オンライン・コミュニティ読本(発行/ローカス 発行/主婦の友社)(1998年6月28日発行)より転載

オンライン・コミュニティ読本

仲間をつくろう パソコンで広がる世界をやさしく解説

オンライン・コミュニティから 生まれて来たパワー

金子教授の発言にもあった「弱さの強さ」という発想は、インターVネットの発想にも、竹中ナミさん主宰のプロップ・ステーションの基本的な考え方にもあります。

20世紀も最後になって、私たちの作り上げてきた現代社会が案外脆いものであったということに誰でも否応なく気付かされはじめています。金融破綻が生じ、今まで大丈夫と思っていた大きな会社が倒産しています、潰れるまでいかなくともリストラで会社の中での自分の立場が危うくなるという状況も他人ごとではなくなりました。その上、大きな災害が起った時に私たちが享受している便利な生活があっという間にたちまち崩壊し、この上もなく不便になることなども経験しました。また、そういう時には私たちを守ってくれるはずの行政システムなども当然のことながらマヒしてしまいます。つまり、私たちがこれまで作り上げてきた「強さが全て」という発想では、身近な例を見ても実質的にも精神的にも乗り切れないということに、私たちは薄々気づきはじめたということです。また昨日まで強い立場にいた人が、病気や怪我である日突然社会的弱者になってしまうこともありえます。

たとえ災害や倒産や病気や怪我に見舞われなくても、私たち自身も年齢を重ねていくわけですし、社会自もどんどん高齢化社会になっていきます。自分がその立場にたってみないとわからないこともしれませんが、その前に、今社会的に弱者であると思われている人々の中に、むしろ可能性や知恵を発見するという発想が必要となります。
 前述の金子教授の被災地ではみんなが自分たちと同じという障害者の声に耳を傾けることや、基本的にものを頼むということを障害をもった人たちは知っていることに目をむけることは、これからの私たち自身の社会を支える上でも大きな意味をもってきます。弱いからこそできる発想を活かすこと、弱いことを悪いことと考えないこと、むしろ人の弱さに目を向け耳を傾けること。これはオンライン・コミュニティでみんなが自然に情報を出しあい、ユーザーどうしが互いに助け合う姿にも通じます。

このオンライン・コミュニティから生まれてきたネットワーク的な姿勢は、次に登場していただくプロップ・ステーションの主宰者竹中ナミさんにも共通しています。

竹中さんは前述のインターVネットの会議室「災害とネットワーク」の運営をしている時に元気な関西弁のナミねぇ(※1)として、私にとって最も印象に残ったひとりでもあります。

チャレンジド自立支援システム プロップ・ステーションの誕生

チャレンジドとは、英語でいう挑戦者。挑戦する精神を忘れないでもっている人という意味で障害者に代わる言葉としてプロップ・ステーションでは使われています。障害と一言で言っても、その理由は様々です。生まれた時からという場合もありますし、事故や病気で成長してから障害をもってしまったいう場合もあるでしょう。

障害をもった人に「かわいそう」とただ保護してしまったり、どう介護についてどう支援したらいいのかさえわからなかったりする人も多いのが現状です。そんな介護についての支援をする団体でさえもまだ数が足りない中で、大阪を拠点に竹中ナミさんが主宰するプロップ・ステーションは「チャレンジドを納税者に」を目標に揚げる、さらに一歩進んだ目標をもった非営利団(NPO)体です。

企業の支援も得て、週に2回のコンピュータ・セミナーを開催しています。現在の受講者は100名を越えるということからも、いかにそのニーズが高いのかがうかがいしれます。その受講者の中から実際に在宅で仕事を得ているチャレンジドも誕生しています。

竹中さんの長女麻紀さんは重度の障害をもって生まれてきました。
「彼女は今でも私のことを親やと認識しているかどうか。でも、彼女を育ててきた中でその時々に応じて、今はお医者さんの力をかりよう、今は福祉関係の人を、今は近所の人の力が必要やと、そういう経験から自分が娘の親であることはコーディネイトすることやと気ぃ付いたんです。とうてい私一人ではやれへんことも、色々な人の力や知恵をかりてやってみようと彼女を育てながら考えたんです」そこには、「ただこの子を生んでしまってかわいそう」という障害児をもつお母さんが陥りがちな精神的な構造は見られません。力強い発想の転換があります。麻紀さんを育てる一方、早くから障害者問題に携わってきた竹中さんは「チャレンジドにも仕事を」と考えはじめ、兵庫県西宮市で1991年の5月にチャレンジド支援組織の一部門としてプロップ・ステーションというユニークな組織がたちあげました。

