婦人公論 2011年11月7日号より転載

ひょうごユニバーサル子育てフォーラム報告

子どもは「母親の背中」を見て育つ時代!

8月21日、兵庫県公館にて、
ひょうごユニバーサル子育てフォーラム(兵庫県、社会福祉法人プロップ・ステーション共催)が開催された。
プログラムのなかの鼎談「すべての子どもが生き生きと育つ社会のために」には、
"パワフルおかん"の3人が登場。子育ての楽しみや、「働く母」の苦労を語り合った
構成◎佐藤万作子 撮影◎山田哲也

大平光代の写真

大平光代
弁護士
 

おおひら みつよ 1965年兵庫県生まれ。29歳で司法試験に一発合格。弁護士として活躍し、非行少年の更生に努める。2003年から05年まで大阪市助役。06年に結婚、娘の悠ちゃんを出産。11年より神戸常盤大学短期大学部客員教授を務める

村木厚子の写真

村木厚子
内閣府政策統括官
・共生社会政策担当

むらき あつこ 1955年高知県生まれ。78年に労働省入省。女性局女性政策課長、雇用均等・児童家庭局長等を経て、現職。子ども・子育て施策(少子化対策)、子ども・若者の育成支援、障害者施策、自殺対策などを担当する。2女の母

竹中ナミの写真

竹中ナミ
社会福祉法人
プロップ・ステーション理事長

たけなか なみ 1948年兵庫県生まれ。重症心身障害の長女を授かったことから、独学で障害児医療・福祉・教育を学ぶ。91年、プロップ・ステーションを発足、98年に厚生大臣認可の社会福祉法人格を取得、理事長に就任。NHK経営委員も務める


 

フォーラムの冒頭、兵庫県の井戸敏三知事が同県の少子化対策の取り組みを紹介するなかで、「大事なことは、仕事中心から生活中心の働き方に社会全体として変えていくことだ」などと挨拶した。続いて村木厚子さんが「子どもをめぐる環境とこれからの子ども政策」と題して基調講演。その後、3人の鼎談に移り、村木さんが遭遇した「あの冤罪事件」から話が始まった

 

井戸敏三知事の写真
主催の兵庫県・井戸敏三知事

竹中 村木さんと大平さんは私の尊敬する長年の友人です。この顔ぶれで話ができるということで、今日を楽しみにしてきました。

 ご存じのように村木さんはある日突然、冤罪に巻き込まれ、新聞やテレビで「極悪官僚」みたいに報じられました。一般の人はそれを信じたと思いますが、私や大平さんは彼女がどういう人か骨の髄まで知っていますから、「絶対におかしい。こんなこと許されへん。完全な名誉回復をするんや」と情報発信を始めました。あの時、ご本人は疑われていることをどうやって知ったのでしょう?

村木 まず新聞やテレビで、「捜査関係者によれば、自称障害者団体『凜の会』元会長らから偽の証明書発行を頼まれた厚労省係長がそれを発行。上司である村木さんが指示した」ということが報道され、私もそれで知りました。それからは「ああいうこと言われていますが、どうですか?」と記者たちに追いかけ回され、職場にもいられず、自宅にも戻れない日が3週間ほど続いたんですね。その間、検察からの連絡はありませんでした。

竹中 そうしてある日、東京から大阪に(任意で)呼び出された?

村木 ええ、日曜日でした。それで、その日の夕方、大阪地検特捜部に逮捕されました。

竹中 証拠を示されて「逮捕します」と?

村木 いいえ。「証明書作りましたか?」「こういう人に会いましたか?」「こういうことを頼まれましたか?」などと聞かれて、身に覚えがありませんから、すべて「いいえ」と答えたら、逮捕されたんです。

大平 それまでに、先に逮捕されていた部下の虚偽の証言が「供述調書」という形ででき上がっていたんですね。後の村木さんの公判ではその部下の「被疑者ノート」が公開され、「言ってもいないことを調書に取られ、署名させられた」と判明しました。でも大阪地裁が逮捕令状を出す段階では、その調書は有効な証拠として上げられていたわけです。

竹中 ということは、村木さんは「やった人」という調書が作られていた?

