「潮」 1998年2月号より転載

障害者(チャレンジド)が納税者になる日。

パソコン&ネットワークを武器に在宅就労の可能性に挑む人たち。

突如襲った交通事故 十九歳で奈落の底に

一人の青年の人生は、本人には想像もできない紆余曲折の繰り返しとなった。ターニング・ポイントをもたらしたのは、現在を象徴するような三つのもの。車、ラジオ、パソコン。この三つは、まるで小舟に襲いかかる嵐のように、その人生行路を良くも悪くも急変させた。

山崎博史、33歳─。
一九六四年八月、大阪府堺市で一人っ子として育った彼は、小学校時代から親の期待を一身に浴び、勉強、スポーツに頑張った。中学一年まではいわば学級委員長タイプ。負けず嫌いという性格も手伝い、勉強も運動も万能という子どもだった。

それが中二のとき、突如、それまでの自分や環境に反発するように、変貌する。いわゆる「族」、つまり暴走族入りしたのだ。なんでも一番になりたいという強い性分は、100人近い族の仲間のなかでも頭角を現し、やがてリーダーに。400ccのバイクを操れば「泉州の四天王」の一人と称され、怖いものなし。その後、17歳でリーダー格を後輩に任せ、「引退」。18歳から建設業で働き、バイクから自動車に乗り換える。

八四年十一月の深夜、最初の嵐が彼を襲う。直線道路を150キロのスピードで愛車をぶっ飛ばし、見通しのいい交差点にさしかかったとき、突然ベンツが信号無視で飛び込んできたのだ。とっさにハンドルを切り、急ブレーキ。ベンツはかすりもせず、駆け抜けた。しかし山崎の車は、信号と街路樹に激突。救急病院に運ばれ、診断は首の骨が折れている「頚椎損傷」と診断。二ヵ月入院した後、労災病院に転院し、その日主治医から「君はこれから一生車イスの生活」と宣告された。
「その言葉を聞いたとき、もう19歳で人生が終わったと諦めましたよ」

絶望の果て、山崎は「ずっと死ぬことばかり考えていた」と漏らす。病院の屋上へ車イスで上がり、夜を待つ。凍死で死ねると考えたのだが、警備員に見つかりベッドに戻された。
「浅はかだったけど、一人で動ける範囲はたかが知れ、自分で死ぬこともできない。本当に情けなかった」

山崎の身障者手帳を見ると、「体幹機能障害一種一級(座位不能)」と書かれている。分かりやすくいえば、重症四肢マヒ。自分の身の回りのことは、まったくできなくなったといいってもいい。腕力はほとんどなく、わずかに腕が動くのみである。
退院して自宅に戻ってからは、両親の全面的な介護のもと、ただ、その日、その日が過ぎていくだけという毎日の繰り返し。何か仕事をと考えても、何ができるわけでもなく、結局、無為に過ごすしかない。

そんな日々が二年三年と続いてから、たまたま友達の友達ということで、中学時代の同級生だった現在の妻、景子と出会う。近くに住んでいるということから、25歳のとき、博史のほうからなんとなく、「遊びに来いや」と電話をかけ、景子もなんとなく来た。ところが、意外に意気投合。以来、交際が深まり、とうとう結婚を決意するまでになった。話を聞く限りでは、将来に希望をもてない博史と、景子はなぜ一緒になったのかと思うが、「もらってくれと頼まれたから仕方なく」と博史は胸をそらし、一方の景子は「フフフッ」と苦笑いするばかり。要は惚れたということだろう。実際、景子は両親や親戚の猛反対にあいながら懸命に説得し続け、二人はようやく28歳のとき、博史の両親との二世帯同居という形で結婚したのである。

ワラにすがる思いでパソコン・セミナーへ

とはいえ、将来にあてのないことに変わりはない。結婚したからには、嫁さん食わさな−そんな思いで悶悶とするなか、第二、第三の突風、それも台風一過の青空をもたらすような風が思いがけず通り過ぎた。
その風とは、ラジオの情報だった。プロップ・ステーションという非営利の民間組織が障害者の就労のためのパソコン・セミナーを開いているという情報が、わずか10秒足らずだが流れたのである。障害者、就労という二つの言葉を耳にした山崎は、ワラにすがる思いで、問い合わせた。
「稼げるようになりますか?」

早速、セミナーの見学に行き、週1回、半年間の初心者コースに申し込む。それまでパソコンに触ったことはもちろん、見たこともなかったが、悩む余裕もなかった。
「パソコンでなくても、なんでもよかったんです。仕事に結びつく可能性があるんなら……」
山崎は当時をこう振り返るが、その話の端々に「必死」や「懸命」という言葉がしばしば表れた。

景子に車イスを押されながら初めて教室に通った日、キーボードの配列がまったく分からず打ちのめされた。帰りに本屋で入門書を買い、キーボードの図を何倍にも拡大して、家で夢中になって暗記。勉強するのにパソコンは不可欠と、思いきってすぐ購入した。それから半年後、まったくのゼロからスタートしながら、ワープロ、表計算、作図など基本ソフトの初歩的な使い方をマスターするまでになっていた。

