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龍谷大学同和問題研究委員会講演資料集 2005年12月14日より転載

 

 

 
 

“Challenged”を納税者にできる日本

 
 

竹中ナミ
(社会福祉法人プロップ・ステーション理事長)

 

 めずらしく緊張しております。なぜかと言いますと、今のご紹介の中にはあまり無かったので、あえて触れられなかったのだろうと思いますが、私は子供の時から大変ワルでございまして、親不孝の限りを尽くして、日本の非行少女の走りみたいな生活と言いますか、半生を送って参りました。

  そういう意味で、勉強が嫌い学校が嫌いという私が、現在無事に更正をなんとか果たしまして、このように先生方の前で、ましてや大学という所でお話をさせていただくということが、不思議でもあると同時に、また大変光栄にも思っているわけです。

  そんな人間の話ですので、私は 「先生」 「竹中さん」 と呼んでいただくよりも、「ナミねぇ」 という日ごろのニックネームでご記憶いただいて、また肩の力を抜いて話を聞いていただければと思っています。

 

 私自身が何で更正したかというと、私を更正させたのは、親でも、申し訳ないですが教師でも、また警察でもなく、私の娘でございます。その娘が重症心身障害ということで、大変重い脳の障害を持って授かりました。現在32歳になっていますが、私を母親とはほとんど認識しないという状況であります。視力は、明るい暗いが辛うじて判る全盲で、聴覚は、音は入るけれど、その音の意味するものは一切理解できずに、言葉は声は出るけれど、赤ちゃんが機嫌の良い時と悪い時で声の調子が違うという、そのような状態です。体の方は、最近手を引くと少し歩けるようになってきました。上に、障害を持たない長男もいて35歳になりますが、その上の子が生まれて1年くらいの間にたどってしまう成長の過程を、32年かけて、まだ到達しないという状態です。

  ところが彼女を授かって解ったのですが、彼女のような状態の人が自分に授かったのではなくて、よその家に生まれたらどうであろうかと考えてみると、おそらく私は「かわいそうで気の毒で大変な人やなあ」とまず思っただろうと。「そういう子供さんがいるご家族も、かわいそうで気の毒で、さぞ辛いお気持ちの日々を過ごされているだろうな」と、おそらくそういうイメージしか抱くこと見ることができなかったのではないかと思います。

  でも、その子の母になってみると、大変ゆっくりとした成長ですが、時々笑顔が出るようになったとか、お食事をおいしそうに食べてくれたとか、少し首や体がしゃんとしたとか、ふつう人間が1歳くらいで変わっていくことが、逆に何年もかかるために、そのわずかな変化が、ものすごく嬉しくて愛しくてたまらない。自分が産んだ子ですから、上の子も下の子も可愛さは変わらないのですが、その喜びは大きく違うということを一つ知りました。

  もう一つは、例えば人間というのは、ある月齢が来たらこうなって、ある年齢になったらこうなって・・・・と、常識のように思っていたことがそうではなくて、人間の社会にはいろいろな人がいて成り立っているのだということを、自分の娘から非常に切実にと言いますか、痛切に教えられました。

  それと同時に、もし私がこの子のマイナスの部分や、他人と較べて不可能な所だけを数えたら・・・・よその子供さんであれば、そう考えただろうと思うのですが、自分自身がそういう目線で彼女を見れば、多分彼女の人間としての尊厳とか、生まれてきたことの意味を、私自身が否定することになるのだろうと。

  ですから私は彼女を通じて、人のそのマイナスや不可能な部分ではなく、その人の可能性や人間の根っこの所と言いますか、その人の人となりというか、そういう所を直視する目線を与えてもらいました。

  自分の娘をどんなふうに育てていけばいいか、残念ながら30年前はあなたの子供さんがもし障害があればとか、脳障害を持って生まれたらどうしてあげたらいいというようなことは、育児書にも何も書いてなかったわけですから、私は彼女に少しでも楽しい毎日を送らせてあげるために、例えば「見えない」 ということを知るためだったら、見えない人とお付き合いをしようと。見えない方とお付き合いをして、見えないことの不便さや困ることと同時に、どのような工夫をして生活しているとか、どのような楽しみや喜びがあるということを教えてもらおうと・・・・。

  聴こえない、話せないのであれば、聴こえない、話せない方とお付き合いして、コミュニケーションをどう取っているとか、困ることまた楽しいこととその両方を教えてもらう・・・・。

  体が動かないのであれば、体が不自由な方とお付き合いして、あなたがもし体が自由であったら何がしたいのかと。それを実現するためにはどんな道具が必要で、どんな社会であればいいのかということを一緒に考えよう・・・・ということで、始めは自分の娘と私が少しでも楽しく暮らしていきたいという出発だったんですが、お蔭さまで娘を通じて、ありとあらゆる障害像の方とお付き合いさせていただきました。

  それで判ったことは、これは日本に限らないのかも知れませんが、――当時私は日本の福祉のことしか知らなかったのですが――、「日本の福祉というのは、何てもったいない福祉なんだろう」ということでした。それは目の前に障害のある方がいた時に、かわいそうに気の毒に何とかしてあげねば。手を差し伸べてあげねば――という福祉なのです。

  つまり、その人のマイナス部分や不可能な所、ここは自分より劣るという所にまず着目して、だから・・・・というふうにしている福祉観。あるいはこれは人の意識もそうですし、例えば行政であれば、税から何か手当てをしてあげればいいという形になっているわけですね。

