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月刊MOKU 2003年7月号より転載

     
  特集 緑と絆  
 
「補助金は要りません。
仕事をください!」
重度障害者の母“ナミねぇ”が
日本の福祉を変えた
 
 
社会福祉法人「プロップ・ステーション」理事長 竹中 ナミ
 
 

 

竹中ナミの写真 竹中 ナミ  たけなか・なみ
社会福祉法人プロップ・ステーション理事長。1948年兵庫県神戸市生まれ。神戸市立本山中学校卒業。24歳のとき重症心身障害児の長女を授かったことから、療育のかたわら障害児医療、福祉、教育を独学。手話通訳、身体障害者施設での介護、おもちゃライブラリーの運営など、ボランティア活動に長くかかわる。89年障害者の自立を支援する組織「メインストリーム協会」を設立、事務局長に。91年障害者の就労支援活動「プロップ・ステーション」を創設。「チャレンジドを納税者にできる日本!」をスローガンに活動を開始。98年厚生大臣認可の社会福祉法人格を取得。99年エイボン女性年度賞教育賞、2002年総務大臣賞受賞。主な著作に『プロップ・ステーションの挑戦』(筑摩書房)、写真集『チャレンジド』(吉本音楽出版)、新刊に『ラッキーウーマン』(飛鳥新社)がある。
ホームページ http://www.prop.or.jp

いま、日本では、これまでの福祉観をまったく変える旋風が巻き起こっている。
その中心にいるのが、“ナミねぇ”こと竹中ナミさん・54歳である。
重度の脳障害の長女を授かったことをきっかけに、障害児医療・福祉・教育を独学で勉強、長年のボランティア活動の経験を生かし、11年前、障害者が誇りをもって生きられる社会を目指して、力強く踏み出した。軽快な関西弁トークと、“苔(こけ)が五重に生えた”心臓を武器に、政・官・学・業の各界へ支援者を広げ、いまや彼女の活動は、少子高齢化社会を迎えた日本を活力に導く光ともなっている。

 


「障害者」は弱者ではなく「挑戦者」


「ええ仕事しまっせ!」

 プロップ・ステーションのセールストークだ。平成3年(1991)、障害者の自立と就労を支援する組織として誕生したプロップ・ステーションは、障害者向けのパソコンの技術指導と在宅ワークのコーディネートなども行っている。これまでの受講者は1,000人以上、約100人が在宅で仕事をしている。
 このプロップ・ステーションが掲げるキャッチフレーズが、「チャレンジド(障害者)を納税者にできる日本!」である。

 このキャッチフレーズは過激で刺激的で、だからあえて使ったというところがあるんです。当初は、反論・批判が矢のように来ました。特に福祉世界の人からの批判がすごかった。要するに、それまでの日本の福祉は「税金からナンボ取ってこられるか」という発想しかなかったんです。

 だから、障害をもっている人に対して、自分で受講料を払って勉強しましょうとか、パソコンはこれからあなた方が働いていく道具なんだから自分で買いましょうとかと言うと、「おまえのところは障害者からお金を取るんかい」と言って、もう非難囂々(ごうごう)でした。

 だけど、全国の障害をもっている人にアンケートを取った結果、「コンピュータを武器に、自分で働いて稼ぎたい」「社会に参加したい」という声が実に多かったんです。そこで、私たちも自信をもって、障害者のための選択肢の一つとして、この活動を進めることにしたんです。

 ところで、「チャレンジド」という言葉、知ってはりますか? これは、「神から挑戦という使命や課題、あるいはチャンスを与えられた人々」という意味で、正式にはザ・チャレンジド(The challenged)といいます。障害をもっている人を表す新しい言葉としてアメリカで15年くらい前から使われ出しました。日本の「障害者」って、暗いイメージで、マイナス思考そのものやと思いません? ああいう風に人間を決めつけるのは、なにか悲しいなぁと長年思っていたの。だから、阪神淡路大震災のときにこの言葉を教えてもらったときには「これや」と。日本にこういう考え方がないのなら横文字のまま使って、これを広めていこうと思ったんです。

