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独立辞典 2004より転載

     
 
障害者を納税者にする。
そんなとんでもない主張を
真っ先に歓迎したのは、
“チャレンジド”たちだった
 
 
 
 

社会福祉法人プロップ・ステーション
神戸市東灘区
理事長 竹中ナミさん(55歳)

 

写真:掲載トップページ

 

Nami
Takenaka

1948年、兵庫県生まれ。神戸市立本山中学校卒業。15歳で同棲、高校を除籍、16歳で結婚、19歳で長男を出産。72年、長女を出産。回復の見込みのない重症心身障害児と診断される。以後、療育を続けながら障害児問題を独学。ボランティア活動にも積極的に携わる。89年、障害者の自立支援組織「メインストリーム協会」に参加。91年、「チャレンジド(障害者)を納税者にできる日本」をスローガンに、障害者の就労支援団体「プロップ・ステーション」を創設。現在、理事長としてマスコミ取材、執筆活動、講演会および事務所の雑用に多忙な毎日を送る。姉御肌の性格で、周囲からは“ナミねぇ”と呼ばれている。

 アクセスはこちら!
 → http://www.prop.or.jp/

● 1972年、竹中さんは長女、麻紀さんを授かった。3ヵ月後、病院で先天的な脳障害があり、一生治る見込みはないと告げられた。それを聞いた竹中さんの父親は言った。「この子がいたらナミは不幸になる。わしが麻紀を連れて死ぬ!!」

「それまで私の身の回りに障害者はいなかったから、娘が障害児言われても正直実感はなかったん。父ちゃんに言われて、初めてそんな大変なことなんかと」

 医師から我が子の障害を知らされ、そのまま病院の屋上から母子が飛び降りてしまった――30年前、そんな悲惨な心中話はいくらでもあった。死なないまでも、障害児の親は周囲に同情されながら、うなだれて生きるしかなかった。「私が死んだら、この子はどうなるのだろう」と思いながら。父親の言葉は、そんな不幸があるということを一瞬で竹中さんに理解させた。しかし、おかげで彼女は「不幸な障害児の母」という段階を経る必要がなくなった。

「だって私が幸せでないとお父ちゃん、麻紀を殺して死んでしまう(笑)。そもそも、私が幸せか不幸せかは、私が決めるもんや」

 24歳。髪を染め、ミニスカートをはいたヤンママの先駆は、そう心に誓った。

● 父親は温厚で、家事を手伝う良き夫でもあった。一方、母親は早くから女性解放思想に目覚め、戦後は共産主義思想に傾倒。生活力もあり、極貧にあえぐ竹中家を保険調査員というタフな仕事で立て直した。

 だが、子供たちにはバリバリに理論武装した母が理解できなくなった。そんな母親への反発もあって、竹中さんは中学生になると夜の街をうろつくようになる。

「普通の親は怒りますやん。ところが、母ちゃんは『子供の人格と個性を認めなければならない』とか、『社会が悪い』とか、教条主義でしかものを言わないんです」

 この頃、家出した竹中さんは、たまたま知り合ったやくざ(!)から紹介された、「椿姐さん」という女性のもとに転がり込んでいる。当時、神戸のキャバレー界でトップを張るホステスさんで、美しいうえに人格も立派でカッコいい女性だった。

「母ちゃんは職業に貴賤はないと言いながら、水商売の女なんてだらしなくて劣った存在だと思い込んでいる。けど椿姐さんは、家事だってそこらの主婦が足元にも及ばない。社会は母親が言うような観念じゃなく、実体なんだとその時感じたんです」

 実家に戻ってからも彼女は不良少女であり続けた。高校は除籍、同棲を経て16歳で結婚、19歳で長男を出産。そして長女。

● 長女は重症心身障害児だったが、脳性マヒではない。障害者手帳1級を取得するため、医師は胴体に比べて手足が小さいからというこじつけで病名を「侏儒症(しゅじゅしょう)」とした。結局、何もわかっていなかったのだ。

 竹中さんはほかの障害児の親たちと共に、過酷な機能回復訓練を「この子のため」と懸命を続けた。つらいからやめるとは言えなかった。新興宗教の修行のように。

「けどうちの子は、良くなるどころか泣き叫ぶようになった。不審に思って指導の先生に尋ねたら『重症心身障害には逆効果のことも……』。それ、言えちゅうねん(笑)。それから13年も泣き叫ぶ発作が止まらなかった。人の話をうのみにしたり、流されてはダメ。娘に申し訳なかった」

 竹中さんは自ら障害者のボランティアをやるようになった。さまざまな障害者と知り合い経験や知識を得ることが、娘を育てていくうえできっと役に立つと考えたのだ。

 88年のある日、廉田(かどた)さんという車椅子の青年から、全国車椅子大会に「アテンダント」を導入したいので、手伝ってくれと頼まれた。アテンダントとは障害者を介助するプロのことで、ボランティアではなくて障害者が自らお金を払って雇うのだという。

「障害者が雇用主というのは、何か今までとは考え方が違う。喜んで手伝いました」

 廉田さんはアテンダント制度を普及するため、翌年「メインストリーム協会」を設立。この協会で、竹中さんは自立を望む障害者が実は大勢いることを知った。そして、その望みを可能にするツールとして、コンピュータが登場してきていた。

「これを使えば障害者が在宅で仕事ができますやんか。仕事をすれば、収入がある、納税の義務も発生する。立派な社会人として生きていける。『障害者を納税者にできる日本』、これや!! と思ったんです」

