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アイティセレクト 2006年12月号より転載

 

西野弘のとことん対談
この人と「マネジメントの真髄」を語る 第 12 回

 
 

"ごんたくれ"がチャレンジドの
可能性を引き出す

 
 

社会福祉法人プロップ・ステーション
理事長竹中ナミ

 

プロフィール●にしの・ひろし
株式会社プロシード代表取締役。1956年4月生まれ、神奈川県出身。早稲田大学教育学部卒業。ITとマネジメントの融合を図るコンサルティングを中央官庁や企業に展開。「装置社会」から「創知社会」の実現を目指す。教育と福祉がライフワーク。

西野弘氏の写真

 

 教育改革を重点政策の一つとして、安倍晋三内閣がスタートした。しかし、もう15年も前から、"弱者救済"の心身障害者教育・福祉に反発し、独自の自立支援活動を展開するボランティアがいる。その人は、社会福祉法人プロップ・ステーションの"ナミねぇ"こと、竹中ナミ理事長−−。
  障害者を"チャレンジド"と呼ぶ竹中氏は、ITを活用してその可能性の発掘に努めている。標榜する「チャレンジドを納税者にできる日本!」には、ナミねぇの強烈な個性と反骨のメッセージが込められていた。

 

竹中ナミの写真 竹中ナミ(たけなか・なみ)氏
1948年10月生まれ、神戸市出身。神戸市立本山中学校卒業。16歳で結婚。24歳のとき、重症心身障害児の長女を授かったことから、療育のかたわら障害児医療・福祉・教育を独学。手話通訳・視覚障害者のガイドなどのボランティア活動を経て、91年プロップ・ステーションを設立。7年間任意団体としての活動後、98年社会福祉法人格を取得し、現職に就任。国、地方公共団体の委員、講演会など多方面で活躍中。

 


西野 ナミねぇの波乱万丈の半生は既に有名ですね。私はかれこれ10年の付き合いなるけど、直接聞いたことがなかった。改めて伺うと、ナミねぇはどんな子でした。

竹中 西野ちゃん、"ごんたくれ"って知ってる? 関西では、この子、将来悪くなるんちゃうの、という男の子をそう呼ぶんですけど、私はずっと"ごんたくれ"って言われてた。幼稚園の時から趣味は木登りと家出。まったく女の子と思われてなかったですね。神戸の山の手へ引っ越した時、中学校では転校前から「ゴッツイ女が来るらしいぞ」と言われて、不良のレッテル貼られた。ならば"不良道"極めてやろうと、家出して女優目指したり、水商売やろうとしたり……。高校1年の時、アルバイトに行ったら、かっこいいお兄ちゃんがおって、出会った瞬間、同棲してた(笑)。

西野 その方はご主人? いくつの時、結婚したんですか。

竹中 16。相手は20歳。その頃、『同棲時代』とか、『幼な妻』とか、漫画が流行ってたんですよ。お飯事のような夫婦でしたね。そのお陰で高校は退学になった。しかも、「貴方のような恥ずかしい子がいた痕跡を残したくない」と言われ、学籍抹消です。それで私の学歴は中卒なんやけど、除籍の理由は不純異性交遊……(笑)。

西野 そりゃ、不良道まっしぐらだ(笑)。同棲時代、懐かしい言葉ですね。

竹中 結婚しても家出癖が治らなくて、結局、25年で離婚。今や華やかなバツイチ人生送ってます(笑)。子供の時からレール外れてばっかりなんやけど、24歳の時、重症心身障害児の娘を産んでから、まさに、"ナミねぇ"の人生が始まったんですね。親も教師も警察もできなかった私の更生を、娘がしてくれた。すごい奴です。

西野 率直にお尋ねして、娘さんの障害が分かった時、何を考えました。

竹中 考えるも何も、実感がないんです。ところが、私の父ちゃんが真っ青な顔して娘を抱き、「わしがこの孫連れて死んだる!」と言い出した。父は子煩悩なんですよ。私は父に溺愛されていたから、ハチャメチャできた面もあるんやけど、父は「お前がこういう子を育てて、不幸な目に遭うのをよう見とらん」と。その時、私思ったんです。じゃあ、幸せって何やねん? "こういう子"いうけど、この子は幸せになれへんの……。不良魂に火がついた。

西野 ナミねぇらしい。更生人生の始まりですね。

竹中 私ね、よく「一度は娘さんと死のうと思われたでしょ」と聞かれるんやけど、見栄でもハッタリでもなく、そう思ったことないんです。ずっと不良で来て、ずっと親不幸して、それでも父に愛されて、その父が「連れて死ぬ」いう子が私に授かったということは、ある意味当然なんです。もっと言うと、障害児の娘が産んで私は解放された。ああ、これでレールに乗らなくていい、ちゃんとした主婦にならんでええのやって……。娘と好きな生き方をして、私がハッピーなら、父は死なないで済みますからね。

西野 そう思える生命力が、ナミねぇにはあったんだね。私も多くの悲劇を知っていますが、誰もがそうはいきませんよね。

竹中
 私の周りにも、年に何人かは子供連れて死なはる人がいる。ちょっと田舎へ行くと、座敷牢みたいなところに入れられている子もいるし……。後になって、父が言ったことが分かりましたね。そうすると、余計にそんな理不尽に腹が立った。親が子を殺さなければならない世の中って何? そういう社会って滅茶苦茶おかしいやんて。

西野 そうやって血が騒ぐのも、不良魂?

