NEW MEDIA 1999年4月号 (1999年3月1日発売)より転載

【The Challenged とメディアサポート】(20)

広がる就労支援の輪

この連載も今回で20回目。これまで1回1件の催しや人物を取り上げてきたが、ここ で一度「チャレンジドとメディアサポート」の現状全体を見渡して、いくつかのテーマで整理してみたい。今回は、ここ数年急速な広がりを見せている草の根の障害者就労支援活動の動向について検証する。

(報告:中和正彦=ジャーナリスト)

新NPO 「WeCAN!」の誕生

「障害者たちが中心となり、コンピュータとインターネットを駆使した在宅就労と社会参加を支援する全国規模のNPOが、初めてここに結成されます」
昨年の12月9日「障害者の日」に、このような触れ込みで「We CAN!」という障害者就労支援組織が設立された。現在、同12月に施行されたNPO法(特定非営利活動促進法)に基づく法人認可を申請中で、発起人の一人である上條一男さん(頸椎損傷で四肢麻 痺)は、「今年半ばにも」と期待する法人認可時までに「会員数は1000名を超えるだろ う」と気炎を上げている。
これには下地がある。We CAN!は対外的には1つの新しい全国組織だが、内部的にはすでに各地で固有の活動を展開している障害者就労支援組織や個人の連合体なのである。 上條さん自身も、東京都練馬区で活動する「福祉パソコンの会」という団体を率いての参加だ。その他に団体として参加しているところは、高知県在住の林美恵子さん(原因不明の難病で車椅子使用)が代表を務める重度障害者のSOHOネットワーク「Office Line」、愛媛県内で活動する「えひめ視聴覚障害者と友に歩む会」の就労支援部門「Bu.system」、北海道南部を中心に活動する「i:dex」などがあり、さらに他地域の動きの中から個人として参加している障害当事者や支援者が多数いる。上條さんは、We CAN!設立の趣旨をこう述べている。
「みんなコンピュータとインターネットを使えば重度の障害者にも就労のチャンスが生まれることを知っている。でも、みんな同じような問題とぶつかっている。個人や一団体 では無理な話も、みんなの声を結集すれば現状を変える力になるはずです。We CAN!は、コンピュータとネットワークを活用した皆が集まれる場づくりです。そこに集まる声を、集まった皆の力を合わせて実現して行こうということなんです」 ここ数年のパソコンとインターネットの爆発的な普及と軌を一にして、障害者の世界では、それを武器にして仕事に就こうという機運がいっそう盛り上がっている。そのような障害者を支援する有志の活動が、雨後の竹の子のように各地で立ち上がっている。障害者自らリーダーシップを発揮して運営しているものも少なくない。これらの連携を図ろうとするWe CAN!設立は、障害者の情報通信機器を利用した就労の問題が、新しい段階に来ていることを象徴している。