  もちろん、その人の親切心であるとか同情心であるとか手を差し伸べようという気持ちというのは、大変尊いので、絶対そういう気持ちを失ってはいけないとは思いますけど、着目している所が、マイナスや不可能な部分だけの時には、結果としてその人の可能性には蓋をしてしまう福祉になっているということを、私はつくづく感じました。

  そうした時、たくさん出合った障害のある人達の中に、1人の青年がおりまして――実はその青年と私とでこの活動を始めたのですが――、彼は高校生の時に大変優秀なラグビーの選手でした。大学・社会人になったら、おそらく世界に羽ばたくラガーマンになるだろうと言われていた青年が、一瞬のスポーツ事故で首の骨を損傷することによって、全身麻痺になってしまったわけです。

  ご本人もご家族も本当に地獄のような苦しみを味われて、ショックの日々を過ごしておられたのですが、ある日、彼は 「自分には考える力が残されている」 ということに気づいて、わずかに自分の意思で動かせる左手の指先で必死に勉強したのです。コンピュータというものを操って、自分の自宅が経営していたマンション管理のためのデータベースを自分で組んで、マンション経営者として何年もかけて再起したのです。

  私はその彼がマンション経営を初めた時に出会って、「何でこんなことが起きたのかなぁ?」 と思いました。それまで日本では、彼のように寝たきりになって、左手の指先しか動かないような人には、朝起きる時からご家族の介護が要って、顔を洗うことも、着替えることも、食事のことも、下のことも、何から何まで全て介護が必要な人というのは、かわいそうな気の毒な重度障がい者であって、そのような人を家族に迎えた、あるいは抱えてしまったご家族もかわいそうな気の毒な人であったにも拘らず、その彼は堂々として、目を輝かせて、わずかに動く左手の指先で、自分が作ったデータベースを操ってマンションを経営している。

  なぜそういうことが起きたのかと考えてみると、一つはご本人の働きたいという痛切な想い――自分の力を社会に生かしていきたいという強い想いを持ってさまざまな勉強をされたということと、家族や彼の友人達がそれを決して止めなかった。「お前そんな体で働くなんて無茶だ」 とか、「そんなこと考えたって無理だ」 とか、「お前のために貯金して残しておいてやる」 ではなくて、「無理かもしれないけど、彼が働くという意欲を持っているのであれば、それをバックアップしよう」 と、必死のバックアップをしてこられた。そして同時に、彼がわずかな指先で使っているコンピュータですね。その当時は、コンピュータというものは今のように一般家庭に普及しているものではなく、業務用のものしかない時代でしたから、その時代の最高の科学技術です。

  つまり本人の意欲と、周りの人の応援と、そしてその時代の最高の科学技術――この三つの組み合わせによって、彼はかわいそうな気の毒な重度障がい者ではなくて、堂々と経営者として私の前にいらっしゃる。ご両親から見ても誇らしい息子としていらっしゃるということが判ったのです。

  その時、私は非常に大きなヒントをもらったと思いました。私がこれからやるべきことは、人のマイナスではなく可能性の方に着目するということを自分の娘から学んだ私が彼と出合って、これからする活動は、マイナスの部分に手を差し伸べるのではなくて、その人のやりたいことや可能性の部分に着目して、人の力と科学技術、またおそらく法律制度の変更も必要でしょう――そういったものを総動員して、その人のできることを世の中に発揮してもらう。そしてでき得ればそれが収入に繋がるという形にまで持っていくような――その当時はまだ NPO という言葉もなかったし、ボランティアという言葉はかろうじて一部の方に知られていたかな、という時でしたけれども、そのような草の根のボランティア活動を彼と一緒に創めたわけです。

  創めるに当たっては、新しい考え方の活動ですから、どれだけの人が集まってくれるか分からないけど、グループの名前を付けて、たくさんの方に呼びかけて、こういう志でやりたい方この指止まれ――というふうに運動を始めようという時に、彼に 「グループの名前に何かいいのはないか?」 と訊きますと、彼はにっこり笑って 「プロップ」 という名前にしてほしいと言いました。

  なぜかと訊いてみると、彼がラグビーをしていた時の自分のポジション名が 「プロップ」 だったわけです。自分の誇りあるポジション名だったプロップにしてほしい―意味を調べてみますと、“PROP(プロップ)” という言葉には、支柱とか支え合うというような意味があるということが判りました。自分達が創めようとしている活動は、まさに支え合いの社会を創ることなのだと感じました。

  と言うのは、彼は確かに全身障害の人ではありますけれども、私にはない経営能力を発揮して、私の苦手な――私は機械が苦手なものですから――コンピュータを駆使して仕事をしておられる。彼はスポーツマンで、シャイで口下手なのですが、私の方は 「口がギネス級」 と言われていて、しかも 「心臓には苔が五重に生えている」 と言われている、この2人が不可能な部分を突っつき合いするのではなくて、できる所を合わせて、世の中に出したらすげぇじゃんという話になったわけです。

  つまり障害のある人は支えられる人で、ない人は支える人という――それまでの日本の常識、間に引かれていた境界線を一切取り払ってしまおうと――障害があろうがなかろうが、男であろうが女であろうが、若かろうが高齢者であろうが、外国の人であろうが日本人であろうが、要するに 「支える・支えられる」 の関係はみんな一緒である。自分のできること、得意なことは、それを磨いて社会に出す。無理な所は得意な人と組み合わせる――そうして皆が支え合いをするような社会、あるいはそういう社会を目指すような意志を、自分達の活動の中から広めていこうとしているわけですから、「プロップ」 という言葉に 「支え合う」 という意味があることが判った時、私は強い感動を覚えました。

