第11回チャレンジド・ジャパン・フォーラム(CJF)2006
国際会議 in TOKYO 議事録

各国のチャレンジド・ゲストからのメッセージ

「目標に向かって」
(スウェーデン ゴスペル歌手:レーナ・マリア・クリングヴァルさん)

竹中/ それでは、お二人目。スウェーデンから来ていただいたレーナ・マリアさんの発表をお聞きしたいと思います。レーナ・マリアさんは、発表していただいた後、パーティでのライブのため、退場されますが、その前にたっぷりとお話をお聞きしたいと思います。お願いします。

レーナ・マリア/ 皆さん、こんにちは。このようなフォーラムに参加できたことを、たいへん光栄に思っています。ナミさん、スタッフの皆さん。温かいおもてなし、本当にご親切にしていただいたことに、感謝しています。私の人生、スウェーデンでの生活について少しお話ししたいと思います。

私に初めて会った人は、私と握手をしようと手を差し延べてくれますが、私は手がないので、握手はできません。常にそこで特別な状況が生まれます。どうしたらいいんだろうと思って、戸惑ってしまう人もいます。「どのように挨拶したらいいですか」と聴いてくれる人もいます。そうしたら私は、「こんにちは、と言ってくれればいいんですよ」と答えます。日本は便利ですよね。お辞儀をすればいいんですから。ですから、私は日本ではとても気楽です。(笑)

私は、91年から何度も日本に来ています。歌手として、画家として、また作家としても仕事をしています。歌手としては、もう日本では35のコンサートツアーをし、200以上のコンサートをしています。日本語ができればいいなあと思いますが、できません。いくつかの言葉しかわかりません。でも、日本が大好きです。日本の方々が大好きです。ですから、日本に来ることはいつも楽しみです。

私は生まれた時から両腕がなく、左足が、正常な右足の長さに比べて半分しかありませんでした。これはもちろん、両親にとって大きな衝撃でした。周囲の人にとってもショックでした。

私が生まれる数年前、サリドマイド剤の大きなスキャンダルがあり、1962年、この薬はスウェーデンでは使用禁止になりました。多くの病院や施設が私と同様の障害を抱えている子どもたちの世話をしていましたが、私が生まれたときにはもうサリドマイド剤は使われていませんでした。ですから、私がサリドマイド被害児のような障害を抱えて生まれたことに、周囲の人は衝撃を受けました。

しかし、父と母は自分たちで私を育てることを望んだので、私は施設に入れられることはありませんでした。このことに、私はとても感謝しています。

今日のスウェーデンには、もう施設はありません。障害があってもなくても、子ども達は皆、家族のもとで育てられます。私は、子どもにとって父と母が周りにいることは本当に大切なことだと思います。

私が成長する過程では、もちろんいろいろなことがありましたが、それは皆と同じだと思います。人間としての経験が、歳を取るにつれてその人の人格をつくっていきます。それは、人それぞれにユニークなものだと思います。

私は、スウェーデンに生まれて本当に良かったと思っています。

私は、他の人とまったく同じように感じられる育てられ方をしました。腕や足がなくても他の子どもとまったく変わらないと思っていました。私には1歳下の弟がいて、彼には障害はありませんでした。しかし、私も弟もまったく同じように育てられました。

私は7歳のときに、他の子供たちと一緒に普通学校に入学しました。学校で障害を持っているのは私だけでしたが、障害児とは思っていませんでした。友だちと同じような関心を持ち、同じようなことについておしゃべりをし、ユーモアの精神も遊びも同じでした。
ですから、他の子どもたちと自分はまったく同じだと思っていました。

そんなふうに感じられたのは、おそらく両親の私に対する姿勢、育て方によるものだと思います。私は、父と母が愛し合い、子どもを深く愛してくれる家族のもとに生まれたことは、とても幸福なことだったと思います。

少し他の人と違うと思ったからと言って、それで自分に対して否定的になったりする必要はありません。むしろ反対で、他の人と違うところは、自分のユニークさだと考えることができます。それは自分のメリット、得なことと考えることができます。そして、他の人の良いところを見つけることもできると思います。

障害を持っている場合、自分は他の人と違う、とけ込むことができない、阻害されている、他の人と一緒に行動できない、アウトサイダーだ、孤独だ、などと思ってしまうことがあるかもしれません。

しかし、私は違いを、実際に活用して他の人に何かをもたらすことができるもの、良いことをすることに役立てることができるものとして育てられました。子どもの頃からいつも、「あなたはユニークなんだ」「他の人と変わらぬ価値を持っている」「やろうと思えば何でもできる」と言われて育ちました。弟も私も、自分の関心を持っていることをするようにと勧められ、やりたいことに時間を割きなさいと言われました。本当にやりたいことがあれば、うまくなり、成功するだろうと言われていました。

小さい頃には2つの夢がありました。第1の夢は電話のオペレーターになって、人々の電話にこたえること。もう1つは、トラックの運転手になって、ヨーロッパ中を運転してまわることでした。音楽や絵を描くことも好きではありましたが、歌手になろうと夢見たことも、画家になろうと思ったこともありませんでした。

高校で専攻を選ぶときに、音楽が好きだったので、音楽を専攻しました。9歳からピアノやオルガンを足で弾いていて、高校でさらに歌の勉強をしました。高校卒業後は、スウェーデンの音楽学校に入学しました。