つなぎのメリケン粉は、人と人とをつなげてきた

つなぎのメリケン粉とは、お好み焼きなどの具をつなぐメリケン粉のことです。つなぎのメリケン粉じたいに味はありませんが、それがなければ具はバラバラのままです。竹中さんは自分自身のことをそんなメリケン粉にたとえてこのように語りはじめました。

「プロップの仕事では私はつなぎのメリケン粉やと思うてるんですよ。私がなんでもひとりでできてコンピュータもばっちり使えたら、きっと今のつながりは生まれへんかったかもしれませんね。私については色々なことが自分ひとりででけへんことが大事かなと思っています。でも自分にでけへんことできる人の芽を育てて、支援していくシステムをつくっていきたいんです。そやからチャレンジドがかわいそうなんて思うてません。むしろ彼らには障害を持つ者の可能性があるんやと思います。これからの高齢化社会のため生きるシンクタンクとしての知恵や技ももっています」。

竹中さん自身、これまでもおもちゃライブラリーをつくったり、介護の支援などにかかわってきました。プロップ・ステーションでは最初から、コンピュータ・ネットワークを利用してチャレンジドの自立をめざしたのです。スタッフ間での様々な打ち合わせや、機関誌『FLANKER』の発行編集まで毎日オンラインのネットワークがなければ一日たりとも仕事ができないというのが、チャレンジド自立システムとして他の支援組織とは異なった存在です。

プロップ・ステーションとコンピュータ・ネットワークとの出会いは、91年に兵庫県西宮市がパソコン通信サービスをたちあげたことに遡ります。当時西宮市にあったプロップ・ステーションに福祉関係の担当をしてくれとの依頼があり「怪我で車椅子生活をしている坂上君という一人の若者がコンピュータを使いはじめていたのをきっかけに、彼にシスオペをやってもらいました」。それまでプロップ・ステーションでは、誰もパソコンを触ったり、オンライン・コミュニティのやりとりの経験が無かったところに、いきなりオンライン上でのやりとりがはじまったいうところです。

ナミねぇ(竹中さんのオンライン上でのニックネーム)は、コンピュータネットワークでのやりとりを見て「最初からパソコンやネットワークでのコミュニティに未来を感じました」と言います。この洞察力と、直感力と持ち前の行動力が今プロップ・ステーションを動かす力へとつながっています。

この直後竹中さんは、チャレンジドの在宅勤務ということでパソコンの使用に可能性があるのではとチャレンジドたちに、早速アンケート(※1)をとりました。「そのアンケート(※2)結果を見て当事者の強烈なニーズがあるんや! パソコンを柱にしよう! と背中を強く押されました。このことがプロップとパソコンとの結び付きをより強くしたんです」。
「障害をもってて見えにくい、聞こえへんという人が自分自身の身体の五官の延長として、足らへん部分をパソコンで補うというより、新しく何かを作るものとしてパソコンの力を発見したんです」。

このときの直感とでもいうべきひらめきは、それまでの竹中さんの考え方の積み重ねからの発見でしょうが、これはチャレンジドだけに当てはまることではないという発想にも広がっていきます。パソコンのもっている可能性や、オンライン・コミュニティやネットワークの可能性は、さまざまな事情で家から出にくい人たちや仕事を見つけにくい、一般の健康な人たちにも当てはまるのではないかと言います。

元気な人でも、少しでも手に怪我をしたらペンを持って書くことができなくなるけれど、タイピングなら意外とできるなどということもあります。実はパソコンというと、それが使えるという人だけの閉じられたものだと思われがちで、拒否反応を持つ人も未だに多いようですが、人の力が弱っている時にこそ威力を発揮するのもパソコンの特徴ではないでしょうか。

