田原総一郎 誇りの持てる国 誇りの持てる生き方
早稲田大学「大隈塾」講義録 1 2006―2007
2006年10月19日発行より転載

第二部・新しい日本の可能性に挑む

第6章 すべての人が力を発揮できる社会に

講義>2006年6月5日 担当教員>高野 孟

[写真]竹中ナミゲスト講師
(福)プロップ・ステーション理事長
竹中ナミ たけなか・なみ
Guest Profile
  • 生年>1948年
  • 出身地>兵庫県神戸市
  • 主な経歴>神戸市本山中学校卒業。17歳で結婚、重度心身障害児の長女を授かる。91年障害者の就労を目指すボランティア団体プロップ・ステーションを設立、92年大阪ボランティア協会内に事務所移転、98年、社会福祉法人格取得。現在、プロップ・ステーション理事長のほか、内閣府、財務省をはじめとするさまざまな委員、講師を務める。
  • 主な著書>「ラッキーウーマン――マイナスこそプラスの種!」(飛鳥新社、2003)、 「プロップ・ステーションの挑戦」(筑摩書房、1998)

講義のはじめに
みんなが納税できる社会を目指す福祉界の風雲児

今日からのシリーズは、田原総一郎調と趣が変わりまして、「新しい経済・社会の構造」というテーマになります。この大隈塾全体では、リーダーシップということが通奏低音のテーマになっておりますけれども、リーダーシップといっても、政財界のお偉方ばかりじゃないぞ、ということを僕はずっといっております。地域社会でいろいろ面白いことを仕掛けて頑張っている人、あるいは一つの業界の中で革命を起こしている人、さまざまな社会の中でリーダーがいるんだということを、ぜひみなさんに知っていただきたいという趣旨で、この第二コーナーが設定されております。

今日は竹中ナミさん。僕らはふだん「ナミねぇ」と呼んでいます。それこそ日本の福祉界の風雲児と申しますか、自ら重度心身障害の子どもを抱えたことがきっかけで、それまでとは大きく人生を変えられて、社会福祉法人のプロップ・ステーションを設立された。障害者という言葉自体から変えるべきだというのがナミねぇの主張で、チャレンジド、課題を背負った人という意味でしょうか、そういう呼び方をして運動をしている。

それも、そのチャレンジドを納税者にしようという。障害を持った人を社会の片隅に閉じ込めておくのではなく、どんどん社会とのかかわりを持ってもらおう。そのためにパソコンも教え、自分で稼げるようにして、所得税ぐらい払ってもらおうじゃないのという、非常にポジティブな運動を展開していらっしゃいます。とにかくナミねぇが厚生労働省に電話して「明日東京に行くからね」というと、省内に衝撃が走るというぐらいな、そういう存在です。それではナミねぇ、お願いします。

ゲスト講義
介護される生活からプロとして仕事をする障害者へ

日本の社会福祉の常識を破り、施設を持たない社会福祉法人を立ち上げる

みなさんこんにちは。プロップ・ステーションの竹中ナミこと、ナミねぇです。

今ご紹介いただきましたように、私はプロップ・ステーションという社会福祉法人※1を運営しています。社会福祉法人というのは、国や自治体が社会福祉法人格を与えて運営をするところというのが日本の法律で定められているものです。障害を持つ方の施設、高齢者の方の施設、あるいは保育所、そういうところですね。

ところが、私たちがやっているプロップ・ステーションは、日本で唯一の、施設を持たずに、運営している社会福祉法人です。在宅や施設にいる重い障害のある人たちが、コンピュータ・ネットワークで、バーチャルにつながっている。そういう形としては、初めて厚生大臣(現厚生労働大臣)認可を受けた社会福祉法人です。

社会福祉法人プロップ・ステーションっていうと、「あ、障害者の施設やってはるんですか」といわれるんですが、そうではない、非常に珍しい形態です。

日本の社会福祉は、施設福祉だった。特定の場所に、障害のある方や高齢の方に集まっていただくことによって、そこに集中的に福祉施策とかケアを導入する。それに対する福祉予算であり、障害者はなかなか一般社会で共に暮らすことが難しい人たちだから、まとめてそこで何か集中的な福祉をしましょうという考え方なわけです。

これは、わかりやすい言葉でいったら「隔離と保護」です。隔離と保護が前提というのが日本の社会福祉であり、それを担うために生まれてきたのが、社会福祉法人という制度だったわけです。日本の社会福祉法は、そういう考え方でずっときたのです。

ところが、私たちプロップ・ステーションは、施設に入ってもいいし、入っていなくてもいいのです。ご家族の介護を受けていても、そうではなくて施設の介護を受けていても、それはどうでもいい。その人が社会に対して何かを為(な)したい、あるいは社会とつながって生きていきたいというときに、コンピュータのような道具を使い、情報技術を活用して、それを実現しようと考えたわけです。

そういう人たちの中には、自分はこんなに障害が重いけど、働いて稼ぎたいよ、恋愛もしたけりゃ結婚もしたいよ、という思いの人が、実はたくさんいます。だけど、日本の隔離と保護という福祉の概念の中では、そんな重い障害の人に働けっていったりするのは「むごいことや」となる。あなたたちを守ってあげますよというのが社会福祉であって、障害が重くて介護もいるような人たちに、働けなんていうのは冷たいこと、と。日本の福祉は、ずっとこういってきたのです。