●92年、竹中さんは離婚して大阪に移り住んだ。昼間、麻紀さんを預けられる施設を探したが、「あなたは兵庫でボランティアをしていたそうだけど、大阪ではしてない。だから受け入れられない」と断られた。

 この件に限らず、竹中さんにとって障害者福祉の世界の閉鎖性・排他性は、理解不能なものだった。同じ障害なのに団体がいくつもあった。障害が先天性か後天性か、その度合いの軽重、さらには障害の原因となった損傷の部位がどこかというだけで、グループが違う。そしてその団体同士が、少ない予算をめぐって「一番困っているのは私たちなのだから、私たちに予算を付けろ」と、互いに反目し、ケンカする。

 竹中さんたちが任意団体「プロップ・ステーション」を立ち上げたのは、91年のことだ。プロップとは支え合い、つっかえ棒の意味。彼女は理事長の大役を担った。「お金を取り合うのが福祉団体の目的になってしまって、力を合わせようとしない。このドツボにはまったらあかん」と肝に銘じた。まず全国の重度障害者1300人にアンケートを取った。何と8割が「パソコンをツールに仕事をしたい」と答えていた。ならばパソコンセミナーを開催しようということになったものの、肝心のパソコンがない。金もない。企業に掛け合った。ただし、「気の毒な障害者に寄付を」ではなく。

「これまでだと、障害者用だから型落ちのものとか中古のものでもいいという考えでしょ。仕事をするんやったら、最新のものでないとイカン。先行投資だと思ってパソコンくださいと言いました」

 障害者が自分で稼げるようになるためという竹中さんの異例のプレゼンに、企業側も「こんな障害者福祉団体があるとは……」と、新鮮な衝撃を受けたのだろう。名だたるコンピュータメーカーが、パソコンを寄付してくれた。

●アメリカには障害者の新しい呼び名として「チャレンジド」という言葉がある。神から挑戦する使命や課題、あるいはチャンスを与えられた人々――セミナーにやってきたのは、まさにチャレンジドたちからだ。

 インストラクターは新聞で公募した。一流のエンジニアたちが集まってくれた。最初のセミナーには5人のチャレンジドが参加した。もちろん自分で受講料を払って。第1期生のひとり、岡本さんという50代の男性は足でみごとにマウスを操る。今やセミナーの人気講師である。

「彼は30歳まで親の完全介護で、足を使って何かしようもんなら『みっともない!!』とお母さんにしかられてたそうです。けど、一念発起して1週間で日常のほとんどのことを足でできるようになったそうです」

 日本の社会は「正常」というモノサシですべてを図ろうとする。正常を基準とするがゆえに、足でならできる、手話でならしゃべれるという彼らの能力や可能性を「みっともない」と摘み取ってしまう。

「確かに障害者が毎日会社に通って、仕事をするのは無理。でもパソコン使って、ワークシェアリングして、在宅で仕事をすることならできる。なら、そういう仕組みをつくるほうが、福祉に税金つぎ込むより、ずっと社会にとっても有益ですやんか」

 そういうわけで94年には営業部門ができた。自治体や企業から、パソコンを使った業務をアウトソーシングで請け負う。企業側には価格、納期、品質を守ることをプロップ・ステーションが約束する。チャレンジド側にはそれぞれの能力や、障害の程度、体調、働ける時間や季節などを考慮して発注していく。両者にとっての公正なエージェントというのが、プロップ・ステーションの役割だ。多い時には100人もチャレンジドが、仕事を受託している。

●批判もある。「障害者のために税金を取ってくるのが福祉なのに税金を払わせようとは何ごとか」云々。だが一口に障害者と言っても考え方は人それぞれではないのか。

 福祉に携わる人々が陥りがちなのが「私は正しいことをしている」という思い込みだ。自分が正義だから意見の違う人を正しくないと責める。これでは社会の側も腰が引けてしまう。こんな言い方をしたら差別と取られないか、傷付いたと言われないか……そんなビクビクした付き合い方になる。

「日本のマイクロソフトの社長だった成毛眞(なるけまこと)さんはうちの支援者のひとりなんですけど、その成毛さんが、ある時駅の階段で車椅子の子をほかの乗客と一緒に運んであげたそうなんです。ところがその子は当然のような顔をして、そのまま行こうとした。成毛さん、大声で『こら!! 礼くらい言え!!』って怒鳴ったんですって(笑)。対等に言えるっていいことじゃないですか」

●娘の麻紀さんは今は施設にいて、竹中さんは休日を彼女と過ごす。例によって「障害のある娘をほったらかして……」という陰口も聞こえてくる。それでも30年前と比べれば、状況は良くなってきたという。

 障害児を持つ若い母親から手紙が来た。

「『この子に障害があったから、私もいろいろな発見ができました。今では自分をラッキーだと言えるようになりました』と書いてあった。嬉しかったです。みんな自分を解放したがってたんや、と思いましたね」

 福祉団体の異端児だったプロップ・ステーションも、98年、ついに厚生大臣(元・厚生労働大臣)認可第二種社会福祉法人格を取得した。同じような組織も全国にぼつぼつとでき始めている。

 孫を連れて死ぬ、と言った竹中さんの父親は、84歳で天寿を全うした。母親は相変わらずバリバリに元気である。

 “ナミねぇ”こと竹中さんは、講演会に引っ張りだこだ。しかし、福祉の話だからと眉間にしわ寄せて聞かれるのは大嫌い。会場をギャグでドッカンドッカンわかせることに、関西人の誇りを賭けている。




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