産経新聞 2010年7月22日より転載

【話の肖像画】

おかんの奮闘記(下)
       非行少女のはしりだった

NHK経営委員・竹中ナミ

 −−若いころはやんちゃだったとか
 竹中 やんちゃどころじゃない。日本の非行少女のはしりといわれたんやから(笑)。小学校、いや、もっと小さいころからかな、趣味は家出と木登りやった。学校に行っても教室には入らない。授業をさぼって「この子らはワルやから付き合っちゃいかんよ」と言われる友達と付き合う。そんな子でした。

 −−16歳で結婚された
 竹中 高校生になって、学校でじっと勉強してるのが嫌で「アルバイトをしたい」と騒いだら、母に職安に連れていかれた。事務のアルバイトを始め、そこで知り合った男性と付き合うようになった。やがて、一緒に暮らし始めるのだけど、結婚する前に、(高校から)不純異性交遊といわれて、学籍を抹消されてしまった。

 −−ご両親の逆鱗(げきりん)に触れたのでは
 竹中 父も母もどんなに悪さをしても怒ったことはなかった。父は自分が大正のバンカラ学生でごっつい遊んだ人。そんなオレの娘なんやから常識外れも当たり前、と何でも許してくれた。母は父親と長男が一段高いところで尾頭付きを食べるようなしきたりのある家で育って、男女の格差を理不尽やと思い続けた人でした。だから、私に期待をかけていて、悪いことをしても、いつか何者かになるために踏んでいる道や、みたいなことを言って怒ることはなかったですね。

 〈22歳で長男を授かり、その後、長女を出産。長女は重症心身障害と診断された〉

 −−そのときご両親は
 竹中 いきなり父に「オレが連れて死んだる」と言われてびっくりしました。何を言ってるんや、と聞くと「こういう子を育てることはおまえが不幸になることで、つらい目にあうこと」と言う。父にそんなことを言わせているのは誰や、と思いました。そういう考え方が世の中で当たり前やとしたら、世の中の方がおかしい。

 −−それで?
 竹中 「幸せになるか、不幸になるかは私が決めること。絶対に幸せになる」って言いました。父は84歳まで長生きして亡くなりましたが、最高の応援団になってくれました。でもね、親になった自分がいつか安心して死ねるかと考えたとき、私には“テーマ”が残っていると思うんです。

(三宅陽子)

ページの先頭へ戻る