1996年2月9日 堺市障害福祉市民講座の講座3より

いつも心に微笑みを

山崎 博史

『健常者から障害者へ』

僕が交通事故を起こしたのは、1984年11月24日。
信号無視の車を避けた先に、街路樹と信号機があり、僕の車は街路樹を折り、信号 機に突き刺さって止まりました。

その時は、まだ意識があり、手も動いていたのでエンジンを切りドアを開けて外へ 出ようとした時、足が動かない事に気づきました。
それでも、助手席に乗っていた友達が気になって、友達の様子を見ようとした時に 意識が無くなってしまいました。

意識が戻ったのは、救急病院の病室でした。
その時は、全くどこも動かない状態でした。横に母親がいたので、
「体を起こして」と言ったのですが、
「首の骨が折れているから体を動かせない」と言われました。
助手席に乗っていた友達が気になったので、母親に友達を見に行ってきてと頼みま した。その友達は、どこも怪我は無く、念のために2日間入院するということだった ので少し安心しました。安心した途端また眠ってしまいました。

翌日の午後、処置室に連れていかれ、
「今から頭に穴を開けるからと」先生に言われました。
その時は、あまり意味が判らなかったのですが、けん引をするために頭蓋骨に穴を開けるということでした。
病室に戻ってから14キロの重りを頭に吊りました。

最初の頃は、熱が40度ぐらいあり、痰も自分では出せなくて吸引して取ってもらいました。息苦しいので、酸素マスクも付けていました。
処置から5日位した時、感覚がないはずの体が痛く、だるく感じるようになりました。

10日目位たつと、いらいらしだし、今思うと精神的にもだいぶん参っていたようです。
でもその間、友達が引っ切りなしに面会に来てくれたので、その時は少し気も紛れました。何分負けず嫌いな所があり、自分の弱い所を見られるのが嫌だったので、カラ元気で冗談を言ったり、強がっていました。
「あまり熱が出るので、面会謝絶にする」と医者に言われたのですが、
「それは絶対に困る」と無理をお願いをして、面会謝絶にするのはやめてもらいました。

この時はまだ車椅子生活になるとは、思ってもいませんでした。
ちょうど2ケ月たって、大阪労災病院に転院する事になりました。

転院した当日に担当医から、
「君は一生寝たきりだからね」と言われ、自分の耳を疑いました。
「今、何と言われましたか?」と聞き直したら、
「車椅子生活になるからね」と言われました。

この時、事故をおこした時に死んだ方が良かったなと思いました。
19歳で人生が終わったなと思いました。
転院して、2ケ月位してから、リハビリに行くようになりました。最初は、起立性低血圧があるので、起立台で少しずつ角度を上げていく練習をしました。

3週間くらいで、目標の角度までいったので、今度は車椅子に乗る練習に変わりました。
首の骨を折って頸椎損傷になっているので、血管の収縮する機能がだめになっており、そのため血液の循環が悪くなっていました。足を下に降ろすと頭に酸素が回らなくなって、最後には意識が無くなってしまいます。車椅子に乗る練習をしている時に、起立性低血圧のせいで何度も意識を失ました。

「気分が悪くなったり、しんどくなったら言うように」と
先生から言われていたのですが、やはり自分には負けず嫌いなところがあったのと、「我慢をして慣れてしまえばどうにかなる」と思っていたので、意識を失っても続けました。

「もともと頭は悪いから」と僕が冗談で担当医に言うと、
「そういったことではなくて、頭に酸素がいかない状態になるから意識を失うんだ。簡単に言ったら、首つりと同じ状態だよ」と言われました。
でもそんな説明を受けた後も、意識がなくなるまで頑張っていました。
車椅子に乗れるようになった頃、リハビリの先生に
「そろそろ車椅子を作ろうか」と言われました。
その車椅子とは、電動式の車椅子のことでした。
僕の状態では、手動車椅子だと自分で自由に動けないから、電動車椅子にしたほうが良いということだったのです。
でも、僕は何とかこげるようになると思っていたので、あえて手動車椅子を作ることにしました。

普通の車椅子だとこぎにくいので、車椅子のリングにガス管用のゴムホースを2つに割ってリング状に巻いてもらい、手袋をして車椅子をこぐ練習をしました。
少しこげるようになった頃から、訓練のため車椅子に重りを取付けられ、それを引っ張ってこぐ練習をしていました。
だんだんと重りの量が増え、この時はリハビリの先生が鬼に見えました。