大平 そうです。いわゆる「作文」というやつですよ。

竹中 逮捕された時はご主人が海外出張中だったし、家宅捜索はお嬢さんが一人で家にいた時。どう考えても理不尽ですよね。

村木 家族のことが一番心配でした。娘が私の逮捕を知らないうちに、テレビで「逮捕」と流れるのは嫌だと思い、「家族に連絡して」「弁護士さんを呼んで」と頼んだけれど、受け入れられなくて。まだ逮捕前でしたから携帯で電話番号を探すフリをして、夫に「たいほ」と3文字のメールを送信。逮捕後、検察官は押収した携帯を見て「あの女!」と腹を立てたと思いますが、これだけは譲れなくて。あとは夫がすべてやってくれると思っていました。

竹中 すっごい度胸! 緻密な仕事ぶりとのバランスがすごいですね。

大平 私が"よんどころない"世界にいた時も、そんな機転は利かなかった。(笑)

竹中 拘置所の独房に入れられたら、普通の人は本当に参ると思うんですが、村木さんは否認を貫き通しました。なぜそれができたのかというと、一つは「天然ボケ」(笑)。基調講演で、初産したお嬢さんを抱いて退院する際、「これ(お嬢さんのこと)、持って帰ってどうしたらいいの?」と思ったと話していましたが、彼女の魅力の一つがこの天然ボケなんです。何しろ拘置所へ面会に行ったら「麦ご飯はいける」って言いましたからね(笑)。もう一つは職業人としての意識。自分を取り調べた検事が部下だったらと観察したり、担当の女性刑務官の待遇について考えたり。普通はあの状況でそんな発想をしますか。

村木 人間の好奇心というのは案外旺盛なものなんですよ。苦しいなかでも一つひとつの発見が楽しみとなり、救いとなるんですね。たとえば拘置所でも所持金があると買い物ができる。リストを見て注文するわけですが、チョコレートも下着も乳液も、どんな商品が来るのか興味があるでしょ。二度と体験できないかもしれないわけですから、後で「あれは何が来たんだろう?」と思うよりも、いま注文して何が来るか見ておこう、と。(笑)

竹中 弁護士として見ても、こういう人は珍しいでしょう?

大平 そうですね。場合によっては、自ら命を絶とうとしますから……。私はそれだけはしてくれるなと、そのことばかり心配していました。もしもそんなことになっていたら、公判で例の調書が崩れて、完全無罪となることもなかったでしょう。

フォーラムの写真

フォーラムは手話通訳に加え、文字通訳もつけて開催された

 

子どものために、がんばった

 

竹中 今日は「ユニバーサル(性別、年齢、障害等の違いにかかわりのない)子育て」の話のはずが、なんで無関係な冤罪の話なのかと思われるかもしれません(笑)。いやいや、関係は大ありなんです。昔は「父親の背中を見て子は育つ」と言いましたが、いまは「おかん(母親)の背中を見て子は育つ」時代です。村木さんには26歳と20歳のお嬢さんがいて、突然降ってわいた冤罪をお母さんがどうやって乗り越えていくのか、その一部始終を見てこられた。無罪が決まった直後の記者会見で村木さんは「娘たちのためにがんばれた」とおっしゃいましたが、あの言葉を私は一生忘れません。ああ、"おかん"としてがんばってこられたのだな、と心の底から共感したわけです。

村木 逮捕された時、ここで私の気持ちが折れたらどうなるかと考えました。将来、娘たちにも何かの形で不幸が襲うかもしれない。そういう時、「お母さんもがんばれなかった」と思い出すしかなかったら、彼女たちも気持ちが萎えてしまう。ここはあきらめずに闘わなければいけないという、いわば"つっかえ棒"ができてすごく楽になりました。

大平 子どもは親の生き方を見ながら育ちますからね。冤罪で逮捕されたことは理不尽で悔しい経験ですが、その対応において村木さんは、お嬢さんたちにみごとな「生きる指針」を示された。お嬢さんたちだけでなく、女性全体へのすばらしい贈り物になったと思います。

竹中 大平さんは娘の悠(はるか)ちゃん(5歳)を保育園に通わせているわけですが、いい保育園のようですね。

大平 ええ、娘は毎日楽しそうです。大阪から兵庫県に引っ越したのは彼女が1歳と11ヵ月の時でした。大阪で待機児童の多さを見聞きしていたので、すんなり入れないのではと覚悟していました。それに娘はダウン症という障害を持っていますから、「ひょっとしたら受け入れていただけないかも」とも。ところが断られるどころが、園長先生が「入園を1ヵ月待ってください」と。その間に加配保育士(障害のある子どもに手厚く対応する)を段取りしてくださると聞いて、本当にうれしかったですね。入園できるかどうか、親の心は不安ではちきれそうなんですから。

 

子育てが親を育てる

 

竹中 怖いものなしのような大平さんでも、胸が張り裂けるような思いをしてきたと。そんな親たちが安心して子育てできるようにと、村木さんは国の政策のところでがんばっておられるわけですが、ご自身が霞が関のなかで働きながら子育てをしてきた母でもあります。大変だったのではないですか?