プロップネットの発想は社会を変える力

プロップ・ステーションが運営するプロップネットは、パソコンを日常の道具として有効に使えることを知っている活動組織でもあります。そして、コンピュータによってチャレンジドが在宅で仕事を持つことを実現してきました。

「例えば自閉症の青年がいるんやけど、彼は普通に会ったら全然人とは話せません。でも、タイピングすることにかけてはピカ一なんです。テープおこし(※3)の原稿でも、ものすごく正確に聞き取りワープロ入力してくれます。そんな子がおるんですけど、最近働いたお金をためて自分専用のFAXを買ったんやとメールくれました。不思議ですよ、普通には日常会話はでけへんのに、オンラインでタイピングして文章を書くんなら自分の気持が表現できるんですもんね」。もし、パソコンというものが無かったら、彼が何かを表現することができると誰にもわからなかったかもしれないということにもなります。

「プロップを通していくら儲けた。これは、決して金額ではないんやと思います。保護されているだけが幸せやない。儲けたことによって人から認められた、という気持は誰にとっても大きい。そして、社会がその人ができたことを評価するということにもなるんやと思います」。

社会的な評価を受けることが大きな励みとなり、その力が今までただ保護される立場だったチャレンジドや、彼らを取り巻く人々の意識にも大きな変化をもたらす。それが今まで、元気で強くて働ける者だけを中心にしてきた現在社会そのものの構造を変える力にもつながっています。このことは、先の慶応大学の金子教授などによるボランタリー・エコノミーの発想としてまとめられていくものにもなっています。

チャレンジド・シンクタンク、プロップ・ステーションの今

チャレンジドの中にも、色々な才能をもった人達がいます。「むしろ社会がスポイルしてしまい、もったいないなぁと思います」と竹中さんは話します。プロップ・ステーションではチャレンジドにさまざまな形でパソコンの操作を教える講座も開設しています。その講座の卒業生の中で、すでに在宅で仕事を得ている人たちも支援していきます。「評価の仕組みや、企業から仕事をもらう仕組み、講座に使うためのパソコンの支援などもプロップの責任です。現在仕事をもっている人たちは20人近くいます、ゼロからコンピュータ・ネットワークを通して数年でここまで来たんです。1から増やすことは簡単やけど、なにしろゼロやったんですから」

もちろん、これは竹中さんの持つ人柄の魅力も大きいのでしょうが、それを開設当時から支えて来たスタッフや、ボランティアでパソコン講座の講師を務めてくれる人たちの力も無くては成長できなかったでしょう。プロップ・ステーションでは在宅で仕事のできるチャレンジドと、その人たちに仕事を依頼してくれる企業を結び付けていくとともに、政府にも新しい自立支援システムを作るためのさまざまな働きかけをしています。

プロップ・ステーションのシステム作りをひとつの雛型として、チャレンジド自立支援システムが全国に色々な形で飛び火していけばという願いも竹中さんにはあります。気軽に身軽にフレキシブルに、「身の丈にあった生き方で社会を支えるコンセンサスをもちたいと思うてます」。それには、「おずおずじゃなくって、それこそ確信犯的なところもいるんですよ」と語る竹中さんの行動はどんどん広がっていくようです。

プロップ・ステーションが抱える様々な現実と可能性

プロップ・ステーションにも、問題は日々山のように起こっています。例えば、それはこういうことにも見られます。「春」というタイトルでイラストを依頼されたとして「雪だるま」の絵を描いて来たチャレンジドにどのように答えるかというひとつの問があります。

一般の支援団体では「よくここまで描けたね」とほめる例が多いと言います。プロップ・ステーションでは「それではプロとして通用しない。春に雪だるまでは仕事にはならないと伝える」ということです。

こういう葛藤は数限りなくあります。チャレンジドの仕事だからといって納期を遅らせるわけにはいかない場合もあるでしょう。そういうことに丁寧に対応しながらまたチャレンジドたちにもプロの仕事人としての意識を伝えながら、プロップ・ステーションは進んでいます。

チャレンジドたちがオンライン・コミュニティを積極的に利用し、社会参加を実現していく可能性を広げていくことは、それを受け入れる社会の側も同じように未知の可能性をもつということにもつながるのです。

