日経ビジネス 2004年5月10日号より転載

 

 
 

ひと列伝

 
 
竹中 ナミ氏[プロップ・ステーション理事長]
娘と「バリアフリーの先」へ
 
     

持ち前の人なつこさで各界に障害者の自立支援の輪を作り上げてきた。
奔放な青春、愛娘の障害…。平坦ならざる半生を屈託なく振り返る。
今、障害者の在宅勤務の場を広げるインターネットの可能性に賭ける。

フリーランスジャーナリスト
佐保 圭

 「さん付け」で呼ばれることはめったにない。老若男女と問わず、ほとんどの人が「ナミねぇ」と呼ぶ。

 厚生労働大臣の坂口力が出会った頃のことをこんなふうに回想する。「新しいことをされる方ですから、かなり理屈っぽいことをおっしゃる女性かなという印象を持っておりましたけど、お会いいたしましたら『竹中さんじゃなくナミねぇと呼んでください』とおっしゃって…あらら、自分が想像していた人と全く違ったなと思ったんです」。

 出会う人が皆「ナミねぇ」と呼びたくなるのは、裏表のない彼女の本音トークが、初対面同士の心の壁を取り払ってしまうからだ。

 そんな竹中が理事長を務めるプロップ・ステーションの支援者には、総務大臣の麻生太郎、大阪府知事の太田房江や高知県知事の橋本大二郎、社会学者の上野千鶴子、ジャーナリストの櫻井よしこや筑紫哲也など、錚々たる面々が名を連ねている。昨年2月に対談したビル・ゲイツもその1人だ。

 プロップ・ステーションは1991年5月、竹中は数人の仲間によって、「チャレンジド」の自立を支援する任意団体として設立された。「チャレンジド=challenged」とは「神から挑戦すべきことを与えられた人々」という意味で、米国で障害者に代わって使われ始めた比較的新しい言葉だ。

 竹中は「“チャレンジドを納税者にできる日本!”がうちのキャッチフレーズ。コンピューターを武器にして、在宅勤務とか時間を限定した会社勤務などに仕事のチャンスを広げるのがプロップの使命」と言う。障害者や高齢者を対象としたコンピューターセミナーを開催し、卒業生には在宅勤務のコーディネートも積極的に行ってきた。

 しかし、任意団体だと企業から小さな仕事しか受注できないと知った彼女は、法人格を取得するべく、当時の厚生省に足を運び、粘り強く交渉した。

 コンピューターの普及という追い風も吹き、98年に念願の厚生大臣認可第2種社会福祉法人格を取得。本部を神戸に置き彼女は理事長になった。

 これまで1000人以上のチャレンジドがコンピューターセミナーを受講。販売管理システム構築、データベース開発、ホームページの保存管理、ポスターのデザイン、DTP(デスクトップパブリッシング)業務全般、アニメーション制作から翻訳まで、約100人がプロップ・ステーションのコーディネートで在宅勤務を行ってきた。

 「私はつなぎのメリケン粉」と本人が言うように、政財界の大物や官僚、企業家、社会活動家まで、政党も職種も思想信条も関係なく、プロップ・ステーションに共感してくれた人をつなぐことで、大きな波を起こしてきた。

佐保 圭(さほ・けい)氏
1964年生まれ。「日経ベンチャー」「日経モノクル」などに執筆。科学関連のライターとしても活躍している。

 


ユニバーサル社会目指し

写真:講演中のナミねぇ
竹中 ナミ(たけなか・なみ)氏
1948年兵庫県生まれ。55歳。73年重度の障害を持つ長女を出産したことをきっかけに、障害児の福祉や教育を独学。91年障害者の就労支援組織「プロップ・ステーション」を創立。98年社会福祉法人格の認可取得。99年エイボン女性年度賞教育賞、2002年総務大臣賞受賞。主な著書に『プロップ・ステーションの挑戦』(筑摩書房)、『ラッキーウーマン』(飛鳥新社)など。

(写真:山田 哲也)

 竹中は一昨年、自民党の野田聖子、公明党の浜四津敏子と3人で「バリアフリーをさらに進めて、チャレンジドを含めたすべての人が持てる能力を発揮できる社会」を意味する「ユニバーサル社会」の促進プロジェクトチームを発足させた。来年夏、阪神・淡路大震災後10年の区切りとして神戸でユニバーサル社会の実現に向けての実験が行われる。

 障害者でも外国人でも高齢者でも子供でも、誰もがIT(情報技術)活用によって自由かつ快適に目的地にたどり着けるインフラの整備を進めている国の「自律的移動支援プロジェクト」の推進委員でもある。