ちょうどその頃、プロップ・ステーションでは上級セミナーの開催を計画していた。プログラマーをめざす半年間の実践的な講座。山崎はすぐ飛びついた。それまでの初心者コースに比べれば、内容ははるかに難しく、プロをめざすだけに心構えでも厳しさが求められる。
教えるのは、NTTでシステム開発に取り組み続け、定年後にボランティア講師としてかかわるようになった橋口孝志。プロップの仲間内では「鬼の橋口」とも呼ばれる。その橋口の授業でこんなことがあった。

週2回の上級セミナーが始まってしばらくたったある日、宿題を山崎に与えたのに、やってこなかったのだ。山崎は「やったけど忘れた」と弁解したが、橋口はとりあわず、その日の授業は中止にした。
山崎は妻の助けを借りながら、車イスで往復3時間かけ、必死の思いで教室に通ってきている。それで授業をしないというのは、通常の感覚では厳しすぎるように思える。だが、橋口はあえて鬼になった。
「実際の仕事になって、お客さんに対し忘れましたでは通用するはずがない。そういう社会の常識や厳しさもきちんと教えたかったんです」

それまでも真剣だった山崎は、この一件があってから、必死の度合いがより高まり、形相は変わっていた。そして後半の卒業制作として、たまたま依頼のあった府立高校の生徒のデータ管理用プログラムづくりに取り組み、みごと完成させた。さらに上級セミナー修了後、早速、プロップの仲介で、貿易会社の在庫管理ソフトを40日かけてつくり上げ、約20万円の収入を手にする。

「19歳で人生が終わった」と自殺を思いつめた日々からおよそ10年の月日がたち、まさか自分の手で稼げるとは思っていなかったという。その喜びは、途方もなく大きかった。
しかも、普及し始めてきたインターネットもマスターし、自宅にいながら情報のやりとりをスムーズにこなせるまでに。そして、野村総合研究所の在宅就労実験プロジェクト、IBMとプロップ・ステーションとの共同プロジェクト「情報弱者支援情報システム」のデータベースソフトづくりにも中心的にかかわり、プログラマーとしての実績を着実に一歩一歩築き上げているのだ。

その仕事ぶりを自宅で眺めていると、パソコンの画面を見る限りではプログラマーそのものである。車イスでの移動、電話、お茶、タバコなどが必要になれば景子が阿吽の呼吸で手を差し伸べるが、パソコンの操作は一人で十分。キーボードは両手の小指の第一関節で打ち、マウスはトラックボールと呼ばれる装置を左手の甲で操作する。
「もう、パソコンは体の一部になった。いまの希望は在宅での仕事がこれから安定して続くこと、そしていずれは個人の事務所をもてるようになりたいな。まあ、夢だけど」

パソコンが山崎を絶望の淵から救い上げ、夢をもたせるまでに変えたのである。

プロップ・ステーションの就労支援

ところで、山崎にパソコン技術を学ぶ場を提供したプロップ・ステーションの大きな役割も、見逃すわけにはいかない。

障害者の在宅就労を支援するこの非営利の民間組織が発足したのは、一九九一年五月。誕生の経緯は、代表を務める竹中ナミ、愛称「ナミねぇ」の個人的な背景と大きくかかわっている。というのも、竹中自身、現在24歳になる重度心身障害の長女をもつ母親だからだ。国立の療養所に入っているその長女は精神や皮膚感覚などに障害を抱え、「いまだって赤ちゃんと同じような知育の状態で、私をお母ちゃんと認識しているかどうかも分からへんのよ」というほど、重い障害なのである。

その話を聞き、「最初は途方に暮れたでしょ?」と尋ねると、返事はバリバリの大阪弁で、いたって明るいもの。
「もともとお得な性格で、自分が困ったとき、普通なら遠慮があるんだろうけど、私は人に聞きまくるのが平気。どんどんお医者さんに聞いて、役所で福祉のことを教えてもらってという感じだったの」

その勢いで障害者の福祉団体にかかり始め、障害をもっている人から学ぼうと手話を覚えて聴覚障害の人を手伝う。長女が養護学校に通っている間は、やがてお世話になるだろうと最重症者の施設で介護ボランティアに携わり、障害者向けのおもちゃライブラリーも運営した。とにかく、がむしゃらに頑張り続け、それから障害者自立支援組織の事務長を経て、現在のプロップ・ステーションを組織したのである。

ちなみにこの組織では、障害者の人たちを「チャレンジド」と呼ぶ。障害をもつ人を表す新しいアメリカ英語で、アメリカの障害者自立運動のなかから生まれてきた呼び名だ。またプロップには「支え」や「つっかえ棒」といった意味があり、チャレンジドが社会的自立を勝ち取る積極的存在になることを支援しようというわけである。

ただ、この組織に最初からコンピュータという発想があったわけではなかった。実をいえば、たまたま竹中がパソコンに触れる体験をもち、チャレンジドにとってパソコンは大きな武器になると直感したにすぎない。そこで、全国の重度障害をもつ人たちにアンケートを取ってみると回答者の8割は働きたいという意欲をもち、しかも「武器はパソコン」と考えていた。反面、パソコンについて学ぶ場、仕事探し、通勤といった大きな壁があることも分かった。
「このアンケート結果を見たら、なんや、壁を壊すのは簡単やないのと思ったわけ。だって勉強できる場所をつくって、仕事を探して、在宅でできるようにすればいいんでしょ」