  • ※1. 社会福祉法人 社会福祉事業を行なうことを目的として社会福祉法の規定により設立された法人。公共性が極めて高く、営利を目的としない民間法人で、所轄庁の監督のもとに地域の中で施設などをつくり、社会福祉サービスを行なう。補助金の交付や税制面での優遇措置がなされている。

コンピュータという道具を使えば働けるという強い期待

プロップ・ステーションは15年前に発足したのですが、発足するときに、全国のいわゆる重度・重症で、家族の介護なども受けているという方々に、アンケートを取りました。「あなたは大変障害が重たくて、家族の介護を受けている、あるいは施設におられるけど、働きたいと思われたことがありますか」と一つ目の質問。二つ目の質問は「もしあなたが働きたいと思ったときに、それを実現するためには、どのような道具が必要になるでしょうか」。この二つの質問のアンケートでした。

私自身、先ほど高野さんにご紹介いただいたように、自分の娘を、重度心身障害、大変重い脳の障害を持って授かりましたので、彼女を通じて出会った、いろんな障害の方とのお付き合いがありました。ですから、そういう方々に、手紙でアンケートを送らせていただいたわけです。1300人の方に送らせていただき、返事はほとんどこないかなと思っていたら、約200通に近いお返事がきました。なんかすごい分厚い封筒がきまして、どれだけ長い文が書いてあるのかしらと思ったら、手が震えて一字一字が大きくしか書けないからって、一枚の便箋に5文字ぐらい。「そら分厚いですわいな」みたいものもありました(会場笑)。

そのアンケートの回答に、「働きたい」と書いてあるんです。自分も働いて金稼ぎたい、って。約200通の回答の8割に、働きたいと、自分も働きたいと書いてあった。次に、働きたいと思っている人のほとんどが、自分のような障害の重い人間が働くには、これからはコンピュータという道具しかないと思う、と書いておられた。びっくりしました。

それから、アンケートの余白のところに「あなたの思いを何でも書いてください」というスペースがあったのですが、そのスペースにも綿々といろんな思いがつづられていました。それをまとめてみると、四つことがわかりました。

まず一つが、自分たちのような重い障害を持った人間がコンピュータを勉強する場所がない。あったら勉強したいということです。

二番目は、友達とか知り合いに教えてもらったのでは、自分の身につけた技術がプロとして通用するのかどうかわからない、と。つまり、習うんだったら、ちゃんとしたプロフェッショナルに習って、その上で自分を評価してほしいという。

三つ目は当然ながら、働きたい、仕事がほしいということでした。

四つ目がすごかったのですが、実はその答えでプロップの活動の方向がバシッと決まったといってもいいというものでした。それは、自分は障害が重いから、たぶん仕事場へ通えといわれたら無理だと思う、というものでした。家を出て行くのに、朝起きて、家族に服を着替えさせてもらって、食事の手伝いや下の世話をしてもらって、それだけで2時間ぐらいかかる人もいるわけです。だから、自分が職場へ行くんじゃなくて、仕事が自分のほうへ来てほしい、そうしたら自分だって働けるというのです。そして、コンピュータというのは、そういうことを可能にする道具なのではなかろうという期待感だった。

それを読んだときに「何や、課題は四つか」と思いました。「この四つをクリアしたらええじゃん」と。この四つをクリアできたら、世の中に支えられているといわれていた人が、世の中を支える側に回る仕組みがつくれると思いました。

チャレンジド。挑戦するチャンスを与えられた人

私の娘は、今年の2月で33歳になりました。視力は明るい暗いがかろうじてわかる、全盲です。物の形がまったくわからない。耳のほうは、音はちゃんと聞こえるのですが、その音が意味することはまったくわからない。だから私が話しかけているのか、ほかの家族が話しかけているのか、テレビやラジオでニュースをやっているのか天気予報をやっているのか、そういうことは一切わからない。声は出るのですが、言葉はしゃべりません。つまり、彼女の脳の中で起きていることは、生まれて間もない、まだ言語情報をきちっとインプットして受け止めることができない状況で止まっているということなんです。私のことを「自分の母ちゃん」というふうに、どこまで認識してるかほとんどわかりません。でも、最近は笑うようになりました。すごくいい笑顔で。

娘は、ゆっくりゆっくり、非常にゆっくり成長するわけです。笑顔が出るとか、食事がちょっとおいしそうに食べられるとか、そんなことの一つひとつができるようになるのに、何年も何年もかかるわけです。なんと、最近、立ってあんよをするようになりました。

私は「チャレンジド」という言葉を使っています。それまでは「ハンディキャップド」とか「ディスエイブル・パーソン」と英語では呼ばれていました。「ハンディキャップ」も「ディスエイブル」も、その人のマイナスの部分とか不可能の部分に着目した言葉。特にディスエイブルなんて可能性を否定する言葉ですよね。

それに対して、15年くらい前にアメリカで起こったのが、人権の国アメリカといいながら、その人のマイナスのところだけに着目した呼び方をする、そんなことはやめようじゃないという動き。そしていろんな言葉が生み出されたのですが、そのうちの一つが「チャレンジド」です。これは、チャレンジという英語に、最後に-edがついて受身みたいなんですけど、要は神から挑戦という使命や課題、あるいはチャンスを与えられた人という意味として生まれました。

この言葉を聞いて、ものすごく感銘を受けたというか、自分に納得できるところがありました。
「すべての人に、課題に向き合う力が与えられていて、課題が大きい人にはその力もきっと与えられている」

