作成日 1997年1月5日

チームメイト  今回から数回にわたって鳥取県にお住まいのハンドルネーム「姫」さんからお寄せいただいたお便りをご紹介します。今回は姫さんご自身のことを紹介し、次回からは姫さんが 2年前に参加されたホノルルマラソンのお話をご紹介する予定です。

■皆さん初めまして
 プロップの皆さん初めまして。鳥取県の片田舎に住んでいる、ニフティのハンドルネーム「姫」といいます。
 めちゃくちゃナルシスティックな名前なのでこっぱずかしいのですが、まぁ愛嬌ということで、勘弁してやってくださいね。中身はそんなにナルシストなやつではないです。
 この呼び名って、訓練施設から養護学校に通っていた中学部の時に、その時小学部の4年生だった同じ病棟の女の子がなぜかそう呼んでくれていて、どうしてその子が自分のことそう呼んでくれるのかわからなかったけど、その呼び名がとっても好きだったので、他にニックネームらしきものはつけられたことがなかったので、なんとなくこれをハンドルネームにしてしまいました。そんな訳です。

■私が事故に遭ったのは
 私が交通事故に遭ったのは、中学1年の夏休みの7月24日、とても暑い日でした。
 その前の日も、次の日も部活があって、その時間には家にいなかったはずなのに、たまたまその日が休みで家にいたために事故に遭ってしまいました。後になって考えると、やっぱり偶然に障害者になったのではなく、そうなる運命だったのかなと、そのことからも思うのでした。
 お昼の買い物をしてきてと母に言われ、自転車で戻って来て、「ただいまー」と玄関を開けた瞬間、後ろから飛び込んできた保冷車にはねられたのでした。
 保冷車は私をはねてから何メートルか玄関を引きずり、私は溝のようなところにはさまって即死ではなかったのですが、頭から大量の血を流して倒れていたそうです。車は家の一階を押して入り込み、車の屋根に二階が乗ったような状態になったそうです。家はほとんど倒壊でした。
 医大に運ばれ、頭蓋骨陥没骨折と言われて、もうこのままほっておいても死んでしまうし、もし手術をして助かっても植物人間になるでしょうと、両親は医師に言われたそうです。それでも手術をしてくださいと言ってくれた、今は亡き父親の深い愛に感謝せずにはいられません。
 意識不明が2週間、目が覚めたとき、自分がだれなのか、ここはどこなのか、何もわからず、ただからだが重く、左手がかすかに動くほか他にどこも動きませんでした。右手と両足は全然動かず、起きることも何もできませんでした。
 でもどうしてなのか、そのときの私は、そんな状態の中にいても、きっと治ってまた元通り飛んだり跳ねたりできるということを、少しも疑っていませんでした。
 車椅子に乗る練習を始めた頃も、右手がきかないから片方にぐるぐる回ってしまって、とても自分で乗れるというものではなかったのに、なぜか、また友だちと一緒に中学に通えると信じて疑いませんでした。髪は手術のせいで、丸坊主で、白い三角巾をかぶらされていたときでした。
 きっと私は周りの人に恵まれていたのだなぁと、今になってからはしみじみ思います。両親も親戚の人達も、そして友だちも、みんなが心の支えになってくれました。
 「絶望」したのは、次の年の3月に中学の校長先生が来られて、今のままでは中学に復帰できないから、足の訓練をし、体の治療をしながら学校に通える、Y市にある養護施設に転校するようにとおっしゃったときでした。
 皆と一緒に学校に行けない?しかも1年留年しなければいけない?施設に入ったら、両親や友だちと、会えなくなる?
 様々な思いが、一度に頭の中をかけめぐりました。もう、今までみたいに普通には、歩けないのだと認識したときでした。

