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NEW MEDIA 2002年4月号より転載

     
  The Challenged とメディアサポート  
  野田聖子vs貝谷嘉洋vs竹中ナミ
「有能なチャレンジドが働けないのは、国の悲劇!」
 
     

野田聖子衆院議員は、小渕内閣で郵政大臣を努めたIT政策通である一方、チャレンジドを秘書として雇い、障害者福祉政策にも新思考で望んでいる。昨年は、本誌も協賛する「チャレンジド・ジャパン・フォーラム」に参加。ITを活用した「チャレンジドの誇りある自立」を目指す社会福祉法人プロップステーション竹中ナミ理事長との連携が生まれている。
上智大学大学院で障害者政策を研究しながらNPO活動も展開する貝谷嘉洋さん(筋ジストロフィーで車いす)は、そんな野田議員の下で研修した経験がある。
野田議員、貝谷さん、竹中理事長、IT時代の障害者福祉について大いに語ってもらった。
(報告:中和正彦=ジャーナリスト、写真:牧田 清)

福祉政策のウソを見破るために
竹中 お二人の出会いの経緯は?
野田 私は岐阜が地元で、4年ほど前、日本筋ジストロフィー協会岐阜支部の総会に出席 しました。そうしたら、彼のお父さんが協会の理事として、そこにいらしたんです。その時、彼が秘書になりたいと言っているという話を、お父さんから聞いたのが始まり、だっ たかな?
貝谷 そうですね。当時ぼくはカリフォルニア大学の大学院で公共政策を勉強していて、 「どこかで研修してきなさい」という課題があったんです。いずれ日本に帰る気持ちでい ましたから、日本の政治に関わることをやりたいと思って。
野田 私としては、「いいですよ」と。私のところでは、森君という重度の脳性小児麻痺の秘書がいたので、障害について違和感はありませんでした。貝谷君は優秀だし、福祉についてはまさに現場の人だから、厚生省(当時)のウソを見破るだろうと。そう思って来てもらいました。政策秘書ですね。
竹中 秘書になって、どんなことをされたんですか。
野田 厚生労働省へのヒアリングには、彼に同席してもらっています。それを彼の方で取りまとめて、今後の福祉はどうあるべきかというレポートも作りました。

 

野田聖子(Noda Seiko)
1960年福岡県生まれ。上智大学外国語学部卒業。87年岐阜県会議員当選。93年衆院議員
(岐阜1区)。96年郵政政務次官。98年郵政大臣。現在、衆院厚生労働委員会委員、自民党政務調査会副会長(総務省担当)など。

 

パソコン通信に感動して
竹中 森さんという方は、どんなお仕事をなさっているんですか?
野田 彼はもう7〜8年いるんですけど、最初のうちは岐阜の事務所でパソコンを使って名簿管理をしてもらっていました。いまはお父さんの仕事の都合で東京に来ているんですが、通うのが大変なので在宅勤務にしています。
竹中 7〜8年も前にパソコンを?
野田 そう。当時はすごいことですよ。でも、彼は頭がいいのに、その頃の仕事はというと、授産施設で書類の印刷をして月7,000円〜8,000円のお小遣いをもらっていただけなんです。「これはもったいない」と思って、「ウチの事務所はちゃんと仕事ができればちゃんとお金を払うよ」と。
竹中 で、仕事はパソコンで?
野田 ええ。実は、私をパソコンの世界に導いたのは、彼のグループなんです。その頃はまだインターネットなんかなくて、パソコン通信でしたけれど、それを始めて、感動して、ハマっちゃったんです。
グループの一人の人は障害が重くて、私には何を言っているのか全然聞き取れませんでした。ところが、チャットで話すと普通の男の子なの。それで「これはすごい道具だ。偏見や差別をなくすな」と感動して。
人間って、どうしても見た目で判断しがちじゃないですか。男か女か、若いか年寄りか、障害があるかないかって。でも、パソコン通信の中に入ってしまうと、それが完全にイコールだったから、ビックリしましたよね。
竹中 私たちも11年前、そういうことに感動してプロップステーションの活動を始めました。貝谷さんはパソコンは?
貝谷 ええ、使っています。ホームページの検索と電子メール、あとは普通のオフィス系のソフトですね。講演をすることも多いので、パワーポイントもよく使いますけど、その程度です。実は、コンピュータ歴は長いんですけど。
竹中 どのくらい?
貝谷 小学校6年生のときから、PC6001の時代から使っています。ぼくが筋ジスとわかって、両親が与えてくれたんです。PC6001って御存知ですか?
竹中 うわっ、オタクみたいやね(笑)。
貝谷 でも、コンピュータ関係に進まなかったということですね。

 