私はそう考えています。人間の可能性にエールを送る言葉として受け止めた。ですから、自分の娘もそうなのですが、プロップ・ステーションでは「障害者」というネガティブな呼び方ではなくて49「チャレンジド」、自分の課題に向き合える、その力を持っているという意味合いで、この言葉を使わせていただいています。

プロップの講座で学んだ絵本作家くぼりえさん


くぼりえさんの近刊『およぎたい ゆきだるま』
(チャイルドブック、2006)

たとえば、くぼりえさんという絵本作家がいます。

プロップ・ステーションでは、障害が重くてもコンピュータや情報通信の技術を使うことで、働けるようになっていきたいという人たちが集まって、コンピュータの勉強会を始めました。一流のプロフェッショナルに習う勉強会です。その中で、大変優秀なグラフィックの才能の頭角を現されて、今はイラストレーターであり、また絵本作家になっていらっしゃる女性が出ました。それがくぼさんです。

くぼさんは、筋ジストロフィーに似た、筋肉に力が入らない病気、ウエルトニッヒ・ホフマンという難病にかかっていらっしゃる。彼女は、一見ちゃんと座っておられるのですが、全身コルセットで固めて、大きい背もたれの車いすの枕で、首と頭を支えている。枕から2センチ頭がずれても、自分では起こすことはできませんから、必ずお母さんなどの介護がいる。

彼女は子どものときに外で遊ぶことが全然できなかったから、お母さんが本を読んでくれた。お母さんと一緒に読む絵本が、すべてだった。その絵本から、彼女は愛すること、楽しいこと、嫌なこと、それから支え合うことなどいろんなことをとにかく学んだ。そこで、彼女はいつかしら自分も絵本作家になって、自分が絵本からいろんなことを得たように、子どもたちに何かを得てもらえるような絵本作家になりたいと夢見ていたのです。

くぼさんは、プロップ・ステーションと出会う前は、絵筆を使って絵を描いていらっしゃいました。だけど彼女の全身は力がありませんから、絵筆で絵を描こうと思うと、誰かが彼女に絵筆を持たせてあげなくてはならない。お水をくんで来てあげて、絵の具のチューブを開けてあげて、そして彼女専用のパレットに、彼女が、「うん、これでいい」というまで、彼女の思いの色が出るまで、混ぜ合わせてあげて。彼女はその色が出たら、わずかに動く指先に挟んでもらった絵筆で、その絵の具を混ぜて画用紙に絵を描いていた。

手が動く範囲が限られていますから、ちょっと大きい絵を描こうと思うと、誰かが画用紙のほうを動かしてあげないといけない。こんな大変な思いをしながらも、絵が大好きだったので、こつこつ描きためていらっしゃったのです。

そんなくぼさんが、プロップ・ステーションが始めた、プロのグラフィック・アーティストが教える「イラストレーター」や「フォトショップ」の習得コースに入ってこられたわけです。

まあ、コースに入って彼女自身も驚かれました。マウスに誰かが彼女の手を乗せてあげさえすれば、あとはマウスの小さな動きだけで、画用紙のほうが動くんですから。失敗したと思っても、今までだったら大変だったわけです。せっかく描いたものも捨てて、白紙から描かなければいけなかった。それが、指先一本で削除できる。色を変えるのも、何%と何%混ぜ合わせると自分の好きな色が出るというのを、全部指先で操作できて、どんな大きな絵もどんな小さな絵も、思いのままに描けることがわかったわけです。

彼女はそのグラフィックのコースの中で、素晴らしい才能を現されました。今ではプロとして、すでに2冊の絵本を出し、3冊目の絵本に取り組まれています。それ以外に、ハムの会社から冊子のイラストを頼まれる、あるいは酒造メーカーから新しく出るお酒のパックのデザインを頼まれるという仕事が入ってきて、今ではりえさんに描いてくださいと指名される作家になりました。

彼女は一人っ子です。小さいころから絵本が好きで絵が好きで、いつか絵本作家になりたいという夢があった。すごいのは、お父さんもお母さんも、りえさんのこの夢を絶対実現させてやろうと思われたことなんです。なれるかどうかはもちろんご本人の努力と、それから才能によるところが大きいのですが、でも本人が努力する限りは、自分たちは絶対応援しようといって、応援し続けてこられた。それはすごかったなあと思います。

ある化粧品メーカーの12ヵ月のカレンダーに彼女の絵が採用されて、大好評を博しました。それで、その化粧品会社の新年の大きな大会に、彼女はお母さんと一緒に招かれました。私もそのサポーターとして招いていただいたのですが、そのときに彼女がとてもすてきなピンクのスーツを着ていらっしゃった。指には、なんかおしゃれなプチプチッと光るもののマニキュアをして。あんまりおしゃれなスーツなので、「それ、どこで買うたん」と私が聞きましたら、彼女は「ううん、私の服はね、全部お母さんがつくってくれるの」というんです。彼女は体がすごく変形しています。だから既製の服は合わない。だけど本人はすごく美的感覚は高いし、お母さんも彼女に少しでも美しい女性であってほしいと思っているから、彼女の体に合わせたお洋服を全部お母さんがつくられているんですね。本当にすてきなピンクのスーツを着ていらっしゃいました。

その彼女が壇上に上がって、集まられたたくさんの人の前であいさつをされた。
「自分に素晴らしい仕事を与えてくださってありがとうございました。これによって私はまた一つ、プロとしてやっていく自信がつきました」