 だから、この言葉に出会う前は、「障害をもつ人を納税者にできる日本を」がキャッチフレーズだったんです。この言葉の言い出しっぺは私ではなく、アメリカのケネディ大統領なんですよ。J・F・ケネディが大統領になって最初の議会に提出した教書があって、その中の社会保障という項目に、「私はすべての障害者を納税者にしたい」と書かれてあるんです。これを読んだときは、ほんま、目から鱗(うろこ)が落ちましたわ。

 ケネディの身内には障害者が何人かいて、大好きな妹のローズ・マリーさんも重度の知的ハンデをもっていましたからね。実際に障害者のことを理解し、その家族やそれを取り巻く社会を理解したうえで、あえて掲げたということが私にはよくわかりました。

 日本なら単に弱者と呼んで「恵みを受ける人」とされてしまう障害者に対して、ケネディは、彼らの尊厳を守ることを考え、進んで税金を払えるような人にするんだときっぱりと宣言した。これは日本の官の中にもなければ、民の中にもなかった発想ですよ。

 「これを日本やったら、だれが言うことができるんやろ?」と考えました。日本という国は、官がすべてを決定し、民はそれに甘んじたり、従ったり、あるいは文句を言ったりするという関係です。それだけ、強大な権力をもっている官が日本でこれを言うのは違うやろと思った。障害者に対して納税者になれとは、納税者になれる政策がないと言えませんからね。だとすると、当事者側からしかないなぁと。だけど、本人だけではできない。社会全体がそのような意識にならなければできない。ならば、「障害者が納税者になれる日本」ではなくて、「障害者を納税者にできる日本!」なんだと。そこでこのキャッチフレーズが生まれたんです。だから、「チャレンジドを納税者に」だけではダメで、「できる日本!」のほうに意味があるんです。

 

 

子どものころからの夢だった「絵本作家デビュー」を果たしたくぼりえさん。ウエルドニッヒホフマンという筋肉の難病のため、コルセットと車いすで全身を支えて制作に取り組む

 


障害をもっている人は数字なんですか?


 ところが、日本で障害をもって働いている人がどういう状況というと、法定雇用率という制度があって、全雇用者の一定の率で障害者を採用しなさいと定めています。

 企業の雇用担当者がプロップ・ステーションに相談に見えて、「うちは職安から雇用率に達してないとえらい怒られてますねん。だれかええ人おりませんか」と言ってこられます。で、私が「どんなことのできる人を求めておられるんですか」と聞くと、「いや、どんなことできるというより、2ポイント」とか「1ポイント足りないんです」とか言わはるんです。

 だって、一般の人が働くときには、私はこんなことができるからこの会社に就職したいという気持ちで仕事を選ぼうとしますね。受けとめる企業の側も、こんな人材がほしいからこの人を探そうと、お互いの目標や目的と合ったときに労働の契約が成立する。ところが、障害者と呼ばれる人にかぎっては、企業にとってポイントなんです。

 それに拍車をかけてきたのが、皮肉なことに日本の障害者運動で、「お宅の企業はポイントが達成していないから障害者を雇いなさい」と迫ってきた。つまり、行政も企業も障害者の運動を進める人たちも、みんなが障害者を数字とみてきたんです。

 法定雇用率の制度ができたのは昭和34年(1959)、なんと44年も前ですよ。雇用率は少しずつ上がってきているにもかかわらず、本当の意味で雇用は進んでいません。企業に採用された障害者の平均在籍年数はたった7年で、この年数も伸びていないし、昇進することもほとんどないわけです。

