flanker No.12

私の阪神大震災

一人暮らし 広内隆史
障害:脳性まひ
住所:宝塚市
家屋:マンション(障害者用)1階

 しばらく、腰抜け状態になり動けなくなった。とっさに「これは地震だ!」と叫んだ。何時かわからず、寒さと、暗さと、不安の中しばらく過ごした。電気のきていない電気カーペットの上で呆然と余震の止むのを待った。
  寒くなってきたので、またベッドに上がることにした。恐怖と寒さでベッドに上がることもままにならない。やっとのことで上がり、布団をかぶり、ぶるぶると震えながら明るくなるのを待った。
  外が明るくなった。テレビをつけると三宮の惨状が映し出された。木造の家や、鉄筋のビルまでが無残に倒壊していた。私が住むこのマンションは、築2年である。耐震性も最近の基準に合わせてあるから幸いにもビクともしなかった。

 少ししてから、電動車いすに乗り、近くのコンビニに食べ物を買いに出かけた。店内に入ると、少しの菓子類を残して、弁当類、パン類は一つ残らず売り切れていた。そこにちょうど、商品補充のトラックが店の前に止まった。店内には私のほか客が5人ほどいた。運ばれてきた品物が瞬時になくなった。もちろん、私の入れる余地などなかった。テレビのニュースなどで、暴徒化している市民が店の商品を乱暴に持ち去るシーンをよく見る。まさにあの光景でである。私は唖然として見ていた。するとコンビニの店員が一つのパンを私に手渡してくれた。まさに地獄に仏である。

 マンションに帰り、気がかりな西宮や神戸の友達数人のところに電話をしてみたがつながらない。ホームヘルパーには普段は週4日来てもらっている。私はほとんど社協からのヘルパーに頼っている。土曜日は入浴介助。水曜日と金曜日は家事、月曜日は家事と入裕介助。月曜日は二人来てもらっている。私はあまり介助はいらない。困るといえば、洗濯ぐらいなものだ。しかし、毎日、コンビニやほか弁では経済的にも栄養面でも歓迎できない。翌日もホームヘルパーが訪れるはずだった。しかし、いつまで待ってもこない。こんな時だから来ないのも仕方がないのかも知れない。それでも2、3日経つと不安が段々募ってきた。 35年生きてきたが、こんなに恐怖を感じたことはなかった。おそらくこれからもないだろう。

[写真]

避難所での炊き出し

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