そして最後に、こういいました。
「みなさんもどうぞ頑張ってください」

本当に、会場にいたおばちゃんたちが、なんか急にハンカチを出して目頭を押さえていました。

そのあとで、その化粧品メーカーの社長さんが、話をされました。

彼女のために仕事を発注したように見えるけど、彼女にわが社のカレンダーの絵を描いてもらったことによって、わが社の社員たち、その化粧品を販売する人たちの意識がものすごく変わりました、これがわが社にとっては一番大きな財産になりました、と。

つまり、今まで彼女のような人がいたら、かわいそうに、としか思わなかった。かわいそうに、頑張ってね、としかいわなかった人たちが、その人から頑張ってねといわれた。くぼさんに対して、あなたの才能に基づいてこれをやってくださいという、フィフティー・フィフティーの立場になれた、こういうすごいことを自分たち自身で経験できたことを、社長さんはすごく喜んでくださったのです。

「足使ってもええっていうことを習うてきた」


パソコンを足で操作するプロップ・ステーションの人気講師

そのほかにも、日本中にいろんなチャレンジドの方がいらっしゃいます。実際にお会いしたことは1回しかないけれども、もう何年もプロップ・ステーションで一緒に仕事をしている方もいらっしゃいます。コンピュータ・ネットワークがつながっていて、テレビ会議のシステムを使ったり、あるいはメールやデータの交換でやり取りをしますから、直接会わなくても、打ち合わせも、お仕事をやることも、お互いにそのサポートをすることも、そして納品することまで、ほとんど全部コンピュータ・ネットワークでできるのです。

第一期生の方に、両手がまったく動かないから、足でコンピュータを使えるように勉強すると、プロップに来られた方がいます。つまり彼はもう15年間もプロップ・ステーションで、足でコンピュータと触れ合っている。

彼はお母さんと2人暮らしです。もうすぐ60歳ですが、30歳まではずっとお母さんの全面介護で育てられてきた。たとえば足でちょっとお茶碗を引っ張ったりすると、お母さんに足をピチッと叩かれて「そんな恥ずかしいことしたらいかん、足なんか使うたらいかん」といわれた。お食事も口へ入れてもらって、着替えもさせてもらっていた。

ところがある日、テレビのニュースを見ていたら、足に絵筆を挟んで絵を描いている人が映っていた。彼はすぐにその人に連絡して、会いに行ったのです。翌日帰ってきてから一週間後には、ほとんど身の回り全部のことを自分の足でできるようになったそうです。わずか一週間で身辺のことが、足で全部できるようになられた。今ではできないのは、ちっちゃなボタンの服を着ることくらい。冠婚葬祭でもなければそんな服は着ません。いつもはTシャツを着ていらっしゃる。

周りのみんながびっくりして、「あの足で絵を描いてる人のとこ行って、足でどうやって生活するかとか、どんなふうにしたらええかっていうのを習ってきたんやね」と聞いたら彼は首を振った。
「ううん、違う。僕そんなこと習うてきてない」
「じゃあ何習うてきたん」
「足使うてもええってということを習うてきた」
そういうことだったんですね。

つまり、その人が自分が生きていこうとするときに、足を使おうが手を使おうが何を使おうが、そんなものが本来自由なはずなのに、世の中のルールが、あるいは思い込みが「そんなんはお行儀悪いやん」とか「恥ずかしいことやん」と規制する。「足でなんか」という世間が、彼を全面介護される人にしていたのです。

30年前、彼は腹をくくって、足でなんでもやる練習をした。

プロップ・ステーションにコンピュータの勉強に来た15年前も、この足でコンピュータ勉強する、と。彼の足を見ると、足の親指がものすごく大きい。足でガーッと踏ん張って生きているからですね。普通のキーボードの5倍ぐらい大きくないとだめかなとかいったのですが、それで器用にコンピュータの操作を習得された。彼は5年か6年でプロになりました。プロの先生がプロだと太鼓判を押しました。それで私は、彼にいいました。もうボランティアをやめて、うちの正式な講師になってください、ちゃんとそれで収入を得る講師に、と。

チャレンジド講師という職域を生み出して、彼が稼げばいいと思ったわけです。今、プロップ・ステーションでは、"足の先生"、ごっつい人気なんですよ。子どもたちも習いに来ます。おじいさんおばあさんも習いに来ます。もちろん障害のある人も習いに来るし、家族が障害を持たれたというような方も習いに来る。親子で一緒に習う人もいます。

彼の授業を聞いていると面白いです。「はい、みなさん、マウスから足離して」って(笑)。「そんなん、あんただけちゃうのん」と思っていたのですが、最近プロップでは足でコンピュータするのはメジャーになってきました。今まではそんなのは無理と思われていたけれど、こういう人が出てきましたから、私も僕もと、手が動かせない人がどんどん足で勉強するようになった。「足離して」も全然ギャグじゃなくなってしまった。

障害者が「支える側」に回るとき、社会の仕組みが変わる

プロップはたくさんの方に支えられています。

有名大学を卒業して一流会社に就職が決まったんだけど、乗っていたバイクの事故で首の骨を折って全身麻痺になった方がいらっしゃいます。この方は自宅を開放して、地域の子どもたちにコンピュータを教えるNPO※2を自分で立ち上げられた。それだけじゃなくて、ソフト開発をする会社もつくられました。