 企業はポイントを守らなければならないから、雇いますよね。しかし、その雇った人を受けとめるのは現場です。つまり隣の席に座った事務職の女性やラインで働く人なんです。しかも日本では義務教育の段階から障害児と健常児を分けますから、いっしょに勉強したり、喧嘩(けんか)したり、助け合ったりした経験がありません。そんなところに突然、隣に障害をもつ人が入ってきた。「この人と、どうやって付き合っていけばええんやろうか」から始まって、どう手を差し伸べて、どこまで引いたらええのか、わからない。あるいは、自分が汗水垂らして働いているときは、隣は障害者だからという理由で自分と同じことができないのが見えたりしたときに、自分はどう考えればええのと迷う。そんなことが全部現場任せになっているんです。

 そして、トラブルが起きて、やめていくのは障害者の側です。だいたい、障害者は会社で働く前に一般社会と触れてきていませんから、一般社会のルールとか物差しを知らない。だから、その物差しで生きている人の中に入ったときに違和感や圧迫感を感じたり、周りがいじめていなくても、自分がいじめられているように感じたりして、ぎくしゃくする。そしてやめちゃうんです。

 だから、幼いときから特別枠を設けて育てられた障害者が、大人になってぽんと一般社会に放り出され、両方とも大人になってから出会うようにしているこの国の仕組みそのものが問われるわけです。

 昭和54年まで、障害者には「教育の義務の免除と猶予」という法律があって、学校へ通うのは大変だから来なくていいということになっていました。行きたくなければいいけれど、行きたいと思ったときも、「いやいや、そんなに無理をしなくてもいいですよ」となだめられて、実際のところ、行ってはいけないことになってきたんです。

 法律は、その権利を行使できるようにしない場合は、その権利を放棄することになるわけなんです。私たちが「納税者」という言葉を掲げたのもそうなんですが、日本国憲法には「国民は就労の権利があり、納税の義務がある」とあります。就労の権利がまずあり、それで働いた以上は納税の義務がある。ところが、納税の義務を免除されるということは、就労の権利も奪われるということとイコールなんです。同じように、教育の義務を果たさなくてもいいと言われることは、教育を受ける権利も放棄したということなんです。ですから、法律というのは非常に深い。法律なんて、自分が不都合を被ったとき以外は感じませんね。ところが、最初から一般人と別枠でいきなさいといわれてきた障害者には常に法律が行動を規制してきたわけです。だから私は、ケネディがアメリカの社会保障の構造を変えようとしたように、日本の構造を変えたいと思ったんです。

 

 

ついさっきまで笑いのバトルが繰り広げられていた「なんばグランド花月」の舞台に上がりこんだチャレンジドたち。プロップ・ステーションに集うチャレンジドは明るい

 


みんながお上にすがる日本の構造


 こういう話をすると、決まって、「あなたは政治家になるつもりなんですか」と言わはる人がいます。だけど、これもおかしいなことで、日本は議会制民主主義の国です。私たち国民がビジョンをもって、ビジョンをもった政治家を選ぶことができさえすれば、すべての人が政治家になる必要はないわけなんですね。いってみれば、バッチを付けた政治家と主権をもった国民がいるというのが本当の姿だと思います。

 ところが、日本にはそうした自治という発想がなく、政治家はなにか自分たちにおいしいものを与えてくれる人であって、利害関係の中の利をくれる人であればいいみたいな存在だった。その典型が福祉や社会保障に表れていて、これまでの福祉は、マイナスばかりを数えてきた。弱者にはこれができない、だから補うものを取ってきましょうと。高齢者の問題も、過疎地の問題も同じです。「私たちは困っています。だからなんとかしてください。だからあなたを選びました」

 こうなると利害関係は明らかで、そこに上下の構造ができあがるんです。結局、お上にすがっていた。こういう図式がずーっと繰り返されてきたのが日本なんです。

 与党も野党も、ある意味「配る政党」だったわけです。だけど少子高齢化を迎えるこれからの時代は、確実にそれができなくなる。なのにいまだに大盤振る舞いができたときの構造のままで考えていて、国民のほうも、いままでのようにもらえないかもしれないと悩んでいる。それが閉塞感(へいそくかん)とちゃいますか?