  ぜひ 「プロップ」 という名前にしようということで、「プロップ・ステーション」 という名前を付けてこの活動を開始したわけです。

  私達は 「“Challenged”を納税者にできる日本」 というキャッチフレーズを掲げたのですが、実はこのキャッチフレーズを掲げた時に、たくさんの野次が飛んできました。非難轟々と言いますか、反論・異論が。その反論される方々の意見を、よく耳を澄ませて聞いてみると、結局こういうことでした。

  「福祉というのは、税からどれだけ取ってくるかである。困っている人のためにきっちり取ってこれる人が立派な福祉家なのである。それが正しい福祉家というもである」 ということだったのです。

  「それをあんたらは何や」 と。「タックスペイヤー(taxpayer)税を出す側に回ろうとするのは税務署の回し者さんですか」 と、そこまではっきり言う方もおられました。ですから、いわゆる福祉という世界からの反論・異論の方が実は大変強かったのです。

  「納税者(taxpayer)に」 という言葉は、私が言い出しっぺのようになっていますが、ご存知の方がいらっしゃるか分かりませんけど、ジョン・F・ケネディ (John Fitzgerald Kennedy/1917〜1963) が第35代大統領に就任して最初の議会に提出した大統領教書の中で、「私は全ての障がい者――この当時はハンディキャップと使われていますが、――をタックスペイヤーにしたい」 ということが社会保障の項目の中で書かれていることを、翻訳した本を読んで知りました。

  日本の福祉観からは非常に遠い発想の話でしたから、「この人は何でこんなことを言ったんだろうか?」 と思ってバックボーンを調べてみますと、ケネディには、実は親族に障害を抱えた家族がたくさんいた――自分が最も愛していた妹のローズマリーさんも非常に重い知的障害を持っていた。つまり、彼は政治家である前にケネディ個人として、自由主義経済、資本主義経済のアメリカという国において、障害を持って生まれる、あるいは障害を負うことで、どのように位置付けられるかということをよく知っていた。

  その彼が 「彼ら障がい者達は障害があるから働けないよ。増してやタックスペイヤーなんかになれないよ。“tax(タックス)‐eater(イーター)”で当たり前だよ」 という考え方こそが差別である。それが差別の出発であると気づいたわけです。

  ですから 「国家が彼らをタックスペイヤーにするという意思を持つことが重要である。その意思を持って初めて、彼らを国民の一人として尊厳のある1人として認めることになる」 と。そういう国家でなければならないという考えでもって、その一行を教書の中に書いたということが判りました。

  私はその時、本当に目から鱗が落ちたような思いがしました。それで 「“Challenged”を納税者にできる日本」 というキャッチフレーズを掲げましたが、もちろんご存知ない方からすると、先程言ったように、「税から取ってくるんだ。要求運動をして取ってくるんだ」 というのが、日本の福祉であると思っていた人達からすると、これは非常に刺激的で過激であって、ある意味下品なキャッチフレーズなのだろう。・・・・ということは、実際に障害が重くて介護が必要であっても、その人がきちんと学び、人の助けや科学技術のサポートによってちゃんと働いて稼いでみせるというタックスペイヤーになり得るというモデルを、自分達がいくつも生み出すことによってしか、この考え方を広めていくことは難しいのだろうと考えました。

  私達プロップ・ステーションで最初にしたことは、そういう障害の重い人達が、実際にコンピュータに触れて、自分の能力をさまざまな形で発揮できるように、コンピュータの講習会を始めるということでした。

  ところがその当時、コンピュータというのは非常に高価な機械です。15年前にこの活動を始めたのですが、まだ一般家庭にパソコンがない時代です。インターネットはないし携帯電話はないし、要するに今でこそ簡単にITと言いますが、その当時そういう道具すらなかった。

  その時にコンピュータを揃えて、ソフトウェアを揃えて、お仕事ができるようになりたいから、教えてくれる先生は一流のエンジニアやクリエイターではないといけない。そういう勉強をする場を設けようという考え自体が非常に突飛なことで、気持ちがあっても相当の資産がないとやっていけない――最初の大きな壁にぶち当たりました。

  話し合っていくうちに、コンピュータがどこかに転がっていないかという話になって、誰かが 「コンピュータを作っている会社にならあるで」 と言うと、「そりゃそうだ」 となって、「おたくのコンピュータ素晴らしいそうですが、何とか私達の勉強会に提供をしてもらえないでしょうか、ただで」 と誰かが言いに行ったらいいのではないか。「うん、そうだそうだ」 となった。ソフトウェアはどこにあるのか、それは当然開発されている会社にあるから、そこへ出向いて行って、「素晴らしいソフトウェアを開発されたそうですが、それを是非私達の勉強会に使わせていただけないでしょうか。ただで」 と誰かが頼みに行ったらいいんじゃないか、ということを皆で考えたわけです。誰が一体そんなことを言いに行くのだという所になって、仲間が私を指差して 「そりゃナミねぇ、あんたしかおらんやろ」 となりました。なぜかと言うと、私は先ほども言ったように、自分自身はコンピュータは苦手で、そういうものはできれば使いたくない。でも本当に必要で、これを使って社会に羽ばたいていきたい、あるいは社会の中に進出して行きたいという人達が、コンピュータを勉強するための動きは当然しなければならないと思っているわけです。しかも“口と心臓”がある――そうすると 「この仕事はナミねぇしかいないよね」 と言われて、私は 「よし私がコンピュータ業界の皆さんにお話をしに行きましょう」と決断しました。

