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ITセレクト2.0 2004年2月号より転載 |
夏目房之介のイノベーターの履歴書 第二回 | ||
「レールから外れてばかりいるんです」
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社会福祉法人プロップ・ステーション |
強力な磁場と存在感、圧倒的なナミねぇパワー
竹中ナミさん、と書いたとたんに、「ナミねぇ、って呼んでっ!」という元気のいい、関西イントネーションの声が聞こえてきそうだ。でも、ここんとこはショッパナの紹介なので、仕方ない。 竹中ナミさんは、91年、障害者(ナミねぇ流に言えば「チャレンジド」)のパソコンやネットによる社会参加を主張し、在宅就労や自立を支援するプロップ・ステーション(98年社会福祉法人)を立ち上げ、マイクロソフト日本法人元社長の成毛眞さんや女性議員など多くの支援者を得て、「チャレンジドを納税者にできる日本!」をキャッチフレーズに法案化を推進。バリアフリーをさらに進め、高齢者なども含めた支え合い社会モデルを目指す「ユニバーサル社会基本法案」へと展開している。あ−、一気に書いて疲れた。 でも、竹中ナミさん……いや、ナミねぇはこれの10倍の内容を一気に、決壊したダムのようにしゃべりまくるような圧倒的な元気パワーの人なのである。 そして、彼女の取材はもう、プライベートも含めて(というか、むしろそっちの)大量の面白い話を、いかに焦点を絞って交通整理するかが課題だということが、資料を読んで分かっていた。 しかし、分かっちゃいるけど止められないのが、面白い出会いの勢いというもので、案の定、取材は大笑い大会になってしまったのだった。何しろ敵はほとんど芸人並みの関西ノリのパワーウーマンなのである。 ここはプライベートの話にいく前に、言っておくべきポイントだけでも押さえないと、書くことが多すぎてまとまりがつかない。もし、ナミねぇの波乱怒涛の人生に興味が湧いたら『ラッキーウーマン』(飛鳥新社 03年)を読んでもらうのが、一番いいだろう。
人を巻き込む共振力
「私は重度脳障害の娘をもったおかげで不良道から更生したんですけど、今度は自分が安心して死にたいんです。今、日本は子が老いた親を介護するとか、多くの元気な人が老いた人などを支える頭の小さな雪だるま型のモデルになってますけど、これ、10数年で雪だるまがひっくり返ります。2軒に1軒が介護家庭、少ない人が多くの人を支えなアカンのです。無理ですやん、それ。 でも『このコより1日でも長生きせな』いうんがチャレンジドの親の気持ちなんです。それやったら、100の力の人だけが世の中支えるんやなくて、50、10、3の力も組み合わせて生きる社会にしたらええと思たんですね」 言うまでもなく、ここで言われているのは今後の日本社会のイメージをどう考えるか、という最も基本的な理念に関わる。高齢化社会と言われる現実を乗り切る考え方として、私もその方向がいいと思う。でなければ、積極的に移民を受け入れ、多民族の方向で人口を増やすかだ。 老いた将来の自分のことを考えても、何よりも重要なのは能力に合わせた社会参加、つまり「役に立っていることの誇り」こそが人の生きる基礎である。社会から切り離してしまうと、とたんにボケてしまい、それこそ社会構成員として役に立たなくなってしまう。 ナミねぇは私より2つ上の1948(昭和23)年生まれで、いわゆる団塊の世代だが、今この日本で一番多い層が介護などを通じて「老いと死」の課題に突き当たり始めており、それはこの国の社会像の変更に直結しているのだ。 けれど、私を含めてこの年代、特に大学卒の層は学生運動を経験し、かえって「社会や国は変えられないものだ」という深いトラウマをもっているように思える。ナミねぇのパワーの意味は、実は「この人なら変えるかもしれない」という、いい意味での楽天的な方向性にある。 理念の方向性の説得力はある。基本的には私も同じように思う。 ただ、私と違ってナミねぇには強力な磁場のような共振する力があって、そばにいる人、会った人を巻き込み、その気にさせてしまうのだ。そして、私のように優柔不断で臆したりせず、真っすぐ目的に向かう。 しかも、これが重要なところだが、一緒にいる人はまるでお笑いの芸でも見ているかのように楽しい。それは、彼女自身が楽しんでいるからだし、基本に自分と娘のため、という不動の重心がはっきりあるからでもある。 ナミねぇは(この言い方も、普段の私ならまずしない。でも、彼女に「3回言うたら慣れるから」と言われると、その気になってしまうのだ)、大きく見える。 まぁ、確かにちょっとふっくらしているが、実は小柄である。それがお相撲さんにでも会ったような印象で残ってしまうのだ(すみません、すごくホメてるつもりなんです)。 人間には、足や手の先など身体の物理的な限界を超えて、その人の声が届いて影響する範囲とかで形成される、見えない「大きさ」がある。その範囲が彼女は大きいのだろう。若いころは女優を目指して新劇をやったというが、そういう素質は間違いなくあったと思う。歌手や俳優には、実際よりはるかに大きく見える人がよくいる。 そこには「分かりやすく、面白く伝える」という、たぶん生まれ育った環境に深く関わる主題がある。ご本人が「関西ノリ」と自認する部分で、私のような東京生まれは若いころあこがれた関西弁の力もある。 「レールから外れてばかりいるんです。プロップを立ち上げるときだって、ずいぶん抵抗があって怒られましたもん。国のお金、どれだけ取ってくるかが福祉ちゅうもんやのに、納税者にするとは何事やねんて。障害をもってる人からは、有料セミナーやったときに反発がありました。それまで、かわいそうやから無料で助けたるのが当たり前やったからですね。でも、最初無料でやってみたら次から来ないとか、遅れて来るとか、プロになる自覚ないんです。これじゃアカンて思って……」 一つも難しい話はない。けれど言葉のリズムと話の具体性が、主題の深刻さと関係なく聞いている方の生理的な快感につながる。一つの挿話に、自分の性格、福祉の理念、現場的なエピソードが無理なく入っている。これをナミねぇは自然に(というより、これしか話し方なのだろうけど)成り立たせているが、例えば私などが文章でやるときは、それなりに大変なことだったりする。 やっぱり関西だよなぁ、と関東人の私は思ってしまうのである。