 マイナスこそプラスの種! 人間は自分が困難に面したときに、解決しようというパワーが沸(わ)きます。そういう意味で、日本がいま先行きが見えないということは、官とか民とか、企業とか、主婦、サラリーマンとか、なんの区別もなく、みんなが力を合わせて立ち上がれるときやと思っています。やっと日本が自治的な国家になれるかもしれない、本当の民主国家になれるかもしれないチャンスやと思っています。

 面白いのは、私がお話をしたり、書いたものを読まれた方々の反応は、まっ二つに割れるんです。あなたの言っていることがよく理解できませんという人と、「チャレンジドを納税者にできる日本!」というキーワードだけで、なにが言いたいのか全部わかりますという人の二つに分かれる。中間がいないんです。政治家も、官僚も、一般市民の方も、どの層でも一つに分かれる。いままで障害者の問題を考えてこなかったり、興味もなかった人の中に結構共感する人がいるんです。共感する人に共通しているのは危機感があるかどうかです。それが分かれ目のようです。

 

竹中ナミの写真
いままで障害者の問題を考えてこなかったり、興味もなかった人の中に結構共感する人がいるんです。共感する人に共通しているのは危機感です。そしてこの危機になんらかの責任を感じている人たちなんです。
 

 ナミねぇのもとには思想信条の枠を超えて多くの支援者が駆けつける。
 「ナミねぇの応援団」には、国会議員の麻生太郎・自民党政調会長、野田聖子氏、 浜四津敏子氏、改革派知事として知られた北川正恭・前三重県知事、マイクロソフト日本法人社長だった成毛眞氏(現・インスパイア社長)、慶応大学教授の金子郁容氏に白鴎大学教授の福岡政行氏、ジャーナリストの櫻井よしこ氏、筑紫哲也氏、その他、現知事や評論家、企業経営者など、影響力を持ったリーダーたちが名を連ねる。どんな著名人でもまったく手弁当で集まってくる。それどころか、成毛氏はプロップ・ステーションの社会福祉法人化のために私財を含めて1億円を投じている。

 この危機になんらかの責任を感じるというのは、政党の種別とか仕事の種別とか、高所得者か低所得者か、男か女か、若いか年寄りか、あるいは障害をもっているかもっていないかはまったく関係ありませんね。私みたいな一国民のおばちゃんでも、責任を感じるわけですよ。チャレンジドの中でも、この危機は、要求ばかりしてきた自分たちにも責任があるんじゃないかと感じる人がいる。

 「困ったな、これからどうしよう」といった意識で生きている人は、変わったときについてくることはできますが、社会を変える側にはなれない。変えるために行動できる人は、やはり責任を感じている人です。

 変な言い方ですが、そういう人たちは増えてきているとも言えるし、減ってきているとも言えます。「責任を感じてもしゃあないやな」と思わせてしまっている状況がありますから。これが本当の危機です。投票率の低さにも、無党派層の増加にも表れていますね。だけど私は、サポートなしには生きていけない重度障害者といわれる人たちが、「自分は納税者になるんだ」と言って行動を起こすということは、すべての人が行動を起こせるということを知らしめることにつながると思うんです。だから、「チャレンジドが社会を変える」ともいえる。チャレンジドのために社会が変わるということではないんですね。

 


重度脳障害の娘が教えてくれた


 でも、私自身、そんなに深く考えて行動を起こしたわけではないんです。娘の麻紀が生まれて重度の脳障害と知った父ちゃんが「わしがこの孫を連れて、死んだる。この子がいてはおまえは不幸になる!」と叫んだから、それを阻止せなあかんと思って、「麻紀が生まれて、私はごっつい幸せや」と言って頑張ってきた。その父ちゃんが、「おまえがこんな頑張っているから、わしは安心や」と言って亡くなっていった。そのときは親孝行ができてよかったなぁとホッとしたけれど、「でも、待てよ。父ちゃんは安心して死んだけれども、私自身は安心して死ねるんかい?」という不安が起きてきたんです。