村木 一番つらかったのは残業の多さですね。夜中1時、2時まで働くのは当たり前みたいなところですから。保育所と保育ママさんの二重保育にして、眠っている子どもを抱えて夜中にタクシーで家に帰るという生活。

竹中 官僚の仕事を辞める気はなかった?

村木 辞めたら戻れない職場だった(年齢制限があるためもう1回受け直すことはできない)ので、やれるところまでがんばろうと思ったんです。ただ、子どもに病気があって夜中に発作が出るので、私はそれまでに帰らなくてはいけない。部下は全員が独身男性で心おきなく働いているなかで、いつも自分が先に帰らなくてはいけないのがつらくて、その時は悩みました。1度だけ「辞めよう」と決めたことがあったんですが、決心すると怖いものがなくなって、平気で先に帰れるようになりましたけど。(笑)

竹中 大平さんは弁護士ですが、今はその仕事をセーブして子育てをしておられる。

大平 初めは仕事を続けるつもりでベビーシッターさんに依頼したんですが、娘が泣いてどうしようもなかったんですね。もともと私が仕事を継続しようと思ったのは、「私が障害を持って生まれたからお母さんは仕事を辞めた」と娘に思ってほしくなかったから。だから、「お母さん、そばにいて」と私を求めるのなら、とりあえず仕事はおいておこうと考えました。でも子育て中心の生活を始めてからも、自分の環境で何ができるかということは常に考えています。

大平−−◆「私が障害を持って生まれたからお母さんは仕事を辞めた」と娘に思ってほしくなかった

大平光代の写真

竹中 ご自宅にうかがうと窓辺にきれいなステンドグラスの額が何枚も飾られていて、「私が作ったんよ」と。ステンドグラスの絵本をもう2冊も出しているんですよね。

大平 私が生き生き暮らすことで、娘もまた「お母さんがいるから楽しいな」「私もお母さんのように、できることは何でも自分でしよう」という気持ちになれると思うんです。

 

竹中 お二人は大変なことが起きた時も、そのなかで何かプラスのことをつかみ取り、しかも楽しんでおられる。何があっても、おかんがオタオタしないということは子どもの気持ちの安定のためにも大切なことです。

竹中−−◆おかんがオタオタしないということは子どもの気持ちの安定のためにも大切なこと

竹中ナミの写真

 それからもう一つ、子育てというのは、親を人間として鍛える面もあると思います。私は子どものころからワルで親不孝の限りを尽くしてきましたが、38年前に娘を授かってから更生したんですね。彼女が重度の心身障害を持って生まれてきたことで、この子のスピードで生きていけばいいと、ものの見方が変わったというか、地平が拓けた。その後も子育てをするなかで娘に教えられたことがたくさんあります。

大平 母親になったら変わりますよね。

竹中 大平さんは青虫が苦手だけれど、悠ちゃんが嫌いにならないように、見つけても、こめかみ辺りをぴくぴくさせながら平気を装っているんですよ。(笑)

 

村木 私は下の子が生まれてから部下に優しくなりました。幼い時、色とりどりの庭のチューリップを見た上の娘は「○色と△色が咲いた」と言い、同じ年頃になった下の娘は、色ではなく数をかぞえた。持って生まれたものはこんなにも違うんだ、それぞれのいいところを大事にしないといけないと思ったら、部下を叱れなくなったんです。

村木−−◆下の子が生まれてから部下に優しくなりました
それぞれのいいところを大事にしないといけない

村木厚子の写真

大平 童謡「チューリップ」はまさしくそういう歌なんですね。金子みすゞの詩じゃないけれど、みんな違っていていいんだよという意味が込められています。子どもたちに、もっともっと聞かせてあげてください。

竹中 「一人ひとりの子を大事に」がユニバーサル子育てのキーワードだということですね。私はそこにもう一つ「女は度胸、男は愛嬌」を加えたい。先ほど井戸知事が、私たち3人を評して「女は度胸」だとおっしゃいました(笑)。女たちは何が起きても度胸で乗り切る、男たちが愛嬌で子育てを支える、そういう時代に移ることもまた必要だと思っています。

 

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