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NEW MEDIA 2003年9月号より転載

     
 
テーマレポートのカット
 
 

「第9回チャレンジド・ジャパン・フォーラム 2003
国際会議 in ちば」

米国からのユニバーサルな風

 
     

「第9回チャレンジド・ジャパン・フォーラム(CJF) 2003 国際会議 in ちば」が、8月21日と22日、千葉県幕張メッセで開催される。
テーマは、「千葉からユニバーサルの風を」。年齢・性別・障害の有無に関係なく、すべての人が持てる力を発揮できる「ユニバーサル社会」のシステム作りを訴える。プログラムの大きな柱の一つは、その面で先を行く米国からゲストを迎えてのセッションだ。
開催に先立つ6月初旬、CJF主宰の竹中ナミさんらとワシントンDCを訪ね、今回迎えることになる3人の話を中心に聞いた。
(構成・写真:中和正彦=ジャーナリスト)

 


テロで重度障害の職員
IT支援で復職を果たす


 米国防総省には、ITでチャレンジドの就労を支援するコンピュータ電子調整プログラム(Computer / Electronic Accommodations Program=CAP)という部署がある。その指揮を執るダイナー・コーエンさんを、ペンタゴンに訪ねた。

 2001年9月11日のテロ事件では、ペンタゴンも直撃を受けて多数の死傷者を出した。普段は大きな身振りを交えて快活に語る彼女が、この話題ではそうした様子を失い、多くを語らなかった。が、一つだけ、明るい表情で語ってくれた話があった。重症を負い、重度の障害が残った職員が職場復帰を果たしたとのこと。

 「彼は、最初はもう何もできないと絶望していました。それが、われわれの支援で仕事に戻れるとわかって、ものすごく元気になったんです!」

 CAPの面目躍如たる話である。

 実は、筆者は2000年8月に開催された第6回CJFで彼女のCAPについての講演を聴いて感銘を受け、今回、本誌編集長とともに、CJF主宰の竹中ナミさん(社会福祉法人プロップステーション理事長)の米国視察の旅に加わった。コーエンさんは、3年前の講演で次のようなことを語っていた。

 「これまでに1万7,000件の支援要請を受けたが、大多数は1,000ドル以下で足りた。有能な人材を雇えば、障害の有無によるコストの差は問題にならない」

 「CAPが支援した障害を持つ職員の70%以上が昇進している。重い障害を持った人も、適切な支援があれば、ただ雇われるだけでなく、競争力を持てる」

 「有能な人を雇うために、毎年夏に全米から200人以上の障害を持つ大学生を実習生として受け入れている。国防総省は軍事だけでなく、障害を持つ人の雇用でもリーダーでありたいと思っている」

 CAPを1990年の設立当初から指揮してきたコーエンさんは、日本には計画すらない先進的な取り組みを10年の実績として語った。その実績に裏付けられた確信に満ちたメッセージは、日本の聴衆に大きなインパクトを与えた。

 


政府のチャレンジド雇用を
ITで支えるCAP


 あれから3年、CAPはどう変わったか。コーエンさんは、こう答えた。

 「訪日当時、私は国防総省内の支援だけをやっていました。いまは他の54の政府機関も支援しています。これが一番変わったところです」

 CAPの活動は、1999年に当時のゴア副大統領から「低コストで時機に適った支援技術をしている」と顕彰されるなどして、3年前にすでに高く評価されていた。しかし、それぞれの政府機関がCAPに習って自前の支援センターを待つのではコストがかかる。そこで2000年に、連邦議会がCAPに、国防総省以外の政府機関にも支援技術を提供する権限と予算を与え、他の政府機関がCAPを利用できるようにしたのだ。

 設立10年で合計1万7,000件だった支援件数は、その後急増し、いまは3万件を超えているという。

 国防総省自体(文官70万人、軍人120万人を擁する連邦政府最大の組織)のチャレンジド雇用も前進している。2001年〜2005年の5ヵ年計画で3万2,000人もチャレンジドを雇用し、連邦雇用機会均等委員会が対象とする重度障害者を文官の2%まで増やすと公約している。

 「国防総省は障害を持つ人の雇用でもリーダーでありたい」と語っていたコーエンさんの話は、具体的な公約として示されていた。

 


他の政府機関や企業にも及ぶ
国防総省プログラムの影響


 コーエンさんに案内されたCAPの技術評価センター(CAPTEC)に、足が不自由らしい若い女性の姿があった。ジェイミー・ワッツさん。去年、ミズーリ大学を卒業したばかりで、「WRP」を通じてCAPにやってきたという。