 平成27年(2015)には、日本人の4人に1人が65歳になると言われています。一方、少子化が急速に進んでいます。税金を払う世代がとても少なくなる一方で、介護を必要とし、年金をもらう世代がどっと増える。産業構造が変わり、日本の経済そのものが不透明な状況で、景気はもっと悪くなるかもしれないのに、医療・福祉制度をはじめとするもろもろの制度がなにも変わらなければ、日本は間違いなく破綻(はたん)してしまう! いま、国立療養所にお世話になっている麻紀には月に60万円のお金がかかっています。これは国から療養所に支払われる補助金の額です。すっごくありがたいことです。だけど、この国にお金がなくなったとき、麻紀のように施設に入っている人や、人の手を借りなければ生きていけない人はどうなってしまうんやろ? 介護を受けているお年寄りはどうなってしまうんやろ? そんなことを考えているうちに、重症心身障害の子どもを授かった私だからこそ、できることがあると気づいたんです。

 最初は「重症心身障害の子ども」だった麻紀ももう30歳ですから、いまや「重症心身障害の大人」で、やがては「重症心身障害のお年寄り」になっていくわけです。この、重症心身障害のお年寄りというのは、実は痴呆(ちほう)症のお年寄りと同じなんですね。

 痴呆症が重くなると、家族の見分けもできなくなります。それまで自分を守るほうにいてくれた父親や母親から「あなた、どなたさん?」と言われたときはショックだったとは、よく聞きますね。でも、私は娘が生まれたときから30年間、「あなた、どなたさん?」の状態ですから、もう慣れちゃっているわけ。だけど、考えてみれば、「あなた、どなたさん?」と言うようになる父親や母親がこれからの少子高齢化社会には確実に増える。そのとき、親から「あなた、どなたさん?」と言われた人は、じゃあ、死んでもらいましょうかと思うでしょうか。たとえ、国がそんな人のために税金は使えませんといって、自然に死んでいくような政策を取ったにせよ、自分を生み、育ててくれた人たちを見捨てる気持ちにはならないはずです。

 娘の麻紀は言葉もしゃべれへんし、光を感じる程度しか見えない、聞こえても意味がわからない、家族すら判断できない。家族を愛し、なんでもおおらかに受けとめてきた父ちゃんが、自分の孫が重症心身障害で生まれてきたときは認められなかった。それだけ極限のことだったんですね。でも、この極限が日本で間違いなく増えていくんですよ。

 「おじいちゃん、ぼけてきたね」と、笑ってすませてくれない社会に日本は突入しています。ぼけたおじいちゃんを温かく見守ってあげようよと思っても、若い人は少ないし、家族だけでは無理だから、社会のシステムで、ちゃんと布団の上で死なせてあげたい。100歳のおばあちゃんが家族の幸せのために私は海に飛び込んで死んであげるとか、昔の姥捨(うばす)て伝説みたいな世の中に戻したら絶対にダメ。それは私が重症心身障害の娘を得て、30年間見てきたから言えます。

 でも、人間はそういう時代がもう目の前に来ているとか、自分にそういう事態が起きたらということがきっと想像できる。私と私の娘に起きた問題も、年老いた親が突然、「あなた、どなたさん?」と言われた人の気持ちって、想像できるはずなんです。ということは、私が母ちゃんのわがままでやっていることのようだけれど、こういう現実があなたの身に起きたらと想像してみません? なぜなら、その確率はどんどん高まっているのよ。想像したとき、それをショックだと思うんだったら、どうしたらいいのか、そのときになって考えても無理よね。いまから、いっしょに考えませんか? という提案が一般の国民一人ひとりにできると思ったわけです。