こうスパッと発想するところが、いかにも竹中らしさである。しかも、思いついたらすぐ周りの人に話し、すぐ行動する。パソコンに詳しい人を仲間にして、コンピュータ会社やソフト会社に協力を要請。大阪府などの助成の記事が新聞に載るたび、あらゆる助成を何度も申請した。すると、予想を超えてアップル社などからコンピュータが大量に届き、大阪府の助成も下りた。講師役となるボランティアの登録者も100人を超えるほど集まったのである。
現在、プロップ・ステーションでは毎週水曜にマック、金曜にウィンドウズのセミナーを開催し、両コース合わせて約50名のチャレンジドが受講している。また遠隅地で基礎技術をもつチャレンジドを対象に、インターネット・メールを使ってのデータベースのセミナーもスタートした。しかも企業との交流を深めていったことで、IBM、NTT、マイクロソフト、関西電力などと業務提携を結び、セミナー修了生の約1割がホームページの制作やプログラミング、編集・レイアウトといった在宅ベースの仕事に就いている。

健常者と同じ土俵に上げてほしい

これだけの体制をつくり上げたのは、やはりナミねぇの持ち前のバイタリティと前向きな明るさというほかない。組織にかかわる人に話を聞くと、大半の人は口を合わせたように、支援のきっかけにナミねぇの魅力をあげる。しかし、その竹中と話し、行動を眺めていると、豪快さの陰にきめこまかな気配りがうかがえる。何回か顔を合わせるうちに、私は竹中に対して「人間的力量」という言葉を思い浮かべていた。簡単に言うなら、人間としての器がでかいということだ。それは、多様な障害者たちとの出会いや多彩な場を歩いてきたキャリア、あるいはいくつもの修羅場を乗り越えて得られたものと、竹中自身の温かみが重なって培われたものではないだろうか─。

それにしても竹中が注目したパソコンは、まさにチャレンジドにとって大きな武器になり得ることを痛感させられる。
実際に足を運んだセミナーは、いわゆるクリエイターをめざすマックのコースだったが、特に上級コースで受講生がつくり上げているコンピュータグラフィックのレベルは、目をみはるばかり。なかには脳性マヒでたえず体を揺らし、言葉が聞き取りにくい受講生も少なくないが、パソコン上の作品は個性豊かで障害の有無などまったく感じさせないのである。

一人のチャレンジドは、言う。
「僕は手ではまっすぐな線や円を描けません。でもパソコンなら、思ったとおりに描けるようになったんです」

実をいえば、私自身、脳性マヒの人が、そんな具合にパソコンを操り、素晴らしい作品を作り出せるとは想像もしていなかった。偏見であり、勝手な思い込み。想像力や技術力の有無を、作品を見ようともしないで判断していた。それは前半で紹介した山崎に対してでも同じだろう。これまで頸椎損傷の人は周囲からまるで壊れ物のように扱われ、何もできないと思われ、本人自身にしてもそう思い込みがちであったといってもいい。しかし、多くの場合、潜在的な可能性が眠っているのである。

それだけに、山崎はこう語った。
「障害者だから仕事をください、とは言わない。せめて健常者と同じ土俵の上で見てから、能力を判断してほしい。僕らは予選に参加する前に門前払いされてしまうんです」

納税者になって福祉を支える側に

一方、竹中はチャレンジドたちの仕事の可能性を、また一つ異なった視点からもとらえている。それはプロップ・ステーションのキャッチフレーズ「チャレンジドを納税者にできる日本」というものだ。これまでの常識といえば、障害者とは保護される立場であって、納税者になるという発想は、ありえなかった。
「これから超高齢化社会になって、介護のための財源はなんぼあっても足りない。そのためにも、いまのうちに納税者を一人でも増やしておかなあかんわけでしょ。それならチャレンジドにも仕事ができる可能性があるんやから、身の丈に合った働き方をしながら、福祉を受けるだけでなく、福祉を支える立場になりましょうということ。チャレンジド自身、社会参加を望んでいる人が多いんやから」

竹中の考えは明快そのものである。しかし、残念ながら、こうしたチャレンジドの能力を真っ正面から見たり理解を示す企業は、まだあまりに少ないというのが現状だ。それだけに、プロップ・ステーションような組織が果たす役割は、これからますます重くなってくるにちがいない。

いずれにしても、チャレンジドたちの能力の可能性とやる気が生かせないとなれば、あまりにやるせない。社会全体で考えても、貴重の人材資源を生かさないのは、どう考えてももったいないのでないだろうか。

(文中敬称略)

井上邦彦 いのうえ・くにひこ(ルポライター)

1955年東京都生まれ。長年の編集プロダクション勤務を経て、90年からフリーに。

福祉、エコロジー、ボランティア、在宅問題など多岐の分野にわたって、雑誌を中心に取材活動を続けている。

ページの先頭へ戻る