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ガバナンス 2002年5月より転載 |
チャレンジドが「福祉」を変える!
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第6回 アメリカADA法はなぜできたか
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ADA法(障害を持つアメリカ人法)が成立へ大きく動いたのは、88年、共和党のJ・ブッシュ副大統領が大統領選挙でその導入を公約に掲げてからでした。ADA法は、雇用をはじめあらゆる機会に障害を理由とした差別を禁じた画期的な法律で、全ての公共機関や企業に幅広く適用されています。しかも、課せられるのは努力義務ではなく、明確な義務であり、違反者には罰則があるのです。 この法律の出発点はベトナム戦争です。アメリカは誇りの持てない泥沼の戦争をして多くの若者を失い、帰国傷病兵として障害を持ったまま生きていかねばならない多数の国民を抱えてしまった。この人たちをどう社会復帰させるかということが、当時、重要な課題だったのです。 ブッシュさんに選挙公約として掲げさせたのは傷病兵ばかりではなく、「全米障害者評議会」などさまざまな障害を抱えたアメリカ人たちのパワーでした。障害の種類を問わず、自分たちが社会的に自立していくことが、アメリカ社会にとっていかに有意義かと説いたのです。運動は社会を巻き込み、ついに90年、そのブッシュさんが大統領就任後に、法律の制定にいたりました。 大事なことは、チャレンジドが社会参加を果たして働き手に回り、消費者、納税者になったときの経済規模、財政支出はこうなると、しっかり試算して説得したことなんですね。けっして理念だけで主張していない。私たちも学ばなければいけない点です。 では実際、ADA法ができてアメリカ社会はどう変わったのでしょうか。例えば、目の不自由な人がパソコンを買ったもののそのパソコンが視覚障害のために使えないとなると、政府機関はそのメーカーのパソコンを一切、購入しません。手先の動作が不自由な人が使えないものも同様です。また、鉄道を利用する際に、車椅子で乗車できないと、公共交通機関としては認められなくなりました。すべての人に使える商品・サービスでないと、社会に認知されないどころか、罰されるのです。 当初は、企業側から「これはたまらない」と相当な反発があったそうです。でも結果として、障害の有無にかかわらず使える商品が売れたり、サービスが利用されるようになると、自然に下火になっていったといいます。 でも、ADA法をめぐっては、日本の研究者たちの間でも賛否両論あるのが現実です。障害者を含め社会的な「弱者」を保護するところにありましたから、各種の補助金の給付をはじめ結果の公平性、均等性を重視するのです。その反面、弱者の社会参加の機会均等については、理解が進んでいません。また、「障害者の能力・実力の発揮」についても、一部の層だけを引き上げるものだと否定的な見方も少なくないのです。 でも、これまであまりにもチャレンジドたちが実力を評価されずに、「障害者」の立場にとどめ置かれてきたことを考えると、日本にもADA法のような法律を日本流にアレンジしたものは絶対必要だと思うんです。アメリカが、障害の有無にかかわらず国民に「チャンスの平等」を保証することで国力を上げていこう、とする立場に立っていることを考えれば、私は日本を変えなあかんと思うのです。 たけなか・なみ 社会福祉法人 プロップ・ステーション |
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