両手両足のない弁護士
「できるだけ多くの人たちの人生が、より良いものになるように、努力していきたい。そして、そのなかで、人生を愛し、生きているということを楽しんでいきたい。これが、私のモットーです」
ケンプさんは、1971年に米ジョージタウン大学を卒業、74年にウォシュバーン大学法科大学院を修了し、弁護士資格を取得(しゅとく)した。
ケンプさんには、両手両足がない。先天性(せんてんせい)の障害で、生まれたときから腕と膝から先がなかったのである。原因は不明だが、妊娠中(にんしんちゅう)に母親が服用(ふくよう)した、つわり用の薬の副作用(ふくさよう)ではないかと推定されている。障害を日本語で示せば、「先天性四肢欠損(せんてんせいししけっそん)」。『五体不満足(ごたいふまんぞく)』の著者(ちょしゃ)である乙武洋匡(おとたけひろただ)氏の持つ障害に近い。
移動手段は電動車(でんどうくるま)イスだ。義手(ぎしゅ)でレバーを器用(きよう)に扱(あつか)って動かす。レバーの手前側には亀が、奥にはウサギが描かれている。「ウサギのほうにレバーを押せば速くなるんです。だいたい10キロくらいは出るかな」と自慢(じまん)げに、いたずらっぽく笑った。彼はこの"足"で、全米を、そして世界を駆(か)けめぐっている。
ケンプさんの仕事は、多岐(たき)にわたる。パートナー弁護士、つまり共同経営者として名を連(つら)ねる法律事務所(Powers.Pyles.
Sutter & Verville,P.C.)は、医療や福祉、保険、健康などを専門とする全米有数(ゆうすう)の事務所だ。彼はここで障害者の権利保護や地位向上のために働いている。また、米国務長官の諮問(しもん)委員会である障害者支援政策担当委員会や、低所得者の医療扶助(いりょうふじょう)制度諮問機関のメンバーでもある。90年に成立した法律「ADA=障害を持つ米国人法」の制定にも貢献した。これは、雇用(こよう)などにおいて障害を理由とした差別を禁止した画期的(かっきてき)な法律だ。さらに、アメリカ障害者協会の共同設立者となるなど、多くの障害福祉関連団体、機関の役員や理事を務めている。これらの仕事の合間(あいま)を縫(ぬ)って、全米だけでなく、世界各地での講演活動を精力的に行っているのだ。
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ケンプさんと竹中さん
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重度の障害を持ちながら、これほどの成功を収め、いまもなお溢(あふ)れんばかりのバイタリティで行動できるのはなぜか。この疑問にケンプさんは、明快に答えた。
「父のおかげです」
ケンプさんが1歳3ヵ月のころ、母親は子宮(しきゅう)ガンで亡くなっている。子どもは3人。ケンプさんのほかに当時5歳の姉と、生後3ヵ月の妹。
「親であれば誰でも分かると思いますが、そもそも健康な子どもでも育てるのは大変なんです。もし障害を持っている子どもが生まれたら、離婚や一家離散(いっかりさん)など家庭が崩壊(ほうかい)することも珍しくありません。でも、父は、その場にとどまり、闘いました。父の奮闘(ふんとう)のおかげで、我(わ)が家(や)は一つの家庭として存続(そんぞく)できたのです」
父親はジョン少年に「お前は将来、社会の一員として活躍していける。学校に行っても、他の子どもたちと変わらずに生活するようになる。大学にも必ず行けるようになる」と常に語り続けた。
父親の言葉によって、ジョン少年の毎日の生活は、些細(ささい)なことまで、"一大プロジェクト"に変貌(へんぼう)した。
「将来、仕事をするようになったら、ひげを剃らなければならない。だから今から練習しておくんだ」と父親は教えた。ジョン少年にとっては、「ひげ剃り」の練習が、将来、仕事をしている自分の姿に結びついた。「家庭でも、平等に、普通に生活していきなさい」という父親の言葉も、ジョン少年が学校で、社会で、他の子どもたちと一緒に、平等な生活を送るためのプロジェクトの一環(いっかん)となった。
もちろん、へこたれることも、父親の励ましをプレッシャーに感じることもあった。将来に不安を感じるときもあった。しかし、父親は決してジョン少年を甘(あま)やかさなかった。
ジョン少年は、養護(ようご)学校ではなく、一般の学校に通った。彼は当初、他の子どもたちが受け入れてくれるのかという恐怖を感じていたが、予想通(どお)り、いじめられてしまう。
父親はジョン少年に「障害」と「ハンディキャップ」との違いを説明した。障害とは、身体や臓器(ぞうき)の機能が損(そこ)なわれた状態のことを指す。ジョン少年に当てはめてみれば、四肢欠損という状態がそれだ。ハンディキャップとは、本人とは関係のない外的要因から生じることである。たとえば、手が使えずに扉が開けられないことや、段差があって動けないこと。周囲の無理解のために、嫌(いや)な思いをさせられることもハンディキャップに含まれる。
このように説明したうえで父親は、「生まれつきの障害も、いじめられることも、お前の責任じゃない。悪いのはクラスメートたちだ」と断言した。
「もちろん、父はそう言いつつも、『だからといって、みんなが同情し、支えてくれるわけじゃない。できるだけ自立していかなければいけない』と教えてくれました」
ジョン少年の内面は、徐々に変化を遂(と)げていく。
「自分のことを好きになれたんです。一人の人間としての自分が好きだし、障害を持っている自分が好き。また、社会の一員として活躍している自分が好き。それぞれの自分を本当に好きになれました。そして、自信を持てるようになったのです」
課題に挑戦し、乗り越えたときには、達成感を味わえる。果(は)たすべき責任を果たしていけば、自尊心が生まれる。だが、適切な目標設定がなければ、不要な挫折(ざせつ)感を味わうことになる。自分の責任範囲を明確にしなければ、いつしか空虚(くうきょ)な気持ちになる。父親は、絶妙(ぜつみょう)な判断で、ジョン少年を導いていった。
「でも」とケンプさんは続ける。
「父はさまざまな教訓(きょうくん)を与えてくれましたが、それ以上に、いまの私を作ってくれた大切なものがあります。私の家庭には、常に笑いがありました。明るい家庭で、家族で一緒にいることが楽しかったのです。私は笑うのも好きだし、話すことも大好きです。父がそんな家庭を作ってくれたからこそ、私も明るく、積極的な人間に育ったのだと思います」
ケンプさんの父親は現在87歳。パーキンソン病の症状が見られ、歩行が困難になっているが、頭はクリアだという。
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