

自分達がパソコン通信を始めた時に、情報通信は、なんとコミュニケーションバリアフリーなんだと思いました。この道具ってすごいなー、つながる事も無理、助け合う事も無理、今までやったら助けられるだけの人だった人も、助けられる人にも、意見言う人にも、支える側にもまわれる。それによって、見えない人、聞こえない人、しゃべれない人、私のように口達者な人も対等にこの活動を続けていけることが出来ました。

チャレンジド

この活動の最近の様子を「チャレンジド」という写真集にして出版しました。「チャレンジド」と言う言葉はアメリカで生まれました。人間のマイナスや、不可能な人、とだけに着目して、それを呼び方にしていた反省から生まれました。その意味は、「挑戦、使命や課題を与えられた人、あるいはチャンスを与えられた人」であり、けっして障害のある人だけを指すのではありません。例えば、震災に立ち向かう人を含むような意味もあります。課題が大きい人には、大きなチャンスやその力も与えられています。

コンピューターを使って「自分自身が出来る事を発見すると同時に、困っている人がいたら、自分達のコミュニケーションで手を差し伸べる」というプロップの活動が始まりました。それぞれが得意な事をこういう道具を使って世の中に出せるようになった現在、発注してくれる会社や人、組織を見つける。つまり、営業したり、コンサルタントしたり、マーケティングしたりする。それは、得意な人と組めばいい。今までの日本の福祉施設などには、その人たちのお世話をしたり温かく迎えてくれるプロフェッショナルの人たちはたくさんいる。しかし残念ながら、デザインやマーケティングのプロなどプロフェッショナルな人との出会いがありません。人の力と道具の力を徹底的に使いたいと思った時に、どんな人との出会いが必要か、どんな道具との出会いが必要かというところに考え方が広がっていかないといけません。そのモデルケースとして組織は小さいけれど、プロップステーションは15年かけてチャレンジドたち自身が仲間になって歩んで来ました。

ユニバーサル社会(共助社会)

私には、重度の脳障害をもって生まれた33歳になった娘がいます。私はこの子と一緒に、楽しく生きて行きたいと思っています。でも、周りはそうではありませんでした。私の父、おじいちゃんは、障害があることが生後3ヶ月でわかった時、私が抱いている娘をひったくって「わしが連れて死んでやる」「お前が辛い目におうて、大変な目にあう。わしゃお前が可愛いじゃ。」と言いました。どうやって育てるのか教えてと相談に行ったのに。私は、「嫌な事、つらい事、不幸な事もあっても、楽しい事もあることを見せてやろう。なんぼ父ちゃんが私のこと可愛いくても、私が幸せか不幸かは私が自分で決める。」「父ちゃんとこの子を死なさない。」この2つを決心しました。

素人の私は気付きました。見えなかったら、見えない人と付き合う。見えないけど社会生活を工夫している、見えないけれどこんな楽しい事あると教えてくれる、聞こえない人もどんな事が喜びか教えてくれる。

自分の娘から教わりました。自分が、この子のマイナスのところだけ見ると、世の中の人と一緒でつらい、かわいそう、気の毒だけの子になる、自分がしてしまう。みんな生きるスピードが違うのだ、違って当たり前でいろんなスピードの人がいるのが社会なのだ。だったら、社会をいろんなスピードの人がいろんなスピードで生きていってその人なりの達成感が得られるようなものにしていったらいい。

かわいそう、気の毒と思うと、その瞬間にそこで止まってしまう。かわいそうというのは、対等になれていません。同じスピード、同じ量のことができるということではなく、その人それぞれの、身の丈にあった活躍の仕方、生き方をみんなで生み出すことが大切です。みんなが「新しい社会づくりをしたいな」と思うユニバーサル社会でありたいものです。

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