リレーエッセイ 「チャレンジドの夢」

 貝本 充広さんの場合

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「人ニトッテノ障害ヲ考察ス」
 
貝本さんカット 人にとって”障害を持つ”とは何を指すのだろうかと考えた。近年その意味は変わりつつある気がする。
PropStationでは障害者のことを”チャレンジド”と呼んでいるが、ここでは”障害者”と表現した方が分かりやすいので敢えてそうすることにした。

 僕は事故で頸椎の5番を損傷し足は利かず両の手は動くが指は動かず、相対的に見ると左側の利きが悪い。
こういった判定をする場合弱い方に合わせて決めるので、実際にはカルテにいる僕よ りは元気そうに見える。
そんな僕だが家に閉じこもってばかりではない。車椅子用のグローブをつけてこぐのだが、恐らく介助者なしで外出できるギリギリのラインではないかと思う。つまり僕よりレベルが悪い障害の方は介助者が必要であるか電動車椅子に乗る必要があるのではないかと思う。最近は”バリアフリー”という言葉が出てきて障害者や高齢者にも住み良い社会が求められている。だが高齢者と言っても杖をついているぐらいの人ならば、障害がある人のくくりに入れて考えにくい。僕にはケガする以前の健常者としての視線があるが、明らかに困った様子でない限りご老人に手を貸そうとは思わなかった。しかしそういった方々にも段差などは強敵である。
ならば”障害”があるとは何を以て定義されるのか。身体的欠陥よりは社会的な環境に対しての意味合いが濃くなってきてはいないだろうか。そう考えると外出先のほんの数センチの段差が僕を障害者にしているのだ。その意味ではギリギリラインの僕が行ける所ならば大抵の高齢者も行けるのではないかと思う、もちろん周囲の方々の手助けがあってのことだが。実際そうなのだが社会的環境に壁を感じるときに一番自分が障害者であると感じさせられる。自分の障害によって出来ないことを思い知らされるマイナスエネルギーが、それを意識しない社会に作り出されているとも言える。
 
 先日混みあった電車の中で身長の低い人が高い方の吊革に掴まれないでいて、電車 の揺れに右往左往しているのを見かけた。ともすればこの人も社会環境によって作り出された障害者ではないかと思った。
そうすると顔や体にコンプレックスを持っていたり、精神的に負い目があるような人にも同じ事が言えるのではないだろうか。むしろ僕は、そういった方々の方が表立って気づかれにくいだけ大変なのかも知れないと思った。そう考えるとコンプレックスも障害になりうるし、ちょっとした環境の違いも特定の人にとっては同じ意味合いだと思う。
 
 全てのことが万人に公平である必要はないと思うが、吊革のような少しの工夫で改善できることは事あるごとに直していけばいいと思う。街並みに見られる段差などは、すでに出来上がっているものだから直ぐにというわけには行かないでしょう。出来たとしても急で短いスロープといった形になるでしょう。
でもそういった気持ちや心遣いが、次に環境が新しくなるときに役立つと思います。 それよりやはりもっとみんなに何が障害を感じさせるかを分かってもらわないといけないのではないでしょうか。
率直な感想を言うと僕は出先で困ったときに声をかけていやな顔をされたことは、ほっっっとんどないです。
おかげで僕は快適な生活を送っている。
そういう意味でその人にとっての「障害」は自らのアプローチで多少なりとも減らすことが出来るでしょう。
PropStationが障害者をチャレンジドと呼ぶのには、こういった社会や環境に対して挑み、広く知らしめて認識してもらおうという意味がある。今日精神的な壁は無くなってきていると思うし、環境としての壁もそうやって今からそれぞれの意識が高まっていくことで将来的に解決されると思う。
 
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