リレーエッセイ 「チャレンジドの夢」

 米山 修二さんの場合

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「バリアフリーについて」

米山さんイラスト 最近ようやく街を障害者が出歩いてもそんなに違和感もなくなりつつあります。まだ車椅子で行きにくい場所は山ほどありますけど、僕の住む出雲でも少しずつハード面の改善はなされています。でもソフト面のバリアフリーはまだまだ遅れていると思います。
 そんなことを感じた出来事がありました。それはある某テレビ局で毎年夏に放送される長時間番組(まわりくどい表現!?)があり、その中で障害者が取り上げられたふたつの企画を見て感じたのです。ひとつは障害者が楽器を演奏するグループが出ていて、猛練習の結果を番組で発表するもの。もうひとつは義足をつけた障害者が登山に挑戦し見事なしとげるという企画でした。
 一概に良いとか悪いとか簡単に決められませんが、この企画は僕はあまり好感をもてませんでした。そのふたつについて障害者の取り上げられ方はいずれも”障害に負けず◯◯に果敢に挑戦”というよくあるもの。そして、番組の司会者たちの大げさなほどの称え方。ひがみと言われればそれまでですが、同じ障害を持つ者としてはなにか鼻につくものがありました。
 実際には障害者だって怠け者(僕)はいますし、努力家もいる、そういうことをしっかり健常者に理解して欲しい。しかしメディアでは十把ひとからげに障害者を美化し、まるで聖者のようなイメージを与えるような記事、番組構成がとかく多いのが現状です。(読者や視聴者もそれを期待)これでは健常者からの障害者像が偏ってしまう怖れがあります。何か特別な存在であるかのように。
 そして、僕がそうだったのですが、そうした健常者の観念を敏感に感じ取り”健常者の期待する障害者を演じる”ことに努めていたときもありました。でもいつか疑問を抱くようになり、これでは真の意味での心のバリアは取り除かれないと思い出しました。言うのは容易く実現は難しいですが、障害者という名札を外し自分らしく人とふれあうことができればと思います。
 今、こうしてプロップと関わりをもつようになり、情報機器を活用し仕事をしようと思っていますが当分はここでの活動も障害に負けず頑張っているいみたいに受け止められ、“障害者の作った作品”としての評価しかもらえないかもしれません。でもきっと、たくさんの障害者がクオリティーの高い仕事をこなし、別に障害者の何々だからというセールスポイントではなくても世間に通用する日がいつかくると信じています。そして、それがごくあたりまえの出来事になりマスコミが注目もしなくなる日がきたとしたら、本当の意味でのバリアフリー社会ではないでしょうか。その第一歩を僕等は踏み出したのかもしれません。


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