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PHPスペシャル 2004年1月号より転載

     
  特集ドキュメント  
 
逆境こそ「いいこと」の種!
 
 
〜重度脳障害の娘を授かった母の挑戦
 
 

 


街で評判の「不良少女」だった竹中さんが、
いつしか、障害者を支援する活動に全力を傾け始めます。
竹中さんを突き動かした思いとは、何だったのでしょうか?

取材・文:乾佳子


竹中ナミの写真
写真・大輪サキ

社会福祉法人プロップ・ステーション理事長
竹中ナミさん

たけなか なみ●1948年兵庫県生まれ。24歳のとき、重症心身障害児の長女を授かったことから福祉を独学。'91年に「障害者を納税者にできる日本」をスローガンに就労支援活動「プロップ・ステーション」を創設。'98年には厚生大臣認可の社会福祉法人格を取得。理事長に選任される。著書に『ラッキーウーマン』(飛鳥新社)。



 「波瀾(はらん)万丈」という言葉はまさに竹中ナミさんのためにある。

 貧乏だった子供時代、両親の思想が「赤(共産主義者)」と警察にマークされ、引っ越しを7回繰り返した。竹中さんの子供時代である1950年代は、国が共産主義者を探索し、弾圧しようとする「赤狩り」が行なわれていたのだ。

 中2で女優を目指し新劇に入るが、覚えたのは演技ではなくて水商売。高1の夏、お堅いはずの「役所」でバイトしたら、公務員と恋に落ちた。15歳で同棲。高校にバレて退学処分。16歳で正式に結婚。

 「ホンマもんの不良でした」
 と竹中さんは笑う。今年55歳の元不良、通称「ナミねえ」は現在、「社会福祉法人プロップ・ステーション理事長」を務める。総務省、財務省、厚生労働省の審議会の委員でもある。先頃は、国会議員を巻き込んでプロジェクトチームを作ってしまった。「不良少女」とは180度違う人生である。

 その人生の転機は、
 「麻紀という娘、“四つ葉のクローバー”を授かったこと」
 ナミねえは、かみしめるように言い、ニカッと笑った。

 麻紀さん(現在30歳)は、ナミねえが25歳のときに産んだ2人目の子どもだ。重度の脳障害がある。視力は光を感じる程度、話せず、音は聞こえてもその意味を理解することはできない。

 予兆は妊娠中からあった。臨月になってもお腹(なか)があまり大きくならなかった。産まれたときの体重は2,230g。産声は弱々しく手の指は全部開いていた。
 「でも、私はのんきだから、上のお兄ちゃんのときと様子が違うな、としか思いませんでした」

 だが、なぜか赤ちゃんがおっぱいに吸いついてくれない。
 「大丈夫、小さく生まれたから少し遅いだけ、大丈夫」という産婆さんの言葉を信じて、ひたすらおっぱいを搾っては湯煎(ゆせん)してスポイトで飲ませた。その繰り返し。
 「そのときは必死だから、苦労とは思わなかった。それより人間ってすごい。哺乳類(ほにゅうるい)なのに本能でおっぱいに吸いつけないわけでしょ。自然界ならその時点で淘汰(とうた)されているはず。『人間と動物は違う』。麻紀を育てながらずっとそればかり考えてきました」

 麻紀さんを“四つ葉のクローバー”にたとえるのもそこだ。本来、四つ葉のクローバーは自然界では異端の存在。なのに「標準外だから悪い」とせず、「幸せのシンボル」とした人間の想像力、文化、社会はすごい! と。

 

絶対に、楽しく生きてみせる!
竹中さんの最愛の長女・麻紀さんと。
「私がここまで頑張れたのは、すべてこの子のおかげ。私が先に死んでも、安心して麻紀を残していけるような社会をつくりたいんです」。
竹中さんと麻紀さんの写真


 3ヵ月検診がきっかけで、麻紀さんに脳障害があることを知った。しかし、その医者の宣告よりナミねえにとってショックだったのは、実家の父が障害のことを聞くなり、「わしが麻紀を連れて死んでやる! この子といっしょじゃ、お前は不幸になる!」と叫んだことだ。

 「父なら本当にやりかねない、と思いました。じゃあ、私がこの子を守る、という感覚ではなくて、この子と絶対楽しく生きてやる、楽しみをみつけてやる、と思いました」

 『うる星やつら』という漫画が流行(はや)れば、主人公の「ラムちゃん」のマネをして星飾りのついたヘアバンドにミニスカート姿で乳母車を押した。「ラムちゃん」が好きだったから、もある。それより周りにも「楽しく生きている」ことをアピールしたかった。

 「楽しそう」なナミねえのそばには、たくさん子どもが集まった。「乳母車(うばぐるま)押させて」「遊ぼ」。その子どもたちが、麻紀さんの遊び相手になってくれた。

 とはいえ、ナミねえにも泣きたい日がなかったわけがない。

 医学書を読(よ)み漁(あさ)り、その道の権威の先生たちにいやがられるほどしつこく会いに行き、勉強したあげく、「原因」がわかっても「治療法」がないこと、「治療法がない状態」を「障害」と呼ぶことがわかった日。親として無力な自分を思い知らされたとき。トイレで水を流しながら泣いた。

 「長男がいたから。母ちゃんが泣いてるところなんて子どもは見たくないでしょ。泣くことはいいと思う。それで何かが洗い流されて次のパワーが湧(わ)くのなら。でも自分が悲劇のヒロインになって『かわいそうな私、よよよ』となるなら、泣く意味がない」