やくざな世界からこっちに
ナミねぇは神戸に生まれた。 ダンディでかっこよくて、昔は遊び人だった父と、その父が「ぞっこん惚れとるんや」と言ってはばからない母に育てられた。母は強烈に反体制な女性解放運動の活動家で「教条主義」的だったが、父はひたすら母が好きで、元は「ぼんぼん」だったのに、母に合わせていた。 父が、会社の窓からうっかりデモに手を振って、レッドパージにひっかかって大企業のエリートコースをしくじったとき、母は「大企業の重役なんて必ず悪いことして浮気する」という反ブルジョア的感性のために、かえって喜び、赤飯を炊いたという。 自らファザコンと言うほど父が大好きだったナミねぇは、おそらくその反動もあって(というか、たぶん母と父を取り合って)母に反発する。小学校のころから放浪癖があり、最初の家出は近所の土管で寝た幼稚園の記憶。 「とにかく家にジッとしとるのはイヤなんですね」 母の禁止したマンガ家にあこがれ、手塚治虫が大好き。手塚と小島功を講師にしたマンガの通信教育を受けたが、役に立たなかった。今でもかわいいイラストを描く。 「そやから、私は手塚さんの弟子なんです」 中学にはほとんどいかず、新劇の劇団に入ったが声の訓練に「インターナショナル(旧ソ連の国歌)」を歌うような雰囲気に「家と同じやん、あんまりおもろないな」と思い、仲間とバカ話しているとき「お前らは漫才の方が向いとる」と言われ、それなら少しやってみるが、「長続きせぇへんのですね。中途半端なんやねぇ」 中学のとき長期の家出をし、酒場でヤクザさんと知り合い、母親が嫌った水商売をやろうと紹介を頼む(やくざさんに勧誘されたのではなく逆である)。彼は神戸のキャバレーのトップの姐さんに紹介。彼女の家に住み込みで弟子入りし、英語紙も含めて全新聞を読むほどのプロ根性に感動するも、道半ばで発見され、家に連れ戻される。 「そんとき、親が姐さんを通じてやくざさんにお金渡したんですけど、バカやから自分が頭にきて、また弟子入りさせてくれゆうたんです。そしたら、もう二度とこっちの世界にきたらアカン!言われて。あの時代は、あっちとコッチの世界の線引きがはっきりしてました」
負の感情エネルギーを払拭
高校に入った年の夏休み、アルバイト先の兄さんと付き合って同棲。16歳で結婚。不良道まっしぐらで、高校は除籍となり、ナミねぇの学歴は高校中退ではなく中卒になってしまった。 両親は、それを止めなかったのか。 父は「ワシの子やから、しゃない」と言い、母は「お前は、いつか男を超える偉い女性になるんや。そのためには多少のことは何でも栄養になる」と、かえって期待を寄せる。要するに世間一般の文脈ではなかった。 不良道といっても、普通の家庭や親に反発したり、物足りなくてなるのではなかったのだ。何か異常なテンションの感情エネルギーが、普通と違う方向に噴出している場所=家から、別の噴出場所を探していくようなことだったかもしれない。 そのナミねぇが、結婚5年目、22歳のときの子の親となる。長男の誕生だった。 「そのとき、これでフツーの主婦にならんとイカンのかな−と思ったんです。それから3年後に重度脳障害の長女が生まれて……」 もちろん、どうしようと思った。両親のところに相談するつもりで行った。 「そしたら父が、この孫殺してわしも死ぬ。お前がつらい思いするのは見とられん!と言うんです。ちょっと待て、と」 普通、母親が「このコ連れて死ぬ」という場面がある。実際、チャレンジドの親にはそういうことがある。が、父がテンバってしまったために、ナミねぇは逆に冷静にならざるを得なかった。 「大好きな父を死なせたらいかん。それと、ハナから私の幸不幸を決めつけんといてくれ、いうものもありましたね。これは、何としても私と娘の人生を楽しくやってくようにせなアカンようになってしまって」 ここからナミねぇの、常人離れした活躍が始まる。チャレンジドに関する独学、医者訪問、ボランティア……そして、現在の活動につながるのである。夫との離婚もあった。 初めは障害の原因追及を始めたが、ある時点で、もし原因が分かると、薬なり医者なり、その原因をずっと憎んで生きることになるのかもしれんと思った。そんな自分がイヤで、すっぱり止めて、どう育てて生きていくかに集中することにした。負の感情エネルギーが、本当に嫌いなのだ。 「長女が生まれて、どっかに、ああこれで普通の主婦にならんでええのや、レールに乗らんでOKなんやってと思ってましたね」 そういう言葉が、逆説でなく聞こえるのは、やはりこの人の破格な存在感からくるのだろう。長女のことも含めて、人生を楽しむことのできるケタ外れの能力が、この場合、イノベーターとしての才能になっている。 ちなみにナミねぇは歌もうまい。この連載で初めて、取材の後に呑みに行こうという話になり、カラオケにいったのだ。取材後も破格のナミねぇであった。やっほー。
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