チャレンジドにとっての 夢の箱

パソコンやオンライン・コミュニティを使った、チャレンジド自立支援システムをつくってきたプロップ・ステーションの例を見てきました。

パソコンは、この10年の間に飛躍的に技術の進歩により使いやすい箱になっています。それでもまだまだ使ったことのない人には色々な意味で操作が大変なキカイです。大手パソコン販売メーカーの部長さんから「障害をもった方でも、パソコンを扱えるのはやはり情報エリートだからですよ」という言葉を聞いたことがあります。

一般にパソコンをマスターしたいけれどなかなかできないという話も耳にしますが、パソコンは本当に一部情報エリートにしか使いこなせないキカイなのでしょうか。

利用目的が暖味なまま高価なキカイを購入し、結局何にもならなかったのではなく、何らかの目的をもつ、たとえばシニアの方たちなら、遠方にいる孫とメールをやりとりしたいとかでも、退職した会社の人たちとメールのやりとりをしたいなどでもいいのですが、何かそういう具体的な目標があって、そのためにまずその方法を身につけるということもパソコンを使いこなすひとつの方法ではないでしょうか。

ともかく無目的に買い、なんでもできるはずだと思っていたのに何にもできないというジレンマに陥ってしまうよりは、在宅で仕事をしたいということでも、ではいったい自分はどういう仕事をしたいのか、そのためにはどういうことをしなければならないのか、と目的をもつことも必要ではないでしょうか。

チャレンジドたちにとっては、パソコンを使いこなすことは色々な意味で一般の人よりも大変です。プロップ・ステーションが開催しているパソコン教室に通うのにも、ひとりでは来られないという場合が多いのです。それでもそこに通い、技術を習得し、それを自分と社会をつなげる術として身につけようと頑張っているチャレンジドにとってパソコンは人間性を遮断するキカイでもなければ、ただの無用の箱でもありません。また一部情報エリートにしか使いこなせないキカイでもないのです。

使う人の夢が大きければ大きいほどパソコンは、人を自由にする魔法の箱になります。ただの無用なキカイにするのか魔法の箱にするのかそれは使う人次第なのです。チャレンジドにとっては、その必要が大きいだけに多分これを魔法の箱にする力が大きいのでしょう。最後に実際に魔法の箱を手にいれ、在宅で仕事をはじめようとしているチャレンジドたちの夢が掲載されているホームページ「ハローねっと・ぼらんてぃあ」(※1)よりリレー・エッセイを転載してその様子を伝えましょう。

● チャレンジドの夢●

長岡 功冶さんの夢 「ウミガメよ海へ」

ウミガメよ、進め! たとえ歩みが遅くとも、それが君の精一杯ならしかたないさ。一歩、また一歩、あの蒼く澄んだ海を目指せ!

私のホームページアドレス(※1)には「umigame」という文字が入っている。インターネットで個人の証を示すID(※2)と呼ばれる部分である。それには自分の名前や愛称を由縁にするのが一般的であるが、それでは面白くない。こんなところで、遊び心を追求したからといってどうなるものでもないが、名前以外に自分を表すマークを造る好機である気がした。閃くままに様々な名前を浮かべている道中で、登場したのがそう「ウミガメ」である。

別にウミガメに特別な愛着や関心を持っていたわけではない。泣きながら卵を産むこと(実際は違う)で僅かに脚光を浴びたものの、そのイメージといえば海も泳ぐがとにかく鈍足な生き物というなんともパッとしないものだ。けれども私は、心に止まる何かを感じた。自然に、記憶の片隅からウミガメについて知っている事を拾い集めている内に、自分が目指すべき生き方の答えが見えてきた。

灼熱な太陽や敵たち、そして波にさわれないよう大切に守られた卵を破り、何日も掛けて暗闇の砂の中から這い出す。地上に出ればより明るい光をたよりに、わき目もふらずにただ一つ広い海を目指すのである。その一歩はとても遅く、短い。尊い生命を無駄にしまいと、確かに一歩を刻み込み、海へ、海へと歩き出す。決して、振り返りはしないけれど、彼等の歩いた砂浜にはしっかりと足跡が残っている。

