公明新聞 2003年6月2日より転載

     
  著者に聞く  
 
ラッキーウーマン
人とのいい出会いが幸せを運ぶ
 
 
竹中 ナミさん
 
 

 

著者に聴く

 「この本のタイトルが決まったとき、周りの友達から、なんや、まんまやないかって大笑いされましてね」

 障害者の在宅就労支援組織、社会福祉法人プロップ・ステーション理事長「竹中ナミ」−そんな肩書の堅苦しさが吹き飛んでしまうような、愛称「ナミねぇ」の笑い声が取材の始めから弾けた。

 ただ、本書によれば、そのナミねぇ、実は、名うての不良少女だったし、単純な“ラッキーウーマン”だったとは、とても思えないことばかりだ。度重ねた家出、15歳の同棲、高校からの追放、16歳の結婚などなど。

 「めちゃくちゃ美人で(笑い)、目立ちたがり屋で、おまけに人と同じレールに乗せられるのが大嫌いな気性だったからじゃないかな」

 長男に続いて、24歳の時に、長女・麻紀さんが生まれた。脳に重度の障害があった。しかし、この時から「私が死んだあと、この子はどうなるのか」という不安をぬぐい去り、持ち前のポジティブで、パワフルな行動へ、心と体のギアを切り替えた。

竹中ナミの写真
お気に入りだというビル・ゲイツとのツーショット写真を横に

 「時代が、私らのような親の気持ちを後押ししてくれた幸運もあった」。個人的な願いを普遍的な運動にまで高める豊かな母性が、多くの共感を呼ぶ時代が到来していた。

 ボランティア活動から、有料の介助者・アテンダントの普及運動、そして、やがて、1992年に、「支え合い」を意味するプロップ・ステーションを立ち上げた。このころから、ナミねぇは障害者という言葉を使うのをやめた。「挑戦する使命とチャンスを与えられた人」という意義を込めて、「チャレンジド」と呼び、“チャレンジドを納税者にできる日本”という、「まるで夢のような」目標を掲げた。

 チャレンジドの在宅就労の武器はコンピューター。しかし、そのパソコンは手元に1台もなかった。

 「私の場合は、人との出会いが本当に幸いしました。こんなことをしたいと願っていると、力を貸してあげられるよ、という人が常に目の前に現れました。心底、ラッキーやったと思いますよ。そして、それは、今もそうです」

 加えて、「心臓に苔(こけ)が五重に生えている」ので、相手がだれであろうとおくす気持ちがない。並み居るコンピューター企業の経営者を前に「寄付ではない。先行投資」とぶって、機器をそろえたこともあった。

 トレードマークみたいになったジーンズファッションに身を包み、寸暇を惜しんで、1人でも多くのチャレンジドの自立支援のために、政・官・財から芸能界に至るまで、内外に幅広い交流の輪を広げて続けるナミねぇ。アメリカのチャレンジドに会うために、ペンタゴンの中枢部を訪ねたこともある。あのビル・ゲイツとも親交を結んだ。

ラッキーウーマンの表紙の写真
(飛鳥新社・1300円)

 5月には、通販会社と連携し、兵庫県などの協力も得て、チャレンジドの手作り製品を売れ筋商品とする事業をスタートさせた。また、今年8月には、千葉で、ユニバーサル社会基本法の成立を期して、浜四津敏子参院議員(公明党代表代行)、野田聖子衆院議員、堂本暁子・千葉知事らとセッションを行う予定だ。

 「とにかく人が好き。人以外は何も興味がないくらい人間が好きなんです」と語るナミねぇは、本書の中で、「家族みんなに祝福されて生まれてきた麻紀は、私の人生に無限大の可能性を与えてくれることになった」と書いて、読者の心に深い感動を刻んだ。