リレーエッセイ 「チャレンジドの夢」

 米島 実さんの場合

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米島さんカット「六十歳からのパソコン」

 来日中の中国残留孤児の一行、東京・大阪を見学というニュースを見る度、私には、特別な思いがあります、私は1937年中国太連で生まれました。父は当時としては比較的おおきな,化粧品店を経営していました、後でわかった事ですが、白系ロシャ人、中国人、朝鮮人、当時としては上流階級のお客さんが多く出入りしていました。高熱が1週間ほど続きました、母が「日本の兵隊さんが行進しているよ」と、窓際で 大きな声で言いました 。 私は飛び起きて窓際に行こうとしましたが何も動作が出来ませんでした、これが五歳小児マヒの始まりでした(シンガポール陥落の日)昭和18年にはアメリカのB29が満州にも飛んできました、父が防空壕のなかで『もうここはアカンわ、はよ、内地に、帰えろう 』とつぶやきました。内地,内地,内地,親から聞くたびに快い響きでした、昭和20年最後の客船で内地に引き揚げることにな りました。ブラブラの体を母が背負い、妹が私の右の足を母の手のようにして、しっかり握り、左足を、下の妹が握り、いざ乗船の順番がきた時に乗船ストップに成りました、それは私があまりにも弱弱しく見えたのでしょう、伝染病にかかっているのではとの疑いをもたれたのです。出航寸前知人の特務機関員の計らいで帰国することが出来ました。
 前置きが長くなりましたが、あれから半世紀20世紀の玉手箱 パソコンにプロップ・ステーションで対面することになりました。なんと言うすぐれ者よ感嘆のいたりでした、これを私の大切な味方にして生きていこうと天の啓示のように感じました、とわいえテレビの予約チャンネル設定も、ままならぬ我が頭脳、チンプンカンプンでしたが『ローマは1日にして成らず』自分に何回も言い聞かせ多くの人に助けられチャレンジしています。Eメール、ホームページ、文章印刷、名刺、今年は世界で自分だけのオリジナル賀状をつくってお世話になった人に出そうと思います 。残りすくない人生、誇りをもってまっとうしたいです。
『今までの社会では、障害があるから、高齢だからと言う理由だけで保護される側に封じ込められて、この社会に生きる者としての誇りを持てなかった人がたくさんいる。そうゆう人が社会を支える側にまわって、誇りをもてるようにしよう。そのための大きな手段が、とりあえず「コンピュターや」ということなんですね。』金子郁容 (慶応大学教授) ・・竹中なみ(プロプステーション主幹)対談より
 然り、然り、本当にそう思います。


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