  それで行ったのですが、その時に私が、そのコンピュータ業界の皆さんに、絶対に口が避けて言わなかった言葉があります。――ここに障害が重くて働くことのできないかわいそうな気の毒な障がい者達がいます。彼らの為におたくで作っているコンピュータを下さい。彼らの為になんとかソフトウェアを頂戴できませんかというようなことだけは、口が裂けても絶対に言わなかった。

  なぜかと言うと、このプロップ・ステーションのコンピュータセミナーに集まって勉強しようという重度の “Challenged” の人達は、みんな 「働く」 という目標を持っているわけです。働くということは、言わずもがなですが、自分で自分を支えていこうとする意志であると同時に、自分も社会を支える一員になろうという意志、つまりこの勉強会に来てコンピュータを覚えたい連中は、すごい ヤツ らなのです。このすごい ヤツ らに 同情で コンピュータやソフトウェアや技術、あるいは支援のお金が集まるようなことにだけはなってほしくなかった。ですから、いろいろ考えてお願いに行く先々でこのようにお話をさせてもらいました。

  「私達のこのコンピュータのセミナーから、あなたの会社が必ず欲しくなるような人、あるいはあなたの会社が、仕事を出した時に自分が介護を受けているその場所で、しっかりとクオリティのある仕事をやり遂げる人達が必ず生まれてきます。あるいは、これから日本は少子高齢社会が世界一のスピードで進んでいくと言われています。高齢になるとはどういうことか。見えにくくもなるでしょう、聴こえにくくもなるでしょう、指も震えるかも分かりません、記憶もゆっくりになるかも知れません。そうした時に、どんなコンピュータだったらより売れるのか、どんなソフトウェアだったらより使ってもらえるのかというようなことを、私達のこの勉強会に集まるメンバーは、自分の身体できちっと証明してみせる。あるいは提言をすることができます。ですから、決して彼らに同情していただく必要はありません。一切同情は要りませんから先行投資をしてください」 と申し上げました。

  当時コンピュータ業界は勃興したばかりです。日本の福祉関係者でマイクロソフト社のビル・ゲイツ (William Henry GATES V/1955〜) さんと何回も会っているのは私だけではないかと思いますが、そういったコンピュータ業界のトップの方々に会ってお話をさせていただきました。お蔭さまで、どの業界の方も、作っていらっしゃる方も、ソフト開発をしていらっしゃる方も、技術を持たれた方も、

  「面白いね、その発想は面白い。先行投資というのは非常にユニークな考え方だ。今まで福祉的に寄付してくださいと頼まれたことがあって寄付したけれど、その後何の音沙汰もないので、たまたま覗いてみると、コンピュータの上に風呂敷を被せて花が飾ってあった。訊いてみると、どうやって使うのか、もらったけれど分かりませんでした、というようなことがいっぱいありました。あなたは違うんですね。これで先行投資をしたら、必ず結果は自分達に返ってくると仰ってるんですね」
  「その通りです」

  というようなことで、勃興期――どのようにしてコンピュータというものを世の中に広めていくかを考えていた若い経営者の人達が、一緒にやろうということで、コンピュータやソフトウェア、あるいは一流の技術者の人達が集まってくれました。

  そしてこの15年間です。コンピュータ業界というか、コンピュータの技術ほど凄まじいスピードで発達したものはありません。先ほど言いましたように、私たちは人の力とその時代の最高の科学技術を使って、最重度の障がい者の方まで、その力を世の中へ引き出すということが目標でしたので、常に最先端の情報を持った人達と連携して――失礼な言い方かもしれませんが、いわゆる福祉の専門家とではなく、そういった技術の専門家の方、そして仕事を出す側、雇用する側の企業の人達としっかり連携することによって、今どんなことを勉強すると一番稼ぐことができるのか、今どんなソフトウェアで作り上げられる物が世の中で求められているのか、あるいは、この人の力を引き出すためにはどのような技術が必要なのかということを、一緒に開発することなどを通して、そうやって前進してきました。

  今日ご出席の皆さんの中にはコンピュータに精通された方も多数おられるのではないかと思います。そういう方にとっては蛇足になるかもしれませんが、少しお話ししますと、今のコンピュータは瞬きだけで全ての操作ができます。あるいは全身が全く動かなくても、ヘッドに付けた光のセンサーによって操作ができるようになっています。あるいは口にくわえたストローのような物で息を吸うことと吐くことができれば、それをアタッチメントにすることができます。あるいはわずかに自分の舌が動かすことができれば、その舌で頬っぺたの中を押すとか、歯の裏を触るとか、それだけでもコンピュータの操作をすることができます。もちろん肩がわずかに動くとか、膝がわずかに動くだけでもセンサーにすることができます。

  つまり、ありとあらゆる障害像の人達にとって、その人のわずかでも自分の意思を表わせる部分があれば、そこをアタッチメントにしてコンピュータを動かすことができるという状況になっています。

  それから同時に、コンピュータのソフトウェアなどもさまざまに進化してきて、私達が活動を始めた頃にはどちらかと言うと、アタッチメントの不可能な所、コンピュータに直接アクセスすることの不可能な所を科学技術で補うという部分が多かったのですが、最近は感覚的に使える。ソフトの操作が非常に易しくなったことによって、かなり重い知的ハンディの人、対面では全く会話が通じない重い自閉症の人、あるいは高機能障害の人、もちろん精神の障害であるとか、身体の障害以外の方々にとっても、その人のできることを世の中に出していくことができる道具になってきました。