貝谷嘉洋(Kaitami Yoshihiro)
1970年岐阜県生まれ。筋ジストロフィーのため14歳から車いすを利用。93年関西学院大学卒業後、単身渡米し、99年カリフォルニア大学バークレー校で公共政策の修士号を取得。
留学一時帰国中に野田議員の秘書として研修。帰国後、日本バリアフリー協会を設立。

 

必要なところに支援が行かない
野田 私にとって一番役立つのは、彼の愚痴なんです。それが障害者福祉の原点を教えてくれるんです。いまも印象に残っているのは、「介護してもらうのに、『すみません』と言うのはイヤだ」という話。私はそういう気持ちを全然知らなかったんですけれど、確かに自分がその立場になったらそうですよね。
竹中 アメリカでは、有料の介護者「アテンダンド」が普及していますよね。対価を払うことで気兼ねなくモノを言える関係にする。貝谷さんは、そういう環境の影響を受けた面はありますか。
貝谷 そうですね。アメリカでは、自己決定、つまり「本人が何をしたいかを決める」ということを一番大事にします。自分の中にもそういう感覚が根づいてしまって、帰国してからも「やっぱりああいう方がいいな」と感じてしまいます。
竹中 日本の福祉に対して、「ここは早急に何とかしてほしい」という点は?
貝谷 人としてもお金としても、必要なところに必要な支援が行われていないのを感じます。人を生かすお金の出し方というものがあると思うんですけど、逆に閉じ込めて殺しちゃうようなお金の出し方をしている部分がある。
竹中 私が聖子さんと変えていきたいなと思っているのも、そこです。その人が持てる才能や能力を発揮できるようにするためのサポート。それが福祉と呼ばれてほしいと思っているんですよ。
野田 管理する側は、障害のある人をみんな「障害者」という一つの枠の中に入れて画一的に扱えた方が楽なわけですよ。で、障害者は健常者とキチッと分けられてしまっている。その関係が対等でないから、健常者の側からは「してやっている」という感じが出る。障害者側は「もっと自分たちもやりたい」と思うのに、健常者側には「ちゃんと生活を保障してあげるから、静かにしていなさい」みたいな感覚がある。
その結果、森君や貝谷君みたいなすばらしい頭脳を持った人でも、なかなか相応の仕事がない。これは、やっぱり国の悲劇ですよ。彼らが働きやすいような環境を作らないといけない。

 

竹中ナミ(Takenaka Nami)
1948年神戸市生まれ。娘が重症心身障害者であったことから、20年以上にわたり各種ボランティア活動に携わる。91年、ITでチャレンジドの自立を支援するNPOプロップステーションを設立。99年に社会福祉法人認可を受け理事長に。

 

リスクを負って挑戦する人に
竹中 貝谷さんは、自分の家を改造して、自宅、兼仕事場、兼NPO日本バリアフリー協会のオフィスにしたんですよね。
貝谷 ぼくの場合、下から持ち上げたりリフトで吊ったりと、ただでさえ普通の人よりも身体を移動させるのに時間がかかるので、工夫しないといけないんです。
野田 それも仕事にしたら? 住宅のバリアフリー化には補助金も出ているから、コンサルタントも成り立つでしょう。で、儲かったら政治献金してよ(笑)。
竹中 それはいいですね。プロップが取り組んでいるのは、コンピュータを使った在宅ワークですから、自宅をどれだけオフィスにできるかということは、これから大きなテーマになるんですよ。それから施設も、いまは「働けなくなった人が介護を受けるところ」というイメージですけど、これからは「介護を受けながら働けるところ」に転換することが求められていると思うんです。
野田 そう。で、障害者がコンサルをやらないと、いい施設はできないんですよ。たとえば、手摺り一つ取っても、設計のプロが選んだ手摺りは太すぎるんですって。障害や高齢で握力が落ちた人には、細い方がいいんですって。こういう普通の人が気づかないところがあるから、いい商売になると思うんですけど。
竹中 聖子さんとしては、貝谷君にどういう人になってほしいですか。
野田 これからは、チャレンジできる人が自由に自分でリスクを取ってやっていける世の中にする必要があります。彼には早く納税者になってほしい。彼は皆に支えられているし、頭もいい。恵まれている方だと思います。だから、たくさんの人の夢と希望と勇気の素になってもらいたいですね。
竹中 ご本人としては、どうですか?
貝谷 がんばりたいと思います。
野田 ま、でも、まだけっこう遊びたい盛りだから、それはそれで、ねっ(笑)。というのは、この仕事をしているからと言って「われわれとは世界が違う」って思われちゃうような人には、なってほしくないんですよ。
竹中 やはり、きれい事じゃなくて、ホンネでつきあえる人でないといけないですよね。今日はどうもありがとうございました。


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