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現代粧業界 2005年7月1日 第273号より転載

  「修羅場をくぐった者だけに変えられることがある」  
 
チャレンジドが誇りを持って
「働ける」社会づくり目指し
 
 

 

特別インタビューパート230

社会福祉法人
プロップ・ステーション理事長

竹中ナミさん

  竹中ナミの写真
元気と誇り 竹中ナミの色紙

●Profile

昭和23年、神戸市生まれ。小学校のころから家出を繰り返し、16歳で結婚。24歳のとき、重症心身障害児の長女を授かったことから、療育のかたわら独学で障害児医療・福祉・教育を勉強し、平成4年、チャレンジドの社会参加と自立を支援する「プロップ・ステーション」を設立。同10年には社会福祉法人格を取得し、理事長に就任。現在、複数の行政機関の委員なども務めるほか、新聞にコラムを掲載するなど、幅広い分野で活躍中。同11年、エイボン女性賞・教育賞、同14年、総務大臣賞受賞。


 「チャレンジドという言葉を知ったとき、娘も特別な使命を与えられ、挑戦を運命づけられた子なんや、なんて素晴らしいんだろうと、ものごっつう感動したんです」。竹中さんの長女は重症の心身障害を持つ。「お母ちゃんとして娘のような子の自立と社会参加を」と社会福祉法人「プロップ・ステーション」を立ち上げた。プロップのスローガンは「チャレンジド(障害を持つ人)を納税者にできる日本」。障害者も社会を支える側に回ることのできる社会システムの確立を目標とし、竹中さんの活動も、縦横無尽に広がっている。

 

「誰も言えないなら私が言う」
阪神淡路大震災を契機に活動の幅を広げ

−−「チャレンジド(障害者)を納税者に」。取りようによっては、非常に過激なキャッチフレーズだと思ったのですが。

竹中 これは私が考えついたものではないんです。もとはケネディ大統領の最初の教書から引っ張ってきた言葉。アメリカでは、車椅子に乗ってたり、盲導犬を連れてたりする官僚や政府高官というのがナンボでもいます。彼らは弱い存在ではない。それは個々の能力をきちんと生かそうよ、という考え方が、当たり前になっているからなんですが、最初にこの考えを打ち出し、法整備に着手したのがケネディなんです。この宣言を初めて知ったときはもう、目からウロコ。「日本で誰が言えるやろ? 誰も言えんやろな」と思いました。でも、誰かが言わないと変わらない。「私なら押しの強い関西のおばちゃんやし、言うてみたろ」てな感じで、プロップの活動を始めたのが15年前です。「障害者の負担を増やすなんて」など、最初は反発の嵐でしたが、震災後、一気に理解が広まってきた感があり、活動の幅も広がっています。

−−阪神淡路大震災ですか?

竹中 はい。あの未曾有の大惨事の時、まだインターネットは普及していませんでしたが、日本で初めて、パソコンによるボランティアが立ち上がっています。神戸市内は交通が寸断され、とにかく情報が混乱していましたよね。このボランティアは、電気が復旧してすぐ、現地にいる人間同士が、パソコン通信で情報交換できるシステムをつくったのですが、かかわった人はみんな、重度のチャレンジドなんです。普通、災害時には最も助けが必要な人たち、というイメージがあるでしょう? ところが彼らは、皆が何をしていいか分からない場面で、地域に大変な貢献をした。そこで、震災を肌で経験した関西圏を発信地に、「今までの考え方を180度ごろっと変えなきゃいかんのではないか、チャレンジドにも社会構成員としてできることがあるのでは」と考える人たちが徐々に増えてきて、プロップの活動がクローズアップされるようになったんです。

 

最新のコンピュータ武器に自立を支援
可哀想・気の毒だけで終わるのは社会の損失

−−社会福祉法人としての活動は、パソコンの技能を磨く自立支援策が中心ですか?

竹中 ええ。システムプログラムやDTPなど、各講座とも充実してきました。現在、セミナー受講者数は延べで約1500人、就業スタッフ数も延べ300人ぐらいでしょうか? でも、確かにうちはコンピュータでここまできましたが、活動が続けてこられたのは、常に最新の情報を持ち、それを使いこなす人材が集まっているからだと思います。それこそ一般の企業でも使っていないような最先端の情報技術、IT技術を使っています。通って来るのが困難なスタッフとは、テレビ会議で話しながら、打ち合わせをしていますよ。

−−すごいですね。

竹中 それはもう、お仕事のコーディネートも、私の大事な仕事ですから。優秀な人材そろってまっせ、てなもんで(笑)。でも、本当に、震災後インターネットが日本で普及し始めた当初、いち早く接続を果たしたのもうちだし、普通回線からブロードバンドに切り替えたのも、日本の法人の中では一番早いと思います。ご存じのように、「障害者」は義務教育の段階から、何かと囲い込みを受けることが多いですよね。だから逆に、「普通」の人は、チャレンジドが何ができるか、考える機会がない。でも、コンピュータを介したらお互いの関係は一変します。

−−それは例えば?