パソコンと障害者の就労の20年史

障害者の情報通信機器を利用した就労の歴史を振り返ると、大雑把に1980年代の前半と後半、1990年代の前半と後半と、4つの時期に分けることができる。
1980年代前半は、いわば黎明期だ。パソコンはまだ出始めで、コンピュータは大型機が中心。その仕事は、専門教育を受けた技術者の領域だった。「コンピュータの世界なら、技術さえあれば、重い障害を持つ者でも健常者と対等に働けるはず」と、その可能性にいち早く着目した人たちは、しかし、技術の習得のために暗闇に灯なしで進むような困難をくぐらねばならなかった。当時はコンピュータについて、障害に応じた支援機器も障害者が学ぶ場もほとんどなかったからだ。
そうした状況の中で技術を身につけて就職を果たした先駆者たち、とりわけ全盲のプログラマーなどは、単に努力の人ではなく、一種の天才といっても過言ではない。一般にはまだ、重い障害を持つ者がコンピュータ関係の仕事に就くことなど、想像だにされない時代だった。
しかし、1980年代後半になると、状況は大きく変わった。MS−DOSマシンの登場でパソコンが広く普及し始め、これに対応する視覚障害者用のテキスト音声変換ソフトや肢体不自由者用の特殊入力装置など、各種障害向けの補助製品もいろいろ作られるようになった。また、パソコン通信という、距離も障害の有無や種別も関係なく情報の受発信ができる画期的なコミュニケーション手段が登場。障害者の社会参加をテーマにする草の根パソコン通信ネットが開局されるようになった。
パソコンに挑戦する障害者は増え、その就労分野としてはプログラム開発のほかに、コ ンピュータを導入した印刷関係の仕事や一般のオフィス事務も期待されるようになった。 そして、先進的な障害者職業訓練施設では、こうした分野への就労を目的とするコンピュータ関係の学科や講座が設けられ、実績を上げるようになった。
社会福祉法人・東京コロニーのトーコロ情報処理センターは、その一つの好例である。
コンピュータが障害者にもたらす可能性に着目して1982年に設立された同センターは、 当初は通所を前提にした重度障害者向けのプログラマー養成事業を行っていたが、やがて通所できないほど障害が重い人々から「在宅で講習を受ける方法はないか」という要望が寄せられるようになった。そこで、1986年に「トーコロBBS」というパソコン通信ネットを開局し、おそらくは日本で初めての本格的な障害者向けオンライン講習「在宅パソコン講習」を始めたのである。
だが、全国的に見れば障害者がコンピュータを学べる場はまったく足りなかった。当時パソコンはまだ、普通の会社員にとっても現在よりはるかに高価で難しく、取っつきにくいものだった。経済的ハンディがあるのに健常者には必要のない支援機器も買わねばならず、買っても教えてくれる人がいないという障害者にとっては、その取っつきにくさはなおさらだった。この時期は、1980年代前半に比べればコンピュータに挑戦する障害者が格段に増えたとはいえ、全国から見ればまだほんの一握りの人々にすぎなかった。

草の根支援組織の登場

1991年、本誌でもたびたびその活動を紹介した障害者就労支援のNPO「プロップ ステーション」が誕生する。自身は機械オンチという代表の竹中ナミさんが活動の柱にコ ンピュータセミナーを捉えたのは、全国の重度障害者へのアンケートの結果から。仕事に就いていない人の8割が「働きたい」と答え、その8割が就労の武器としてコンピュータに関心を示していたという。
そして自由記述欄には、「就職できるレベルまで教えてくれる場がない」「独学しているが、これでは自分の実力がわからず、就職にも結びつかない」「通勤が困難なので、パソコン通信を使って在宅で仕事ができたらいいが、そういう仕事がない」といった声が多数書きつけられていたという。
竹中さんはこうした声に答えるべくプロップステーションを設立したわけが、1990 前半は、まさに竹中さんのようなボランティアや上記のような切実な声を上げた障害者自身が、パソコンを使った障害者の就労をテーマとする活動を起こし始めた時期だ。ちなみに、冒頭の上條さん自身が「福祉パソコンの会」を旗揚げしたのは、92年だったという。 バブル崩壊後の不況で、雇用情勢は悪化していた。しかし、バブル期の企業の社会貢献 ブーム以来、サラリーマンやOLのボランティア活動への参加は増え続けていた。
パソコンで就労を目指す障害者にとって、仕事で高度なパソコン技能を身につけた人が ボランティアで教えてくれるのは願ってもないこと。一方、ボランティアの人からすれば、何か特別なことではなく、仕事で身につけた技能が役に立つということが新鮮な喜びになる。このような両者の幸せな出会いが、プロップでも福祉パソコンの会でも見られた。そして95年、大きな環境変化が訪れる。阪神淡路大震災をきっかけにNPO活動についての社会の認識が一気に広まり、インターネットによって在宅就労の可能性も一気に広がり、Windows95の登場によってパソコンもずいぶん取っつきやすいものになった。
また、少子高齢化の問題が切迫感を増してくる中、プロップ・竹中さんの「チャレンジ ドを納税者にできる日本」という訴えが急速に賛同者を集めるようになった。「これまでのように人を障害や高齢を理由にして労働市場を締め出していたら、少子高齢化社会は支えられない。障害者でも高齢者でも、働く意欲や能力がある人はそれに応じて働くことができて、社会を支える側に回れるようにしなければ」という訴えだ。 この訴えが産・学・官の新世代の旗手たちから広く支持を集めるようになったと軌を一にして、プロップは参加する「チャレンジド」たちの就労にも華々しい成果をあげるようになった。
1990年代後半は、このような環境変化やプロップの成功などが刺激になって、全国各地で相次いてパソコンとインターネットで障害者の就労を支援する活動が生まれること になった。そして、冒頭のWe CAN!は、こうした就労支援活動の広がりの中から生まれて来たのである。