■憂鬱な日々が
 それから憂鬱な日々が始まりました。中学の1年から高校の1年までの4年という日々が、10年にも20年にも感じられるほど、悲惨で、孤独で、希望など何もない、今でも思い出したくもないほど、暗い日々でした。
 閉鎖的なその施設は、ただ義務的に私達を閉じこめ、意思がありひとつの個性ある人間であるということを全く無視し、ただそこにいる職員の管理がしやすいように動いている、陸の孤島でした。
 何もかもが、ただ、管理、管理、管理。食べ物を一切持ち込んではいけない、夜9時以降起きていてはいけない、外へ出てはいけない、家には自由には帰ってはいけない、なにもかも、してはいけない、いけない、いけない・・・。
 どんどん狭いところへ私達を追いやり、施設の方針に反抗する一部のわたしのような子供たちを異端児扱いして、問題視し、更に追いつめていくのでした。
 あの場所にいてできることは、真っ暗な天井をみつめて、眠れない夜に時間が過ぎてゆく音を聞きながら頭の中で考えることだけでした。
 頭の中だけは自由だから、考える事だけは誰にも邪魔はできないから、そうしていつかこんな状態から抜け出したいと祈るばかりでした。
 そして、学校での勉強も、いろんな障害を持っている同級生がクラスにいて、誰もにわかるようにする授業だったので、ちゃんと教科書の通りには進まないのは仕方のないことでした。
 いろんな個性の人がいるのだから、それはいたしかたないことです。でも、私はそれに甘んじていていいのだろうか。
 中学の担任の先生がとても良い方で、親身になって将来のことに相談にのって下さったので、いろいろなことを教えてもらいました。
 その時に、高校の勉強は将来働くようになってからでも、定時制とか通信教育でもできるよ、でも、思うように勉強が出来ない今本当にするべきことは、足を治す事に専念することではないか、という結論を出し、思い切って高校でやめて、その地獄のような施設生活にピリオドを打ちました。
 それから病院に入院してリハビリを続けたのですが、もうこれ以上はよくならない、あとは現状維持だけと言われたのですが、それでもまだあきらめられなかった私は、当時新しく出来た病院で整形外科とリハビリの専門病院に入院して、リハビリを続けることになりました。
 そこで、今でもずっと変わらずおつきあいをして下さる、生涯の恩人でもある、リハビリテーションの先生と出逢いました。
 その病院のリハは、今までで一番きつかったです。一切甘えは許されなかったし、泣き言を言っても聞く耳をもたれず、痛かろうが泣こうが恥ずかしかろうがとにかく、おまえのためになるのだからと言って、させられました。
 そこでもやるだけやってみて、やはりここまで、ということを言われる時期はきたのですが、その先生が他の人達と違ったのは、では、この病院を退院して、社会復帰するためになにが必要なのか、ということまで一緒に考えて下さった事です。
 それにはやはり、最低限人に頼らず自由に活動するために、車の運転免許が必要だ、という結論に至ったのです。
 両親は、車の事故で障害者になった私が、免許を取るなどということに、大変な反対をしました。
 当然だな、と思ったけれど、そのときも先生と病院のケースワーカーの人達が、どんなにその必要性があるかということを、両親を病院に呼んで、自分たちからも説得してくださいました。
 そして、病院に入院している間に自動車学校に通えることになり、退院と同時に晴れて免許がとれたのです。

■車が運転出来る
 車が運転出来るようになって、また人生が変わりました。正確に言うと、開けて来たように思いました。車椅子でも外に出ることに臆してはいけないという思いが強い私は、それから職業訓練校に行って、ワープロ検定を受けました。
 何度も人生の分岐点が訪れて、そのたび、もういいと叫びたくなるほどつらいことや哀しいことが襲ってくるのだけれど、なぜかいつも必ず何人かのやさしい人達がそばにいてくださって、絶望の中にいながらも救われてきました。
 施設の中にいるときに、極端な思春期不安神経症に陥って毎日自殺することしか考えていなかったときにでさえ、毎週通った外来の先生だけを心の支えにして生きていました。
 車の免許を取ったときも、そして職業訓練校に通ってワープロを習えたときも、渦中にいたときは夢中でわからなかったけれど、今考えるとたくさんの人の善意に支えられていました。

