読売新聞 1995年1月1日より転載
行動力生かし夢実現
障害持つ人の社会参加支援
竹中ナミさん(46)愛称「ナミねぇ(姉)」。障害を持つ人たちの社会参加、就労を支援する民間団体「プロップ・ステーション」を率いる。大阪ボランティア協会(大阪市北区)に本拠を構え、企業を巻き込み、コンピューターを駆使した異色の活動を展開している。
ちょっと派手目の風ぼうと物おじしないバイタリティーあふれる行動力。姉御肌で、人をどんどん引きつける。その魅力が、準備の段階からわずか3年半で「時代のニーズに合ったユニークな団体」と言われるまでに育て上げた。
神戸で過ごした子供時代は決して豊かではなかったが、自由奔放に育った。木を見れば登り、野原でトカゲやヘビを捕まえて遊んだ。
「子供の時分はガリガリで真っ黒。ついたあだ名が黒猿、女ターザン。いつも、男の子を子分に引き連れていました」
だが、父の仕事の関係で転居が多く、親友に恵まれなかった。「超おてんばワルでしたが、どこか屈折していた」とナミさん。勉強が嫌いで、新劇女優に憧れ、京都や大阪の劇団に研究生として通ったこともあった。
「今とは違うけど当時としては最先端の不良やったんかも知れへんねぇ」
高校2年生のとき、アルバイト先の男性と恋愛、駆け落ち同然に家を飛び出して結婚(後に離婚)。学籍も抹消された。
長女(22)の出産が大きな転機になった。生後3ヵ月で脳に障害のあることが分かった。それに加えて見えない、話せない・・・。重度の重複障害児だった。
病院を回っても失望の連続。「娘に何をしてやれるのだろうか」。障害を持つ人自身から学びたくて、目の見えない人と付き合い、手話も習った。多くの障害者とも知り合い、積極的な生き方に触れた。「障害を持ちながらも、いろんな能力を持っている。何と素晴らしい人たちがいるんだ」と感動した。
娘が6歳になったころ、「友だちをつくってやりたくて」と、3つ上の長男が通う小学生にバギーカーに乗せて毎日"登校"した。先生は渋い顔。「バギーに児童が足を引っかけてけがでもしたら困る」。最初は校舎内にも入れてくれなかった。
だが、あきなめない。毎日毎日通ううち、学校側も根負け。バギーカーは、校庭から校舎内、とうとう長男のいる教室にまで"進出"した。
子供たちは大歓迎してくれ、一緒に給食を食べるまでになった。放課後はバギーを押してくれ、家はさながら学童保育所のようになった。ぐいぐい引っ張るけん引力は今も健在だ。
娘の成長を守りながら、様々なボランティア活動に没頭した。重度障害者施設での介助、おもちゃライブラリー・・・。常に前向きだった。6年前には兵庫県西宮市の障害者自立生活センター「メインストリーム協会」の設立にも参加。障害を持つ人たちの自立を支援してきた。
だが、バブルの崩壊時期。障害者の就労にとっても厳しく、そのチャンスを広げる活動拠点を求めて独立、大阪に。ナミねぇの頭の中には、パソコンを使った社会参加への新しい試みが生まれた。ボランティア協会も事業に注目、事務所のスペースを提供した。
「障害を持つ人も社会に参加できて納税者になれる社会であって欲しい。そして、学校、職場など社会のあらゆるところに、人口の比率と同じだけ障害者がいるように」
これが93年4月にプロップ・ステーションを設立したときの願いだ。
「そのためには国のシステム、人の意識を根底から変えなければなりません。これは女性が参政権を獲得したことより難しいかも知れませんね」
だが、持ち前のファイトを失うことはない。常に大海に石を投げ波紋を広げ、火のないところにも火をつけて回る。「それが自分の役割」ときっぱり。
「個人が1人でできることは限られています。しかし、少しずつ違う能力を持った個人が集まると大きなシステムが動き出し、世の中を変えることができるんじゃないかな」躍進の原動力は多くのブレーン
それには、自分にない能力を持つ人材が求められる。「こういう人材が欲しいと思ったらまずアタック。肩書、実力でもない。動物的なきゅう覚、勘。最初に会ったとき一緒に同じ夢を見られるかどうかです」
この迫力に押され、多くのブレーンが集まった。活動を始めるまで縁のなかった技術者、企業、学者・・・。この人材が、プロップ・ステーションを支え、躍進の原動力になっている。
今、取り組んでいるのが、障害を持つ人や高齢者を対象にしたパソコンセミナーと独自のパソコン通信ネットの運営だ。昨年末には、福祉の草の根団体としては初めて、このネットを世界を網羅する通信網インターネットに接続した。
コンピューターを障害を持つ人たちの足や手にと、社会に風穴をあけようとしている。