NEW MEDIA 2001年12月号 (2001年11月1日発売) より転載

【The Challenged とメディアサポート】(49)

チャレンジドがIT企業で働くには何が必要か

〜ある女性エンジニアの軌跡〜

雇用状勢が悪化の一途をたどる中、ITを学び、IT産業で活躍するチャレンジドたちが、少しずつながら増えている。何がそれを可能にするのか。今春、新卒でITコンサルタント会社に就職した一人の女性チャレンジドの事例を通して、本人、企業、就労支援活動のあり方を探ってみた。

(報告:中和正彦=ジャーナリスト)

長く苦しい就職活動 最後に勝ち抜いた栄冠


左より、鈴木、神宮、金丸、池内、竹中、斉藤の各氏。本誌発表の11月1日、「CJF国際会議inみえ」で、池内さんの事例発表が行われる。

「11月16日!」

「就職が決まったのはいつ頃ですか」という問いに、池内里羽さんはひときわ大きく明るい声で、はっきりと日にちまで答えた。思い出すと、いまもその日の喜びがリアルによみがえってくるという感じだった。

それもそのはず。大学の研究室の仲間たちは皆、5月の連休明けから6月までに就職が決まり、11月まで就職活動をしていたのは彼女一人。そんな長く苦しい日々を経て、やっと内定を得たのだった。

しかも、能力や人間性に問題があって、そうなったわけではない。

池内さんは立命館大学理工学部でコンピュータを学び、IT業界への就職を目指した。採用されたのは、89年に創業して10年で店頭公開を果たしたITコンサルティング業界の急成長企業「フューチャーシステムコンサルティング」(以下フューチャー)。

業界の風雲児といわれる金丸恭文社長は、「この人はできる。そう思ったから採った」と言い、先輩社員たちの池内さん評も「すごく粘り強い」「まじめで誠実」「プレゼンが的確」などなど、すこぶる良好だ。

実は、池内さんは、目指す仕事の上では障害にならない「障害」のために長く苦しい就職活動を強いられ、ようやく自分を正当に評価してくれる会社に出会えたのである。その時の喜びは、普通の人の想像を超えるものがあったに違いないのだ。

健常者と共に学んだ障害者が就職で直面する理不尽な現実

池内さんの「障害」とは、出生時の脳性麻痺によるものだ。四肢と発語に不自由がある。しかし、健常者と共に学び遊ぶことに不自由はなく、ずっと普通校で過ごした。

コンピュータとの出会いは、筆記の不自由を補うために使い始めたワープロ。小学校2年生という早い段階から使い始めてコンピュータに親しみを覚えていき、高校でクラスが文系と理系に分かれる時に、将来の仕事として考えるようになった。そして、理系に進み、指定校推薦で立命館大学理工学部へ。

この間、進学の際に障害者の受入れがどうなっているか下調べに行ったりしたほかは、特に障害者であることを意識しなかったという。

ところが、就職は違った。

池内さんは、健常者の友人たちと同じように就職活動を始めた。企業研究、会社訪問、セミナー参加……。だが、選考段階に入ると、「障害のある方には別枠がありますから」などと言われて一般採用で落とされることが相次ぐようになったのだ。

別枠の採用とは、法定割合の雇用義務に基づいた障害者採用のこと。池内さんは、能力の有無よりも前に障害の有無で選別される現実を思い知らされていった。研究室の同期が次々と就職先を決めて自分一人になった後も、めげずに活動を続け、面接までこぎ着けたところは合計30社。しかし、ついに望む企業から内定通知が届くことはなかった。

「本当に最後まで行って、あとは内定通知を待つばかりという感じのところがあったんですけど、結局そこもダメでした」

だが、こうした経緯を語る口調は重くも暗くならず、彼女は「それでウチの両親がガッカリしてしまって」と話を続けた。

「福祉関係とか公務員とかも考えてみたら、と言われました。でも、私はどうしてもコンピュータ関係の企業に就職したかった」

そのまま一人で活動を続けても、今日の仕事は得られなかったかも知れない。しかし、この話にも現われている芯の強さがなければ、やはり今日の仕事は得られなかっただろう。

「してあげる」「してもらう」ではない自立した者同士の関係

決して諦めなかった池内さんは、ついにフューチャー入社へとつながる出会いをつかむ。障害を持つ人々のIT技能による就労を支援する社会福祉法人プロップ・ステーション(以下プロップ)との出会いである。

プロップは、本連載でもたびたび紹介している通り、その道のパイオニアであり、マイクロソフト日本法人など数々のIT企業が活動を支援している。自らの役割を「お好み焼きのつなぎのメリケン粉」と笑い飛ばす関西ノリの竹中ナミ理事長の下、技能を身につけたチャレンジドと支援企業の仕事をつなぎ、正社員採用に結びつけた実績も積んでいる。