 WRPとは、「障害を持つ大学生のための新人募集プログラム」(Workforce Recruitment Program for College Students with Disabilities)のこと。毎年スタッフが全国の大学を回って1,000人を超える学生を面接し、政府機関で働く機会を提供している。5〜9月の間の最大14週間、身分的には「学生」だが、契約上は「雇用」で給与が出る。既に大学を卒業した人については、各政府機関が自前の予算でそのまま雇用し続けることが奨励されている。

 ワッツさんは、在学中に同プログラムによって労働省と国防総省の他の部署で働いた経験があり、「CAPのことは大学にいた時から知っていて、行きたいと思っていた」という。WRPのスタッフやコーエンさんらの薫陶を受けた彼女は、「障害者の機会均等実現のために働いていきたい」と意欲を燃やしている。

 実は、WRPは国防総省が最大のスポンサーであり、最大の雇用主。そして、他の政府機関が受け容れた学生を含めて、CAPがIT支援を担っている。

 そのCAPは連邦政府最大の支援技術の顧客として、IT関連企業に影響を及ぼしている。支援技術調達の最前線にいるCAPTECマネージャーのマイケル・ヤングさんは、こう語っていた。

 「いまでは、たとえ自分たちで情報収集しなくても、いろいろな企業がさまざまな支援技術を売り込みに来ます」

 背景には、2001年6月に「連邦政府は障害を持つ職員も持たない職員と同等に情報にアクセスできるIT環境を整えなければならない」とするリハビリテーション法508条が施行されたこともある。

 企業にとって連邦政府は巨大な顧客。支援技術を開発する企業は、その政府調達の一大拠点であるCAPに買ってもらえるような製品を作ろうと必死なのだ。

 


「チャレンジドが誇りを持って働けるようするのは当然のことです」 「政府はチャレンジド就労の必要に迫られている」 「チャレンジドには固有の文化がある」
ダイナー・コーエンさんの写真
アイリーン・ザイツァーさんの写真
ジョン・ケンプさんの写真
ダイナー・コーエン
国防総省コンピュータ電子調整プログラム理事長
アイリーン・ザイツァー
ディズアビリティ・ポリシー・ソリューションズ社長
ジョン・ケンプ
弁護士

 


チャレンジド就労支援は
戦争をすれば進むのか


 日本では、防衛庁が政府のチャレンジド雇用をリードするなどという姿は理想しにくいが、米国の国防総省がそれをやってのけている。そのモチベーションの源は何なのか。コーエンさんは、次のように語った。

 「私たちは障害を負った兵士に対して責任があります。障害者が誇りを持って働けるようにするのは当然のことです」

 日本も自衛隊を戦地や危険地帯に送り出すようになれば、防衛庁を中心にチャレンジド雇用への責任感が強まっていくのだろうか。重い問題に胸が突かれた。

 だが、米国でチャレンジドの就労を保障する取り組みが進んだ背景は、傷痍軍人問題だけではない。コーエンさんは、そのことについて長い歴史と広い視野から語れる人物を2人紹介してくれた。

 社会保障庁で25年間にわたってチャレンジド問題に取り組み、昨年、同問題のコンサルティング会社を設立したというアイリーン・ザイツァーさん。そして、自らも障害を持つ弁護士としてチャレンジド問題に取り組むジョン・ケンプさん。2人は、障害者差別を包括的に禁じて、米国社会を「ユニバーサル社会」へと大きく前進させた「障害を持つアメリカ人法」(American wish Disabilities Act=ADA)の成立過程にも、それぞれの立場から深く関わった。

 


政府を自立支援へと動かす2つのプレッシャー


 ザイツァーさんは、国際社会保障協会や国際労働機関(ILO)などの国際機関への出向経験も豊富で、社会保障制度の国際比較研究も行っている。その視点から、次のように指摘した。
 「障害を持つ人の就労に関しては、米国に10年から四半世紀遅れている国がほとんどです。障害を負って仕事を失った人を復帰させる取り組みは、この10年ほどの間に多く国で進みましたが、子どもの頃から障害のある人に対しては、まだ『お金をあげるから健常者とは別に静かに暮らしてください』という施策になっている国が多いです」

 では、なぜ米国は就労に向けた施策で先行したのか。ザイツァーさんもまた、傷痍軍人の問題を挙げた。

 「戦争で障害を負った人たちからの『社会に戻りたい』というプレッシャーが非常に大きかった。特に、軍人生活の長かった人はそれなりの恩給をもらえますが、短かった人はそうではありません。米国は欧州に比べて障害者福祉は遅れているので、恩給の少ない傷痍軍人は生活が苦しく、働ける人は働きたかったのです」

