english

手記「東日本大震災に被災して」

プロップ・ステーション仙台(在宅)スタッフ 間藤裕也

2011年4月7日

■震災が起きた時の様子

3月11日午後2時46分、パソコンに向かっていた時に突然大きな揺れが襲ってきた。これまでに体験したようなことのない大きな揺れで、『ついに宮城県沖地震が来たか!』と感じた。非常に強い縦揺れと横揺れで、車椅子の座位を保つのに必死で、もしかしたら、車椅子から落ちるかもしれないと脳裏をよぎった。1分半ほどで少しおさまり、終わったかと思ったらまた新たな強い地震が襲ってきた。地震の途中でパソコンその他の電化製品の電源が落ち、停電が起きたとわかった。また非常に激しい横揺れだったため、テレビボードやベッドその他の家具も大きく動き、テレビやパソコンは落下し、出窓に置いてあったオーディオや本等も落下していた。合計5分ほど揺れが続いたような感覚があり、とにかく長い、とてつもない大きな地震だったと感じた。地震がおさまってから、停電していたので携帯電話のワンセグでどういう状況なのかを確認しようとしてテレビを見てみた。津波が来るかなとは思っていたが、津波警報がどんどん上方修正されていくのを見て、『これは尋常じゃないかも』と感じ始めた。携帯電話の予備のバッテリーがなかったので、少しだけテレビを見てラジオを付けて様子を確認していた。

■私自身の状況など

私の部屋は2階にあり、震災当時は2階で仕事をしていた。2階に行くにはホームエレベーターを使用しているが、震災後停電になってしまったので、エレベーターが動かなくなり、2階に缶詰状態になってしまった。幸い、ベッドや車いすトイレといったものは2階にあったので、1階にいて停電になって2階に行けなくなってしまう、という状況よりは良かったように思う(もちろん、家の被害状況によって避難しなければならない状況の時は1階にいたほうがよいが、結果的には家の被害はほとんどなかったので幸いだった)。先ほども述べたが、揺れが非常に大きく長く続いたため車椅子から転落して怪我をしてしまう恐れもあったが、何とか転落せずに済んだのでそのことは幸いだった。車椅子は折り畳みができる簡易の電動車いすを使用しているが、停電になってしまったので電気が復旧するまでバッテリーが持つかどうかが不安だった(結果的にぎりぎり間に合った)。

■震災後の生活など

○震災1日目

震災が起きた後にまず心配したのは、弟が無事なのかどうかということだった。私と同じ障害を持っているが仙台に通勤していたので、無事なのかどうか、また自宅に戻ってこれるのかといったことが心配だった。停電したこともあり、弟が務めていた会社でも震災後すぐに帰宅することができたようなので、何とか完全に日が暮れる前には帰宅することができた。停電後、母はまず冷蔵庫に入っていたものを保冷剤とともに保冷バッグに入れていた。そのおかげで冷蔵庫の中にあったものはほとんど消費することができた。また、暗くなると何も見えなくなって危ないということで、とりあえず家に散らかった危ないものを片付ける作業を行った。幸い、食器棚は地震が起きるとドアにロックがかかる構造のものになっていたので、食器などが食器棚から落ちてガラスの破片などが散乱するということはほとんどなかった。ただ、本棚の本などが落ちたり、テレビやパソコンも床に落ちてしまったので、危なくないところに移動するという作業を母と父が行った(幸い、電化製品で故障したものは一つもなかった)。情報を得る手段がラジオしかなかったので、古いカセットラジオを探してずっと震災の状況に聞き入っていた。自分の安否を心配しているかもしれないと思い、NTTドコモの災害伝言版に現在の状況を登録した(災害伝言ダイヤル『171』も全くつながらない状況だった)。暗くなる前に何とか食事を済ませ、暖房がなかったので毛布などを引っ張り出して、夜の寒さ対策をして1日目は過ぎて行った。

○震災2日目

1日目の夜は余震が頻繁に起きていたので、ほとんど睡眠をとることができなかった。どうやら断水もしていたようで、2日目からは水も出なくなっていた。食料はある程度家に保管していたが、水を入れるタンクに関しては全く備えをしていなかった。今からではもう遅いだろうなとは思ったが、とりあえずは近くのホームセンターに父と母が買いに行くことにした。合わせて、食料も補充するために買い物に出かけた。家で留守番をしていた私だったが、電気がないとこれほどまでに何もすることがないんだと改めて感じた。しばらくして、父と母がポリタンクと少しの食糧を買ってきた。これで何とか給水所に行って水を頂ける容器が準備できた。食事はガスの卓上カセットコンロが一つあったので、何とかお湯を沸かすことができたのでカップラーメンやお茶といった暖かいものを食べることができた。殆んどのお店は閉店しているか店頭販売で一部の商品を販売しているのみだったので、物資を求めて長蛇の列ができている状態だった。電気は比較的早く復旧すると聞いていたが、復旧せずに震災2日目が過ぎた。

○震災3日目〜4日目(電気が復旧するまで)

