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婦人公論1996年12月号掲載原稿


障害者が働くということ

「あんたら仕事せんでもええよ」って線引かれてる
ままじゃ、対等と言うてもまやかしじゃないかって

(撮影・霜越春樹)

竹 中 ナ ミ

(「プロップ・ステーション」代表)


●チャレンジドと呼ぶことから

「チャレンジド」って、知ってはります?障害を持つ人を表わす新しいアメリカ英語で、 私たちは「障害者」に代わる言葉として使ってます。

私は、”チャレンジドを納税者に”を目標に揚げる非営利団体「プロップ ・ステーション」の代表。

プロップはコンピュータやコンピュータ・ネットワークを活用して、チャレンジドの就労を支援しています。主な活動は、週に二回、メーカーの協力を得て開講しているコンピュータ・セミナー。現在、受講生は百名を超えて、その一割は実際に仕事に就いています。
この組織は、一九九一年の五月に発足しました。私は、二十三歳になる娘が重度の重複障害児だったために、早くから障害者問題の運動に携わっていて、当時は、兵庫県西宮市で自立支援組織の事務局長をしてたんです。そしてその頃、私は”チャレンジドにも仕事を”と思い始め、その組織の一部門としてプロップを立ち上げました。
チャレンジドの人たちって、「あんたら仕事せんでもええよ」って線を引かれてるじゃないですか。そういう状態のままでいたら、いくら対等やとか、普通やとか言うても、しょせんまやかしやないかって。私は、ずっとチャレンジドの人見てきたから、彼らが素晴しい能力持ってることも、よく知ってたんです。だから、彼らに仕事をと。
でも、最初はコンピュータを使ってという発想は、まだありませんでした。別に有料介護者つけて職場に行ったっていいやないかっていうのが、当初の発想でしたからね。
ところが、パソコンについて勉強する機会があったんです。そしたら、たとえば、会議一つするのにも、わざわざ集まらなくていい、みんな別々のところにいて、いつでも好きなときに好きなところで打ち合わせができて、なおかつ書記もいらない。あ、これはチャレンジドの人にとってすごい大きな武器になる、って思ったんです。

で、プッロプの最初の仕事として、全国のかなり重度の障害を持った人たちにアンケートをとりました。その結果、回答をよせてくれはった人の八割が「働きたい」、なおかつ「武器はコンピュータや」と書いてきっはった。すでにベットの上で独学でやってる人もかなりいてはって、「仕事につながるんやったらお金払ってでも習いたい」という人まで、とにかく、返事がすごく積極的だったんです。余白には、「習いたいけど、自分のような重度の障害者を受け入れてくれる学校がない」とか、「独学では、評価してくれる人やシステムがないので張り合いがない」とか、「ラッキーなことに仕事が見つかっても、障害が重いから会社に通えない」とか、具体的な悩みがぎっしり書かれてあった。私、その時、コンピュータをプロップの柱にしようと決めたんです。これだけ明確に壁が見えてるんやったら、それを全部、クリアーすればいいやんか。つまり、勉強する場所を作って、評価するシステムを作って、仕事探して、在宅でできるようにする−これだけやればいいやんか、ってものすごく図々しいこと考えたんです。

ただ五年前というのは、コンピュータは一般のサラリーマンがボーナスでローン組んで買わなんあかんような金額でした。しかも、コピュータ関係の仕事といえば SEとかプログラマーが中心。障害の重い人がすごい値段のコンピュータ使って、一般の人でもできないようなエリートの仕事をできるわけがないというのが、世間の声でした。だけど、私には、目的意識さえしっかりしていればやれるって、今までの自分の体験から自信あったんですね。新しいことに取り組んで結果を出したいって気持ちは、誰にでもありますやん。いろんなしがらみがあって、みなさん、できないだけ。私にはしらがみがなかったし、自分の娘のこともあって、一番切実な、そこをやらんとあかんという問題やったわけですよ。