 「震災は障害者の方々にとっても大きな試練でした。それをどう乗り越えてきたかがユニバーサル社会の理念に結びついたわけです」と兵庫県知事の井戸敏三は言う。「竹中さんはITのようにハンディを埋める活動を展開してこられたのです」。

 今年4月には委員を務める「障害者の在宅就業に関する研究会」が報告書を提出した。これを踏まえて、身体障害者雇用促進法の対象外だった在宅勤務が認められるようになれば、障害者の雇用機会は格段に増すことになる。

 「今までは障害者の生活を丸々支える形の支援を行ってきましたけど、竹中さんは障害者に働く場所を与え、自立してもらえるように手助けする。そこが一番違うんです。福祉のあり方を変えますね」と坂口に言わしめ、井戸は「『チャレンジドも納税者になる』という考え方に感動しました」。そんな竹中の行動力と独創性の源は何なのだろうか。

 それは「愛娘の麻紀を残して安心して死ねる社会を作るため」だった。

 48年、竹中は神戸で生まれた。父は京都帝国大学(現京都大学)を出て、陸軍学校から川崎重工業の幹部候補に転じたエリートだった。だが37歳の時、赤旗を振ってシュプレヒコールを繰り返す会社の組合員を窓辺で眺めていた際、つい手を振ったことから「アカ」のレッテルを張られ解雇された。

 社会主義思想に傾倒し、女性解放思想に目覚めていた12歳年下の母は、悲しむどころか赤飯を炊いたという。父は風呂釜メーカーに就職し、営業で日本全国を飛び回ったが、生活は苦しかった。

 「母が保険調査員になって働き出すまでは、ほんまに貧しかった。その頃の経験があるから、大人になっても、どんなに貧乏でも平気やった」

 詩人、小説家、バレリーナ、漫画家を夢見た竹中が最後に選んだのは女優への道だった。ある新劇の劇団に入り、団員のたまり場だった京都・先斗町のスナックで働いたりもした。中学2年だった。「昔はほんまにごんた(関西弁で不良のこと)やったわ」。

 高校1年の夏休み、ある役所で選挙名簿のアルバイトをした。そこで後の夫になる男性と出会った。役所の職員で、5歳年上だった。

 「一目惚れやった。漫画の『同棲時代』と『幼な妻』が流行ってた頃で、その年の秋、一人暮らしの彼の部屋に転がり込んで、同棲始めてしもた」

 学校にバレ、不純異性交遊で退学となった。家を出て16歳で結婚、22歳で長男の宏晃を出産。そして24歳の時、長女の麻紀が誕生した。この子が竹中を「ナミねぇ」へと導くことになった。

 最初に異変に気づいたのは、初乳を飲ませようした時だった。麻紀は乳房に吸いつこうとしなかった。「何でやろ?」とは思ったが、搾乳器で搾った乳をスポイトで与えると飲んでくれた。しかし、3ヵ月検診では健康な赤ちゃんの生後1ヵ月の平均体重にも満たず、体中に白いあざのようなものが浮かんでいた。皮膚科に行くと、脳神経科の先生を紹介された。そこで、重度の脳障害と診断されたのだった。


娘への愛に導かれて

 「今でも知能は生後2〜3ヵ月の赤ちゃんぐらい。明るい暗いは少し分かるけど、モノははっきり見えていない。耳は聞こえるけど、言葉の意味は理解できない。体も不自由で、手を引けばゆっくり歩くけど、食事その他、すべての生活に介助が必要。私は赤ちゃんタイプって呼んでますけど」

 途方に暮れた竹中は、何かアドバイスをもらえないかと実家に帰った。父と母は「かわいいねぇ」などと楽しそうにあやしていたが、麻紀が医者から脳の障害だと診断されたことを告げた途端、父親が立ち上がり、言った。

 「わしが麻紀を連れて死んだる!」

 驚く竹中に、父は言葉を続けた。「この子と一緒じゃ、おまえが絶対苦労する。不幸になるんや!!」。この時、竹中は心に誓ったという。麻紀とともに強く明るく朗らかに生きることを。

 「そやないと最愛の父親と娘の2人を同時になくしてしまうことになる。そりゃ、かなわんって思ったわ」。それからは麻紀の療育の傍ら、障害児の福祉や教育を独学する毎日が始まった。

 「麻紀には接触拒否という不思議な障害もあって、7歳までぎゅっと抱っこされるのがイヤやった。自分の髪の毛をむしって転がり回ってた頃は、喉に詰まらないよう髪の毛を拾って歩くんが日課やった」。麻紀が生まれてから十数年、平均睡眠時間は2〜3時間だったという。