食料品や水に関してはそれほどストックしていたわけではなかったので、3日目からは両親が給水所と一部の店舗に並んで水と食料品を手に入れるということを行った。数時間並んで少量の水や店舗に在庫していた食料品を手に入れるということを行っていた。また、ガソリンスタンドは電気が復旧していないことや在庫が無いということもありほぼすべてのスタンドが閉店していて、燃料不足が深刻になっていた。携帯電話もほとんどつながらない状況だったので、外との連絡は取ることができなかった。私が現在利用している福祉サービスは訪問リハビリと移動支援サービスの2種類だったが、震災4日目の月曜日に訪問リハビリの予定が入っていた。このような状況だから訪問リハビリの担当の方は来られないと思っていたが、夕方に『安否確認と状況確認』ということで来られた。通常の態勢でサービスは行っていないが、状況確認と安否確認のために利用者様の家々を一軒一軒回っておられるとのこと。電話もつながらない状況だったので、このようなことは安心すると感じた。私は両親とともに住んでいたのでまだよかったが、一人暮らしの障害者(や高齢者)などは孤立している場合もあると思うので、このようなことは大切だと感じた。震災4日目に電気が復旧した。すぐにテレビが見れると思っていたが、自宅で契約しているCATV会社も被災していたらしく、電話、テレビ、インターネットはすべて利用できなかった。とはいえ、家に明かりが戻り、暖房器具や調理器具も使えるようになったのでだいぶ生活しやすくなった。

○震災5日目〜7日目(水道が復旧するまで)

震災5日目に入り、電気は復旧したが水道はまだ復旧しておらず、不自由な生活が続いていた。水道が使えないとどうしても水分を補給するのをためらってしまい、極力水分は飲まないようになっていた。健康のためにも水分の補給は必須なのだが、上下水道が使えない状況では致し方ないという感じだった。5日目にCATVが復旧し、テレビやインターネットといったものが利用できるようになった。電話も復旧したが、ほとんどつながらないという状況だった。さっそくプロップ事務局の皆様や友人などに無事の報告を入れることができた。テレビで地震と津波の情報を見て、本当にひどい災害だったんだと改めて実感した。相変わらず生活物資の少なさは深刻で、2時間並んで食パン1斤を買うことができる、といった状況だった。ただ、少しづつではあるが食料品は回復傾向にある感じだった。そして、震災1週間目の7日目にしてようやく私の住んでいる地域の水道が復旧した。水道のありがたさを実感しながら1週間ぶりにお風呂入ることができた。

○8日目以降〜現在まで

沿岸部に住んでいる方はまだまだ復興という状況ではないが、私などを含め内陸部に住んでいる人にとっては徐々に復興に向けて動き始めたといった状況だ。状況が少し落ち着いた3月29日に母の生まれ故郷である石巻に被災状況を見に行った。テレビで見た光景のように昔母が住んでいたところは跡形もなく流されていた。また、テレビで報道されていないところでも被害は甚大で、倒壊の危険の紙が張り出された多くのビルやひっくり返っている車、がれきや泥が町中いたるところにあって復興までには本当に時間がかかるなと実感した。沿岸の町は水産業で成り立っている町なので、港が機能不全になり、加工する工場や商店も被災している状況を見ると、厳しい復興になることは間違いないと感じた。また、津波などの直接の被害を受けていなくても、間接的な被害を受けている人は本当に多い。観光業や外食産業も2次的な被害を被っており、ライフラインが復旧しても満足に収入を得ることができないという状況にある。そういったことも今後考えていかなければならないと改めて感じた。4月7日現在、私の住んでいる地域はだいぶ通常の生活に戻りつつある。まだコンビニ等の店舗はほとんど品物がないという状況だが、スーパーなどはある程度品物がそろってきている。また、ガソリンなどの燃料不足もだいぶ解消されてきた。復興に向けて、一歩一歩、少しづつ歩み始めたところだ。

○震災で感じたことなど

今回の震災では自宅はほとんど被害が出なかったので、ライフラインが復旧するまで自宅で生活した。電気や水道といったライフラインがすべてストップしても、障害者にとっては、避難所で暮らすということはとても難しいと思う。自由に動ける体なら避難所に行って生活するということも考えられるが、トイレや寝る場所などを考えると避難所の生活は想像できないほどつらいものだと思う。もちろん、自宅や施設などが倒壊したりして住めなくなってしまった場合は避難所暮らしになってしまうが、自宅や施設にいられるならばそこで生活したほうが良いと感じた。また、私を含め障害者(や高齢者)は寒さを苦手とする方が多いと思う。今回の震災は3月とまだ寒さの厳しい中で起こったものだったので、寒さ対策をしっかり取っておくことがとても重要だと感じた。例えば、熱を逃がしにくい災害用寝袋やレッグ・ネック・アームウォーマー、カイロ、湯たんぽなどは今後の震災のために準備しておくべきだなと感じた。 障害者(高齢者)といういわゆる災害弱者という観点からでは、緊急時のための連絡網といったものをきちんと確立しておく必要があると感じた。震災後、訪問リハビリのサービスの方からと仙台市泉区社会福祉協議会の方(福祉サービスを利用するときに相談していた方)からの安否・状況確認の連絡があった。もし、震災前に福祉サービスを受けていないという状況であったなら、そういった連絡はなかったと思うので、特に一人暮らしの方などは電話や携帯電話などが使えない場合の時などに備えて緊急の連絡網があればよいと感じた。
また、今回の被災で学んだこともあった。水道管が破裂などしていなければ断水した場合でもすぐに断水するのではないので、水の出るうちに生活用水をお風呂などにためておくのが良いということを学んだ。さらに、自宅で使用しているエコキュートも、断水や停電などでは使えなくなってしまうがそれまでに貯めてあった水は生活用水として使うことができる、ということを初めて知った。今後同様の災害が起こるようなことがあれば役立てていきたいと思う。

(4月7日記)

ページの先頭へ戻る