竹中 というより、母のDNAやね。私の両親は、父は昔の京都帝大出たボンボンで、製鉄会社の幹部候補生。母は熊本第一高女を出て女性解放運動の闘士になったんです。熊本の旧家出身の母は、父親と長男が一段高いところで尾頭付き食べて、女たちは板の間でお茶漬けすするような生活が許せなかったらしいのね。その母の影響で、父は終戦直後のある日、会社の窓から何気なく赤旗のデモに手を振った。その瞬間、レッドバージ。

西野 解雇されたんですか。すさまじい時代ですね。

竹中 即クビ。母はその時、赤飯炊いたんですよ。「大企業のエリートなんて、将来カネもって女遊びするに決まっている」と言って喜んだ(笑)。赤飯炊いたのはいいけど、それから赤貧の暮らしですよ。母ちゃんの手内職で私ら学校に行けたようなもん。

 

西野弘と竹中ナミの写真

 

プロップ設立−−ギネス級の
私の口と心臓を利用して!

西野 ナミねぇは今、プロップ・ステーションを通じて、いわば社会変革運動を展開しているわけだけど、話を聞いていると、元々その下地があったことがよく分かる。プロップ設立のきっかけは何だったのですか。

竹中
 娘を通じていろんな障害者と知り合ううち、ある大学生の男の子と出会ったんです。彼は高校時代、将来を嘱望されたラグビー選手やったんやけど、試合中に首の骨を折って全身麻痺になった。寝たきりの重度障害者で、動くのは左手の指だけ。死ぬこともできない。けど、彼は考える力が自分に唯一残されていることに気付いて、これを磨いて社会復帰すると両親に宣言したんですよ。苦労して大学にも入った。

西野 入学試験はどうされたんですか。

竹中 そこがIT。鉛筆も消しゴムも持てへんから、当時のワープロを試験会場に持ち込んだんです。大学側は初め、前例がないと断ったけど、ラグビー仲間が頼み込んで受験できた。彼はコンピュータを勉強して大学院まで進み、稼業のマンション経営を継いでます。というより、マンションの経営管理ソフトを開発して、今や青年実業家。両親も「うちの息子、すごいでっしゃろ」と誇らしげに言わはる。

西野 なるほど。まさにチャレンジドストーリーですね。

竹中 着替えから食事、風呂、下の世話まで介護を受けている彼のような人間は普通、不幸の極みなわけですよ。彼はそうやない。その理由は3点あって、一つは彼が働きたいと思い続けたこと、二つ目は周囲がそれをサポートしたこと、三つ目はITのような最新の科学技術を利用したこと。この3点が揃えば、彼のようなチャレンジドが沢山生まれるという予感がして、一緒にボランティアやろうと……。それがプロップの始まり。

西野
 つまり、障害者の可能性を引き出すということね。僕の原点は留学時代のスウェーデンなんですけど、あの国の福祉がまさにそう。障害者に対し、「何をしよう」「何がしたい」から始まる。日本は障害者を弱者と決め付けて、可哀想だからおカネあげる、物をあげる、そういう"してあげる福祉"だから、決して希望の光が見えてこない。

竹中 その通り。私たちはそんな弱っちい人間やない、というのがチャレンジドなんですよ。プロップというのは、彼のラグビーのポジションだったのね。調べると「支え合う」という意味がある。ただし、障害者=支えられる人、健常者=支える人、ではなくて、互角に得意分野を補い合うのがプロップの精神。彼は口下手やけど、IT技術と経営能力がある、私にはそんな能力ないけど、口と心臓はギネス級。その二人が補い合えば、すごいんちゃうのと……。

 

竹中ナミの写真

今の日本では
娘を残して死なれへん!