 「そやけど、ほんま楽しかったわ。麻紀と友達になってもらおう思て、近所の子ら集めてお遊び会なんかもよぉやった。私も『黒猿』とか『女ターザン』って呼ばれてた幼い頃のごんたくれに戻って、ガードレールの上走ったり、フェンスに登ったり…」。

 麻紀の目は明暗を感じるほどの視力しかない。「ほな、目の見えない人とおつき合いしたら、麻紀のことが少しは分かるかもしれない」と思った。昔は聞こえているようだけれど、脳の発育状態が生後2〜3ヵ月程度だから、反応するだけで、音を情報として処理できず、言葉もしゃべれない。「そしたら、耳の聞こえない人から実体験を教えてもらったら、私は少しは麻紀に近づけるかもしれへん」と考えた。

 そんな日々を送るうち、いつしか周りからは「ナミさんて、ボランティアしてる。えらいなぁ」と言われるようになった。その点について、彼女は自著『ラッキーウーマン』の中で次のように書いている。

 「私は一度だってボランティアと思ったことはない。(中略)すべては麻紀のため、そして自分のため。親バカで自己中心的なだけだ。(中略)今やっている『プロップ・ステーション』の活動にしてもそう。(中略)私が死んだ後も、社会がきちんと、この子の面倒をみてくれるようになってほしい。この一念で、何でもやってきた」

 麻紀が11歳になり、養護学校で面倒を見てもらえるようになってからは、さらに多くの活動に参加していった。89年には、有料介助者の普及・育成組織「メインストリーム協会」(兵庫県西宮市)の事務局長になった。

 翌年、協会は全国の重度障害者1300人に就労意識アンケートを実施。その結果は仕事をしていない人の80%が「就職したい」と答え、そのうち「コンピューター関係の仕事に就きたい」人が47%、「関心はあるが仕事としてやれるか自信がない」という人も33%いることを知った。

 その後、西宮市の要請でパソコン通信による福祉の電子掲示板を担当。「これは武器になる」と確信した竹中は91年5月、協会の就労支援部門としてプロップ・ステーションを設立した。同じ年、竹中は夫と離婚した。


逆境をチャンスに変える力

 「私は麻紀のいる生活を楽しもうとしたけど、夫は楽しめられへんかった…それが理由やと思います」

 竹中が表情を曇らせたのは、当時のことを語ったこの時だけだった。

 竹中にインターネットのすごさを痛感させたのは、95年1月17日の阪神大震災だった。震災直後の首相官邸がまだ本格的に動き出す前に、神戸から発信された燃える街の映像が欧米で受信されていたという話を聞かされた彼女は、以前から知遇を得ていた慶応義塾大学教授の金子郁容の被災地情報共有システム「インターVネット」の立ち上げに参加させてもらった。

 同年9月には、ある会社の厚意に甘える形で同社のサーバーに無料でホームページを開設。12月には、金子の橋渡しで野村総合研究所と「リモートワーク(在宅勤務)共同実験」を開始した。この実験のリポートをまとめた時、竹中ははたと気づいた。

 「通勤が困難なチャレンジドには、在宅勤務に必要な技術を身につける勉強もインターネットを利用して在宅でできるようにせなあかん」

 こうしてプロップ・ステーションのIT化はさらに進められ、多くの支援者の協力を得ながら現在に至る。

 金子は言う。「ITにはプラス面もマイナス面もありますが、チャレンジドや高齢者など、様々なニーズを持っている人たちをITでつなげたということに大きな意味があります。ITには、それまで弱いと思われていた人から、力を引き出す働きがある。竹中さんはチャレンジドに『自分たちも社会に貢献する存在である』というプライドを回復させたのです」。

 井戸は「困難を逆にチャンスとして生かしていく情熱の人」、坂口は「新しいものを求めるバイタリティーはほかの人の追従を許さないものを持っていらっしゃる」と表現した。

 「ユニバーサル社会のシステムを日本で構築できれば、世界に発信できる最高のソフトを持つことになる…そう思いません?」と目を輝かせる竹中に、今一番楽しいことは何か尋ねた。

 「7歳で抱っこさせてくれて、18歳でおんぶしたら腰に足を回してくれるようになって、30歳になった去年、とうとう私の首に手を回してくれるようになった。お兄ちゃんが1年半でできたことを麻紀は30年かけてやろうとしてる…その分、達成できた時は100倍うれしいねんよ」

=文中敬称略