 自然界では、三つ葉のクローバーが大半の中で四つ葉のクローバーは異端ですよね。にもかかわらず人間は、稀少(きしょう)な四つ葉のクローバーを幸せのシンボルと決めた。しかも、世界中の人が四つ葉のクローバーを幸せのシンボルとして大事にしてはるんですよ。

 私は、娘のような障害者も痴呆症のお年寄りも四つ葉のクローバーやと思うとります。こういう人たちを切り捨てるのか、それとも、私たちにとっての四つ葉のクローバーと思い、みんなで守っていこうとするのか。すると、守ることによって自分自身がそういう立場になったとき、安心して生きられる社会がつくれると想像して、行動を起こす。それは人間にしかできない。動物界は自然淘汰(とうた)ですから。人間だけが、自然淘汰させない知恵と力をもっているんです。その大きな一つは法律だし、道具です。

 科学技術は不可能を可能にしてきました。不可能を可能にしたいという人間の思いが科学技術を進歩させてきた。だとすると、不可能をたくさんをもっている障害者は、科学に貢献する人とも言えるわけでしょ。だから、そういう人たちの存在をプラスに転化できる感受性が必要じゃないかな。目標なしには人間、前へ進めませんからね。しかも目標がマイナスから出発したとき、すごいパワーが発揮されると思いませんか?

 

 

ナミねぇの長女・麻紀さんと。「30年前、重症心身障害児として生まれた麻紀が自分をここまで育て上げてきた」とナミねぇは語った

 


ITとの出会いはまさに革命だった


 他人に期待するばかりで、自分が他人に期待されていないというのは、人間としてはつらいことなんです。障害をもつ人たちは、それを感じないように、麻痺(まひ)させるような社会の仕組みになっていたんです。「あなたたちに期待しないけれど、これをあげる」。そう言われて、初めは腹の立つこともあるけれど、世の中の仕組みが、期待しないかわりに、自分になにかしてくれるんだったら、もうしゃあないなぁと……。

 そういう生き方をしてきた障害者が仕事をもつと、目の光り方が変わってきます。重度の脳性麻痺で母親の介護で生きてきた吉田幾俊さん、通称「幾くん」は、絵を描くことが好きで、震える手で、くねるような線とすてきな色遣いでシュールな絵を描いていました。彼がプロップを初めて訪れたとき、「あんたはコンピュータを勉強したら絶対稼げるで」と声を懸けたら、すごい言語障害で「ウソツキ!」と言ったんです。その彼がある日、「自分の精神が肉体というタガをはずしたがっている」と言った。きっと彼の頭の中には、直線や丸や幾何学模様や、ありとあらゆる図柄がイメージとして浮かんできていたんです。でも、自分の肉体は曲がった絵しか描かせてくれない。そういう思いだったんです。

 それを聞いたとき私は、「この人はグラフィックソフトと出会ったら化ける」と思いましたね。手がどんなに震えても、キーボードやマウスでAポイントをクリックして、次にBポイントを同じくクリックしさえすれば、機械が勝手に直線を引いてくれます。複数の点を押さえることができることができれば、幾何学模様もできる。しかもその人には絵のセンスも色彩のセンスもある。だとしたら、人に訴える絵が描けないわけがない、そう感じたんです。

 いま、彼は人気アーティストとして活躍しています。ある新聞では、元旦(がんたん)の新聞の半面を彼のカラーグラビアで飾りましたし、大手企業のカタログなどでどんどん採用されています。コンピュータグラフィックで才能を開花させた一人です。

 彼がコンピュータグラフィックを使って描いた絵で初めて収入を得たときに言った言葉が忘れられません。

 「お金って、こんなに公平なもんだったんですね」と。いままで、彼にとってお金というのは、補助金とか、障害者だからあげるわというものでしかなかった。それが初めて、自分で表現した絵を描いて、それだけの価値を認められてお金をもらったわけです。