 

ITの活用−−障害者に
必要なのはビジネスのプロ

西野 その互角の関係が従来の"してあげる福祉"と違うんですよね。だけど、勘違いされるでしょ。

竹中 実は先日、「ねむの木学園」の宮城まり子さんとお話したんやけど、宮城さんはまさにチャレンジドの母なんですよ。いわばマザー・テレサ。お茶にお花、ピアノも語学も教えられて、経理事務までできる。私は単なる"ごんたくれ"のオバン(笑)。母であろうと思ったことは一度もなくて、根っこにあるのはチャレンジドに私を利用してほしいということ。

西野 ナミねぇの口と心臓を(笑)。

竹中 そう。プロップはITのセミナーやってますけど、パソコンが上手になることが目的やなくて、それを使って自分を表現することが大事。そういう仕組みを私はつくったんです。プログラミングであれ、音楽であれ、グラフィックスであれ、とにかく世の中に発信して、できれば稼いで、タックスペイヤーになってほしい。その上で、そういう人たちに私の娘を守ってほしい……。実は私の究極の目標は、娘のような重度心身障害者を支えてくれる人を一人でも多く生み出すことなんです。

西野 つまり、自分を表現できる仕組みに参画できない人たちを、社会がどう支えるかという……。

竹中 そう。自立できない一握りの人たちは残る。残念ながら残るんです。西野ちゃん、私はね、安心して死にたいの。けど、今の日本では娘を残して死なれへん。だから、プロップは"ごんたくれ"の我が儘でやっているようなもんやけど、その"ニッポン変えちゃえ"作戦には賛同してくれる人も多い。

西野 実際、ITを活用して、障害者の自立に成功したビジネスがありますよね。

竹中 自閉症の子なんか、コンピュータとすごく相性がいい。グラフィックソフトを触っているうちに、自分の好きな色や線が描けるようになる。それだけなら、お遊びで終わりなんやけど、プロップはプロのデザイナーを連れて来るんです。カタログ通販大手のフェリシモさんと組んでましてね、いま一番人気は女性向けバック。布地に描いた線や色のグラデーションが一品一品違う。それがファンを広げて、年商1億円を超えた。

西野 今まで障害者の仕事と言えば、箱折り、封筒貼り、お皿作りですものね。それもチャリティでしか売れない。大事なのはアイデアなんだよね。

竹中 西野ちゃんの言う通り"してあげる福祉"には、アイデアも発想もないの。むしろ、考えたらあかん、あてがわれた福祉予算の中で生きていきなさい、という世界やから……。けど、チャレンジドに必要なのは福祉のプロやなくて、ビジネスのプロなんですよ。デザインやマーケティングのプロが入ることによって、彼らは世の中と接点ができ、職業人になれる。だから、プロップが掲げるのは「チャレンジドを納税者にできる日本!」なんです。

西野 最後に学校教育について聞きます。安倍内閣は教育改革を重点政策に挙げてるけど、ナミねぇが考える教育は。

竹中 ちょうど娘が小学校に入学する時、日本の教育は変わったんです。それまでは義務教育であっても、障害児は教育の義務を猶予されていた。そういうと親切そうに聞こえるけど、学校に来んでもええ。ということですわ。それが1979年、義務教育が義務化され、つまり、健常者とは別な場所で勉強しなさい、となった。

西野 隔離政策ですね。これが、チャレンジドを理解しない社会に日本をした根本原因です。

竹中 そう。ところが障害者法定雇用率とかいって、企業は障害者を何%か雇うことになり、突然、職場に障害者が来るわけです。健常者にすれば、子供の頃から一緒に過ごしてないんやから、付き合い方が分からない。スウェーデンや米国には、幼い時から障害は特別なものではなく、個性の一つとして認め合う風土がある。だから、チャレンジドがステータスのある地位で活躍できるんですね。弱者が固定的におって、それを税金で手当てするのが日本。欧米は一人も弱者にしないプロセスを福祉・教育という。その差が国の誇りに表れているのと違いますか。

西野 同感です。いや、ナミねぇの話、聞き出すと切りがない。納得のいく2時間でした。

 

◆対談を終えて◆

読者はとうにお気づきだろうが、「チャレンジド」とは、挑戦という使命・チャンスに恵まれた人々という意味である。障害の厳しい現実を、逆説的に"天恵"と捉える前向きな姿勢こそ、ナミねぇの真骨頂にほかならない。

しかし、その心意気に眼を奪われがちだが、彼女の活動は新しい経営の形なのである。埋もれた才能を発揮し、その需要をみつけ、商品サイクルに乗せてリターンを得る。その道具立てがITだった。この仕組みは先駆的と言える。なぜなら、今後の日本はますます"チャレンジド"の社会になるからである。

高齢者や外国人労働者の増加は、格差社会の拡大を意味する。そのハンディを乗り越えるプログラムを、真剣に考える時期に来ており、ナミねぇはその最先端に立っている。プロップは社会変革運動なのである。

それにしても、彼女の爆発的なパワーの根源は、やはり両親の愛だろう。「父ちゃんに溺愛され、母ちゃんには『いつかお前は何者になる』と言われ続けた」記憶が、ナミねぇの奔放な反骨精神を養った。"ごんたくれ"は伊達ではないのだ。深い愛情に裏打ちされている。

 




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