願書を出すと、音楽学校の人が、私が学校に通えるのかどうかを確認しに来ました。階段を登れるのかどうか、建物は大丈夫かいったことを心配していました。そのために、校長先生をはじめ、いろいろな人に会いました。入学試験では歌を歌うなどしましたが、合格したときは本当に驚きました。

その学校に通うため、私は家を出て、故郷の街から何時間も離れたスウェーデンの首都ストックホルムに引っ越しました。19歳で独立しました。それは私にとっては非常に大きな変化でした。突然、身の回りのことを全部自分でしなければならなくなったからです。

スウェーデンでは、障害者であれば政府からいろいろ支援を受けることができるので、その意味ではスウェーデンでは障害者だといいかもしれません。たとえば、市街地の真ん中にアパートを借りられたり、車を提供されたりなど、他の人よりもいろいろ優遇されます。それによって他の人と対等な生活ができるようになるので、良いことだと思います。

私は、ストックホルムの真ん中にアパートで暮らし、自分で車を運転し、4年間音楽学校に通いました。91年に勉強を終え、その後は各国を回ってコンサートをして歌を歌ってきています。小学生のころに夢見ていたこととはまったく違った生活を送るようになりました。

小さい頃、父と母が私にしてくれた最良のことは、私が自分でやり方を見つけるまで、時間を充分に与えてくれたことです。手の使い方や歩き方などを、私が自分のやり方で身につけて自然にできるようになるまで待ってくれました。

障害者に対して、すぐに助けようとするのは間違いです。助けすぎてしまって自助努力をさせないのは大きな間違いです。母は私に、かなりの自由を与え、自分の想像力と判断力で物事をやり遂げるのを待ってくれました。ですから、小さい頃から自然な形で、手ではなく足を使うことを覚えました。

生まれたばかりの赤ちゃんを見ると、両足、両手を使っていると思います。私にとっては、すべてを自分でやるために足を使うことは、ごく自然なことでした。普通手でやることは足でやりました。他のことは、他のやり方で対処しました。

両親は、私に対して過保護になることもありませんでした。他の子が挑戦することは、私にもさせてくれました。弟と私は、近所の子とよく遊びました。他の子がやっていいことはすべて、私もやらせてもらいましたし、他の子が禁止されることは、私も禁止されました。田舎で育ったので、森の中でよく遊びました。木に登ったり、塀を乗り越えたりしました。

父とは母は、よく周りの人から「なぜあの子にあんなことさせておくんだ。手を使えないのに、落ちて怪我でもしたらどうするんだ」と言われました。それに対して、母は「自分の体で木から落ちたらどうすればいいか学ぶでしょう」と言っていました。それで、他の子どもと同じように遊んでいました。

夕食の時には、ものをこぼしたりせず、きちんと行儀よく食べなさいと、弟も私も言われました。父母のしつけが厳しすぎるという批判もありました。「手を使えないのだから、こぼしても仕方ないじゃないか」と人は言いました。でも母は、「弟より1歳年上なんだから、弟ができるならレーナもできるはず」と言いました。

私は適切に物事を教えてくれた両親に感謝しています。

数年前、タイでコンサートをしました。タイでは足の裏を見せることは非常に無礼と考えられています。私がタイの王女の1人と一緒に夕食をすることになったとき、関係者はとても心配しました。足をテーブルに乗せて王女と夕食を共にすることは、非常に無礼だからです。

最初は「あとで夕食を取らせてもらっていいでしょうか」と言いましたが、それでは解決策になりません。誰かに食べさせてもらうという案が出ましたが、私は「2歳の時はそうだったけど、いまはもうそれはできない」と断りました。そこで私は、王族に手紙を書いて、「私の通常のやり方で食べてもよろしいですか」と聞きました。すると、王女は「すごい、カッコいい、見たいわ」と言ってくれました。というわけで、結局は何も問題なかったのです。

何をするにせよ、私たちは皆、少しはユーモアのセンスを持つことが必要です。あまり深刻になりすぎないことが大事です。話をして、お願いすることも大切です。

質問する、話をしていくことが、社会を構築する上で重要だと思います。というのは、私たち1人1人が非常にユニークだからです。ここにいらっしゃる人は、偶然にこちらに来ているわけではないと思います。誰の人生にも運命があり、非常に貴重な価値があり、大切です。

「私たちはオリジナルとして生まれ、コピーとして死ぬ」という言葉があります。本当にそうかどうかわかりませんが、マスコミは同じ障害者は同じことをすると見がちです。
しかし、1人1人個性があるのです。私はその個性を、できるかぎり保っていかないといけないと思います。そういう生き方をすれば、社会はもっとカラフルになると思います。そして、お互いに助け合うことができると思います。障害があってもなくても同じです。私たちは皆、運命共同体であり、お互いを必要とし、助け合う必要があります。皆、愛してくれる人を必要としています。

私が人生の中で経験した最大のこと。私の人生に一番影響を及ぼしたこと。それは、常に愛されていると感じたことです。それは私たち皆が必要としていることです。愛されていて、助けを得られるという感覚です。

私たちが生きる社会では、政治的決断としても、また小さな地域や集団のあり方としても、お互いに愛し合い、助け合い、励まし合えることが必要です。お互いを称え、お互いを勇気づけ、自分自身のままでいられることが大切です。これが唯一、世界をより良い場所に変える方法だと思います。

ありがとうございました。(拍手)

竹中/ レーナさん、ありがとうございました。本当にすばらしいお話で、まさにゴスペルそのものですね。この話にコメントは要らないと思います。これから、レーナさんはミニライブの準備に行かれます。レーナさん、本当にありがとうございました。(拍手)

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