 ITは、彼らが自分で道具を使ってお金を稼げる方法を示してくれました。これがIT革命と言わずしてなんでしょうか。

 お金をもっている人がよりお金持ちになるとか、力をもっている人がより大きな力をもつ程度ならば革命ではない。だけど、声が出せなかった人がそれらに変わるもので自分の思いを述べたり、まったく表現ができなかった表現する術を得たり、しかもそれでペイを得ることができたとしたら、これは革命です。

 

 

プロップ・ステーションのセミナーでは多くのチャレンジドが多くのボランティアのサポートでコンピュータ技術を学んでいる

 


不良たちが無血革命を起こす


 こういう発想は、私が自由奔放で、不良だったからできたのかもしれませんね。世間のルールやレールが私の中に入っていなかったから。入っていないどころか、嫌でしょうがなかった。なんで学校に行かなければならんのや、なんで勉強なんかせなあかんのやとずっと思いつづけてきたんです。

 ナミねぇの半生は波瀾(はらん)万丈だ。戦後、女性解放運動にひたすら熱を入れる母親と、元軍人で子守歌は決まって軍歌だったという父親のもとで育ったナミねぇは、小学生のころから家出をくり返し、15歳で役所に勤める男性と同棲(どうせい)、「不純異性交遊」を理由に高校を除籍、16歳で結婚……と、まさに型にはめられることを拒否して“ゴンタクレ”な10代を過ごした。22歳で長男を出産し、24歳で麻紀さんを産んだ。そして、長男の成人を機に離婚。バツイチとなった。

 こんな私が、なんで福祉の世界に殴り込みをかけるような大胆な行動を起こすことになったのか? それは、「マイナスこそプラスの種!」と、いろんな経験を通して気づいたからなんです。だから私は勉強がダメな人をダメだと思わないし、学校に行かない子がいけないなんても思わない。こういう子たちが新しいなにかを切り開いてくれるかもしれないと思っている。だけど、そういう人たちを潰(つぶ)す力が強く働いていることも確かです。異端な人たちを潰そうという社会の慣習は強いです。

 麻紀が生まれた当時は、障害児を連れて母親が海に飛び込んだり、お金持ちの家だったら座敷牢(ざしきろう)に入れたりしていたわけですよ。それが当たり前であったときに、私は麻紀が重度障害児とわかったとき、「これでやっと大手を振ってレールからはずれることができる」と解放感を抱いた。これって、ものすごく不遜(ふそん)なことですよね。でも、「許されざる母親道を歩まなかったら、父ちゃんと娘は死ぬもんね。だから、許されざる道を徹底的に極めたるで−」みたいな気持ちですよ。これは10代のころ、「不良を極めたる」と思ったのと一緒なんです。

 プロップ・ステーションが平成9年(1997)から毎年1回開催しているのが、チャレンジド・ジャパン・フォーラム(略してCJF)。「チャレンジドを納税者にできる日本!」を合い言葉に、チャレンジド、経済界、政界、官界、大学、メディアなど、さまざまな立場の人が集まり、障害者、高齢者をはじめ、すべての人がもてる力を発揮できる社会の整備を目指して熱い議論を展開する。いまでは1,000人を超える人々がフォーラムに集(つど)う。

 座長の須藤修さんは、東京大学の社会情報研究所の教授なんですが、ある講演会で、「あんたのことは知っています」と声を懸けてこられたんです。あんたがやっていることはおもろい。日本の政策として受けとめられるように法律にせなあかんと言わはるわけですよ。本気で言ってはるんですかと聞くと、本気だと返ってきた。言ったら地獄ですね(笑)。じゃあ決まりや。フォーラム開催の準備しましょ。ということで、CJFがスタートしたんです。

 第1回のフォーラムを開いたとき、全省庁に声を懸けて「クローズドの会を行いますから来てください」と呼びかけたんです。すると、当時、大蔵省、通産省、郵政省、厚生省、建設省……と、10省庁が参加してもいいと言ってきた。でも、当日本当に来られるのか不安だったんです。いくらクローズドとはいえ、こんなキャッチフレーズを掲げた団体の会に出向くのはまずいと思って、だれも来ないかもしれないと。だって、なんの強制力もないんやからね。