プロップ・ステーションの応援団に、マイクロソフトの前の日本法人の社長だった成毛眞さんがいます。成毛さんは、彼は非常に優秀だから投資するとおっしゃって、その新会社に投資をして、「インテグラル」という社名までプレゼントしました。

プロップ・ステーションは、私みたいに見えて聞こえて話せて助けてという人間はほとんどいなくて、スタッフ自身が、一緒に勉強してきた人たちです。勉強された人たちが優秀なスタッフになってくれています。

自宅のコンピュータからプロップ・ステーションのサーバーに入って、そこに置かれたお仕事を何人かで分けて、究極のワーク・シェアリングをやっています。それで稼いでおられる方もいます。

プロップのSE(システムエンジニア)もいます。

生まれながらの聴覚障害のシングルマザーは、今子どもさんを育てながら、コンピュータを使って、プロの漫画家になると頑張ってらっしゃいます。

一番最初に、なぜ私がこういうことをしているかをお話ししました。私は、自分の娘が重度心身障害者です。でも、その子を授かったことで、「人間っていろんなスピードで生きていくんやな、いろんなその人の生きる方向、生きる力があるんやな」ということを学びました。

ですから、すべての人が自分の持っている力を伸ばし、発揮して、社会の中で単なる受け手ではなくて、自分のできることで、少しでも「支える側」に回ってほしいと思っています。一人でも多くの支える人が生まれることによって、自分の娘のような人を支える社会の仕組みもできるのだと思っています。

「私はかわいそうな障害者、不幸な障害者」というところでしゃがむのではなく、その人の中に必ずある、可能性を全部引き出すことによって、誇らしく生きていってほしい。そんな日本になったとき初めて、自分の娘の存在も、みんなが「みんなで守ってあげようよ」といってくれる。そういう時代が来ることを願いながら、日々プロップ・ステーションの活動をしています。

  • ※2. NPO 1995年の阪神淡路大震災以来、「ボランティア活動」に注目が集まり、自発的に社会活動を行なう組織として、NPO(non-profit organization, 非営利組織)という言葉が世間に広く認知されるようになる。98年12月にはNPO法(特定非営利活動促進法)施行、法人格が取得できるようになり、2006年7月31日までの累計で、NPO認証件数は2万7800を超えた(内閣府)。

質疑応答
「かわいそう」という言葉は魔物。それが人と人を分ける

プロップの活動資金をどうやってつくられたのか?

高野 こうした障害を持った人たちの話は、極端にいえば、私は関係ないとか、私の身近にはいないからというふうに思ってしまいがちです。でも、ナミねぇの話にもあったように、君らだって一生懸命就職活動をやって成功して、望みの企業に入った。その日に事故に遭ってしまうかもしれない。いつ自分が障害を持つようになるかもしれないし、身近な人たちがそうなるかもしれない。自分とは縁のない特別な人たちの話だというふうには考えてもらいたくない。もちろんそんなふうには受け止めていないと思います。

と同時に、ナミねぇは、普遍的な話をしている。障害があるなしではなく、人間の可能性ということについて話された。今日は、一種の人間論を語っていただいたと、受け止めてもらいたいと思います。

学生1 今日はありがとうございました。私たちがチャレンジドを支援したいと思ったときに、問題になってくるのは資金の面だと思うんです。ナミさん自身も、お子さんと食べていかなくちゃいけないということもあったでしょうし、プロップの運営費もあるでしょう。資金に関してはどうされたのか、ぜひお伺いしたいと思います。

竹中 お金があれば何かができるというのはうそなんです。私たちのやっている活動は基本的にノン・プロフィット・オーガニゼーション(NPO)ですし、先ほどいったように日本で唯一の施設を持たない社会福祉法人です。施設を持ちませんから、補助金も1円もない。全部自分たち自身の自力でやらねばならない。だけどお金があったらできるのかといえば、お金があってもだめなんです。

私たちの活動はこういうことをやりたいから一緒にやる仲間と、「この指とまれ」から始まった。自分たちが持っているお金はわずかだけど、そのわずかなお金で、いろんなところからいろんなものを借り歩いて始めました。そこで何かが生まれたときに、その生まれたものに、同情ではなく、未来を感じて先行投資をしようという寄付が入ってくる。応援のお金です。

それは本当に貴重なお金です。最初からあったお金ではなくて、あなたたちのやっている活動は、何か将来性があるからとか、あるいは自分がすごく共感できるからといって、応援してくださる。自分は技術を提供する。自分は場所を提供する。自分のところの会社で売っているこの製品を提供する。そういうことはできないけれど、自分はお金を提供する。いろんな人たちの思いが集まってきて、活動の輪が広がってきたわけです。

私は、自分の娘が重度心身障害だったから、彼女のような存在が社会で守られたり、存在を認められたりするのに、どうしたらいいかなあって、それはすごく真剣に考えました。その一つに、自分が大金持ちになったらどうか、というのもありました。だけど考えてみると、私が大金持ちになって彼女にお金を残しても、彼女自身はお金の意味も何もわからないんです。そうすると、誰かにそのお金を託さなくてはなりません。託した相手によっては、想像よりもっと怖いことになることだってあるわけですね。

お金で解決できない問題に直面してしまったら、世の中のほうを変えるしかないと思って、こうなったわけです。大切なのは世の中のほうを変えることであって、それには、お金が前提ではない。必要なお金は必ずどこかから入ってくると信じることです。もちろん入ってこないときもありますけど。