  プログラミングという仕事しかなかった時代から、文章を書くこと、絵を描くこと、作曲すること、自分の言葉で語りかけること――そのような全ての表現することがコンピュータで可能になったわけです。

  日本ではよく IT と言われていますが、国際的には ICT と言っています。私達もできるだけICT と呼びたいと思っています。真ん中の “C” は何かと言うと、IT(information(インフォメーション)-technology(テクノロジー) )の間に “ communication(コミュニケーション) ” が入るのです。Information & Communication's technology ―― ICT と国際的には呼んでいます。つまり人と人とが繋がる。人と社会が繋がるということが、最もこの道具にとって重要な役割であるということを表しているのです。

  「情報」 という言葉も 「情けを報せる」 と書くわけです。これは私が言っているのではなくて、かの森鴎外という文豪が 「情報というのは情けを報せるということだ」 と言われているのですが、冷たい科学技術ではなくて、人と社会、人と人を繋ぐ、あるいは情けを報せるという道具としてのコンピュータを駆使してきたと言えるのではないかと思います。

  お蔭様でこの15年間の間に、そのような技術が非常に進化したことによって、先ほども言ったように、プロップ・ステーションでは、ありとあらゆる障害像の方がいま自宅で介護を受けながら、あるいは施設の中で、あるいは病院のベッドの上で――いろいろな場所で仕事を始められました。そしてプロップ・ステーションに来ることが無理な方は、最先端の科学技術、例えばテレビ会議のシステムなどを使っています。

  このテレビ会議システムもほんの数年前までは、テレビ会議で何か情報を提供する側も、それを受けてテレビ会議に参加する側も非常に高いお金が要りました。両方が高価なソフトウェアを持たなければならなかったのですが、現在では、情報を提供したりセミナーを開催するプロップ・ステーションの方にきちっとしたシステムがあれば、そこに入ってきて意見を言ったり、あるいは仕事をする人達は自分が持っているパソコンに3千円のカメラと、2千円のイヤホンマイクを――つまり普通のパソコンに5千円プラスして投資すれば、テレビ会議システムを間違いなく使えるという状況になっています。

  つまり科学技術の最先端のものを使うことによって、最重度の方までがその人の力を世の中に発揮できるということを、まさに彼ら自身が証明してきたわけです。

  次に私達が目指しているものは何かと言うと、先ほど言いましたように、一つは法律の変化、制度の変化です。日本では障害のある人が働く人事をバックアップする法律には、障がい者の法定雇用率制度しかありませんでした。

  昭和34年(1959年)にできたこの法律は、一定規模以上の企業に対して、ある割合の障がい者を雇用することを義務付けています。今はこれが1.8% です。そして雇用率未達成の企業は罰金を払うという制度です。この制度しかなかったのです。

  この制度はどんな制度かと言うと、障がい者を正規に雇用するという制度です。ですから、この制度に則って雇用される人は、基本的にまず企業に通える、通勤できる人が前提になります。正規雇用ですから、週に20数時間の法廷労働をするということが条件になります。そして当然企業の中では全身の介護などは要らないということが条件になって、結果的にプロップ・ステーションで学んでさまざまな介護を受けながら、さまざまな場所で、体調の良い時に精一杯仕事をする、無理な場合は体を休めているというような働き方を求めている人は、この雇用率制度の中でのバックアップも受けられないというのが日本の現状だったわけです。

  しかもこの雇用率の制度というのは、企業が払う罰金によって完全に運営するシステムになっていますので、私は 「究極のマッチポンプ法」 と言っているのですが、雇用達成率が上がってくると罰金が減りますから、雇用率を上げるというこの循環だけでやっている法律です。

  この法律が昭和34年にできてから、抜本的な改正が1度もされたことがありませんでした。それで私達はこの6年間で、厚生省・労働省――現在の厚生労働省――と研究会を作って、さまざまな働き方ができる、それをバックアップするような法制度に変えていこうという研究会で議論を積み重ねてきました。

  お蔭さまで実際にプロップ・ステーションを通じて、重度の “Challenged” が介護を受けながらも働くという実績がたくさん生まれてきたものですから、それを現実に見てもらって、この議論もぐんぐん進んでいきました。6年かかりましたが、去年(2004年)の夏にこの研究会は雇用法の制度を抜本的に改正しようという答申を出しました。

  そして去年の秋には、当時の尾辻秀久厚生労働大臣を初め、厚生労働省の幹部の皆さん、全ての政党の国会議員の皆さんがプロップ・ステーションに見学に来られました。そしてプロップ・ステーションのオフィスでやっているコンピュータの勉強会、あるいはテレビ会議システムの向こうにいらっしゃる方々――全国各地で家族の介護を受けたり、施設の中で働いている人達との意見交換をして、実際にこのような働き方が可能になったのだと確信を得て、厚生労働省として雇用法の抜本改正を先の国会に出されたわけです。

  私は国会にも意見陳述ということで招致されまして、国会の衆参両院でお話をさせていただきました。衆参両院の事務局の人から 「国会にGパンを履いてきて関西弁で喋ったのはあんただけですわ」 と言われましたけど、できる限り普段の様子で行かないと私も緊張するものですから、普段の格好で行って普段の様に話をさせていただきました。 お蔭さまで衆参両院とも全会一致で雇用
法の改正が成立しました (2005年6月29日)。