 当日、ドキドキしながら受付をしていたら、全員が始まる時間の前に来られました。そのとき、私は日本は変わるかもしれないと思いましたね。

 

 

漫画家志望の笠井柚里さん。「骨形成不全」で幼いころから入退院を繰り返し、日常生活に介助と車いすは欠かせないけれど、「夢は決して捨てません」と語る

 

 いま、プロップ・ステーションの理念に賛同する全国各地の自治体で、「チャレンジドに働く誇りを!」という取り組みが始まっている。

 また、ナミねぇが熱心に取り組んでいるのが、法律の整備。障害者であれ、高齢者であれ、女性であれ、すべての人々が自分のもてる力を発揮できる社会をめざして国会議員と共に法案づくりに勉強を重ねてきた。

 「ユニバーサル社会基本法案」というんですけど、例えば、アメリカの国防省や政府におじゃましてみると、たくさんのチャレンジドが誇りをもって働いてはるんです。そこには障害を補助するための電動車椅子(いす)やコンピュータ機器が備わっていて、極めて自然に健常者と変わらない専門分野の仕事をしていました。そのとき、「日本で必要なのは、この自然さや! これがユニバーサルや!」と思ったんです。いま、私たちが考えている法案は、障害者だけでなく、すべての国民を対象としています。一人ひとり違うんやから、自分なりのサクセスをつかもう。そのためのチャンスは平等にありまっせ、という世の中にしたんです。

 勉強会を開いたら、ほとんどすべての省庁から50人を超える課長クラスの官僚が集まってくれました。関心をもってくれはるんですよ。

 いままでの市民運動や労働運動は、いってみれば、ドアや壁が立ちふさがっているのを叩(たた)き破る運動だったんです。叩き破って、勝ち取るんだと。あるいは、互いに納得していないけれど、水面下であちらの人とこちらの人が少しずつ我慢して折り合いを付けるということがやられていた。

 私のやり方は違います。私が外からドアを叩きます。だれか中からこっそりかんぬきをはずしてくださいと(笑)。すると、べつに破らなくともいい。これこそ無血革命です。

 いま、私は総務省、財務省、経済産業省、厚生労働省、文部科学省、内閣府など各省庁の各種委員をはじめ、地方自治体の福祉政策のアドバイザーもさせてもらってます。

 国の委員会に入っていると、国に取り込まれていると言わはる人もいますが、若い官僚や地方自治体の首長さんの中に、この国をなんとかせなあかんと、不良化する人がいるんですね(笑)。そういう方がある程度権限をもつようになったときに、私を審議会の委員に推薦してくださるんです。

 日本人は気楽に官僚や役人をバカにしたりしますが、批判できたのは、日本はともかく民主国家だからですよ。これを独裁国家で言ってごらんなさい。その時点で命の保証はありませんよ。

 官僚や役人が本当に責任感を感じていない人ばかりかというと、そんなこと、あり得ない。本当にそうだったら、とっくの昔に日本は潰れているし、こんなに繁栄していないでしょう。中には日本の国をなんとかしたいと真剣に考えている人がいてはる。そういう人と対等に話し合うことができれば、その人は内側からかんぬきを抜いてくれるはずです。そういう人と、いまだんだん出会えるようになりました。

 こうしていろんな人と出会えて、いまは、「日本は変わる!」と言い切れます。こんなすごい経験ができたのは、麻紀のお陰なんですよ。そんな存在に母親を育てる力を彼女がもっていた。それを伝えたいじゃないですか。

 これからも、ナミねぇ、パワー全開でがんばりまっせ――。

 

ラッキーウーマンの表紙の写真
撮影・吉成敏男/写真提供・牧田清(写真集『チャレンジド――ナミねぇとプロップな仲間たち』より)