私は、この活動を始めたときは10代の娘がいたわけですから、自分が働くこともままならなかった。娘がもらっている、いわゆる障害者年金※3で親子で暮らすみたいな状況にもなって、生活保護※4を申請しなさいとも勧められました。そういった補助とか生活保護のお金がいけないことはないんです。それは世の中のルールで存在するお金ですからいいんですが、そうするとルールのほうに縛られる。

福祉のお金でもそうなんです。私たちが何かしたいから補助金をくださいといった瞬間に、補助金と一緒にルールがついてくる。私たちは今までのルールと違うことをやりたいわけです。ルールを変えたいわけですから、ルールに基づいてやれなんていわれること自体が、私たちにとってはこっけいなわけです。だとすると、補助金を前提にはしないで、絶対支援者が増えて、必要なお金は入ってくるような活動に、自分たちの力でする責任がある。この循環なんです。

ですから、お金で悩んだことはいっぱいありますけれど、でもそれを苦にしたことはないんです。「気にしても苦にすんな」なんていって、自分たちのユーモアで乗り切ってきたというところが大きいです。

  • ※3. 障害者年金 病気やケガが原因で生活に支障が出るようなとき、本人や家族に支給される年金。すべての人を対象とする国民年金法に基づく障害基礎年金のほか、上乗せとして、厚生年金保険加入者を対象とする障害厚生年金、共済組合加入者を対象とする障害共済年金がある。
  • ※4. 生活保護 憲法25条で国民に保障されている「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」に基づき、生活保護法により規定されている制度。生活困窮者に対して、国の責任において「健康で文化的な最低限度の生活」のために必要な扶助等を保障するとともに、その自立を促すことを目的としている。国の社会保障制度の1つ。

障害者を通じて学んだ、彼らの生き方は?

学生2 私は、障害を持ってる方たちよりも、むしろ自分たち障害を持っていない人たちのほうが、自ら限界をつくってしまうなあということを感じました。そこで、ナミさんが障害者の方たちを通じて学んだ、彼らの生き方というか、命の素晴らしさなどのお話を伺いたいなと思いました。よろしくお願いします。

竹中 1時間ぐらいかかりますよ(笑)。簡単にいいますね。今、実は私の娘は国立病院の世話になっていまして、その病院で花火大会がありました。うちの娘は、その病院の花火大会の前の年ぐらいに、ちょっと花火が楽しめる、つまり目で光を追うことができるようになっていたのです。だから、その年の花火大会は、ものすごく本人が生き生きとして、目で楽しむことができました。

ところが隣りに座っていた、同じ入院している重症のお兄ちゃんと、お父さんとお母さんが、花火を全然見ないのです。お母さんがそのお兄ちゃんの名前を「タカノブ君」って呼ぶ(仮名)。その子が、お母さんの手にすりすりっと、頬ずりする。今度はお父さんが「タカノブ」って呼ぶと、お父さんの手をすりすりっとする。お母さんがまた「タカノブ」っていってすりすり。花火を見ずにそんなことばっかりして、タカノブ君ごっこをやっている。そこで私が「あんなあ、せっかく病院が高いお金使うて、家でできへんような大きな花火シュパシュパやってくれてんねんから、見せてあげえな、タカノブ君に」っていったのです。

そうしたらそのお父さんとお母さんが、
「いや、違うねん、ナミちゃん。この子な、今年初めて自分の名前がタカノブやってわかったんや」
といわれた。それでお母さんが「タカノブ、タカノブ」。すりすり。 お父さんが「タカノブ、タカノブ」。すりすり。

私、びっくりして、そうか、悪かったって思いました。
「そんな大切な今年やいうこと知らんと、そんないうて悪かった」

ところで「タカノブ君は今年いくつになりはったん」と聞いたら、お父さんとお母さんが声をそろえて、
「今年40になりました」
といわれたのです。

それを聞いて私は、すごく勇気が出ました。私の娘は33歳で、まだ自分の名前が竹中マキってわからないんです。「マキ」って呼ぶとニコッと笑うけど、「ハナコ」って呼んでもニコッと笑う。この間なんか「ポチ」って呼んでも笑って(笑)、まだこいつわかってないなと思ったんです。

40歳になって、自分の名前がわかって、呼んでくれるお父さんお母さんにすりすりできるってすごい。だから、私にも娘にも未来はいっぱいある。そう思うんですね。

そういうふうに思える自分なのか、そうではなく、名前がわからないというその部分だけを見つめて悲しんで生きるのか。これはあくまで自分が決めることなんですね。

私がもし娘の立場であれば、自分のわずかながらでも生きていく力を親に信じてほしいし、愛してほしい。おまえがこれできへんから私は苦労してるって、親にはいってほしくない。ここが彼女から学び、彼女から育てられた部分なのかな。短くいうとそういうことです。

可能性を見つけ出しながら人と付き合っていくには?

学生3 今日のお話の中で、障害のある方に対して「かわいそう」という固定概念があるとおっしゃっていましたが、私たちは日々出会う人に対しても、それぞれ個人的にいろんな感情や概念を持って勝手に判断をして、その人と接してしまうことがあると思います。その際に、私たちが勝手に人のことを判断せず、いろんな人の可能性を見つけ出しながら人と付き合っていくためには、何か心がけていることなどはありますでしょうか。ご意見をお願いいたします。

竹中 どういうふうな付き合いをすればいいか、どんな目線でその人を見たらいいか。いい質問ですね。

たとえば、今日みなさんご飯を食べたと思いますけど、そのお米、自分で育てて、稲刈りして脱穀して、それを炊いてご飯を食べてる人いますか。(学生挙手なし)

じゃあ、お魚食べたいときに、さしみでも煮つけでも天ぷらでもいいですけど、魚食べたいときに釣りに行く人。「そら魚食べるんやったら釣り行かなあかんやろ」という人。(学生挙手なし)

いませんよね。もう一つだけ聞きますね。みなさんすてきなお洋服を着ていらっしゃる。それぞれよくお似合いですし、似合ってない人は……(会場笑)いませんよ。自分が何か身につけるものが必要なときに、糸で縫って布にして、デザインして裁断して縫うて着る人?