 そう言い切るナミねぇは、障害者の母が(私が死んだ後、この子はどうなるのか)という思いからわが子に手をかけた「事件」を、身近でたくさん見てきた。そしてその度に「同情の余地がある」と世論が動き、減刑の嘆願署名が起こるのが、とても悔しかった。

 「世の中はこういう子を殺した親のほうに同情が集まるのかと。私はそういう同情される人間にだけは絶対なりたくないと思ったんです」

 

「私が世の中変えたる」


 ナミねえの夫は、家の中のことは女の責任があると思い込んでいる人だった。麻紀さんの育児に関しては、ほとんど手助けしてくれなかった。
 「今思えば、麻紀にどう接したらいいのか、夫自身がわからなかったのだと思います」

 麻紀さんには「接触拒否」という症状もあった。抱こうとすると激しく泣く。「赤ちゃんは母に抱かれておっぱい飲んでいるときが一番幸せ」というような『母子神話』は、成立しなかった。通常の育児では母親はわが子を抱きしめたとき、育児ストレスや疲れを忘れることができる。「つらくなかったですか」と問えば、
「つらいというより不思議ね。人間ってなんていろんな種類があるんだろう、と思った。だから理屈とか理論はひとつと思い込んだらダメ」
 と返事が返ってきた。ナミねぇがすごいところはここだ。こちらがいくらマイナスの感情の言葉を投げかけても、マイナスの言葉は返ってこない。

 「『おもしろがり』だから。自分の居場所は自分でおもしろくしなきゃ誰もおもしろくしてくれない。いやなところに辛抱している自分はいや。おもしろいところにいる自分が好き」

 介護のボランティアを始めたのは、麻紀さんが小6のときだ。彼女の「接触拒否」が改善され、養護学校に通うことになった。少し自由な時間ができた。夜もよく泣き叫ぶ麻紀さんを抱えて、それまでの平均睡眠時間は2、3時間。

 普通ならここで少し休みたいところだが、「介護を1週間休むと介護力を取り戻すのに2週間かかるから」と、住んでいた西宮市内の総合福祉センターの門を叩(たた)いた。重度肢体不自由者の介助ボランティアを行なう一方、センターの「おもちゃライブラリー(障害を持つ子と持たない子がおもちゃを通じて触れ合う場)」の活動も手伝った。

 その中で、障害があっても「働いてお金を稼ぎたい」「お金を払って仕事として介護を依頼したい」という願う人々と出会った。

 「税金からナンボとってくるかが福祉」という、“福祉界の常識”からはみ出た彼らが頼もしく思えた。

 平成4年、ナミねえは彼らの就労支援任意団体「プロップ・ステーション」を立ち上げる。「プロップ」とは「支え合い」を意味する。

 「女がそんなことするな。お前なんかに世の中が変えられるか」
 活動に理解を示さず、反対した夫とはこのとき、離婚した。ナミねえが43歳の時だった。精一杯たんかを切った。
 「私が世の中変えたる」

 

乗り越えられないことがあってもいい!
「受講生は『絶対に仕事をしたい!』というガッツを持った人ばかり」と竹中さん。パソコン操作のセミナーで熱心に語りかける。プロップ・ステーションのホームページはhttp://www.prop.or.jp
セミナーの受講生に話しかける竹中さんの写真


 「プロップ・ステーション」を立ち上げ直後、全国の重度の障害者1,300名にアンケートをとった。「どんな仕事ならできそうか」という問いに8割が「コンピューターを武器にしたら、働けそうだ」と答えた。コンピューターなら、通勤しなくてもいい。手が動かせなくても、足で、あるいは口に棒をくわえて操作ができる。彼らにとってコンピューターは、人類が火を発見したのと等しいほどの発明だったのだ。コンピューターのセミナーを開こう――ナミねえにひとつのアイデアが閃(ひらめ)いた。

 だが、当時、コンピューターは1台約100万円した。ナミねえはコンピューター業界トップたちに会いに行った。

 「私たちのセミナーからきっとあなたたちの会社の社員、ユーザーが生まれます。これは寄付じゃありません。先行投資です」

 同情には訴えず、「先行投資」と言い切ったナミねぇの元に、ある日アップルコンピュータ株式会社から総額1000万円のパソコン類が届いた。これが、夢の実現への大きな一歩になった。

 セミナー受講者は、現在までに約1,000名。ボランティア講師による指導を受けて、コンピューターの技術を習得していった。彼らは在宅で介護を受けながら、あるいは入所者が働くことを認められた施設や病院で、プロップ・ステーションが企業や行政と契約を交わした仕事に従事している。しかし「収入」という面からだけ見るならば、経済的自立からはまだ遠いのが現実だ。

 「よく『障害を克服して……』と言うじゃないですか。『障害』の差し障りがある上、害があるという字もイヤだけど、『克服する』という言葉もキライ。世の中、乗り越えられないこともいっぱいある。自分の課題を直視できればいい。直視して、あ、負けそうと思ったら逃げてもいい、しゃがんでもいい。自分をみつめられたらOK」

 ナミねえは「マイナス」と言わず「課題」と言った。「チャレンジド(挑戦という課題を与えられた人)が納税者になれる日本」を目指して、彼女のチャレンジはまだまだ続く。