  その時、全ての政党の方がいらっしゃる議会でこのように申し上げました。「いろんな政党の皆さんがここにいらっしゃいますけれど、私から見たら一つの政党です。障がい者という人達は、かわいそうで気の毒な人達で、自分達の政治力によって何かを取ってきてあげないといけないと思っている意味において、私から見たら一つの政党なのです。お願いですから、この一つの政党がガラッと全部こちらに来ていただけないでしょうか。つまり弱者という人達がいて、弱者に手当てをするという福祉観から、弱者を弱者でなくしていくプロセスを福祉と呼ぼうという福祉観に、なんとか一斉に変わっていただきたい」 というお話をしました。

  そして今皆さんにお伝えしているようなさまざまな事例を、この人がこんなふうに勉強し、こんな道具を使ってこんなふうになってきたということもお話しさせていただきました。お蔭さまで衆参両院の全ての政党の賛同で通りました。

  厚生労働省は、実はこれとセットでその時にもう一つ法律を出しました。それは障がい者自立支援法という法律です。皆さんテレビや新聞でご存知かも知れませんが、この障がい者自立支援法には、障がい者団体による反対運動が嵐のように巻き起こりました。国会に莚旗を立てて取り巻くとか、大臣室に押しかけて大臣や幹部達を取り囲んで追求集会をするというようなことがこの1年弱の間行われたわけです。

  これはなぜかと言うと、この自立支援法というのは障害を持つ当事者から――上限1割ということですが――負担をしてもらって実際に働ける制度、あるいはその人の介護を確保する制度にしようという法律だったからです。つまり日本は障がい者と言われる人から1円たりとも取ってはいけないという国であったわけです。その人達の介護は、国家が税によって全て面倒を見なければいけないという制度がずっとあったわけです。しかしそれによって、今回初めて負担がかかるということで、大きな反対運動が起こりました。

  私が大変残念だったのは、この自立支援法と、自分で働いてタックスペイヤーになっていこうというこの雇用法の改正とがセットで出て、その雇用法の改正は成立したにも拘らず、マスコミは1秒たりとも、あるいは新聞は1行たりとも、この雇用法については書かず、また報道もしなかったということです。

  そして負担がかかる自立支援法に反対する人達も、働くためのさまざまな働き方を応援する法律ができたということに残念ながら全く触れない。あるいは知らなかったということです。

  私はすべての人が、障害があろうがなかろうが、先ほど言ったように、社会を支える一員になっていただきたいと思っています。その時に、負担なにするものぞ、というような働き方がきちんとできる国家、そのことのできる法制度が必要だということで、この二つはセットで上げられたのですが、残念ながら負担ということに対する大きな反対運動がありました。

  一度は解散によって廃案になりましたが、再提出によって与党多数ということで成立しました。成立はしましたけれども反対運動はまだ続いています。自分達は負担できないのに、なぜこのような法律が成立したのか、ということで運動は続いていますが、私はそれが大変残念だと思っています。

  それだけの運動をした方々がインターネットを駆使して、この運動を全国に展開されたわけですね。誰と誰がいつ国会の前に、何時何分から何時何分まで座り込んで反対するとか、どこに集まってオルグするとか、厚生労働省のどの部屋にどのようにして行って、どんなことを議論するのかというようなこととか、全てインターネットで情報交換をされたわけです。

  つまり、そのようにすごい能力を持った皆さんのその能力は、もっといろいろな生かし方がある、社会の中のいろいろな立場で活躍していける人達であるにも拘らず、残念ながらそうではなく、「負担のできない私達」 という着眼点で運動し、また支援をする人達もその様に行動されたということを大変残念に思っているわけです。

  ただ私達自身も新しい雇用法の改正が成立したということに対してのアピールがまだまだ足りなかったのであろうと思いますし、働く意欲を持たれた “Challenged” の人達自身が発信する力も弱かったのかなと思っています。

  私はこのようにさまざまな所でプロップ・ステーションのお話をさせてもらっています。その私なりのお願いが一つありまして、これまで言ったことを皆さんにも是非知っていただき、そして伝えていただきたいと思いながら、お話をさせていただきました。

  ここで皆さんに質問をしたいと思います。白いご飯を食べたいと思った時に、苗代を作って、もみを撒いて稲を育てて育った稲を、稲刈りし脱穀し精米し、そしてその米を食べているという、そのプロセスを経て自分で米を作って食べている方いらしたら手を挙げて下さい。いかがでしょうか、いらっしゃいませんか・・・・?いらっしゃらない。

  もう一つ訊きます。突然、魚が食べたいと思った――刺身でも煮付けでも塩焼きでも天ぷらでも何でもいいですが、魚が食べたいなと思われた時に、釣竿を持って海か川に行くという方がいらしたら手を挙げてみて下さい。おられませんか・・・・?その時どうされますか?当然魚屋に行きますね。魚屋でいろいろ選ぶわけです。

  もう一つ訊かせて下さい。皆さん今日それぞれに良くお似合いの服を着てお集まりですが、自分が何か身に着ける物必要だと思った時に、糸を織って布にして、デザインして裁断して織った物を着ているという方がいらしたら・・・・おられませんね。

  何が言いたいかと言うと、つまり人間は文明が進み、科学技術が進み、流通の仕組みが進み、法制度が進み、いろいろな物事が進めば進むほど、人間社会が進化して豊かになれば豊かになるほど、自分が生きていくのに必要な絶対に必要なギリギリのことを、自分ではやっていないと言うことです。