■初めての社会経験
 職業訓練校というのは卒業するときに就職を斡旋するところなのですが、そこでさがしたときには仕事はありませんでした。
 たまたま国体の時にお世話になった福祉事務所の人の好意で、書店の事務員として、本屋さんに就職することが決まりました。
 このとき初めて実際に社会に出る経験をして、様々なことがわかってきました。
 いい人達もたくさんいて、お世話になったのですが、毎日させられる仕事は本屋にいるのに本と全く関係のない社長の個人的な仕事の手伝いのようなことばかりをさせられていました。
 毎日、こんなことしていて何になるのだろうという自問自答を繰り返すばかりでした。でも、仕事として働いていてお給料を貰っている以上、自分の思いばかりも言えないので我慢していたのですが、あるとききっかけがあって、私はある一言でキレてしまったのです。
 社長が個人的にやっているとしか思えなかった仕事のひとつに、書店近辺の界隈のまちづくりの委員会があって、地域の振興を計るという目的で地方の名士と呼ばれる人達を集めて集会をやっていました。
 そのとき、私も意見を言ってくれと言われたので、まちづくりという視点から見ると、障害者が車椅子で一歩でも外へ出ると、段差があちこちにあって出られないので、そういうものを無くしていくようにできないものだろうか、ということを言ったのです。
 すると、そのときいた医大の医師が暴言を吐きました。
 そのとき意見を言ったのは私だけでなく、いろんな人がいろんなことを言っていたのに、その男は私に向かって言いました。
 「障害者のくせに外へ出てくるな。出られないくせに文句を言うな。黙っていろ。」
 その男ははっきりとそう言ったのです。私はその場で凍り付きました。なんと言っていいのか言葉は見つからず、あまりのことに場所もわきまえず涙が出て、とまりませんでした。そしてもっと傷ついたのは、そこにいた同じ店の人が私をかばうどころか、その男に同調する態度をとったことです。私は、それから二度とその同じ店の人を信じませんでした。その同じ店の人にとって私は取るに足らぬ事務の人間だけど、その医師は偉い人で、自分の仕事に影響すると思ったからだったのでしょう。でもそんな肩書きが、こんな心の狭いくだらない人間にあっても、いったい何になるというのでしょう。私はまた人間不信になってしまいました。
 そんなことがあってからも、5年間続けた仕事でしたが、5年目にまた障害があるということでひどいことを言われることがあって、こんなところに我慢してまでいる必要はないと思い、仕事を替わるのは本意ではなかったけれど、辞めました。
 あまりに紆余曲折があるので、どうしてこうなんだろうと、哀しくなってしまいます。
 様々な過程を経ながらも、仕事をして生活費を稼がないことには生きてゆけないので、必死で探し回り、やっと拾ってくれるところを見つけました。
 けれど、どこの会社でも、どうしてだか障害者だということに思うように理解をしようとしてくれないので、窒息しそうな毎日が続くばかり。それがなぜなのか未だにわかりません。
 どうしていつもこうなんだろう。会社が本社と合併することになり、それまでしていた仕事が吸収されどんどん無くなっていくということがわかると、なかなか仕事がてきぱきとできない私は、配置転換か辞めるかのどちらかの選択しかない、というところまで追いつめられてしまいました。

■プロップに初めて電話を
 プロップの電話番号に初めて電話をかけたのは、そのときでした。
 そのときはものすごくせっぱ詰まっていて、思い詰めてかけた電話でした。けれど私の考えが甘く、すぐにでもプロップで仕事が出来るものと思っていた私は、設備投資が何も出来ない今の経済状態では仕事ができないことがわかり、こんな甘いことではいけないと思い直して、仕方ないけどどんなにつらくてもわずかでも収入が途絶えれば生きてゆけないから、我慢しようと決めたのでした。
 けれど送ってもらった「フランカー」を読んで、重い障害を持っていてもこんなにがんばってる人達がいて、こんなにもすごい世界があるんだ、と、目からうろこが落ちたのでした。
 そして、ここで仕事をさせてもらうことは今はできないけど、もし良かったら、こんなだめな私でも、プロップの仲間に入れてもらえたらうれしいなって、そう思ったのです。
 「フランカー」をずっと読んで行くと、「フランカー」の朗読をされている朗読グループの名前が載っているのを見つけました。
 もう既に委託をされている所があるのならできないかも知れないけれど、朗読をすることなら車椅子の私にも協力が出来るので、良かったらお手伝いをさせてもらえませんか、と、思い切ってナミねぇさんに相談したのです。私は本が好きでいつも読んでいるのですが、目が見えない人は自力では読めないので、声に出して読んであげられたら、この感動を伝えてあげることが出来るのに、と前からずっと思ってきていました。でも、思っていても出来る場がないのであきらめていたのです。
 そしたらナミねぇさんが、電話してくださったとき、「本の朗読が出来ます」って言ってみたらいいよって言って、ぽんと背中を押して下さって、勇気を出させて下さいました。
 そしたら、してほしいって言う人もあるかもしれへんし、そう言ってみたらいいじゃないって、言って下さったんです。
 そう言ってもらえたとき、こんな私でも誰かの役に立てるかも知れないって思って、すごくうれしかったです。
 まだ電話でしか話した事がないけれど、ナミねぇさんに出逢えたこととても感謝しています。プロップとの出逢い、ナミねぇさんとの出逢いを、これから大切にしていきたいと思っています。
 もし、これを読まれて、小説とか詩とか、朗読テープがあったらいいなという人があったら、上手じゃないかもしれないけれど読ませてもらえたらと思いますので、言ってやってくださいね。私はまだインターネットの接続をしていないので、プロップの方に言ってくださったら、伝えてくださることと思います。
 少しずつしかできないかも知れないけど、一生懸命読みます。
 長い長い自己紹介になってしまいました。こんなに長く読んでたら、くたびれてしまいますよね。ごめんなさい。
 これからよろしくお願いします。


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