ことほどさように、文明が進み、科学技術が進み、流通の仕組みが進み、法律制度が進み、世の中が進めば進むほど、人間は、自分が生きていくために絶対欠かせない重要なことも、自分一人の力ではやってないわけです。当たり前のことです。みなさん「そんなん当たり前や」ってわかっている。自分一人の力でなんか絶対この世の中生きていけないことは、頭ではわかっているんです。

だけど、道ばたで、あるいは学校で、障害のある人と出会ったときに、どう感じるかというと、ほとんどの人が、あ、私は自分で自分のことができるけど、この人はここが無理だなあ、あそこができないなあ、こういうところは不可能だなあと考えて、「気の毒やなあ、かわいそうやなあ、サポートしてあげないかんかな」と思ってしまうんです。これは刷り込み現象です。「かわいそう」という言葉は魔物なんです。その言葉を使った瞬間に、その人と"私"は別の人になるんです。そしてその人より、"私"はちょっと上にいるんですね。魔物です。

たとえば車いすに乗った方がいて、その人と道ですれ違ったとします。記憶に残るのは、車いすの人とすれ違った、ということだけです。普通、横断歩道で誰かとすれ違うと、あら、流行りのバッグを持っているとか、私よりおしゃれだとか、イケメンだとか、そんなことが記憶に残る。だけど車いすや白いつえの場合は、それだけが記憶に残ってしまう。
「何色の服を着てはるやろ、街出るんやからちょっとおしゃれしてはるやろか、バックを見てみよか」

こういうところから入れるかどうかが、実は非常に大きなポイントなんです。ということで、ヒントになりますでしょうか。

変化している福祉の状況。でもまだまだだ、というところは?

坪井善明(政治経済学術院教授) 昨年と今年とで2回聞かせていただいて、大変感銘しました。そこで、この1年間の活動を通じて、今、日本の社会においてどこが進んだか、どこがやっぱりまだまだなあと思うか、ナミさんの運動、この1年間の総評を聞かせてください。

竹中 私たちのやったことによって、1年で世の中の何かが劇的に変わるということは、まずあり得ません。ただ15年前の一般家庭ではコンピュータがゼロという時代から、すごい勢いでコンピュータの情報技術が進んだこの15年間を大きな流れというと、やはり意識の部分とか法律も含めて、いろんなものが変わったと思います。だけど一番変わらねばならないのは、チャレンジド自身なんですね。当事者が変わらないで周りに変われっていうことは、私は絶対無理なことだと思っています。

そういう意味で、私たちがこの活動を始めたときに、反対をし、反論をし、この活動に石を投げたのは、実は障害のある人たち自身であったり、福祉団体とか福祉家といわれる人たちだったんです。こんな重度の人たちに働けとか、税金から取ってきてなんぼっていうのが福祉の世界なのに税金を払えとか、あんたのいっていることは福祉ではない、おかしい、どこか間違っているといわれました。それは大きな声でした。

そして私たちが、コンピュータを勉強するといって集まった重度の人たちから、「あなたたちなんぼ重度でも、自分が勉強して何者になりたいんやったら、年金からでもいくばくかでも払ってね、少しでも払って自己投資しいや」といって受講料を取ったことについて、また鬼だの非道のようにいわれたわけです。それまで日本では、障害のある人から1円のお金も取ることが許されない状況だったのです。

今もまだ、それは尾を引いています。去年(2005年)、障害者自立支援法※5という法律が成立して以来、障害のある人たちに負担が生じるということだけを論点にして、反対運動が起こっているし、マスコミもその部分をクローズアップしている。

私がいいたいことは、負担を負うことができないかわいそうな人たちに何とかしてあげるのではなくて、彼らが負担を負える状況をみんなでつくろうということなんです。

自分たちがやってきたのはそれなのです。プロップで勉強したチャレンジドたちは「私たちは堂々と負担の負える人間になっていきたい」といっています。

実はプロップの仲間の1人で、京都の療護施設のベッドの上で起業をした人がいます。「上育堂」というホームページを開設しています。意味はウエイク・アップの「wake」と、「ドゥ(do)」。その彼のプログの「自立支援法が成立した4月1日は勝利の日」というコメントを読んでいただきたいと思います。

彼は施設の中で必死でコンピュータを勉強して、いろんなところに就職活動にしたのだけれど、障害が重いということでどこも雇ってくれなかった。「ほんなら自分で社長やったる」とかいって、ベッドの上で、上育堂という個人事業社を立ち上げた。ホームページの製作とかTシャツの販売をしています。

ところが、それまで彼が純粋な障害者として、稼げない人として施設にいたときには、かわいそうな障害者といっていた福祉社会の人たちが、「稼ぐんやったら出ていかんかい」といい出した。彼はプログに「なぜ私が施設を出なければならないのでしょう。彼らは口を揃えてこう言います。『それが普通だ。』と」、こういうふうに書いている。