●さなざまな支援

それでスタートしたんですが、一九九一年五月といえばバブルの最爛熟期。
ソフト開発をやっている中小や零細の会社が二五〇ぐらい集まった団体の代表者たちが、「僕たちが全国的に支援します」と言うて下さったんです。業界自体にすごい勢いがあった。
「チャレンジドの人たちは金の卵や」って言うてもらって、このバックアップがあれば、一社一人ずつ雇ってもらっても二五〇人の雇用が発生する、すごいと喜んでたら、その秋にバブルが弾けたんです。
で、どうなったかといえば、夜逃げした社長さん、会社畳んだ社長さん、社員全員クビにした社長さんが続出。それこそ雲散霧消みたいな感じになって、こんな怖いところに私はみんなを引っ張っていこうとしたんだって、恐れおののきました。

ところが、私って、ノーテンキやねんね。バブルっていうもんがおかしかったんやから当然こういうことは起きる。だけど不況というのは、いつか景気が上向きになる。今度の不況というのは、すごそうやから一年や二年では戻らないだろう。だとすると、戻るまでの数年の間に彼らが勉強して技術を見につけておけば、景気が上向きになった時にすぐにのれるな。そう考えて、プロップを独立させたんです。

属してた組織が西宮市でしたから、企業の本社なんてほとんどないの。営業先がないのは困るから、大阪ぐらいに事務所を持たないと、やれないと考えたわけです。それで、大阪にあるボランティア協会の中に、机一つと電話とファックスの兼用機、ボロボロのパソコン一台置かせてもらって出発しました。それが、四年前。すでに軌道にのっていた自立支援組織のほうは外れて、プロップの代表になって、新しいメンバー数人と、自分らのお金を拠出し合って独立したんです。

独立後の一、二年は、とにかくセミナーを始めるために、いろんなところに協力を呼びかけた。コンピュータの会社やソフト会社、大阪府の助成基金。新聞に助成の記事が載るたびに、ありとあらゆる助成金に申請を出して。
おかけで、いきなりアップルさんからコンピュータが十数台届いたんです。申込には「五台下さい」と書いたんですよ。五台でも厚かましけど、一台ではセミナー始められないから、で、「十台ももらって、間違いではないですか」と電話すると、向こうは「間違いでした。でも、いいです」。他に事務所用のコンピュータとレーザープリンタちか一式下さって、全部で一千万近くのもん下さった。ラッキーでしょ?それで一年後にまた十台いただいて、いままでで全部で二十五台いただきました。

本当はしばらく準備期間をおこうと考えてたんですけど、機会が来たもんやから、すぐにでもセミナーを始めなければいかんようになってしもて、その秋にスタート。
だけど、コンピュータって、ソフトがなければただの箱で、当時はソフトも高かったじゃないですか。そこで、大阪府に、ソフトウエアで百万円という助成申請したんです。何度も何度も電話して、九二年の夏ぐらいにおりたんです。とにかく、総ナメといえるぐらいいろんな助成をもらってるんです。
教える先生も、新聞が書いてくれたおかげで、三十人ものボランティアが集まりました。

バブルが弾け、自分のやっている仕事の結果が見えないと悩んで、来て下さった人たち。チャレンジドのユーザーの質問に答えられないから、と来て下さった人もいました。おかげ様で、その人たちが友人や同僚や社長さんをつれて来てくれたりして、ボランティアの登録者は百名を超えて、その中の三十人ぐらいが日常的にローテーションを組んでやって下さってます。中には、退職後の第二の人生をかけてるって人もいらしゃいます。


●自己投資も必要

現在、セミナーは、毎週水曜日と金曜日の夕方六時半から二時間ずつ、半年間の一クール。
Macintoshが水曜日で、ウインドウズが金曜日。
アップルさんの協力で教室を始めたことが新聞に載ったら、NECの人が来て「うちも協力したい」と言って下さったんです。機会が揃った教室ごと、貸してもらうという厚かましさ。ソフトウエアも、今までは全部、開発企業からの支援です。
その代わり、と言うたらおかしいんですけど、私たちは生徒さんたちに「きちんとお仕事を目指すんであれば、自己投資をしましょう」と言ってるんです。自分の機械を買って、その機械を使ってみてわからないところは、パソコン通信なりで先生に聞いて、と。
つまり、仕事をするには、技術より、その人の積極性とか向上心のほうが重要やと、私は長年仕事してきて感じるんですよ。