『家族と友達に支えられて』

初めの頃は、死ぬ事ばかりを考えていました。

車椅子で病院内はひとりで動けるようになった頃、2月の寒い時でした。
夕食が終わってすぐ、ひとりで屋上に行き、貯水タンクの裏側に回って隠れていました。

この時、僕は「凍死」しようと思って屋上に行ったのです。2時間ぐらいした頃、寒さで腕が硬直し、もう車椅子をこぐことも出来ない状態になっていました。

「これで死ねるな」と思っていた時に、警備員さんが見回りにやって来て、
「兄ちゃんこんな所で何やってんの」と聞かれ、
「外を見てるねん」と言うと
「早く部屋に戻りや」と言い残して、巡回に行かれました。
でもおかしいと思ったのか、30分位してから警備員さんが戻ってきて、
「病室に戻ろう」と僕をエレベーターに乗せました。

警備員さんに、5階に降ろしてもらったのはいいのですが、僕はもう病室まで車椅子がこげない状態になっていました。

その時、看護婦さんが通りがかり、
「今まで何処にいってたん」と聞かれました。
「屋上に行ってスロープを降りたら上がられへんようになって」と
僕はガタガタ震えながら言いました。
ベットに上がって震えが止まらなかったので、アンカを入れてもらって布団を3枚かぶって、3時間位そのまま震えていました。

この時、自分の力で死ぬことさえ出来ない事が解り、その時その時を過ごしていくしかないと思いました。

両親は、そんなことがあったとも知らず、親不孝ばかりしていた僕に対しずっと温かく看護してくれました。

ある日、母親が泣いていました。
「何泣いてるねん」と言ったら、
「お母さんらが生きてる間はいいけど、私らが死んだ時の事を考えたら」と言うのです。

この時、僕は死ぬような事をしてはいけないと思いました。

そんな時期のことです。
友達(僕は悪友といってますが)が時間を作っては、絶え間なく面会に来てくれ、外にもよく連れ出してくれました。
普段、僕の友達はファミリーレストランなどには行かないのですが、わざわざ僕を連れてそんな所へ連れて行ってくれたり、散髪をしに、堺東までいってくれたりもしました。

こんな友達のおかげで、僕は車椅子で外出する事にも、だんだんと違和感が無くなっていきました。

『結婚』

事故から9年後の1993年3月28日に結婚。僕が28才の時です。

妻は景子と申します。彼女との最初の出会いは、中学の時でした。
でもその時は、遊んだ事も喋った事もありませんでした。

ある時友達と飲みに行った所で、中学時代の同級生と偶然会ったのです。
久しぶりに話しをして、
「いちど遊びに来いや」と言ったところ、彼は次の日に遊びに来たのです。
その時、中学の同級生だった彼女の話が出て、すぐその場で電話番号を調べて電話を掛け、
「遊びに来いや」と言って電話を切りました。

そして、2日後。彼女が友達と一緒に遊びに来たんです。
それからです。
彼女がひとりでも遊びに来るようになり、僕たちの交際が始まりました。

初めの頃は、彼女の家族全員に反対され、僕も何度か彼女の家に足を運びました。

ある日のこと、とうとう彼女の家族に呼び出されて、
「どういうつもりでつきあってるのか」と聞かれました。
「真面目に付き合っています」と僕は答えました。そしたら
「別れてほしい」と言われ、
「それは出来ません」と言うと、
「見合いの話しもあるし」と言われました。
僕は、しばらく考えて、
「見合いをするなら、僕は別れます」と言ったのです。

見合いの話がでてから暫くして、僕が彼女の家へ行った時のことです。
色々と話をしているうちに、突然、彼女が泣きだして、
「家を出る」と言い出したので、
一緒にいた家族全員がびっくりしました。
僕も、彼女がそんな事を言うなんて、とても驚きました。

その事があってからです。
僕が次に、彼女に会いに行った時には、話しが前向きに進むようになっていました。

それから、僕も一生懸命お話をして、彼女の家族にも少しずつ理解をしていただき、今ではとてもよくして貰っています。

『プロップ・ステーションとの出会い』

結婚をして、仕事をしなくてはと思って探しても、なかなか仕事がありませんでした。

そんな時、偶然ラジオでプロップ・ステーションの事を聞きました。障害者が自立する為のコンピューターセミナーを開いているということ。
「これだ」と思い、すぐ電話をしました。