ありのままで参加できる社会を!

We CAN!設立の最初のキッカケは、実は筆者が1996年にある雑誌に書いた福祉パソコンの会についての記事だったという。当時、仙台市で地域の仲間と就労支援組織「サイバード」の設立を準備していた広岡薫さんは、記事を読むなり上條さんとコンタクトを取り、最初の電話で、障害者の就労の問題点やネットワークを使った在宅就労の可能性に ついて意気投合。以後、ネットワークでの仕事のやり取りも含めて連携を深めて行ったと いう。
1997年になると、この連携に林美恵子さんらの「Office Line」が加わった。林さんは高知県在住だが、他のメンバー3人は西日本に点在しており、内2人は難病の筋ジストロフィー。その内の1人は施設のベッドで仕事をしているのだという。4人はインターネ ット上で知り合い、林さんが他の重度の障害を持つ仲間に請われて、翻訳などを行うSO HOネットワークを組織。そして、同じくインターネット上で一足早く活動を始めていた 上條さんらを知り、連携を深めた。
ほかにも、このような形で各地の就労支援活動とつながりが生まれていき、全国的な在宅就労の輪ができた。そして、意見交換をしてみると、地域が違っても突き当たる問題は同じようなことばかり。たとえば、インターネットを利用した重度障害者の在宅就労につ いての企業や行政との意識のギャップ、パソコンの購入や習得に金銭的・人的は支援が必要なこと、仕事や寄付の受ける際の任意団体の限界などなど。そこで、そうした声を結集 して一つの大きな声にしていこうということで、We CAN!が設立されたということだ。  「ぼくなんか手も足も利かないから、何をするにも人の世話になる。でも、コンピュータ に向かうと、けっこう仕事をしちゃうんです。家にいるのをいいことに、素っ裸で仕事を していたりする。要するに、ありのままの自分で社会参加できるようになったんです。We CAN!で訴えたいことはいろいろとありますが、要するに『誰もが当たり前に、ありのままで参加できる社会にしようよ』ということ。『甘ったれことをいってるんじゃないよ』という人がいるけれど、みんな本当にそうしたいと思っている。そうできるようにすることが、社会を活性化にすることになるんじゃないですか」
そう上條さんは訴える。プロップの竹中さんとはニュアンスは異なるが、共通するのは、従来型の日本的健常男性中心社会の労働システムに参加できるようになることを目指すのではなく、各人固有の事情に合わせた働き方がそれぞれの自己責任でできるようになることを目指すという姿勢である。
いま、パソコン通信とインターネットを活用した就労支援活動が切り開こうとしている障害者の社会参加のあり方は、高齢者も女性も分かち合えるものであり、結局、誰もが自分らしく生きられる参加のあり方である。

中和和彦(なかわ・かずひこ)
1960年神奈川県生まれ。明治大学文学部卒。出版社勤務の後、フリー編集者を経て取 材執筆活動に専念。障害者支援の問題の他、バブル崩壊後の経済や社会、教育問題を幅広く執筆中。

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