私は筋力が徐々に低下していく筋ジストロフィーという難病で、在宅で仕事を得るには遙かに遠い道があり、その道のりには険しい岩や壁がある。「チャレンジドを納税者に」を目指す支援団体「プロップ・ステーション」との出会いは、希望の海との出会いでもあった。パソコンを使えば、自分の可能性が広がることを気付かせてくれ、また支えになってくれている。しかし、そこに辿り着こうと歩いていくのは自分自身しかない。断っておきたいのは、ウミガメに照らし合わせたのは、のんびり行こうという気持ちではい。ただ私の場合は一気に突っ走ろうとすれば息が切れ、ますます道は遠くなる。ともすればそのまま道程に倒れてしまうのである。だから、自分に与えられたペースを知り、時には立ち止まっても、少しずつ前進することを目指したいのである。

現在、「プロップ・ステーション」主催のコンピュータセミナーで学んできたことを生かし、ホームページ作成等コンピュータを使った仕事、翻訳、文章等の技術を磨いていこうとしている。まだ気付いていない可能性も探りつづけ挑戦してみるつもりだ。今はまだ暗い砂の中に埋もれているところかも知れない。けれども、いつか光の射す砂浜を、輝く海を目指して前に進もう。

児島加代子さんの夢 「出来ることは何でもやってみたい」

今回、一年を通じて「チャレンジドの夢」と題し、リレーエッセイを書かせて頂くことになりました。とりあえず、初回は自己紹介ということで簡単ですが、現在までの事や現状のことを書かせて頂きたいと思います。

1974年11月生まれの23歳です。今年(※1)は当たり年で、このようなお仕事をさせて頂く事となり、充実した一年になりそうです。病気になったのは、幼稚園を卒園した春で、6歳の時です。初めは高熱が出て、検査の結果、即入院となり若年性関節リュウマチと診断されました。まだ小さかったので、何もわからずただ入院生活を送っていました。しかし、そこで熱をおさえるために使ったステロイド(※2)の副作用で、脊髄を圧迫骨折し、手術を受け車いす生活になりました。小学校2、3年くらいの時だったと思います。病院ではずっと母親に付き添ってもらってました。まだ小学生だったので、あまり事の重大さに気付いていなかったように思います。小学校生活は半分くらい入院し、院内学級を受け、退院してからは、訪問学級を受けていました。

しかし、中学からは、地域の学校へ通えるようになりました。そこは、養護学級があり担当の先生が送迎をしてくれ、階段も先生や生徒の皆が手伝ってくれ、授業も皆と一緒に受けました。

そして卒業し、公立の高校へ進学しました。高校はエレベーターがあり、校内では電動車いすを使用していました。雨の降った日の通学は大変でしたが、母に送迎をしてもらいながら3年間通学しました。今考えると中学、高校はとても恵まれた環境だったなあと思います。高校卒業後は、大阪市職業リハビリテーションセンターへ2年間リストバス(※3)を乗り継いで通いました。しかし、就職は通勤が困難だったりとうまくいかず、修了後は家で過ごすようになりました。その頃ちょうどパソコンも購入したところでしたが特に活用できることもなく置いてある状態でした。

そうして半年程過ごしている時、プロップの記事を見つけ、参加するようになりました。プロップではパソコンで仕事ができるチャンスだと思い、それからMacセミナー(※4)にも2年通い、昨秋には『チャレンジドアート展』も開かれ、初めてパソコンで作品をつくり、発表させて頂きました。そしてこの『バーチャル工房』が設立され、メンバーにも入れて頂き、今このお仕事をさせて頂いています。今ではパソコンで工房のメンバーと連絡を取り合ったりと家にいながら作業を進めています。

現在は、週に1〜2回程外出もして外との関わりも持つようにしていますが、その時はヘルパーの方に付き添ってもらっています。日常生活で主に介助が必要なのは、着替えやトイレ、入浴などです。リュウマチによる手指の変形があり、不自由な点もありますが、食事やものを書いたり、キーを打ったりすることはできます。書道を習っていますが、初めは筆も持ちにくく、うまく書けませんでしたが、慣れてきたら何とか形になってきました。最初からあきらめるより、これからも障害が有る、無いに関わらず自分のできる範囲の事は色々してみたいと思っています。

これから1年間何回登場するかわかりませんが、頑張って書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

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