 だが、いまはさらに人口として大きな問題が、政府を動かしているという。

 「一つは、人口の高齢化で加齢に伴って障害を抱える人が増えていること。もうひとつは、1980年代以降、ストレスなど心因性の問題から、若年層にも働けなくなる人が増えていることです。それに合わせて社会保障費を増やしていたら、財政はパンクします。政府はこれらの人を支援して、仕事に戻れるようにする必要に迫られているのです」

 


米国チャレンジドの運動には
精神的革命があった


 ケンプさんは肘から下の両腕と膝から下の両足がない身体で生まれ、早くに母親を亡くし、父親の男手一つで育てられた。だが、その父親は、当時の親としては珍しく、重い障害を持つ息子を普通の学校に入学させ、普通の子どもと同じように自立させようとしたという。

 「私はいま53歳ですが、その年月の間に『障害のある子どもは自立できないから保護してあげよう』から、『普通の子どもと同じように勉強して働けるようにしよう』に変わったんです。そういう意味では、米国の障害者の社会参加の歴史も、まだ若いのです」

 父親の教育でその変化を先取りすることになったケンプさんは、弁護士として自立し、それにとどまらず、米国障害者協会、米国脳性麻痺協会、VSAArt(チャレンジドの芸術活動を支援する団体。日本にも支部がある)、チャレンジドの情報アクセスを促進するネット企業など数々の団体・企業で代表や役員を歴任している。自らが、「まだ若い」という歴史を書き換えてきた一人である。

 そのケンプさんが語るところ、大きな変化は1970年代に起こった―。

 1970〜1973年ごろ、障害児を持つ親たちが子どもへの平等な教育を求めて、政府に対して訴訟を起こすようになった。同じころ、ベトナム戦争から50万人にのぼる傷ついた兵士が帰還し、彼らの社会復帰が大問題になった。

 1970年代半ばには、障害ごとにバラバラだった運動に「一つにまとまろう」という動きが生まれ、同時に、親たちの運動家からは自立した障害を持つ当人の運動が始まった。ADAへの動きは、障害を持つ本人たちが「自分たちには、市民としての基本的な権利が、まだ全部は保障されていない」ということに気づいたところから始まった。

 ケンプさんは、そう歴史を整理した。そして、次のように付け加えた。

 「女性が、あるいはアフリカ系やヒスパニックといった各人種が、それぞれ『自分たちには固有の文化がある』と主張していく中で、障害を持つ人たちも自分たちに固有の文化があることを認識するようになりました。そして、自分たちの中にも女性差別や人種差別があることに気づき、それを克服しなければならないことを認識しました。この精神的な革命の意味は大きかったと思います」

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 ケンプさんは、「チャレンジド固有の文化」について、今年5月、出身校から名誉法学博士号を贈られた際のスピーチで4つ挙げている。

(1)人はそれぞれ皆違うことをよく自覚している。(2)支え合うことの大切さをよく知っている。(3)どんなひどいことからも笑える点を見つけ出す独特のユーモアのセンスがある。(4)他人の言動をよく読み、隠れた意味をつかむ能力がある。

 CJFが目指す「すべての人が持てる力を発揮できるユニバーサル社会」は、そのようなチャレンジドをも受容する、のではなく、そのような人間(障害の有無を問わず)によってこそ支えられるのではないか。

 とりあえず、今回のCJFの会場で、米国からの3スピーカーも加えた多彩な顔ぶれによって、そのような社会の縮図を体験できることを期待したい。

 


 
 
音声入力を実演するCAPTECマネージャーのマイケル・ヤングさん。「どのカテゴリーの製品も同種のものを複数用意して、利用者本人が比べて選べるようにしています」 コーエンさんらに迎えられた実習生のジェイミー・ワッツさん(中央)。「もしWRPがなかったら、私がいまここにいることはなかったと思います」
 
 
多くの政府機関はCAPを利用しているが、教育省は昔からCAPのような支援センターを独自に開設している。竹中さんは弟・ビリー市田さん(中央)の通訳で数々の質問をぶつけた チャレンジド政策を検討する省庁間会譲。奉加官僚25名のうち7名がチャレンジド。その1人であるコーエンさんに聞くと、「本来はあと5人チャレンジドがいるのですが、今日は障害のない代理の人が来ています」

 



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