今、講習料は一回二千円です。最初の一年は無料でやってたんですが、はっきり言ってほとんどの人が伸びなかった。もらったものや借り物で、よしよしとやってもらったらいかに伸びないかということを、この目でいやというほど見たんです。
ボランティアの先生が過酷な勤務を終えて走ってきてくれてるのに、生徒の中には平気で、「出がけにトイレに行きたくなったから遅れました」と言う人がいる。勉強会に遅れないように、自分の中でちゃんとスケジュール立てなあかんのと違います?私、彼らができる人やと思ってるから、こういうこと言うんですよ。
「障害者相手に金取るか」「物買わすか」と非難する人もいます。
いいんです。そこからスタッフは一銭もお金とってないし、「私の考えとあんたらの考えは違う」って、言うんです。

二十歳過ぎたらチャレンジドの人には、自治体から障害者基礎年金というのが支払われるんです。一級の人がもらうのは月八〜九万円です。独立して生きていくには足らない金額やけど、ほとんどの若いチャレンジドの人は家族と一緒に暮らしていて、お小遣いとして無為に使いがちなんです。今、コンピュータの値段が下がってきて、年金を二〜三・漁ぢ月貯めればプロ仕様のものが買える。そしたら、目標も立てやすいじゃないですか。

講習料をとるようになってから、生徒たちの目つきが変わりました。みんな、必死ですよ。機械を買うにあったては、ボランティアさんにいろいろ相談するし。チャレンジドの人が実際仕事をするまでに勉強しなきゃいけないことって、技術を習得する以外にいっぱいあるんです。まわりの人で自分に必要な知識や情報を持っている人をいかに見つけ、いかに使うか、とか。
プロップは、頼まれればセミナーに通ってくるための介護者も紹介しますが、基本的には自分で見つけてくることを原則にしてるんです。そういうコーディネイトをすることが、あなたの能力としてお仕事につながるんです、と言いたいんです。
なおかつ、ボランティアさんを通して社会というものがわかり、社会感覚が身につけられる。

残念ながら、これまで、そこのところをする組織ってなかったんです。彼らは保護される立場で、愛の手を差しのべなければならない人たちやって、みんな思ってたから。「社会感覚を身につけろ」なんて言っちゃいけない、ハレものやったんです。でも、一旦、彼らがそういう場に出てみると、意識はかわるわ、人の使い方は覚えるわ。というのが、この四年間で、段々わかってきたんです。

娘のためにも、世の中変えたいんです!


●今がチャンス

昨年の震災後、インターネットのブームが来たでしょ。その頃から、インターネットのビジネス面での進出が目立ってきた。
パソコン通信以上に広い世界で情報が行き来できるインターネットは、在宅で仕事したいチャレンジドの人には、すごい有効な武器。プロップは、震災の後、意図的にインターネットにシフトしました。

福祉の草の根団体がインターネットにつながったのは、実はプロップが日本で初めてだったんです。
それに、ここ四年間で、コンピュータとチャレンジドを結び付ける団体が全国で百以上でてきて、そこでいろんな人が育ちつつある。

去年の暮れに、野村総研と共同で在宅勤務の実験を始めたのが始まりで、今は、ようやく十社ぐらいの企業がおずおずと仕事をくれるようになった段階です。

自分で車椅子の乗り降りができない人や、手足だけじゃなくて言葉も不自由な人など、これまで仕事はできないと思われていた重症の障害を持つ人たちが、インターネットのホームページ作成やらプログラミング、編集やレイアウトなどの仕事に携わってはります。