そして、「勝手に自分を世界標準にするな」と書いてます。もう少し読みましょう。

何が嘆かわしいと言えば、私に施設を出て行けという自称世界標準のほとんどが4年制大学で社会福祉を学んでいるのだ。一体日本の大学は何を教えているのだ?日本の社会福祉学は偏見を基礎にしているのか?自称世界標準よ、耳の穴を掃除してよく聞け!「普通」とは人の数だけあるものや。人それぞれ、紆余曲折(うよきょくせつ)の中、自分の「普通」作り上げていくもんや。そして自称世界標準よ、耳の穴を掃除してもう一度よ〜く聞け!世の中に「基準」はあっても「普通」は無い。「普通」があるのは電車の時刻表やっ!

(以上、http://plaza.rakuten.co.jp/wakedo/diary/20060401)

関西人はここへきますねん、必ずなあ(笑)。

彼は、施設の中で働くということも、制度の中で認めた、そういうのもありですという自立支援法の成立は、自分にとっては勝利の日であると書いています。

もう一つ、過激なコメントがあります。

福祉就労と呼ばれる働き方。いわゆる作業所、補助金で運営されている作業所。月に5000円ぐらいを給料といってもらって、利用料を親が2万円ぐらい払っている、あの全国の作業所について書いています。

NHKのニュースで授産施設※6障害就労の現場が混乱していることが報じられていました。障害者自立支援法が施行され、授産施設等を利用する自己負担費が上がった。そのためにひと月に受け取る報酬より、支払う自己負担費の方が高くなるという逆転現象が起きている。ひと月頑張って働いて約1万円の報酬を得ても、授産施設に利用料約2万円払わなければならない。働いても報酬を受け取るどころか、逆に生活を圧迫する。パッシング覚悟で言いますけど、このニュースを聞いたとき、障害者自立支援法の善し悪しに関係無く、これはなるべくしてなったと思いました。私も独立起業する前に、働ける場所を探しにいくつかの授産施設を回りました。当時どこの授産施設もひと月に得られる報酬は数千円程度。でも報酬の額より愕然(がくぜん)としたのは、仕事がないときはみんなでお茶を飲んでいるというのです。そこで仕事をしている人の意識に疑問を感じました。お茶のみに行っても仕方が無い、その施設に通うことはやめました。

 そして「よく考えましょう」と彼はいいます。

一般企業なら仕事が無ければ危機感持ってお茶を飲んでいる場合じゃありませんよ。お茶飲んでいる暇があれば、顧客開拓に尽力するとか、新規事業開拓に取り組むとかが仕事というものじゃないですか。仕事が無いからってお茶飲んでるような会社は当然潰れるんじゃないですか?今回は障害者自立支援法で自己負担費が上がったことがクローズアップされているけれど、たとえば不景気で民間からの受注が減ったとか、仕入や経費の値段が上がったとか、経営・運営を圧迫するリスクは常にあるはず。今回の混乱は単純に障害者自立支援法が悪いだけなのでしょうか?

(以上、http://plaza.rakuten.co.jp/wakedo/diary/200604280000/)

こういう疑問も書いている。

もちろん日本の授産所が全部そうだというのではなく、自分以上に稼いでいるそういうなどもある、だけど、要は障害者がどういう気持ちで仕事に取り組むかが問われているのだと思います、と。そういうことをいっているのです。

自分自身も共同作業所にぶら下がっていた時期があって、最初のギャラは月2000円で、そのときは仕事のできる喜びに舞い上がっていたけれども、おかしいなあと思った。それで作業所の仲間に、もっと稼ぐようにするにはどうしたらいいか考えようよと提案したんだけど、周りの反応は完全にしらけていた、と。

彼はある意味、福祉浸けといってもいいかもわかりません、補助金で運営される、補助金が前提の生き方しか与えられないということが、いかにチャンスを生み出したりチャンスをつくり上げたりする意欲を失わせてしまっているかを書いています。

彼のような辛口のコメントに、またそれをうちのホームページのトップからリンクすることに、どんな反応があるかと思っていましたが、バッシングはほとんどなかったです。おおむね「ようわかる、よういうた」という反応で、何と彼のホームページのアクセス数は倍になったそうです。「ナミねぇ、おおきに。Tシャツ5枚売れました」とかいってました。今日はどうもありがとう。

  • ※5. 障害者自立支援法 身体障害、知的障害、精神障害の3障害で異なっていた障害者への福祉サービスを統合し、サービス量に応じて費用の1割を患者負担とする法案。障害者支援の観点から、障害者の費用負担は、収入に応じて「応能負担」から一律の「定率負担」となるため、障害者団体からは強い反対の声もあったが、2005年10月可決成立し、2006年4月1日から施行された。
  • ※6. 授産施設 障害者等が自活していく能力を養うことを目的に訓練や指導を行ない、職業を与え、社会復帰参加の促進を図るための施設。
高野 孟の講義メモ
第6章 竹中ナミ氏
人はそれぞれのスピードで成長する。40歳になってようやく息子が自分の名前がわかったときのご両親の嬉しさはどんなものだったのだろう。それぞれの成長の仕方があるのに、私達は何事にも急いで事を成そうとしてはいないだろうか。チャレンジドは障害者のことだけではなく、大隈塾に来ているみんなも、それぞれの自分の可能性に挑戦していくチャレンジドだ。

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