竹中 ちょうど今そこに、足でパソコンを操作してる人がいますね。あの先生、うちのセミナーの1期生です。5〜6年勉強してプロになられて、それから数年間はボランティアで教えてくださって、今は講師。彼の講座は人気があります。なぜなら、全て足で教えるから。手が使えなくて可哀想、気の毒な人でも、ここでは「先生」。生徒さんは、常識をひっくり返る体験をします。それが大切なことなんです。可哀想、気の毒だけでは、一緒に何かするためにどうしようか、という次の発想が出てきません。私の知り合いでも、何々はできないけど天才、という人がいっぱいいます。それこそ、前述の震災時ボランティアのためのシステム構築をしてくれた人のような。でも、まだまだ彼らは、日本では可哀想な障害者で、それは社会にとって非常にもったいないことだし、大変な損失だと思うんです。

−−バリアフリー社会の仕組みづくりについても、海外の最新の事例を紹介しておられますね。

竹中 この間もハワイでチャレンジドの国際会議がありまして、勉強に行ってきました。アメリカには、州政府とチャレンジドを結ぶインターネットの市民サービスがあるんですが、そのサービスを提供するためのシステムは、ハワイ州が一番優れていると言われています。実は今度、大阪市の都市経営諮問委員会の改革本部で立ち上がる、IT関連プロジェクトの責任者になるので、ハワイのシステムを大阪市に導入するため、駆けずり回ってます。大阪市の市民サービスHPを「日本で一番優れている」と言われるもんにしたいですねぇ。

 

竹中ナミの写真

大阪市改革本部委員に就任し自治体改革をサポート
「アウトローだったからこそ、おかしいと言える」

−−大阪といえば、異色の弁護士としてベストセラー作家になられ、さらに一昨年12月からは市政改革の旗手として大阪市助役に就任された大平光代さんは、大の親友とお聞きしています。

竹中 みっちゃんと会ったのは割りと最近で、まだ1年ちょっとしか経ってないんです。ただ、彼女のご本「だからあなたも生き抜いて」は読んだことがあって、「すっげえ姉ちゃんが日本にいるなあ、いつかお会いしたいもんだなあ」と思っていました。それで、たまたま去年、大阪市の当時の助役と会見する機会があったんですが、その場に彼女も同席していたのが、最初の出会い。「こんにちは」って言いかけたら、彼女がぱっと立ち上がって「あなたがナミねえですよねえ!!」ってすごい勢いであいさつがあって。なんで私のあだ名を知ってるのかと思ったら、実は共通の友人がいて、私のことをずっと聞いていたらしい。そこでもう、その日は仕事そっちのけで盛り上がってしまいました(笑)。

−−都市経営諮問委員会の委員をお引き受けになったのは、親友を助けるため?

竹中 ええ。大阪市の今までのごたごたって、よく考えれば、歴代の市長さんだって知っていたはずです。現に、前職の磯村さんの時には一度カラ残業・カラ出張が発覚していますよね。そのときに徹底的にやると言いながら、実は何もやってなかったということでしょう? それを今の関市長はとにかく自分のやれる間に改革をやりきる、おかしなことは全部出して、市民が納得できる市にする、と公約された。みっちゃんの登用についても、内部だけでは改革をやり遂げることができないから、と相当に口説きはったそうです。「あなたの力を貸して欲しい」って。彼女もその覚悟を聞いて、自分が弁護士という仕事でここまできたのは、大阪の人たちの応援があればこそだから、じゃあしばらく弁護士の仕事はお休みして、大阪市のために一緒にやります、と決意した。

−−大変な覚悟ですね。

竹中 と思いますね。彼女の「私でなかったら、多分できへんとこがあるから」という言葉を聞いた時、「改革ってやっぱり恐いことも経験し、修羅場をくぐった人間やないとできへんよなぁ」と思い、じゃあ私もできることを協力します、と言いました。今、いろんな自治体で改革を叫ばれていますが、必ず死人が出ているんですね。やっぱり、それくらい改革って大変なことなんです。

−−「修羅場をくぐった」というのは?

竹中 私も不良少女でしたから。それはもう、めっちゃワルで(笑)。それは今も変わらないです。不良だからできることってあるんですよ。だってね、世の中、ルールにのっとって生きていかないといけない、と皆さん真剣に思ってらっしゃるじゃないですか。だから、自分が属している組織のルールを破ったりすることや、因習・習慣を破ったりすることはタブー。ところが、私はもともとアウトローで一匹狼だから、世の中のルールの方が変と思ったら、「ルールがおかしい!!」って言っちゃえるんですね。それは不良やったからです。良い子は言えない。だから、私とみっちゃんが一瞬で親友になれて、今お互いがかけがえのない友人でいられるのは、やっぱり二人とも修羅場をくぐったからです。それも、半端じゃないのを。

−−今後の活動は?

竹中 大阪市の改革委員会のほかには、8月に地元・神戸でチャレンジドの国際大会を開きます。こういう活動を続けるのは、私が死んでも娘が社会の中で、きちんと存在できる場所をつくりたいからなんですね。社会と個人がうまくギブ&テイクの関係を結べるような国になれば、高齢化社会になっても、恐がることなんか全然ないと思うんです。だけど今のように、障害者は弱い人だ、高齢者は何歳以上で年金だけもらってたらええやん、みたいな上下関係をベースにしたことを言っている日本では、私の娘のような存在はそのまま認められるということはないし、何よりこれからはそういう予算もなくなっていっちゃうはず。だから、みんなで支え合いをすることで、日本の経済も、個人の尊厳もちゃんと維持していけるような社会になるといいな、というのが究極の目標です。そういう意味では、「母ちゃんのわがまま」なんですよ。

 




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