プロップとしては、八月からインターネットを使って、地方遠隔者のスキルアップをスタートしました。九州から青森まで六名の人が参加してはるんですが、それが成果を上げれば、重度の在宅の人が家で勉強してそのままプロになれるという、一貫したシステムができ上がるわけです。
それにもう一つ。チャレンジドの仕事を作り出そうと、技術をつけたチャレンジドの人が高齢者を教える教室を開く予定をしてるんです。

今のところ、インターネットというのは、日本中の大半人が、どんなものかわからない状態でしょ。これって、一般の人とチャレンジドの重度の在宅の人が、初めて同じスタートラインに立ったってことじゃないですか。こういう出来事って、日本の福祉史上、労働史上、かつてなかったことですよ。「このチャンスをつかまなかったらあかんで」と、みんなにハッパかけてるとこなんです。


●離婚も経験して

私は、現在四十八歳。神戸生まれの神戸育ち。
小さい時からめちゃお転婆で、勉強嫌いのアウトロー。
それが、高校一年の夏休み、アルバイト先の人と恋愛して、すぐに一緒に暮らしはじめたんです。

当時は、男の子と手をつないで歩いても停学という時代やないですか。二年の時、学校に同棲がバレて退学、正式に結婚しました。
四畳半のボロボロのアパートで、四つ年上の彼の給料は一万九千円。私は八百屋で時給五十円のアルバイトしてました。

長男を生んだのが二十二歳で、二十五歳で長女の麻紀が生まれました。麻紀は生まれる前から、産婆さんに「小さい」と言われてたんですけど、生まれたら未熟児というほどでもなかった。
ただ全然泣かなくて、手も開いたまま、おっぱいも吸わないんです。でも私、若い母ちゃんやったから「あれっ?」と思ったぐらいで、そうは心配しなかった。ところが、三カ月検診の時に、「大きくなってない、大変ですよ」と言われ、専門医のところに行ったら脳に障害があることがわかったんです。
私自身は障害ってどんなもんか全然わかってなかったから、大したョックやなかった。でも、病院から帰って父にそのことを報告すると「自分がこの子をつれて死んでやる」言うから、そんな大変なことなんか、って。
その時、私が麻紀を育ててて愚痴言うたらほんまにお父ちゃんは麻紀連れて死にかねない。だから、絶対、お父ちゃんの前で泣きごと言わんとこ、と決めたんです。それが、私のそれからを決めたベースかな。

私、バツイチなんですけど、離婚のベースも、遡ればその頃にできたような気がします。

元のダンナは、麻紀のあまりに重い障害にどう対応していいのかわからないようでした。
その上彼はすごい田舎で育った人で、男は稼いで給料を入れる役、家の中のこと、子供に関してはすべて女に責任があると信じ込んでいた。だから、娘を世話することも一切ようしなかった。
そういう感覚って、日本の男の人がすべからく持っている。それで、それでもしゃあないという感覚を日本の女も持ってる。

老人介護についても、同じですやんか。嫁が、女房が、娘が精根つき果てるまでとことんするっていうのが、日本の家の中での介護の姿なんですよ。だから、うちのダンナが決して悪人たったわけではなく、ただ典型やったわけです。
今思うと、「あんたの娘やろ」と引きずり込む方法もあったんだけれど、幼すぎて二人の力関係を崩すという発想そのものがなかった。でも、それは私の落ち度でもあるかもそれません。

そういう経験してるから、今、チャレンジドのお母ちゃんには、自戒をこめて「徹底的に夫婦でやりや。夫婦で問題見つけて、それを社会化しい。あんたの抱えてる問題は、世の中にいっぱいある問題やねんから」言んです。

運動に参加するようになったのは、娘が就学の年齢になった頃から。

麻紀は、重症心身で、皮膚感覚とか精神に全部異常を持ってるわけですよ。そやから、抱っこしたり触ることも嫌がるるんです。普通、母親と子供って一体やと思ってません?赤ちゃんは母親のおっぱいにしがみつくし、指出すと握り返す。ところが麻紀は触れられることがダメで、抱こうとしても泣く。親いうてもゴミと一緒なんです。母子神話なんて最初から壊れてた。抱っこすると体をそわせてくるようになったのが七、八歳で、おんぶすると足を私の体にまわすようになったにが十八歳、でも手はまわさない。

