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週刊読書人 1998年10月9日号より転載



     
 

迫真のルポルタージュ

 
     



障害者の社会参加実現に奮闘
コンピュータを武器にして挑戦する

武田 徹

 

 「救う側の論理」と「救われる側の論理」はしばしば乖離するす−。たとえば地方議会が歩道橋にスロープ設置を義務化する条例を決議する。法定に関わった地元議員は鼻高々だ。俺が車椅子の人達を「救ってやったのだ」と。
確かにスロープ付設はバリアフリー化の必要条件だ。しかし十分条件ではない。障害者の移動の困難を軽減するインフラ作りは大事だが、彼らの社会参加が十分に実現していない段階では必然性、目的自体がそもそも乏しく、ハードだけ整ってもあまり意味はない。だが「救う側」はそうした事情まで配慮せず、ハード作りだけで御満悦となり、勝手に自己完結してしまう。これは元を糺せば障害者の置かれた状況を真摯に知ろうとしないからであり、つまりは障害者を蔑ろにし、差別しているのだ。このように一見、熱心な「慈善活動家」「救済篤志家」が実は「差別者」だというケースがあるので注意が必要だ。
その点、『プロップ・ステーションの挑戦』の読者は安心して良い。著者・竹中ナミは障害者をチャレンジドと呼び替える。「神から挑戦すべきことを与えられた人々」という意味だ。障害者は「できる」こと、「できない」ことの配置が健常者と異なる。そのため多数である健常者中心に社会が設計されると障害者にとって住み難くなる。しかしだからといって「できない」障害者にその場限りの救いの手を差し延べても状況が大きく改善されるわけではない。むしろ彼らにも「できる」能力を延ばす手伝いをし、健常者中心社会ならではの「傾斜」を乗り越える挑戦にと障害者自ら乗り出して貰う必要あるのではないか−。そう考えて竹中は「学校」であり、挑戦の「拠点」でもあるプロップ・ステーションを設立する。
そんなプロップの武器はコンピュータだ。たとえばインターネットで繋がって環境下ではコンピュータがどこで動いていようが無関係。だから移動が困難で通勤に適さない障害者でも、優れたプログラム能力さえあれば自宅で健常者と互して働ける。
本書はこうしてコンピュータという新しいメディアを活用、障害者の社会参加実現(―<障害者を納税者に>がプロップのスローガン―)に尽力する竹中自身の手による奮闘記であり、彼女を中心に障害者、ボランティア・スタッフが互いに巻き込み、巻き込まれつつプロップが成長して来た軌跡を記した迫真のルポルタージュでもある。特に教える側が時として障害者から教えられる立場となり、「救う側」と「救われる側」の区分が渾然一体となる様子は、救済の裏に差別を潜ませない共同作りの可能性を感じさせて印象深い。
ただ一点だけ読者に忠告するとしたら、妙な言い方だが、竹中の関西弁混じりの軽快な語り口に「騙されるな」ということだ。コンピュータは万能ではなく、たとえば知的障害者は現状でその恩恵を何1つ被れていない。最新の技術持ってすらなお積み残される彼らの無念さを最も苦く噛み絞めているのは、実は自らが知的障害者の母である竹中自身のはずなのだ。しかし、彼女は本書でそれを書こうとは敢えてしない。だから読者は行間を読むべきだ。本書に書かれているのは障害者問題の世界で進行しつつある「コンピュータ革命」の最初の成果に過ぎない。読者は心地よい読後感を抱きつつ本書を閉じると同時に障害者問題への思考をも閉じてはならず、そこに書かれなかった深みに向けて問題意識を持続させる必要がある。
 
(たけだ・とおる氏=ジャーナリスト、法政大学講師・共同体論・メディア論専攻)
たけなか・なみ氏はNPO組織、プロップ・ステーション代表。1948(昭和23)年生。
 
46判・250頁 ・1810円
筑摩書房
4−480−86315−X
 

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