  言わずもがなのことなのですが、自分独りの力では全く生きていけない社会になっているということです。それはみんな分かっているのです。頭でも分かっているし心でも解っているのですが、そう思っている自分の前に障がい者と言われる人、とりわけその障害が重いという人達が来た時に、どう感じるかと言うと、瞬間的に 「私は自分で自分のことできるけど、この人はここが無理やなぁ。あそこも無理やなぁ。ここが不可能やなぁ 」 と、無意識にそう考えて 「気の毒やなぁ」 と思います。これは刷り込み現象なのです。そういう見方になってしまうのです。

  その時に、私がいま私であるようなことを、私がいまやりたいと思うこと、やっていることを、もしこの人がやるとしたら、流通の仕組みや科学技術や法律・・・・何がどう変わったらできるのかというふうには考えないのです。私は自分で自分のことができるけど、この人はここが無理、あそこが無理、ここが不可能と数えてしまってかわいそうになる。これを大転換しないといけないということなのです。

  今日このように龍谷大学に寄せていただきまして、偉そうにマイクを持って、こんなふうにお話をさせていただいているのですが、オフィスに戻るとプロップ・ステーションのスタッフ達がおります。このスタッフ達の中で くっちゃべって 動き廻れるのは、私と 「番頭さん」 と呼ばれている経理、事務の責任者で、その他のスタッフはみんな一緒に勉強してきた重度の “Challenged” なのです。

  今、グラッフィク関係のリーダーの青年は大変重い精神障害を抱えています。癲癇の大発作が起きる青年なんです。彼はプロップ・ステーションで勉強をする前にいろいろな所に就職しました。ところが、その職場で一回泡吹いて倒れると翌日はクビなのです。そして自分がそういう発作を持っていることを隠して就職すると、倒れた時にもっと酷い目に遭うわけです。そういうことで色んな職場を転々とし、結局1回倒れてはクビになり続けて、彼は倒れていない時は割と体力があるので、最終的には天王寺の手配師の所に並んで土建の仕事をやっていたのです。それでも倒れる時はありましたが、もうそれしか収入を得る道がないという状況になっていたわけです。

  そこへたまたまテレビのニュースでプロップ・ステーションの活動を知って、飛び込んできて 「コンピュータの勉強をする」 ということで、もう必死で勉強しました。そしていま彼は、プロップ・ステーションの管理職としてたくさんの方を育てています。

  時々泡を吹いて倒れます。ウアアーと言ってバタンと倒れて、そこら辺でもがくのです。初めて見た人はびっくりしますが、あぁ20秒も持ったら大丈夫、大丈夫――皆慣れてきます。舌を噛まないようにタオルを口に入れたりしないとだめですが・・・・。放っておいて2〜30秒すると、パチッと目を開けて、倒れている時の記憶が全くないので、バッと椅子に座って先にやっていた仕事の続きをしようとします。

  「あんた口からちょっと血が出てるから拭きな。その下に流れた血も自分で拭きな」 と雑巾を渡したり・・・・。

  「そうですかぁ」 と言って、5分か10分はボーッとしていますが、後は優秀な仕事を続けられるわけです。この優秀な人が1回倒れることがあるだけで、なぜ企業がクビにするのか、私には全く解らないのですが、その人がクビにされるということが、残念ながら日本の企業の現実なのです。それが一つあります。

  それからもう1人、大変重い難病の女性がおります。その方はウェルドニッヒ・ホフマン病という何万人に1人といわれる筋肉の病気で全身の筋力がないのです。ですから体がぐにゃぐにゃで、身体を起こすために全身をコルセットで固めて座っておられます。そして枕の付いた車椅子に乗っているのですが、この枕から頭が2cmずれても自分で起こすことができません。

  この方は絵を描くのが好きだったのですが、小さい頃から絵を描くためには、誰かに鉛筆を指に挟んでもらって、誰かに水を汲んできてもらって、誰かに絵の具のチューブを開けてもらって自分の思うような色になるまで、混ぜてもらう・・・・小さい頃からお母さんがサポートしていました。ある程度大きくなってからは、絵の好きなお友達がサポートしていましたが、わずかに動く指先で絵を描いて、大きなサイズの絵を描く時は誰かが画用紙を動かしてあげて絵を描いています。子供の頃から絵が大好きで、絵本作家になることが夢で、とてもセンスの良い女性です。

  彼女はプロップ・ステーションでグラフィックの勉強をしました。誰かにマウスの上に手を置いてさえもらえば、どんな図柄も、どんな大きな絵も、どんな小さい絵も、どんな色彩の絵も、自分の力で全部描けるようになったわけです。当然彼女はグラフィックアーティストになり、すでに念願の絵本を2冊出し、いま3冊目を作っています。彼女は夢見ていたプロの絵本作家になったわけです。

  私は彼女に対して何ができるかと言うと、彼女の作品を単なる商業イラストとしてではなく、きちっとアートとして売り込むという仕事です。絵というものは当然イラストとかトレースとかアートだとか、いろんなランクがあって、それによって価格が違います。もちろんアートになった時は、その求める人がいれば高い価値が付くわけですが、彼女の絵をアートとしてきちんと認めて、その評価に相応しい金額で買ってくれる人に届ける。繋ぐということが私達の仕事であり私の仕事であります。

  つまりプロップ・ステーションという所は、勉強をして技術を磨いて発揮するようになった人達の、バックオフィス機能を持つのです。例えば企業であれ、何か仕事を発注する人達はプロップ・ステーションと契約を交わします。プロップ・ステーションは責任を持って、価格とクオリティ、納期を守る約束をします。