娘が一番好きなのは、空気の動きやの。風が動くと喜ぶ。ベロ出して風を感じてる娘見てると、生命の根源見せられる思いでね。イヤなことと好きなことがはっきりしてるから、家族なんて枠組みの中の愛で子供は縛れないって、否応なく悟ったわけです。

実は、娘は三年前から国立の療養所でお世話になってるんだけど、仲間やったお母ちゃんたちから「娘ほっておいて、あんなとこで遊んでる」って言われました。
結局、お母ちゃんの感覚って、わが子のために生きてわが子のために死ぬっていうのが善やし、美。
日本人というのは、その感覚に縛られきってる。それでは世の中変わらない、と私が思ったのは、娘がそういう状態やからって言えるかもしれないです。
チャレンジドの親子が密着状態になりがちなのは、子供がどんなにたどたどしくても母にすがるから。それをされると、お母さんって突き放せない。ましてやその子が障害を持ってると、「私しかいない」となるわけですよ。普通の親子関係は、子供が学校出て就職して、結婚してと、じわじわ親から離れていく。ところがチャレンジドにはそういうルートがないために、親子関係がいびつになる。

だけど、私の場合、最初から拒否されてる関係。私にはとことん責任はあると思うけれど、私が責任持っただけではどうにもなれへんなあと、冷静に見えるんです。
ある程度付俯瞰した中で、日本の仕組みを変えていかなあかんという視点を持てたことは、ラッキーでした。


●私にまかせて!

でも、最初からこんなふうに考えてたわけやないですよ。
病院行っても、娘に何をしてやったらいいのか誰も教えてくれないから、障害を持っている人自身から学ぼうと、山降りて西宮の町の中に勉強しに行くようになったんです。

手話覚えて聴覚障害の人のお手伝いしたりする一方で、運動団体に入って活動したり。
娘が小学校六年で養護学校に通い始めてからは、娘を学校に預けてる間、私自身は、娘が卒業したら多分ここでお世話になるだろうと思われる最重症の施設で介護ボランティアをしだしたんです。

私、社会活動するまでは自分は何にもできない、何も言えない人間やと思ってたんです。
でも、「お前らみたいにちっぽけな人間が動いたからって、世の中変わらへん」って夫に言われた時は、「私世の中変えてみせるから」とはったりかましました。
その代わり家のことは完璧にやりましたよ。麻紀が生まれて二十年間は、平均睡眠時間三時間ぐらいやった。
結局、プロップを独立させた四年前、大阪に引っ越ししたのを機会に離婚しました。

チャレンジドを納税者にするということは、女性であれ高齢者であれ、ゆるやかな状態で働けるようになる社会を創ることにつながると、応援して下さる人に言われました。
「あなたがやってることは、これからの高齢者社会を経済システムとして支えていくのに、もっとも大きな武器の一つになるだろう。だから法律をきっちと制定してでも進めていかなければならない」って。
私、ヘーッすごいことなんやって、改めてびっくりしてるんです。

チャレンジドの人には、「娘のために、あんたらも働いてね」と言うてるんです。
娘は全面的に保護がいる。だけど、一人重度のチャレンジドがいるということは、面倒見るその家族は納税者になれないってことに等しいんですね。誰かが納税者になって、彼らを養わなしょうない。

今、国が娘の病院に払うお金が月々五十万円ぐらい。
そのお金、誰が払うねんいうことです。

これから高齢化社会で、娘のような介護を必要とする人が増えるということは、国の税金がどれだけいるかってことでしょ。
団魂の世代の人が一気に高齢者になったらどうなるのか。今の間に一人でも納税者増やしておかな。過酷に働くんやなくて、ちょっとずつでも。
そしたら、万一働けなくなった時に、守ってもらえる。今のままやったら、守るお金なくなるの、目に見えてる。

私、離婚を経験して、なんでもやれるって自信がついて、ますますパワーアップしたみたい。
私、娘のために世の中変えてみせます。


(おわり)


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