プロップはすでに、障害を持つ人々の間ではかなり有名な団体になっているが、健常者と何変わるところなく過ごしてきた池内さんは、人伝てに紹介されるまで、その存在を知らなかった。初めて訪ねての感想は、「こういうところがあるんだったら、もっと早くうかがえれば良かった」。

一方、竹中さんの感想は、「何でこれだけちゃんと勉強してきた人が、障害があるからということで就職できないの」。

竹中さんは早速、池内さんに合いそうな支援企業に当たった。それがフューチャーだった。金丸社長の考え方は、単純明解だった。

「デジタルネットワーク社会においては、移動しなくてもナレッジの交換ができる。それができる人なら、五体満足かどうかなんて関係ないんです。だから、池内さんの場合も、通常の採用と同じです。ナミねえ(竹中さんの愛称)から『いい人がいる』と聞いたので、人事に『会いに行け』と言った。そうしたら、人事も『全然問題ないです』と言って帰ってきた。あとは本当に通常の採用と同じ」

竹中さんの方では、池内さんだけを特別に紹介したのではなく、他の有能なチャレンジドも一緒に紹介したという。池内さんもまた、プロップと出会ってフューチャーの面接を受けた後も、それだけを頼りにするのではなく、自分で会社訪問を続けたという。

つまり、ここでは就労支援団体・企業・本人の間に、「特別に紹介する。してもらう」「特別に考慮する、してもらう」「特別に採用する、してもらう」といった関係が見られない。浮かび上がるのは、3者がそれぞれ自立した存在として出会い、結果として池内さんが選ばれたという経緯だ。

今回、座談会を設けた席で、金丸社長がひとしきり「他社には真似のできないフューチャーのカルチャー」についてぶった後のこと。竹中さんが「里ちゃんにはどう?合っている?」と水を向けると、池内さんは少しおどけた感じでひと言、「そう聞かれても、他の会社を知りませんから」(笑)。社長を持ち上げるような発言は、ひと言もなかった。が、その明るい様子が、いまこの会社で働けている幸せを物語っているようだった。

受け入れ態勢。そしてトップの理念と行動


斉藤さんの指導を受けて仕事に取り組む池内さん。現在の課題はJAVAの習得だという。

「内定を知ったのは、東京の会社を回っている時でした。母に、メールを開いて内定の知らせが来ていたら連絡してくれるように頼んで上京していました。その連絡が来た時は、もう本当にうれしくて、すぐに会社の方に『入社させてください!』って電話しました」

そう語るうちに声が高揚してきた池内さんに、「それはいつ頃のことですか」と問うた答えが、冒頭の「11月16日!」。

その日からもうすぐ1年が経つ。彼女はもう、すっかり会社に溶け込んでいる様子。それには、フューチャー独特の受け入れ体制の効用も大きかったのではないかと思われる。

フューチャーでは新人が入社すると、3カ月の研修期間中、一人ひとりに社長を含めた既存社員による支援チームがつく。それぞれが新人の名を冠して「チーム○○」と呼ばれる。今春は新人が31人で既存社員が300人余りだったため、新人1人に既存社員10人ぐらいのチームが、「チーム池内」をはじめとして31生まれた。

新人は研修期間中、毎日チーム宛てに進捗報告のメールを出し、これに対してチームの先輩がアドバイスなどを送ることになっている。当然、自然発生的に食事会やら飲み会も生まれる。「みんなで新人を育てる」という雰囲気が生まれる。

新人は、社内の人間関係がつかめないうちは、なかなか自分から溶け込んで行きにくいもの。障害を持つ人の場合、「健常者ばかりの職場に自分ひとり障害者」となると、疎外感に陥りやすくもなる。現実に周囲の無理解で疎外されることもある。「チーム○○」という支援体制は、障害者雇用のために作られたものではないが、そのためにも非常に優れたものといえよう。

いま池内さんは、社内各方面から高く評価されている。その言葉を拾うと、まず、研修を担当した鈴木研二さんは、「とにかくプレゼンが良かった。シンプルで伝わって来るものがありました」。社長補佐の神宮由紀さんは「チーム池内」の一員として接して、「毎日来るメールが、いつも過不足なくしっかりと書かれていて、指導するところがなくて困ったくらい。『自分もこうでなくちゃ』と反省するくらいでした」。配属された職場の上司・斉藤勉さんは、「彼女は最初から、ただ指示を待つのではなく、自分からプロジェクトにどう貢献するかを考えてくれました。流れているメールを見て、自分から『じゃあ私はこれをします』という具合に」。

ちなみに、「チーム池内」には金丸社長自ら加わっていた。「ぼくが社員番号1番で、たまたま新人の五十音順で1番だった池内さんについただけ」とのことだが、前述のようなトップとしての考えと、このような行動がどれだけ池内さんを勇気づけたかは、言うまでもないだろう。

取材の翌日、彼女から次のようなメールが届いていた。「これからどんどんこういった機会を増やして、障害者の社会進出に少しでも力になれたらと思います」。

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