flanker No.12

私の阪神大震災

ライフライン −電気− 坂上正司
障害:頚髄損傷
住所:宝塚市
家屋:木造平屋瓦葺き

 あの時、ほとんどどの人がそうであったように私もベッドの上でした。停電。
 揺れがおさまり、別棟の両親の声が聞こえてきました。それによると、普段置いてある場所に懐中電灯や携帯ラジオがなく、物は散乱して、勝手口付近の鏡が割れ、トイレは管が割れ水浸しということでした。父がすぐにプロパンガスのボンベを止め、母と一緒に私のところにたどり着くのに30分かかりました。
  その30分の間にいろいろと考えました。電気はこういう場合を想定して用意していた発電機がある。ガスはいざとなればボンベとガス器具を直結して使えばよい。水道は農業用の貯水池がある・・・
  両親がたどり着き、懐中電灯で照された時にはさすがに唖然としました。私はベッドに寝たまま6畳の部屋の反対側へ約1.5m程動いていたのです。
 その後、自治会長の父は近所の救援活動の指揮をとり、その間に家が全壊した祖母と叔父が避難してきました。ラジオは、被害が想像を絶するものであることを伝え続けています。7時頃になり父が帰ってくると、近所の被害の大きさも分かってきました。とりあえず、石油ストーブで焼いたパンを口に押込んで、発電機の準備を始めました。燃料のガソリンは自動車から移してきました。ラジオの報道から当分自動車を使うことができないと判断したからです。発電機の線をコンントに直結し、ようやく明りが灯りました。さすがにエアコンは駄目ですが、リフト、電話(スピーカーホン)、パソコンがどうにか使えそうでした。車いすに乗せてもらい、すぐに仕事場の様子を見に行きました。建物が無事なことを確認し、帰ってから豊中の妹と伊丹の伯父の家に電話をしましたが繋がりませんでした。パソコン通信の各ホスト局へも繋がりませんでした。
  水は屋内配管の損傷だけということがわかったので、引込管から直接汲むことにしました。電気は夜9時半頃に復旧、ガスは駆けつけてくれた妹夫婦がカセットコンロを持ってきてくれたのでしのげることになりました。

教訓:付近で燃料と水は確保できても、電気は簡単に作れない。ベツドもリフト(ホイスト)も車いすも電話もパソコンも電気がないと役に立たない。とりあえず、もう少し容量の大きい発電機を買うことにしました。

[写真]

全焼した長田区大正筋商店街

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