すると、プロップステーション代表の竹中さん(通称「ナミねぇ」さん)が電話に出られたので、
「ラジオでプロップステーションの事を聞いて、電話をさせてもらったんですが、仕事が出来ますか?お金もうけが出来ますか?」と、矢継ぎ早に言うと竹中さんは、
「私たちは、コンピューターを使って、障害者の自立を目的とした活動をしています。君が頑張れば、実現出来るかもしれませんよ。」と言われたのです。
今考えてみれば、コンピューターを見た事も、触った事もなかった僕が、こんな事を言ったのは失礼だったと思いますが、その時は必死でした。

竹中さんは、
「一度セミナーに見学に来たらどう?それから、やる気があるなら頑張ってみたら」と言われました。
僕は、ボランティア団体は甘く、優しく、よしよしとしてくれるイメージがあったので、竹中さんの応対は、意外でした。
でも、却ってそれが良かったと思います。
僕は、身が引き締まる思いがしました。
そして、この時「半端な気持ちではダメだな」と思ったのです。

1993年11月、プロップ・ステーションの開催している98セミナーの初心者コースを受講しました。
コンピューターどころか、キーボードの配列も解らない状態でのスタートでした。 
最初のセミナーを受講した時に、キーボードの配列から判らなかった為、次の日に早速、近所の本屋に行きました。
キーボードの絵が載っている初心者向けのパソコンの本を買い求め、帰りにコンビニで、その絵を何倍にも拡大コピーし、家に帰りました。そしてまず、このキーボードの配列から覚え始めました。

3回目のセミナーを受講し終わって、
「コンピューターがなかったら、復習も、勉強も出来ない」と思い、コンピューターを購入しようかと考え始めました。
ただ、コンピューターは決して安い物ではないので、投資して購入しても使いこなせるのかという不安がありました。
色々と悩み、
「でもコンピューターがなければ、仕事どころか、コンピューターすらも覚えられない」と思い切って購入しました。

最初の頃、家では午前中にセミナーで習っているソフトの本を見て、本の内容を勉強して、午後からはコンピューターを触っていました。
そして、晩御飯を食べてベットに上がると夜の8時頃。もう疲れて、次の日の朝まで寝ていました。こんな生活が1ケ月位続きました。

98セミナーでも、講師の方やボランティアの方々に教わりながら少しずつ、コンピューターに慣れてきました。
解らない所は、プロップ・ステーションが運営しているパソコン通信(プロップ・ネット)で質問をし、大勢の方々のご指導を受けながら、勉強しました。

1994年6月には、橋口先生に、データベースソフト「桐」を使ったプログラムを習うようになりました。
当時、橋口先生は、プロップステーションの組織の中にある「プロップ・ウィング」で、上級者実務コースの講師をボランティアでされていました。

最初は、「桐」も「プログラミング」も初めてのことだったので、かなり苦労しました。
でも、橋口先生が、優しく、厳しくご指導下さったので、少しずつこのプログラミングにも慣れていきました。

1995年3月に、卒業作品として、府立高校の成績管理システムをプログラムを完成し、これを納品しました。

その次は、ある貿易会社の会計管理システムでした。
僕が打合せに出かけられないので、プロップ・ウィングの所長の鈴木さんと橋口先生が、お客様の所に行って打合せをしていただきました。
その後でプロップ・ネットを使って、データーのやりとりや打合せをするといった方法で、このシステムを完成し、無事納品をしました。

1995年5月に、車椅子生活になって初めての「給料」を貰いました。
この時、お金を貰って嬉しいという事より、
「これでコンピューターで仕事が出来るかな」と思いました。

『障害者の在宅雇用の実現に向けての実験』

1995年11月から、「株式会社 野村総合研究所」とインターネットを使ったあるプロジェクトをテスト運営中です。

このプロジェクトは、「障害者に在宅勤務が出来るかどうか」をテストするためのもので、もしうまくいけば、障害者にも大手企業から在宅勤務の依頼がくるようになると思います。

障害者にも、明るい日が差すように頑張りたいと思います。


最後に、何故「いつも心に微笑みを」という題名にしたかについて一言。
僕が、交通事故で障害者になった時は、うつむき加減で心の底から笑ったこともな く、充実感もなく過ごしていました。
でも今は、前向きで、心の底から笑え、充実感があります。

だから、「いつも心に微笑みを忘れないように」こ れからも頑張っていきたいと思ったからです。

ありがとうございました。

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