  これによって企業は安心して仕事を発注できるわけです。例えば重い障害のAさんと直接契約をすると、そのAさんの体調や具合が悪くなった時は仕事そのものが全部できなくなってしまいます。ですから企業はどうしても怖がってしまいますけれど、プロップ・ステーションがその責任を持つということによって、企業や自治体や政府機関からプロップ・ステーションに対して仕事がアウトソースされます。その時にアーティストの方の場合は別ですが、例えばホームページを作るであるとか、冊子を作るための元のいろんな文章をレイアウトしたものを作るであるとか、データベースを組んで下さいといったことは、仕事を請けて、プロップ・ステーションがAさん、Bさん、Cさん、Dさん――それぞれの能力に応じて振り分けます。そしてその人達が1日に何時間くらいどのような道具とソフトを使って、どのような結果を出せるのかというのを解っているプロップ・ステーションがコーディネートをします。そして途中で具合の悪くなった人が出たら、すかさず同じような仕事ができるEさんやFさんに入ってもらうわけです。

  そうすることによって、仕事を発注される方も安心ですし、また仕事をする人達も自分が無茶をして体を壊してしまうことなく自分の最も得意とする分野を磨く、その部分を仕事にできるという働き方ができるわけです。

  今度の障がい者雇用法の抜本改正というのは、実はこういう人に対して、企業がお仕事をアウトソースすることをバックアップするということが柱の一つとして入りました。今までは雇用率未達成の企業は罰金を払っていたのですが、罰金ではなく仕事を出す。仕事を出すことによって、雇用率が達成したのと同じように見做される制度が入ったわけです。この仕事は、もちろんコンピュータの仕事でも可能です。絵の上手な “Challenged” に、我が応接室に飾るグラフィックアートを描いてほしいという注文でも良いわけです。あるいは我が社の何十周年記念としてお客様に対してクッキーを配りたい、きれいなイラストの絵葉書やカレンダーを配りたいということでも良いわけです。

  要するにどんなお仕事であっても、プロップ・ステーションを通じて “Challenged” の方にきちんと仕事を出せば、それがその企業の雇用率と同じように見做されるという制度が入ったわけです。そうすることによって、例えば仕事を何度か経験する間に、「自分は1日にこれほどコンスタントには無理でも、一週間にコンスタントにこれほど働くのは無理でも、年間トータルにするとこれだけのお仕事ができるよ」 ということが、だんだん判ってくるわけですね。その時に今度は企業がその人をアウトソース先ではなく在宅勤務者として雇用することも可能になってくるわけです。

  つまり自分の適当な時間と言いますか、自分の体調に適わせて、身の丈に適った働き方ができると同時に、正規雇用にも移行することができる。あるいは雇用が難しくなった人が、自分の体調に適わせた就労にまた戻ってくることもできるというような働き方を選ぶことができる。しかもその職種はどんな職種であってもOKだという法律ができたわけです。

  残念ながらこの法律のことはほとんどご存知ないということですけれど、ぜひぜひアピールをお願いしたいと思っています。

  今日は私のお話と質問で1時間ということで、本当は10時間くらい喋りたいことがあるんですけれど、そうはいかないようですので、この後ででも質問下さったらありがたいです。一部のお話しかできなかったのに、何でも訊いてというのは無責任かも分かりませんが、質問がおありでしたら、突っ込みを入れていただければ嬉しいなと思います。

― 質 疑 ―

Q.1 プロップ・ステーションでの具体的な仕事は何でしょうか?

A.1 昔はプログラミングなどの理系の仕事が多かったのですが、今アウトソーシングされる仕事は、ホームページやグラフィックデザインなどのウェブ系の仕事、文系の仕事が多くなってきました。と言うのが、最近は近所の八百屋や喫茶店までホームページで自分の店をアピールする時代になりまして、そのようなコンテンツに関する仕事が量として多くなってきました。

  それからもう一つは、そのホームページの中でアンケートを取るとか、その中にデータベースを組み込むなどという仕事も増えてきましたから、プログラミングなどの理系が得意な人と、デザインなど文系が得意な人とが組み合わさってやる仕事が増えてきました。

  ただ、生ものを扱う以外の日常生活のありとあらゆる所には、どこにでもコンピュータが入っています。生ものであっても、例えば回転寿司なども全てコンピュータで制御されています。寿司をにぎって目の前に出す、などということは無理ですが、その中のコンテンツを作るなど、数年前には考えもつかなかったような職種が生まれてきています。

  ですから、私は 「補助金はいらんから、仕事をくれや」 と、そればかりいつも言っているのですが、さまざまなことをアウトソースできるのではないかと思います。皆さんもどのような仕事があるか、是非お考えいただきたいと思います。

  実は今日ここへ来る前に京都府庁へ行ってきました。私は京都府の電子政策の委員もやっておりまして、京都府でもプロップ・ステーションのようなコンピュータセミナーを始めようとしています。これについてプロップ・ステーションが提携して企画とかノウハウを提供しています。京都の施設でも、ベッドの上で稼いでいる全身麻痺の兄ちゃんがいます。その彼が核になってそのようなセミナーをやっていく打ち合わせをやってきたばかりです。

  私は京都という地にも期待していますので、是非ご協力をいただければと思っています。よろしくお願いします。

  どうもありがとうございました。

(経済学部 同和問題研修会/2005年12月14日)




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